江村夏樹
56.
「形式と内容」
以前、確か細野晴臣が、音楽は読書と違ってとにかく一定時間聴き手を拘束する、その時間のあいだ、拘束しただけのことはやらなくちゃならない、というようなことを言っていた。シューベルトの1時間の大交響曲が面白そうだから聴くという場合、その1時間と付き合うために気合を入れるとか、長いから他の用事を後回しにするとか、ありがたそうに見えるからなんとなく心してとか、とにかく気持ちの支度をして音楽会場に向かう、居間のオーディオセットの前に座る、こりゃ一種の精神統一で、ひとは気づかないないかもしれないが相当ご苦労な努力である。言い過ぎもなんですがまるで一過的な宗教、一過的というだけならいいがいっそこれは一方的・受動的な体験、場合によっては受難である。感動とひとことで言われる浄化作用も忍耐や心理的苦痛を伴う場合があることは承知で、それでも交響曲を聴くことがあるのがぼくらの日常にありうるということは、つまり交響曲鑑賞という名目の宗教体験、いや宗教それ自体がアリというわけだが、あのですね、仮にナシと言った場合、なんのことはない、この宗教はないわけなんです。一体に、目の前にある音楽が人の興味を惹くのはその音楽が人をくすぐるからで、ちょっとでも好奇心に駆られるような音には意識しなくても体が反応するのが人間の本来だ。しかし、シューベルトを神だと思ってもいいし、能を観ながら懺悔してもいいんですが、これはシューベルトや能とは全然関係のないことで、人によっては、そこに聴くべき音があるから反応するその「さま」が自然にそうなっちゃうんでしょう。創り手のほうが常に宗教儀式を企てているわけはないし、そんなに絶対視してもらう必要もないと思っているから、例えば知らないうちにそういう伏在的宗教体験が流行になっちゃってたら困るかもしれない。流行じたいは結構だけれどカミやホトケとは対等に会話できないじゃないか。その意味で端的な例を挙げるとテレビなんかそうだった。テレビは一時期、客間の神様だった。タモリは「居候」だと言っていたけれど、テレビはむやみにありがたがられる電化製品だった。で、こういう暗黙の信仰や崇拝に水をさすような言動は悪趣味でイジワルだと言われるのを承知で、でも書いちゃうんですが、拠り所とでもいうのかな、何かに帰依していると全幅の安心が得られた気になるというような、このテのカミやホトケとのお付き合いにはうっかりしていると見過ごしてしまう盲点がある。それは神格化・絶対化されたものは価値が変わらないということだ。神社で絵馬に願い事を書いて祈祷してもらって、願い事が叶えばその絵馬は焼却処分しなければごみがたまって仕方がないし、当人にも不要という話だったはずが、なんか勘違いして用が済んだ絵馬をコレクションするようになったらやっていることの意味がわからない。テレビや交響曲鑑賞にそういう性質が現れないという保証はない。
神格化・絶対化されたものをひとつの空間や物体と見るのはムリである。せいぜい平面なのだ。それは動かない。オモテが見えてウラが見えない。寺社が宗教法人や企業であることに気がつかないで盲信して参拝するのと似ているが、はじめから宗教的な崇拝だとわかっていれば、崇拝の対象のほうでも経典や戒律を用意しておくのに、テレビや交響曲にはそんな用意はない。ひとがテレビや交響曲に求めているのは感動でも救いでもないと言ったら怒られそうだが、事実はそれに近いようですよ。20年前ならともかく、いまどきテレビを買ったからものすごく得した気分になる人が、いたとしても所詮電化製品ではないか。消耗品だ。でもね、テレビという電化製品、交響曲と言う音楽形式、要するにガクブチにありがたみを感じているほうが多数である。もちろんそれはそれで価値には違いないし、ガクブチが大事なことだってある。ただ、演劇を見ないで劇場を見てよくも馬鹿馬鹿しくならないね。それだって結構なことには違いないが、困るのは、彼ら自身が抜本的に絶対視しているテレビや交響曲の内容はフクザツでよくわからないまま不変というか不動に見え、なんだか恐れ多いか胡散臭いかのどちらか、つまり「いわく言いがたい」印象を与えるため、テレビ見たって交響曲聴いたってうなるばかりで何しゃべっていいかわからん。