14.
《時々自動『ライトロジー(Lightology)』について、雑感》
パフォーマンスグループ「時々自動」の本公演『ライトロジー』、10日間、13回が終了した (三軒茶屋・シアタートラム)。この公演は、「時々自動」のメンバーと、100人を超えるボランティアパフォーマー、ボランティアスタッフ、その他の人々、の参加で成り立っていた。ぼくは「その他の人々」で、主宰者・朝比奈尚行からの委嘱で、『プレ・ライトロジー』という題名の、はがきサイズの50枚のテキスト・演奏指示からなる楽譜、および、2段の五線記譜による8曲を提供し、自由にアレンジして使ってもらうことにした。
自閉、グルーピズム、いい加減なセックス、身障者、分裂、自殺、意味不明な現象や物体などをひとつの舞台に同居させ得た、この公演の主題と成り立ちは、ぼくらのホンモノの現実ににじり寄ってくるところがあり、着想は的を得たものだった。朝比奈さんと時々自動の特徴は、良くも悪くも、問題を提示したまま、回答を出さないところにあり、回答の出ない問いを舞台に構成したところにある。
だからこの舞台には、よく観れば、抜きん出て非常識なところはほとんどない。すごく現実的です。しかし、やっぱり「劇場」という枠組みが保護しないと、成り立たない内容だろうと思う。 これを今の日本の街頭にそのまま持ち込んだら、街を混乱させることになるでしょうね。そーいうアナーキズムは、もうおもしろくない。舞台の構成そのものはたいへん構築的だ。それは、ヨーロッパのオペラが構築的だというのと変わりがない。アルバン・ベルクの歌劇『ヴォツェック』のような前例を見れば、『ライトロジー』には変質的、変態的な要素がほとんど入り込んでいないのがよくわかる。一見、風変わりに見えるのはおのおのの要素の性質ではなく、要素の組み合わせの唐突さ、意外性、つまりそれぞれの材料の間の関係がそう見えるのだ。ヨーロッパでなく、日本の能や歌舞伎と較べても同じで、例えば、『ライトロジー』には化け物が出てこない。一般公募の100人のパフォーマーに動いてもらおうと思ったら、そんなアブノーマルな、理解困難な素材を持ち込まないほうが、事態の整理もしやすいし、基本的な考えに同調してもらいやすいと思う。
その、いろんな要素の組み合わせ方に独自の魅力があるのだけれど、これを砕いて言葉で形容するのはかなりむつかしい。ひとつ言えそうなのは、朝比奈さんと時々自動は、「物語」を初めから持ち込まないつもりで舞台を創っているのではなくて、本当は持ち込みたいが、やってみると「物語」が成り立たないから、関連のつきそうな諸々の要素を同時的・継時的に配列する方法をとっているのではないかということだ。
「物語」が成り立たない場合を考えると、例えば精神病に罹った場合なんかはそうであって、現実の秩序とか、自分自身の成り立ち、アイデンティティとも言いますが、そういうものががらがらと音を立てて崩れてゆくので、時間とか空間とか、自分の生きている世界がわけがわからなくなって、「物語」=おはなしにならなくなる。そういう危機的な状態を回復しようと思ったら、 がらくたの山から、使えそうな材料をひっぱってきて、映画のモンタージュのように、自分が喜べる仕方で積み上げたり、壊したり、あれこれ試して、きわどいバランスかもしれないが、とにかく自分なりに「ものを作る」。そこには途方もないエネルギーの浪費があり、矛盾があって、 だけど、それはそれで充分創造的な姿勢で評価できる、ということにもなる。病人にはそういう努力と時間とが必要で、病気でもなければ、こんなことは愚の骨頂だろう。
その「愚の骨頂」を舞台化するとき、お定まりの物語展開なんかが役に立たないのは当然のことだ。時々自動は「演劇」を目指さず、むしろ「音楽的な」流れを尊重しているように見える。 尊重ではなくて、目下のところは依存かもしれない。未分化なカオスの状態です。音楽の成り立ちをカオスへ突き落とすだけの準備が、朝比奈さんと時々自動には、まだ備わっていない。
