自分主催のコンサートが終わったあとで自分で騒いでる、と思わないでください。控えめに見ても特殊なコンサートだったし、それなりの結果は出したと判断しているので、考えたいことがある。
2004年1月4日。この1月4日のノートを『夢』の作曲の出発点とすると、完成した55分の『夢』のなかのふたつのヴァイオリンパートに割り当てられたパッセージの合計数=合計時間は、それ以外の「無音時間」に較べて圧倒的に少ない。ふたつのヴァイオリンを競合させるという当初の企ては次第に薄れて、思いつきでテナーサックスの音を置いてみたり、女声を出してみたりして、最終的に、音響エンジニアを含めて8人の編成になった。ふたつのヴァイオリンの絡み合いだけでは、音の「ばらつき」がうまくあらわせない。なにかの手段で「ばらつき」らしいものを作ってみても、それはひとつづきのまとまりに聞こえるだろう。その、いわば音楽的な流れを排除したような作曲が念頭にあった。こういう狙いから見れば、あらかじめ録音された「紙の音」と「声」の再生コンテンツは、すこしまとまった長さを持ちすぎたかもしれない。もっと短くてもよかったか。
ふたつのヴァイオリンを使って音のばらつきを作ることを、年末年始は考えているが、まだ適当な手段がない。じれったいけれどなんか思いつくまで待っています。
舞台作品は、奥へ、奥へと展開していくには技術的な限界がある。8人のアンサンブルのあいだに雑踏を配し、雑踏の背景は雪山で、雪山を越えると日蓮宗なになに寺の朝の読経が聞こえ、なになに寺の向こうには水田と平野が広がっていて、バスが走り、犬(猫でもいい)が鳴く、という具合に、現実はつながっているはずだが、舞台の上で、その現実の奥行きを具現するには、性質の違う出来事を舞台の手前と奥とで何層にもわたって同時に上演・演奏しなければならない。多様な現実を表現するには魅力的な手段だが、実現は難しい。そこで、多くの場合、奥へ広がる時間を横へ延べてストーリーを作ることが舞台作品の主要手段になっている。『夢』の作曲中に考えたのは、音が同時に重なりすぎると雑音になってしまうが、散発的に発生する音イヴェントの集合体ならば、その音イヴェントの数が少なくても、それは、数が多い場合と質的には変わらないのではないかということだった。各イヴェント間に、なにか雑多な関係があればいいので、音の数の問題ではないと思った。実際の作業では、楽譜に書きたいイヴェントの多くを省略しなければならない。欲張っていっぱい書いたって読みにくくなるだけで、読みにくければ演奏は成り立たない。何を書き、何を省略するか、むつかしい選択だった。現実の音と、妄想から聞こえてくる実現不可能な音を選り分ける作業は、お互いが絡まりあっているだけに、厄介だ。そして、省略したところは空白のまま残して、ここには何も書かなかったんだということを明示した。
この同時多発イヴェント作品は1回性のもので、何度もリハーサルを繰り返しやるもんじゃないという意見が外部から寄せられた。意見として拝聴したものの、ぼくはそう思わない。舞台でぶっつけ1回の結果は水物、という場合がある。コスプレや脚フェティシズムと似ている。演奏のマナー、個々のパッセージの表情や速度をもっと鍛えたほうがよかったとの意見もあったが、これはいっそ趣味の問題である。ばらつきを問題にするのなら、このあたりは作曲家の思惑から逸れて、各奏者の力量を信じたほうがいいのではないだろうか。ここで作曲家が複数の演奏家を、ある演奏技術やマナーで統帥しようとすれば、分野の違う複数の人たちが集まって同時多発イヴェントをやっている意味がない。そんなことならはじめから確定記譜法で書くよ。一方で、7月23日の『夢』の演奏が、演奏として比較的まとまりよくおさまったとすれば、ぼくの意図を裏切ってマイナスの成果だったのかもしれないが、演奏として納得の行くものを駄目だという筋はない。あの日はああいう結果が出ました。次回どうなるか、まだわかりません。この曲をぶっつけ本番でやらなかったのは、ぶっつけ本番でやった場合、気付かずに素通りし、見過ごしてしまう音の表情が多すぎるまま、何か知らないが達成感だけ得たような気分になる危険を避けるためだった。反対に、音を鍛えたら鍛えたで、ある種の精神主義に陥る場合がある。空振りじゃないか。音の背景や足場を見直す練習だってあるだろう。
本番で、音楽家は音楽家で、俳優は俳優だった。「日常、音とことばをどういう便利として取り扱っているか、あけすけに作曲したかった」というぼくの目論みからみれば、不発の部分があったことになる。だけど、言いたいことが充分書けたし、ものを言えた演奏になったから、その点、充足した作曲と舞台でした。