人相までぞうりのように平べったくなってくるというもので、せいぜい暇つぶしのおしゃべりを愚弄して、交響曲や能の成り立ちが今のままであってくれるように、ガクブチについてもぐもぐ何かつぶやいている。楽しいのかなあ。内側の価値とは何の関係もない。人が恐れるのはテレビが故障すること、オーケストラが破綻すること、デフレ不況、戦争、地震で、いわく言いがたい交響曲を聴くのは度胸をつけるためか、貞操を守るためか、いずれそんなようなことに、なりますよ話の流れからすると。
ガクブチがムダだとか言うつもりはない。言うつもりはないどころか、内容を伝えるためには何らかのガクブチが必要だ。これは、内容だけを伝えるわけにはいかないと言い切れるほど、ぼくらの伝えたい「内容」が混沌として込み入っているためである。だから表現は簡潔なほうがよく、この表現がガクブチになるわけだが、と言って、表現内容まで誰にでもわかるとは限らないだろう。人によってはわからない場合もあるから、表現する意味があって、ふさわしいガクブチ=形式も有効なのだ。付け加えれば形式というのは全部、過去からの引用である。ということは表現内容も過去からの引用だということで、音楽は何かのやりかたで過去を引用しながら意味を引き継いできたのだった。その途上でガクブチが果たした役割は決して小さいとはいえない。時代とともに過去の音現象の蓄積が膨大な量になったとき、これを取りまとめるべく、さしあたり手段が必要だというときにガクブチをあてがって内部崩壊を食い止めなければならないことのほうが歴史上、ずっと多かった。でも20世紀初頭、この手当てにも限界が訪れて、音楽が壊れたり作曲家(画家でも小説家でも同じことだが)の精神が壊れたりし始めた。この一連の崩壊を是と見るか非と見るかで、20世紀音楽と音楽家に対する評価が分かれる。分裂をよしとするか、その分裂を何かの手段で統合するのが音楽というものなのか。いずれにしても、現代は模索の時代だとか言うけれど、模索しているというより、表現内容はそこにある、みんなに見えているが、それをどう表出したものか考えあぐねている。そして、その「みんなに見えている」表現内容こそは私的な連想や妄想でも、犬がワンと鳴きニワトリがコケコッコーと時を告げるたぐいの自明の理でもない。すべての形式の少なくとも部分は借り物だからこそ、形式を介して内容が聴き手をくすぐり、ぼくらの表現行為と内容は何なのか、懲りずに面白がれる。以上は、ぼくが主として扱っているヨーロッパ音楽の場合に限らないことだと思います。
ヨーロッパの古典的概念では、「おはなし」は(主として)ヨコに連なる旋律で表現された。「おはなし」が複雑になるにつれて旋律線も複雑になった。複雑になりすぎて旋律かどうかわからないような音の連なりも現れた。「おはなし」を言い切るために旋律は長くなっていった。長くなりすぎて前後の関係がわからなくなった。以上はヨコの意味。
これをタテにしたらどうなるか。いままでヨコでやっていた複雑な意味をタテにして、つまり和音にしていっぺんにジャーンとやる。この和音はフクザツだから、必ずしも耳あたりのいいものではない。そこでみんなが「きれいじゃない」「うるさい」と文句を言う。だけどこの和音は「おはなし」の集積だから作曲家はどんどん使う。
和音では足りないときに旋律でものを言う。
時代をさかのぼって、例えばバッハが知っていたのは、この旋律と和音という二項対立ではなく対位法という技法だった。20世紀初頭、このバッハに倣って音楽の「ヨコ」と「タテ」を調停しようとした作曲家がいた。オーストリアのシェーンベルクとドイツのヒンデミット。作曲のやり方や考えはまったく違ったが、古典への回帰を目論んだところが共通点。
この対位法が産業革命以来時代遅れとみなされ、モーツァルトに代表されるギャラント様式がそれに取って代わると、旋律は上流階級を、伴奏は下級労働者を象徴するものになった、というようなことをすでにフィリピンの作曲家・音楽学者ホセ・マセダが言っている。伝統的なピアノ演奏法で左手が重視されるのは、おそらくここで言うような対立概念を支えるのが様式化された伴奏音型であるため。