ボランティアの人たちや、ぼくも含めて「外部の」人間が当惑するのは、たぶん今書いたところで、だと思う。当座、それはしかたのないこと、ぼくはここ2年しか彼らの行動を見ていないけれども、時々自動が「外」を向き始めたのはわりあい最近のことで、外からの協力者にも、公演に参加する意志があるんだとすれば、双方で歩み寄るほかに、手段はないし、目下、これが一番手っ取り早い手段なのでしょう。
さしあたりここまで、続きは数日後。以上2002年3月13日(水)。
ぼくの周りに、あの「ライトロジー」の"画一的な"雰囲気や舞台のつくりを指摘した人がいる。 ダンスタイムの音楽は、どこにでもある4拍子のリズム、押しの強い打楽器的なリズムで、ほかのシーンのコラージュの手法は、60年代のアメリカでやり尽くされて、新鮮味がないというわけだ。
思うに、構成・演出の朝比奈尚行という人は、ヨーロッパやアメリカの「聴き慣れた」音にいっさい反応しない耳の持ち主だという気がする。そんなことにはだまされない、というのも、おもしろい資質で、よく探せば、こういう耳の持ち主は存外、多くはない。その朝比奈さんが自分の経験に頼って「音楽」と「舞台」を創ろうというのだから、まず、一切の「観念」が役に立たないのは、よくうなづけることだ。朝比奈さんが意識的にヨーロッパやアメリカを排除しているのではなく、彼の耳と眼には、ヨーロッパやアメリカはそぐわない。
そこはいいんだけれど、困るのは、あまりものを知らないと、逆に、そのものに似てくるという 、ありがちな逆説を、ヨーロッパやアメリカに対する朝比奈さんと時々自動は回避できない、というところにある。バカ正直な感想で悪いんだけれど、朝比奈さんと時々自動は、自分の発明工夫を追求する前に、ヨーロッパを否定する前に、いちど受け入れたらどうだろうか。
ぼくは、結果として「ライトロジー」の舞台がほかの何かに似てきたとしても、それは全然構わないことだと思う。雑な眼で見れば、「ライトロジー」は単なるノイズである。そういうノイズは巷にあふれているから、類似品と混同されるかもしれないが、そーゆーことにかまけていたら 舞台なんか作れやしないので、結果がノイズに似てきたって、それが「ライトロジー」の欠点、ということにはならない。だから「ライトロジー」は画一的ではない。
欠点は、朝比奈さんと時々自動が、自分たちの発明工夫に、こだわりすぎているところにあるのだと思う。なぜこだわるかといえば、このグループが、ジャンルを問わずどこの誰とでも意志の疎通ができる舞台づくを目指しているから、逆に自分の発明工夫に取り込まれるような恰好になってしまうのではないか。だから洋楽の基礎が必要だ、というところへ短絡的に突っ走ることは、ぼくは言わないが、折角、彼らの視野は広いのだから、閉塞しないための出口の作り方はいくらでも探せるはずだというのは、こっちの希望的観測なのだろうか。
作りが、良し悪しは別としても、わかりやすいから、観客もボランティアも集まる。つまりなんなのさ、というところがすこし見えてくると、意味の薄さに落胆する参加者(観客を含む)も出てくる。ダンスタイムの、あのタテのりのドラムのリズムに乗ってみなさん踊りますると、沸かしすぎた風呂に水を注いでかき回したような、とか、白と黒の碁石をジャラジャラやっているような、とか、そういうのに似てくる。《多数》というのはそういうもので、自分の意見は通らなくても、理想的な場合には、全体として良い方向へ進んでいく。個人を束にしてふるいをかける、ということなのでしょうね。そこには矛盾も喜びも同居している。喜びのほうはいいとして、矛盾がどう変遷していくか、というところに、参加者の関心が向くのではないでしょうか。
もう1回ぐらい戻ってきて書くかも知れないし、これで終わりかもしれません。
さしあたりここまで、2002年3月20日(水)。
15.
