08時半ごろ。このゲストハウスの隣の食堂でヌードルスープを食べていたら、注文してないけどスイカとバナナと名前がわからない果物を出してくれて、サーヴィスなのかな、珈琲とあわせて3.5ドル。感覚的に言うと、料理が出てくるまでの時間が、東京などに比べてかなりゆっくりで、それが普通だという日常のようです。この食堂のウエイトレスさんは笑顔の人だが、多くをしゃべらない印象です。果物を出してくれて、ぼくは素直にうれしく思った。あー、好意的なんだなあ。
スマホもコンピュータもみんな普通に使っているし、たいていの人は英語を話すが、そういうものが、カンボジアのゆっくりした感覚の「上に」載っている、という印象だ。バーなんかでは騒々しい音楽を流しているが、ぼくが何人かのカンボジア人に訊ねてみると、ほとんどの人("Most people")はそのたぐいの騒々しさは嫌いだそうです。ある場所("Some place")ではそういう音楽をやっている。総体的にこの街は静か("quiet")なようである。
日本の海外文化受容の態度がちょっと変なのではないか、という疑いが、ぼくにはある。シェムリアップだってバンコクだって欧米化はしているが、自国の宗教、自国の文化というものをちゃんと持っている。ニューヨークに行った人ならわかるでしょうが、あの街はかなりhectic でしょう?そういうせわしなさは、アジア人の時空の感覚とは異質のものなのではないか。
今日は主としてバンテアイ・スレイを見てきたんだけど、この寺院はシェムリアップ中心部から37キロほど離れている。水上部落 water village に行って30ドルでボートに2時間乗らないかと、トゥクトゥ運転手の Polin さんが言ってきたが、30ドルで2時間か…高いし、ヒマそう、としばらく考えて、やめにした。70キロ離れたところに行くプランもあったが、これもお断りした。バンテアイ・スレイは行きたかったし、行ってよかったよ。
トゥクトゥクという乗り物で東南アジアの田舎町の砂利道を走るこのツアー、走っている間は座席で食事はできませんし、ペットボトルの水もこぼれるし、気を付けていないと座席から転落しかねない、これは少し大げさかもしれないけれど、その程度揺れます。風は吹きつけるし、砂埃は舞うし、否定的に言えば全然乗り心地の良くない乗り物ということになる。エアコンの利いた自動車なら快適ということは一応言えるんだけど、どうにか乗れる、というあたりのほうがいいような気もする。でもバンテアイ・スレイに着いたときには、平衡感覚が少々変でした。あきらめた70キロプランは、ちょっとトゥクトゥクで行くには多難な気がするが、どうでしょうかね。
ぼくの英語はここを訪れた欧米の人にはだいたい通じているんだけど、カンボジアの人の英語は発音がちょっと違う場合があって、ぼくがわりあい普通に「great!」と言って褒めても通じない場合があった。「suggestion」という言葉がわからない人もいた。でもまあ、おおむねは英語で用事が足りる。小学生が学校で英語を勉強するとのことだが、その小学生の女の子が観光絵葉書を1ドルで買って、買ってと言ってまとわりついて来て、可愛かったけど、結局追っ払わなければならなかった。「One dollar,one dollar」といういたいけな売り声が耳朶にこびりついております。
ぼくより年上のドイツ人と、台湾の中年女性が2人連れでこのバンテアイ・スレイに来ていたが、2人とも上海に住んでいるとのことでした。ほかに、遺跡群やゲストハウスで会った人はスペイン人、イタリア人、韓国人、もちろん日本人もいた。
今日が3日有効の遺跡巡りチケットの最終日で、バンテアイ・スレイぐらいまではこのチケットで入れます。昨日100ドルだか使ったので、買い物に関しては今日はちょっと注意して過ごした。昨日と同じように、カンボジア綿のTシャツを売っている女の子がいて、1枚5ドルと片言日本語で言ってくる。こういうのは、んじゃその1枚を買いましょうとこっちが出ると、2枚買ったら安くするわよ、と来ます。そのうちにあれもこれも買わされる羽目になるから、ぼくは貧乏人なんだーとまんざらウソでもないことを言って、その5ドルのTシャツだけ買いまして、あとは全部お断りした。この断り方の呼吸がむつかしいと言えばむつかしいが、これもコミュニケーションのうちでしてねえ。全部シャットアウトはしない、でも全部服従もしない、というさじ加減がある。なにもカンボジアの観光地に限ったことではない、日本でだってこういう取引はそこいらに転がっている。
まあだから今日は、その5ドルのほかに、朝飯3.5ドル、昼飯が7ドル+アイスコーヒー1.5ドルで計8.5ドル、トゥクトゥ運転手の Polin さんに1日サーヴィス料25ドル、夕ご飯が5ドル8000リエルだったかな。〆て50ドル以下。
これは双方向のコミュニケーションではないというのがひとつの壁でさー、民芸品の売り子さんに、ぼくが日本の作曲家・ピアニストだと言ったってダメでしょう。でも人間同士のコミュニケーションというのはあるんだよね。
こう言ったらカンボジアの地方に住んでいる人たちに悪いけれど、住居はプレハブよりも古風な掘っ立て小屋だったりする。象や水牛やシカがいて、この季節だからか、赤トンボが飛んでいる。だからそういう生活をしている人たちの意識にちょっと割り込んでみたいんだけれど、たかが1週間程度の滞在では、それはほんの入り口までしかできないと思う。
あのー、言語は確かに違います。でも日本の自分の環境とギャップを感じないんだが。このゲストハウスのスタッフさんで、英語が通じないおばさんがいて、ノンバーバルコミュニケーションでしばらく過ごしたが、「Are you married?」ぐらいのことをクメール語で言ってきても全然わからない。なんにも言葉が通じませんでした。そういうことはあるが、なんか自分の住居の延長のような気分がしている。国柄が似ているのかなあ、ぐらいのことを漠然と考えています。
このあたりの感覚に基づいて、いわゆる欧米化ということを評価しなおしてもいいんじゃないか。このゲストハウスのスタッフで、滞在初日から割とよくしゃべっている受付嬢を観察していると、かなり変わった趣味の持ち主だ。前にも書いたとおり、本来はタイ人で、曰く「ほとんどのタイ人はアニメーションが好きではないけど、私は7年前にアニメーションにハマってから、アニメーションが大好き。Human Movie(どうもテレビドラマのようなものを指しているらしい) が嫌いよ」「どんな種類の音楽も好き」で、ニュージーランドのオークランド管弦楽団が演奏するネオ・ロマンティシズム作品をよく聴いているそうな。