20世紀のはじめ、ハンガリーの作曲家バルトークは(本人の希望とは反対に)作曲家としてよりも民謡研究家として著名であり、「おかしいと思われるかもしれないが、メロディーが単純であればあるほど、それにぴったりす適合する和声法と伴奏は複雑で風変わりなものであるべきだ、と私は断言してはばからない」という考えを持っていた。
(バルトークの項目の引用文出典:ハロルド・ショーンバーグ『大作曲家の生涯』下巻、共同通信社)
夏中よくわからない気候で困りましたが、この秋口、いかがお過ごしですか。くれぐれも心身両面の体調にご留意くださり、日々ご機嫌うるわしくお過ごしください。こういうときに気候に惑わされてムシの居所が悪かったりすると、対人関係などでろくなことにならない場合があります。たいていはつまらぬいさかいです。どうでもいいことで腹を立てたり、冷静さを失ったりするのは何の利益にもならないどころか、無駄なエネルギーの浪費です。ゆとりを持つためにだってエネルギーを使うのだったら、異常気象で感情が斜めになるなんて損です。気候に敏感なことじたいは好ましいから男も女も大人も子供もチャーミングに毎日、過ごしましょうね。ぼくも心がけます(自分がいちばん心がけが足りないんじゃないか)。残暑お見舞い申し上げまーす。
ごく大雑把に言っても、世界中で音楽の楽しみ方が半世紀前とはずいぶん変わった。ベルリンフィルをカラヤンが振ったリヒャルト・シュトラウスでなきゃやだー!…というようなことは少なくなってきている。パイオニアのアンプとヤマハのスピーカー!…なんて言わなくても1万円以下のCDラジカセで充分間に合う、という人もいる。ホンモノと信じられていた模範的名演奏の絶対性は薄れてきた。芸術に限らず、民俗音楽だってそうだ。しかし、類似品ならまだ許せてもぜんぜん違うものではかわりがきかないことがある。話が漬物なら、自家製の沢庵だと言ってスーパーで買ったべったら漬けや朝鮮漬けなんか出されて「これが我が家の沢庵」かなんか宣言されても困る。交通。三輪車は自動車の代わりになるわけがない。というようなことを想像力で補いましょうといってもたぶん無理だ。でも、想像で補うのも楽しいね。でも、なくてもいいことや、ことの本質に関係ないこともあって、ぼくらの日常は往々にしてそういうどうでもいいことに援けられて進行している。日本の名優、故・笠智衆は87歳で出版した生涯唯一の写真集『おじいさん』のなかで「この世の中、欲張ったらきりがない。こりゃ諦めにゃァならんと、そう、わし思うたんじゃ」と熊本弁で述懐している。「人間は欲張っていたらきりがなく、諦めが肝心です」とは書いてない。これでは牧師さんや道徳の先生の言説になってしまう。キーワードというやつがあって、いかりや長介なら「だめだこりゃ」。「こりゃ諦めにゃァならん」は笠智衆のキーワードではないけれど、いかにも笠さんらしいから、これをホンモノと呼ぶことにするが、ほかの熊本のおじいさんが同じことを言うのをニセモノと決め付けたらみなさん怒るでしょう。このように、ホンモノは複数いることもあるのだ。ところで、こういうホンモノを真似る芸人がいますが、日本の芸能界に声帯模写芸の名人がめっきり減ったのは、ホンモノに対してニセモノやウソッパチの良さが消えてきている証明じゃないだろうか。ウソで楽しむことがこんなにむつかしいのは、ちょっとでもウソをつくと泥棒だと本気で疑われる世相だからだろうか。以前、ロッキード疑惑の故・田中角栄元首相が4人ぐらいいたような時期があった。あれだけアクの強い人物がマスコミに複数往来してるのが愉快で、ロッキード事件がばれたから物真似師もいきおい慎重になったが確かに一時期、複数の田中角栄は日本の笑いの源泉だった(このさい政治談議は別です)。