ご無沙汰でした。ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアをまわって帰国、あれこれの用事、 飲み会などのあと、このページに戻ります。
読者には関係のない話かもしれないけれど、アメリカで書いて来た、任意の鍵盤楽器のための『散らかす』という小品は、いままでのぼくの曲と少し傾向が違う。どう違うのかは、いずれ公開するので聴いてください。ここでしゃべりたいのは、環境が違うと、作曲の結果も違うのか、ということです。事実は、ぼくの場合、違っているんですが、意識的に変えたわけではない。 ニューヨークとフィラデルフィアのホテルで、やれることをやったまでである。
どこで書こうが、自分の作曲の態度に変わりはないという作曲家もいましょう。それは構わないけど、ぼくは違った。思い当たるのは、やっぱり言葉の環境の違いかな。
『散らかす』をピアノで弾きこなす段階で出てきた問題のひとつは、おそらく一過的な「ボケ」だろうと思う。新しい現実に対応しきれないで一種破瓜的な状態か、高をくくって楽観しすぎているか、とにかく演奏に必要な適度の集中と緊張がそろいにくい。厄介な曲を書いたな、と始めは思っていたが、どうやら、曲のせいではない。ぼくは、だめな曲を書いたとは思っていないから、必要なのは、結果(この場合は『散らかす』という曲)に適応することで、そのための状況なり材料なりが、まだ出揃っていない。
このページで以前扱っていた問題がどこまで展開していたのか、すっかり忘れてしまい、戻れずにおりますが、読み直してみるけれど、構わないで先へ進んでみるのもひとつのテ、か。
自作の演奏技術について、もうすこし、話を延長してみよう。
ちょっと雑談。
ショスタコーヴィッチという人は、現在、遺された多くの自作自演レコードによって、価値のあるピアニストとして知られている。そのショスタコーヴィッチが、ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインと組んで、べートーヴェンのヴァイオリンソナタ全曲を録音しようという企画があった。
この企画は成立しなかったらしいんだけれど(日本のどこのレコード屋にも置いていないし、いまのところ、そういうレコーディングが存在するという噂も耳にしない)、何かの本で読んだ逸話のひとつに、ショスタコーヴィッチが自分のピアノ演奏の技術不足のことを言っていた、とあった。ショスタコーヴィッチのピアノ演奏技術はたいへん独自のもので、自作を弾いたときには、かなりの許容量でミスタッチを許しながら、自分のイメージを突っ切る、というやり方でずっと通している。これと同じマナーが、ベートーヴェンの場合には通用しないと彼は考えたのだろう。
一方、プロコフィエフという人は、難しい自作の練習に手を焼いた、とあちこちの記事にありますが、現在手に入る彼のピアノ演奏(自作)のレコードでぼくらが確認できる彼の演奏技術は、ものすごく達者である。「うまい!」と言わせる演奏です。ただ、今のところ、プロコフィエフが他人の作を弾いたレコーディングはないようだし、自作自演に関しても、量から言ったら、他のどの作曲家・ピアニストより少ない。これに対して、ショスタコーヴィッチの自作自演は、シリーズで発売されたほど多量に残っている。
そのショスタコーヴィッチの自作自演の中に、『ピアノ協奏曲第1番』をやったやつがある。サミュエル・サモスードの指揮で行われた録音が有名で、特に終楽章のカデンツァは見事としか言いようがないが、このあいだボストンの中古レコード屋で、この録音とは違う、同じ曲の自演LPを見つけて、買って来た。こちらはアンドレ・クリュイタンス指揮によるスタジオ録音。サモスード盤は、ライヴ録音である可能性がある。このサモスード盤のほうがスピードとスリルに満ちているのに対して、クリュイタンス盤のほうは、いくぶん改まった感じがあって、それはそれでおもしろいが、少し硬いかなという気がする。
ごく大雑把に言って、自分が楽譜に書いた曲を弾く作曲家・ピアニストは、楽譜から脱線しない範囲の技術と解釈で演奏するが、じつは、その許容範囲は、心理的にはかなり広いのが一般的ではないだろうか。しかし、ジャズ・ピアニストのような即興演奏の心得がない場合には、作曲家の自作自演の技術は、ミスタッチも含めて、クラシックの専業ピアニストの場合とは違う、ある種の即興性を帯びる結果となり、それが演奏の魅力にもなる場合が多かった。面白いのは、近年、ジャズ・ピアニストがモーツァルトやバッハを弾くとき、ジャズの即興の要素を反映させることがめったにないことで、やはり、楽譜を変形しないで原曲どおりに弾くのは、たんに古典を尊敬するとかいう美学的な理由からだけではなく、音楽の即興の概念が、ジャズとクラシックとではちがっている、という、案外見えにくい理由が伏在しているから、ではないか。
