いま夜7時半過ぎ。朝09時にトゥクトゥクの運転手の Polin さんが来て、アンコール遺跡群の、いわゆる大回りコースの、わりあい訪問者が少ない寺院を案内してもらった。
その大回りコースのコミュニケーションの1日でしたよ。日本の観光地だって、いろいろ値段は高い。こちらも同じらしい。25ドルのおみやげは、街で買えばせいぜい8ドルだということもあるようです。おととい1ドルで買った「Oishi Green Tea」は、アンコール遺跡群の売店では2ドルだ。ただ、ぼくは思うんですが、じゃあそういう場所では買い物を全然しなければ安く上がるということですか。
遺跡群の寺社の中には、遺跡群の水彩画を描いている職人さんとか、カンボジア綿のスカーフを売っている女性とかがいた。そういう人たちが、ぼくが片言クメール語を話すと、それがきっかけになってじゃんじゃん周りに集まってくる場面があった。どんどん集まってきて、悪いけど結局追っ払わなければならない。ただぼくは、こういうアーティストさんたちと話がしたかったんです。そのきっかけとして買い物をしようと思った。合理的な精神にとっては単なる無駄遣いでしかないだろうし、ぼくだって高い買い物が好きなわけでもない。でも話をちょっとしようと思ったら、まず彼らの作品を買うということをする必要はあるんです。それで、彼らにとっては自分の作品を売ること以外はアタマにない。その金銭のやり取りのなかにコミュニケーションも入ってきます。それが都市化すると、金銭のやり取りとコミュニケーションは全然別のことになってしまう。たぶんこの考えで合っていると思う。
名前は伏せるけれど、ぼくが会ったカンボジア人の商人の中に、ポル・ポト政権によって両親を殺された人がいる。別に、こちらから聞きもしないのに、言ってきたのです。この話を聞いたときはさすがにぞっとしたが、別の人が、これはウソではないだろうけれど、彼らは客の同情を買うことで金銭と信頼を得ようとしているのだから、過度の信用は避けたほうがいい、と忠告してくれた。まあ、そうかもしれないよ。儲かることが信用だ、という論理なのだろう。日本の風俗嬢だって、出会い系だって別に変わりはない。詐欺者ではないのか、と疑い出したら、そもそもこういう人たちとのコミュニケーションも買い物も成り立たない。そんなことを言えば、地球上が全部詐欺者になってしまう。財やサーヴィスの質との兼ね合いで値段が決まる、ということが、あまりシステマチックに管理されていない、だからコミュニケーションもその中に含まれている。別にこれは危険な考え方ではないだろう。質の保証があればいいんで、質がないのに値段だけがあるわけではない。いま思いつくのは、「金を儲けることが何かやましいことであると思うのは間違っている。堂々と儲けよう」という、松下幸之助の言葉である。
結局ね、今日の遺跡巡りの様子は、写真とかヴィデオを見てくださいと書いておいて、食事以外の何にお金を使ったかを書いておきます。最初の寺院を見ていたら、見たところ好意的な男性に会い、写真を撮ってあげるよと言ってきて、いたるところでぼくの写真を撮ってくれて、この人はどういう人なのか知らないが、とにかく彼に10ドル、次に別の寺院で、日本の棟方志功が作りそうな、ただしもっと安い感じの透かし彫り作品を25ドルで買い、カンボジア綿スカーフが20ドル、大型の扇子4ドルを2つと、折り畳み式シルクハット(としか言いようがない)5ドル、トゥクトゥクの運転手の Polin さんには基本20ドル、えーとこれで83ドルか。Pub Street のアートショップで同じものを買ったらいくらになるのか、あとで調べてみよう。ほかに、これは買い物ではないが、カンボジアの貧しい家庭の子供たちに英語と日本語を教えているという男性が寄付を募っていて、日本語で会話して、5ドルあげてきた。どういう人かは知らないが、まさか遺跡群の中に詐欺者はいないだろう。とても日本語が上手な人でした。こういうことが「だまされた」買い物なのかどうかは、旅程の後半でだいたいわかるでしょう。
忘備のために食費を書いておくと、朝が珈琲を含めて5ドル、昼が6ドル、夜はビールとカレーで4ドルちょっと、ほかにほかにはさっき書いた「Oishi Green Tea」2ドルと、マルボロをひと箱(値段忘れた)、ライター1個1ドルまでしません、つまりトータルで100ドルぐらいだった。
遺跡巡りの帰り道、土砂降りになり、トゥクトゥクの座席の中まで雨が叩きつけてきて、幌をかぶせてくれたのはいいが、運転手はバイクに乗ってて雨合羽も着ない。道路は大雨騒ぎで、別に通行人は騒いでいないが、かなりすごい光景であり、体験だったと思うんだが。