ホンモノだってにやにやしているものなのに。にやにやしていないホンモノほど憎悪と軽蔑の対象にされるものはない(らしい)。あなたがニセモノでないなら、ひそかににやにやしましょう。それでバカにされるとしたら、バカにしたほうが馬鹿なのだ。社会的責任とかなんとか言うより先に、好ましくにやにやすることです。ほほえましく笑うことです(あたりまえか)。尊敬はされないかもしれないし出世もしないかもしれないが、静かににやにや笑うのはほかの笑いとどこか違うようである。それはほかを軽蔑する笑いとも、照れ隠しの笑いとも違っている。かつての音楽ファンはフルトヴェングラーのベートーヴェンを聴いて陶然としたかもしれない。そこには静かなにやにや笑いは見えなかったかもしれない。複数のフルトヴェングラーも、複数のベートーヴェンもいなかったかもしれないし、複数の笠智衆も複数のいかりや長介も関係なかった(であろう)。しかし伏在的に、にやにや笑い、そのほかぐふふ笑い、うふふ笑いなどは、「薄ら笑い」なんかと区別してちゃんとみんな心得ていたと信じたい。薄らバカという言葉もあったが、最近使わなくなった(ひとこと多いんだよ)。
微苦笑畜生。インターネットだからってこういういたずらはいけないなあ。何が言いたいのか判然としない文章になってしまった。別に誰をバカだと言っているわけでもないから怒らないでください。今回はこれでおしまい。
ヨーロッパの伝統音楽の世界で、そもそものはじめはたいがいの作曲家が昔ならハープシコード、近代以降はピアノを操り、自分の作った曲を自分で演奏した。それが作曲家というものだったし、現在でも根本のところはそうである。作曲家は他人の作品に共感しても、自分が演奏するということになると、自分の曲を演奏するときとは違う態度を用意する。多くの場合自分流に少し編曲して弾いたりした。専業演奏家の出発はおそらく指揮者だったが、指揮者がすぐれた作曲家でもありえたのは19世紀までで、20世紀からは指揮者の作曲は例外的な行為になった。ピアニストの場合も似た事情がある。20世紀以降、ピアノの達者な作曲家は多いが、ひとの曲を弾くと技巧倒れになったり、逆に技術が追いつかなかったりしている。作曲もするピアニストの作品はてすさびの域を出ないことが多いか、成り立っていたとしても自分以外に演奏家がいない。
21世紀の今日から過去を眺めると、コンピュータやシンセサイザーやシーケンサーなんかない時代に、それらと同じ程度の機能を背負って生きていたバッハやモーツァルトやシューベルトは超越的に高性能な人間だったと思うけれど、ほんとうだったのかと疑いたくなる。少なくとも、高度な音楽機能の代償をどこかで支払っていたはずだと考えるのが自然な気がしてくる。伝説は当人ではなく、生きた第三者が語り部なのだ。20世紀に入って録音の技術が発達したら、演奏の場合には証拠が残ってしまい、録音機は本来語り部ではなく、伝説は成り立たず、すぐれた成果もひどい話もそのまま残る。もっとも記録というものは臨場感を捉えない傾向があるから、技術や音楽が成り立って聴こえる「記録」というものはそのまますなおに受け入れたものかどうか少し考えなければならない。が、他方で雰囲気を正確にとらえた録音・録画があるのも確かで、部分的にぶざまなミスがあろうと記録として名演奏なものも無残なものも残ってゆくのは、ぶざまなミスをした当人の不本意や、プロフェッショナルな見地からはありえない非常識な音楽観を示しているのに気付かない一種の無神経とは裏腹に、伝説を作り、受け継がれていくことになる。そのぶざまなミスがあるゆえに、と言い換えてもおかしくない筈だ。こうして、伝説の語り部は必ずしも生身の人間ではなくなっていく。
別に暴露記事を書いているわけではない。現在、ひたすら音楽技術を切磋琢磨する器楽演奏家の音楽性とレコーディング・テクノロジー、コンサート音楽との折り合いが、一概にいいと言えないと思う。それが現実だ、現実は醜いものだという実存主義もありそうですが、実際を単に見ていて語り部として実存を云々するのと、実践者みずからが実存主義を掲げるのとは話がまったく違う。家庭で聴くCDがコラージュだってモンタージュだって構いはしない。レコーディングの現場でピアニストが弾けなければ仕事にならないというだけの話である。その、弾ける弾けないも程度問題で、末端までダイヤモンドのように技術を磨かなければだめなものなのか、21世紀の音楽家は考えたほうがいいように思います。そのうえで生演奏の一貫性や一回性を吟味したらどうだろうか。