自分の曲だからどうにでも取り扱えるとか、好きなように変形・編曲して弾ける、ということはない。しかし、そもそも音を扱ってある形にする作業というものはアモルフ(無形)のものだ。形になっているというところそのものに存在理由を求めることは、あまり意味がない。それは、ジャズの即興を採譜して弾いて再現したから、もとの即興より良くなるかもしれない、なんて思いつき自体にしてからがたいして意味を成さないのと表裏の関係にある。
にもかかわらず、ぼくらが音楽を創るという場合、純粋に審美的に音楽をやっているかどうかの問題よりも、その音楽的行動の正体は何か、という問題のほうが、より知的好奇心をくすぐりませんか。そんなに絶対的な音楽行為があるかどうか、経験に照らして考えてみると、一生懸命音楽を創るという態度は、価値とか責任の伴う生産活動という、よく知られた属性を持つ反面、あるいはふざけ散らした、あるいはやる気がないような、もうひとつの属性も併せ持っている。実はこっちの属性の研究のほうが面白いんです。この、けしからん属性のありようをめぐって、世間はそれとなく論議している。「もう少しだけ」(ここは肝心ですよ)、正面切って論議してもいいと思うんだけどさぁ。
ストラヴィンスキーについて、雑感。
彼の『春の祭典』は、互いに関係のないあれこれの要素の組み合わせで成り立っている。音楽がつながって聞こえるのは、古典的な循環形式やロンド形式を一応踏襲しているからで、そこには彼の独創性はあまり見られない。いろんな素材がばらばらに聞こえないために彼が採用した方法は、以前から行われていた音楽のストラヴィンスキー的流用でして、どーしてストラヴィンスキー的なのかと言うと、彼が用いた「時間の紡ぎ方」は素材の展開の概念を含んでいない。彼には、ソナタ形式のような素材の展開はどうでもよいことだったんじゃないのか。建築的な音楽構造は背後に遠のいてしまい、いろいろな素材の陳列や並列で30分を構成する。ストラヴィンスキーの音楽には「対位法」が欠けている、と言ったピアニスト、グレン・グールドのような人もいるが、これは恐らく、批評する場所を間違えている。敢えて言えば、ストラヴィンスキーが用いた、要素の陳列と並列がもたらす競合が「対位法」なのだ。彼の音楽がロマン的でないのは、おのおのの要素の間の有機的な関連を、たぶん意識的に排除していった結果だろう。
競合の原理というものがあるのなら、ストラヴィンスキーのそれは経験によるもので理論が不足している、という見方は正しいが、20世紀を通じて、ストラヴィンスキーの経験を踏まえたまともな理論を呈示した作曲家はまだ見当たらないように見える。または、そんな幼稚な遊びはくだらないと一蹴したシェーンベルクやヒンデミットに始まり、「現代音楽」という特殊な分野に展開した、一群の作曲家たちがいる。または、こういう問題の対立そのものを踏み潰してしまった野蛮主義者がいる。または、ヨーロッパの古典的音楽観と、その内側からの破壊エネルギーの問題を調停しようとした作曲家もいる。
と考えれば、第二時大戦後に台頭したアヴァンギャルド芸術がどこから発生したのかの理解が容易になるように思われます。むしろわからないのは、19世紀のヨーロッパ文化が直面し、19世紀末や20世紀初頭のあらゆる作家が取り組んだ問題、コミュニケーションの内部崩壊の問題のほうである。作家の人格もろとも崩れてしまう実例は、小説家ヴァージニア・ウルフ、 作曲家グスタフ・マーラーなど数人を挙げれば充分で、20世紀という時代は、この問題に翻弄されたと言ってもよい。
恐らくこれは宗教の問題で、案外、じつは、「ヨーロッパ」という枠組みを外してしまえば、こんな論議はなくて済む可能性がある。しかし現に世界中で行われている音楽は、程度の差はあっても欧米の影響を被るし、都市では芸術音楽と言えばヨーロッパの型を踏まえた音楽ということになっているから、この事実を素通りするわけにはいかないのです。必要な困難とでも言ったら、少しは当たっているだろうか。
ミヒャエル・プレトリウスという初期バロック時代のドイツ人作曲家がいる。オーケストラがなかった宮廷時代に、大オーケストラのための民族舞曲集『テレプシコーレ』を出版し、10声部以上からなるモテットを書いた。日本で言ったら神道と仏教の対立について考えたようなことになるんじゃないかな。ストラヴィンスキーはプレトリウスが20世紀に再来したようなところがある。2人の共通点は、バカ騒ぎができて知的なところ。