皆さんはいま、インターネット・サーヴァーからこの太鼓堂のページをダウンロードして来て、ぼくの駄文をお読みになっています。このゴシック体の文面は何度か修正を加えてどうにか読めるようにひねったもので、言っている理屈に間違いは山ほどあるでしょうが、友人知人と顔を突き合わせてしゃべっているときのような言い間違い、「あー」「うー」「えーと」「なんだったっけ」というようなむだな言い回しは取り除いてある、またはそんなものは書きたいとき以外はわざわざ書かない。それでもインターネット上の書き言葉というものにはたぶんにおしゃべりの要素があって、これだけインターネットが発達しても出版媒体に取って代わらないのは、話し言葉と書き言葉の区別はほんの一例ですが、不確定な要素がウェブ上には本質的に多いということでしょう。いくらでも書き換えがきくような媒体で文字の芸術を作りたい作家はいまのところ例外です。
と、マクラを振っておいて、話し言葉の抑揚(イントネーション)のことをちょっと書きましょうか。ぼくが言い出さなくても、話し言葉の声の調子の上がり下がりじたいが面白いということは、話題そのものの信憑性とはぜんぜん別個にあるもので、しかも、声の調子だけで聴き手の信頼を得る場合さえあるということを知っている人がいるでしょう。このさい話題の信憑性なんかどうでもいい、とにかく面白いという話し振りで救われることも少なくない。少なくないどころか、けっこう会話の要点にこの、理屈を問わない「面白い話し振り」があるのがぼくらの日常で、これが抜け落ちた職場も家庭は、まあ考えられないと言っていいんじゃないかなあ…もちろん、「面白い話し振り」の対極には「つまらない話し振り」が控えているわけだが。ぼくは今でも思い出すんですが、アメリカのピアニスト、故・デヴィッド・テュードアが中国に演奏旅行の折、2日間だけ東京に遊びに来てちいさなライヴスポットでヴィデオ・インスタレーションを披露したことがあった(もう10年以上前だな)。通訳はあまり音楽に詳しくないお姉さんで、生粋の江戸っ子だと思われた(けっこう好感度がよかったよ)。いわく「この展覧会場では音を出す小さな彫刻が天井からいくつも吊るしてあり、しとが重要な役割を果たしています」「このインスタレーションを制作したときには、オシリスコープというものを使って音程を測定しました(註;正しくは「オシロスコープ」)」。それゆえ、ぼくは日本語の抑揚の問題を非常に面白く思うのです。確かに日本語のアクセントの置き所などは規則性が、例えば英語の場合よりも非常に寛大なため、しかるべきところではこの方面で非常に神経を使わないとコミュニケーションがぶち壊れになることがある。その一方で、ずいぶんコミュニケーションの潤滑油にもなっている。ぼくらは声の抑揚だけで全部の用事を済ますことが出来ないまでも、具体的な論理は抜きでずいぶん豊富な感情表現が可能な母国語を持っている。その抑揚に抜本的な規則性が見られなさそうだという目下の研究は、日本語という言語がユニークな財産であることの証明にもなれば、建築的な論理の欠如の証明にもなって、結局、日本語本来の美点と欠点とをよく知ってものを言うということが、英語圏の人々以上に、例えば一個人の魅力を作る条件だったりする可能性がある。
「あのう、禿を気にしてるとか、おなか出てるのに、ベルトをぎりぎり締めてるとか、くたびれた服とか、ネズミ色のハンケチとか、肩はフケだらけとか、お茶飲んでズウズウ音立て、楊枝くわえてシーハーとエレベーターに乗るとか、一日中、湯沸場でガラガラペーペーいうとか、『健康漢方薬』の本を熱心に読むとか、そういうのが男オバンです」
田辺聖子『開き直り』(『ブス愚痴録』新潮文庫、第3話)の冒頭、「男オバン」という、「会社の女の子がつけたミドルエイジの男へのアダナ」を説明するOL、巻向サナエの描写である。このせりふの前後に、巻向サナエには軽率の気味はあるが腹になんにもない女の子だということなどが書いてあって、上のせりふだけ抜書きなど犯罪かもしれないが、あえて引用させていただきました。田辺氏は関西弁を使って小説を書くと公言している作家だが、このひとの文章を読んでいると、関東人がよく知っている関西弁の言い回し、例えば「こら。はっきりいうやないか」とかなんかがあちこちに出てくることから感じられる関西訛りももちろんだが、瞠目すべきなのは、標準語で書かれているようにみえる地の文まで関西風に訛って読み手の心に響いてくる。読者には見えない行間の呼吸で抑揚が規定されるということがあるのではないだろうか。全巻、心地よい関西訛りが響いている本というものは痛快なもので、そこに生きる登場人物がにわかに生彩を帯びて脳裏に描き出される。
自分の作曲の体験で言うと、この種の日本語の抑揚の問題はかなり厄介で、おしゃべりで生き生きしてくる使い回しも、言葉に節をつけて楽譜に定着する実地の作業ということになると、決定的かつ効果的な抑揚の使い方を音楽の作曲・演奏で実施するのは至難の業に属する。だからいまのところ、作曲で言葉を扱うとき、ぼくは具体的な音程を指定したくない。およその枠を縁取っておいて、あとは歌い手、語り手の自由に任せる、という態度が基本である。ひょっとして、現代日本語、とくに口語が生彩を帯びてくるのは音楽の埒外なのではないか。言い換えると、音楽の作曲は言葉が伝えようとしている精細な含意を引き立たせる副次的な手段にはなるかもしれないが、言葉の意味を伝える主導的な役割を音楽の作曲という作業、それからその歌をうたうという現実の行為が担うということになると、もとの言葉やつけられた節回しが、首謀者の企図するところからずれてくることのほうが多いような気がする。そして、ぼくはこのずれは、ある場合、かなり不本意な結果を生じるもとになるから困るなあと危惧する。
おしゃべりをね、何も深刻に考えることはないことは承知しています。ただおしゃべりでも、論旨の都合が欠けるとおしゃべりにもならなくなる、しかし、別に論旨の都合なんかどうでもいいおしゃべりもある。論旨はどうでもいいとき、仮の論旨をどっかから引っ張り出してきて俎上に乗せてシンポジウムしたりはあまり気の進む時間の使い方ではない。おしゃべりにだって何かの心得はあるはずでしょう。
モノグサとそしられるのは承知で、以前書きかけた草稿を引っ張り出してきました。いま、いろんなことでちょっとこのウェブサイトの更新に手が回りきりませんので、こんなものでも我慢してください。お願い申し上げます。
@「大衆音楽はなぜ愛されるか」
道具は選ぶべきであると、漫画家のサトウサンペイが言っている。氏は、海外旅行なんかでときおり風景を水彩絵の具で描く。画材は現地調達だが、海外の絵の具は実に伸びがよく、思いついたことを達者に実現してくれる。それに較べると日本の絵の具はあまりにオソマツ、使いでが悪く、アイデアまでなえてしまう。だから道具は選ぶべきである。そんなようなことがサトウ氏の随筆集に書いてあった。本職の言うことだから信用していいでしょう。きのう自転車のタイヤに空気を入れた。タイヤを取り替えたのはいつだったか、とにかく1年以内の過去、パンクした自転車を近所で評判の自転車屋さんまで引きずって行ったら「あーこのタイヤ使い込んで寿命だね、もうすり切れてるから修理してもまたパンクしますよ」という専門家の診断で、折りしもブリジストンが画期的なタイヤを売り出して前輪と後輪で8000円ぐらいだった。自転車屋の店主は世の中のリサイクルの名人で、目立たない職柄だからひがんで説教くさくなったり無口になったりする場合もあるが、ぼくがタイヤを取り替えたその店の主人は自分が世の中に一役買ってるということをてらわず気負わず、歯切れのいい口調で「お金かけるだけの値打ちありますよ」との太鼓判、いくらか値引いて、うなぎをさばく板さんのようにするするとタイヤを取り替えた。お金をかけるだけの値打ちのあるタイヤ、店主も高性能に驚いたと鼓舞するだけのことはあって、その回転の滑らかさ、ペダルの軽さに吃驚仰天し、あまりの乗り心地のよさにまるで矢野顕子、「ちきゅうにのって/まいあがれ!」、忘我の境地。誇張ではありません、タイヤに空気を入れて走ってやっぱり「おお!」と快哉を叫ばずにはいられない。道具は選ぶべきである。ただし今度は趣味装飾ではなくて日用品の話だということを忘れるな、それぐらい走りがいい、わおー。だけどちょっとこわいな。しっかり前を見て運転しなきゃ。急ブレーキに注意。そのとき。