バカ騒ぎができるというのは、そこに人間の集団があることを暗示している。以前から、集団の心理についていろいろなことが言われていて、傾向が悪く傾いた場合は集団テロになったり、ファシズムになったり、それほど罪はなくても乱交パーティーになったりする。ストラヴィンスキーはそういう場合も含めて考えるセンスを持っていた、だから『春の祭典』のような、未開民族のいけにえ祭りの舞踏音楽、なんてことも思いついた。誰だってその程度のことは思いつくかもしれないけれど、音楽で実行犯をやってやろうという創意に発展する場合は稀だ。けっきょく、いちばん散らかしたのは、アメリカのサイケデリック芸術家たち(ケージを含む彼らを批判するよりは、むしろ評価するけれども)よりは、ストラヴィンスキーだったと思う。彼にも、そして同じ問題をヨーロッパの古典主義の立場から取り扱って大成功したバルトークにも、案外少ないもののひとつが「ユーモアのセンス」だった。少なくとも作品の中にユーモアを読み取って鑑賞したり演奏したりするのは至難の業である。
先人の遺業に欠けていることを、あとに続く者たちがやってみる。要はそういうことなんでしょうね。
ひとりの人間の中に(ひとつだけでなく)たくさんの「主題」があり、それぞれが独立に動いたり、相互に連動したりしながら、ひとりの人間の行動が生じることについて、考えています。今日はこれで終わり。具体的なことが書けるようになるには時間がかかります。ちょっと待っててね。
あるアマチュア合唱のコンサートに行って、複数人数が集まって音楽の合奏をするときの面白さについて、いくらか考えるところを得ましたんで、ちょっと書いてみようか。
同じ旋律を何人かが同時に合わせるという場合、やることがみんな、ちょっとづつ違っているが、およそこのあたりで「合奏」になっている、というツボを探すのが練習というものなんじゃないか。オーケストラのヴァイオリンセクションだって、全員ぴたっと合っているのではなくて、すこしづつずれてフェイズ効果が聞こえてくるから音響に厚みが出るわけで、何かの道徳美学で完璧な同一化を求めたら、集団でやっている意味がない。ということは、もともと人間の耳には「ズレ」に対する許容度が備わっていて、これをどこまで生かすか、どこから切り捨てるか、の判断基準の作り方次第で合奏の状態が変わる。ぐずぐずになっても良しとするのか、ある程度は理路整然と事態を整頓するように心がけたりするのか、選択の尺度の違いからアンサンブルの結果が違ってくる。
プロの音楽家は、いったいどこまで「うまく」仕事をこなしたら満点が取れるのだろうかと、いつも神経をとがらせている。プロでなくても、音楽をやる人には、うまくあることに対する夢がある。これはとてもよいことで、この夢に背を向けて、今練習している曲に集中などありえない。 基本は、夢をかなえるためにやっているんだけれど、そんなことはどうでもよいのが現実で、うまいかどうかの尺度なんか、練習しているうちにぼやけてくる。ここが大事なところだ。ある理想を叶えるということは、その理想どおりのものを作ることとは違う。
うまいものに陶酔するのは一種の成り上がり美学で、へたでも共感するほうが面白い。音楽の専門教育を受けると、このすなおな態度をなくしてしまいがちで気持が弱る。
諾。イエス。「うまいものに陶酔するのは成り上がり美学である」。成金趣味かもしれないがこのことはしばらく措く。こういう言い方が嫌われるのを承知で書き付けるんだけれど、しょせん音楽は作り物なのだ。ホンモノの音楽なんか、ないようなものである。ぼくらが研究しなければならないのは、音楽が持っているウソッパチの成り立ちについて、だろう。
面白い体験とは、それが実に良く出来た虚構だから面白いので、批評の余地も、それがウソだから発生するというものだ。もっとうまくだましてくれなくちゃ。そして、うそだとわかっていても、そこに魅力があれば、その魅力は実際に存在するという、ややこしいことになる。ぼくらはツクリモノを媒介としてホンモノの何かを受け取る。作曲するとか、演奏するとか、そういう行いは全部、受け手にツクリモノを手渡す段取りなのだから、この段取りは、やっぱりうまくやったほうがいいし、しかし、運が悪いとやり損ねるから、運がいい方向に意識が向くように祈る。
というわけで、運がいいときとはどういうときか。