…チャンチャンチャン、ァホレ、チャンチャンチャン、ァヨイショ、スッチャラカチャンチャカ、スッチャラカチャンチャン、ァホーレホーレホーレホーレ、フンジャジャッチャ、フンジャジャッチャ、ァホイノホイホイ…ムード歌謡の切ないメロディーではなく、夏祭りなんかでときどき耳にするナントカ音頭みたいな演歌のイントロかサビが、とにかく景気盛り上げ気分のやけっぱち半分メロディーとリズムの切れぎれが頭の中を飛び交う。昨日の夕方駅前パチンコ屋の新装オープンでチンドン屋が愉しい一画を作っていた。しばし聴き入る。あれの名残か。チンドンにしては珍しいトランペット、業界名曲だと思うが、それはそれは名独奏、丁度『ゴッド・ファザー愛のテーマ』の日本版だと思えばよい。思えばよいけれども、ときどき、ふにゃふにゃと下降音階総崩れが勃発し、これこそチンドン鑑賞の醍醐味だったが、よりによって自転車運転中に昨日のチンドンが舞い上がり、思わず危ないぞと気を引き締めた。こういうときにモーツァルトの交響曲なんか連想しませんよ。古今亭今輔の高座に出てくる縁側のおばあさん。嫁に昔の祭囃子を口で再現して聞かせ、あたりかまわず加熱するあの光景。
わっひょーわっひょーわっひょー、
チンドドチンドドチンドドチンチンドドチンドドチンドドチン、
そのうちに太鼓の行列が出てきてDRRRRRRRRRRRdndndndndn
DRRRRRRRRRRRdndndndnDRRRRRRRRRRRRdndndndn
なにごとも努力をするということがなければだめだ。「私たちはこの世に昼寝をするために生まれてきたのではない。殴られ蹴られは覚悟のうえ」と美輪明宏の人生相談にもある。でも、つい寝てしまうけどね。努力は、しても報われないかもしれないが、報われなくても、努力したことが肝心で、しないよりしたほうがいいあたりはオリンピックの「参加する意義」と同類。笠智衆というかつての大映画俳優は晩年、齢88歳で『おじいさん』という写真集を出したがそのなかで「人間なんて、やれるだけのことはしとくもんだ」と言っている。おじいさんの言うことだから言っていることがわかりやすく、そして意味が深い。五尋の深さ、なんて言うでしょ?なにが五尋なのか、実地に測った奇特な人を寡聞にして知らないが、こんなの、喩えていっているんだから測らなくてもいい。実際に下水溝の深さとかビルの高さとか測ったって測量士でもそんなことやらないって。なんか「図られたか」かなんか言っている人もいるみたいだけれどもそれを言うなら「ぼられたか」。ものは現実的に考えなければ人生、進展がない。そんなわけで、世の中がひっくり返ったって、いや、ひっくり返りそうだからこそ、ぼくらは現実的に考えることを余儀なくされる。じゃあ、っていって考えてたら世の中がひっくり返っちゃったりして。いやー、なかなかうまくいかない。うまくいかないからなおさら努力が必要だなんて、やっているうちにどんどん事態が悪化するからハナ肇とクレージーキャッツがずっと前やってたようにガチョーンとちょん切って、たまには昼寝したほうがいいです。
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◆そもそも太鼓堂とは何か ◆音が聴けるページ ◆CD『江村夏樹 云々』 ◆太鼓堂 CDR屋さん ◆太鼓堂 DVDR屋さん
◆No Sound(このページには音がありません) ◆江村夏樹 作品表 ◆太鼓堂資料室 ◆太鼓堂 第二号館 出入り口
◆いろいろなサイト ◆江村夏樹『どきゅめんと・グヴォおろぢI/II 』