例えば、シンセサイザーという楽器を使って音楽を作るときに、「旋律」や「和声」や「時間」の概念の持ち合わせがあらかじめないと、楽器だけあったってなにもできなかったりする。そこで、楽器を前にして最初にやることは、この楽器で音を出してみることだ。すると、イヤでも、シンセサイザーならシンセサイザーにやれることがだんだんわかってきて、これで作れる音楽の性質も決まってくる。などと書くと、シンセサイザーの構造を勉強しなければならないような気持にもなるけれど、シンセサイザーの性能がわかることと、それを使って音楽ができることとはぜんぜん別の話なのだ。それは、コンピュータを自分で作れなくても、買い入れて使うのなら問題はないのと同じことで、特別な問題ではない。
これは経験論だと思うんですが、経験が積み重なると観念に移り変わるということがあるんだろうか。ぼくには考えられない、何かの勘違いじゃないかな。もちろん経験でわかったことは体系を形作るし、その筋道に従えば近い将来の予測もつく。観念に近いかもしれない。観念というのは仮説を含んでいて、「Aをやってみた場合、結果はBになるはずだ」という見通しで運動する独立した考え方の体系だから、事実に基づかない点で経験とは違う。このこと自体は別におかしくないけれど、一般に、観念だけ、というのは変だと思う。それはやっぱり、ぼくらが人間をやっているからでしょう、言葉をしゃべって理性があれば、必ず経験が先に来るのが順序ではないだろうか。
というようなことを疑わなければならないほど、音楽の世界では観念が流行しているらしい。いっそ「観念」なら、思い切って観念やったほうがよい。事実は、そんなことをしたら飯が食えなくなるからほどをわきまえて、かなんか言ってぬるま湯に浸かっている。
愚痴を書くつもりじゃなかった。経験を享受するためには、それなりの心理的・身体的基盤が必要だということが言いたかったんです。すくなくともたいていの場合、そうである。経験の全部が「まさかの事態」だということは考えにくい。
「虚飾」という言葉がある。うわべだけの飾り、という意味です。一応のところ、こういうものはヤだな、ということにして、退けることにしてですね、もっと内容の充実したものを求める気持ちが人間にはあるということにしておく。つまり、「充実」を求める方向性がある。森敦流に言えば、矛盾は常に無矛盾であろうとする方向性を持つ。
ここまではいいけれど、いったい何をもって「充実」を言うのか、「充実」とは何ですか、という宿題は面倒です。充実の正体を言葉で表すのはやさしいことではない。第一、そんなことが可能なのか、出来ますという確信の持てる人がいるだろうか。と、思うから、この文章だって、最初から「音楽の傑作とはどういうものか」なんて大それたことは、書くのをあきらめて、問題の周辺をうろうろしているわけです。
どこの街でも構わないけれど、とにかく「街」は、いろいろな要素を含んで、さまざまな人やものが入り組んで成り立っている。ぼくらだって、新宿に出れば新宿の構成要素です。
さて、こういう現実と拮抗して成り立つツクリモノを企てるとき、このツクリモノは最初から現実とはちょっと違うのだ、という前提を確かめておく必要がある。ツクリモノは、街の構成要素の中では、性質が少し特殊だ。これは「作る」という企ての性質自体から導かれることで、べつに「お芸術」の話をしなくたって、西武百貨店の前に西武百貨店を新築しようとは誰も考えない。 別なものを作ろうと思うわけで、話自体は新奇なことじゃないんです。にもかかわらず、「おもしろいもの」の出現に、人はしばしば「お芸術」のレッテルを貼り付けたがる。
まあそんなことはどうでもいいけれど、とにかく街はいろいろな要素の組み合わせで成り立っていて、ツクリモノも、また、人間の創意の産物である以上は、天変地異や突然変異に頼ることなく材料を集めてきて、組み合わせて、今までになかったようなものごとを出現せしめるのです。創作とは元来の性質がそういうものだと思う。
この文章のどこかで、精神分裂病の話をやりました。この病気と創作活動と、街や世の中、この三者の関係を考えたいわけですが、今日はここまでにしましょう。
ここでは、音楽のことを文章で書いている。ぼくは音楽上のコミュニケーションの問題は、音楽の枠からはみ出して、広く社会一般の事物と関係していると思っているので、人間をやる一環として音楽もやっている自分について、言葉で語るのは必要だと考えます。しかしこのことは、言語で理論を展開して、それを音楽に実地に適用しようとすることとは全然別で、ここははっきり区別しておきたい。というよりもむしろ、言語による理論から音楽の実際が生じるなんてことはありえない。ありえないことをやろうと思っても駄目でしょう。ぼくはこのことを、このページのいちばん最初から申し上げているのです。
確かなことは、音楽は言語と隣接しているんですね。そして両者には「関係」がある。ただその「関係」そのものはほとんど記述できないと考えられます。それに、もし記述できたら、音楽を聴く必要なんかないのだ。音楽について書かれた文章を読むことで楽しめばよい。事実は、誰もそんなことはしていないのだから、少なくとも音楽や音を聴くという体験は、音楽について書かれた文章を読むより前に存在する。しかし、音楽について語ること、研究することもときには必要だ。音楽でもなんでも、ずっとやってると飽きるからさあ、あと、音楽には必ず作り手がいて、なにを企てたつもりなのかを彼らに問うてみることは興味のわくことだし。
わかりやすい例で言えば、こわい顔をした人の眼をじっと見て話すのには勇気が要るでしょう。似たことは音の世界にもある。こわい音は実在する、ただし、この場合の“こわさ”は、その音の属性が引き金になってもたらされる、聴取者の連想と記憶の世界の産物なのだと思う。
音の属性が引き金になって、とは、んじゃ実際のところどういう作用を言っているのか、について、極端な例を挙げることはできる。陸上競技に使うスターティング用のピストル(正式にはなんと言うんですか)が耳のそばで破裂してケガをした人を知っている。これだって音の体験だが、だれも音楽体験だとは言わない。事故である。避けたほうがいいに決まってる。こんなことすら知らない人が音楽の専門家の中に複数いる。こういう事例を検討するのは時間のムダだからやめましょう。
音の象徴作用のことはよく言われるよね。ある音が、聴く人にどーんと「意味」を押し付けてくるような、圧倒的な体験のあることが知られている。だけど、これって完全に人為的に生産できるものなのか、という疑問がある。そもそもそういう音が世界の中にあると言い切れるのかどうか、少なくとも、その音を体験する主体、つまり聴く人がいなければ、音自体もないということに、いまのところはなっているようである。
存在しない言語を仮定法に基づいて組み立てて「メタ言語」と名づける、なんてのも流行ったことがあったけれど、あれもウソッパチで、その仮定法を保障する環境がなければメタ言語にならない。しかし、意味のわからんことをしゃべる人に出会って、コミュニケーションのとりかたがわからないということはよく経験する。どっちにしても、コミュニケーションの問題、ということになってしまう。
話がまとまりませんので、またこんど。
だれも完全な言語なんか使えないのだ。例えば、10人の集まりで、その「完全な言語」の行き交いが成り立って、摩擦も起こらないとしたら、それは偽宗教の集会だよな。みんな不完全だからコミュニケーションも存在する。ところでねえ、「趣味でやる音楽」には他人が批評する余地も権利もないから、それは偽宗教に似たものになることもある。偽宗教でけっこうです、私はそれで満足なんです、という人は案外多いと思う。江村夏樹だって例外ではないかもしれない。偽宗教であれホンモノの宗教であれ、自分のやっていることに自分が責任を持つ、ここのところは同じだから、まがいもののエクスタシーにはまって健康を損ねても、人のせいにはできない。ホンモノの宗教からホンモノの救いを得ている人だって、それを他人さまに吹聴することはない。いずれも個人の幸福にかかわることで、周りの人まで(たとえ好意からでもですよ)まきぞえにするのが良くないのは、常識ではないか。
ということを踏まえて、人間も音楽も継続するのでなければ、どんどんこわれます。こわれるものを建て直すのが無駄な企てだから、壊れたなりに継続しようという態度は一種のポーズ、擬態、気取りだと言ってしまえば、もはやたいていの人類の営みはコワレタも同然で、何やったってダメ、ということになる。
いいものを作って披露したいという心の構えとその産物とは、最良の場合、上に書いたような閉塞状況を吹き飛ばすくらいのエネルギーを持つものだ。ぼくは猫なで声でひとを誘惑してコミューンまがいのなかで充足する能力の持ち合わせがない。あのさー、きゃぴきゃぴとみんなで温泉に浸かってたりするの、厭じゃないですよ。そういうレクリエーションの価値を否定しようなんてハナから思っていない。組織しないということは、ぼくの心がけでもなんでもない、自分には適性がないから、できないことはできない、それだけです。
CDを1枚作りました。8月17日からぼちぼち出回ります。売れたほうがいい。たくさん売れたら嬉しいです。
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