江村夏樹
リストのピアノソナタを一般的な速度より倍も遅くして弾いたり、ムソルグスキーの『展覧会の絵』の曲間に朗読を挟んだり、というような噂話でこの旧ソヴィエト出身(1947年生まれ)のピアニストのことはなんとなく知っていた。リストのソナタだけ、朝のFMで聴いたことがある。建築的なリスト演奏でそれなりに好きだった。作曲家、フランツ・リストのピアニズムというものは演奏の仕方次第で魔法のような効果を現すことがある。アファナシェフが試みたリスト作品へのアプローチは、その「魔法のような」効果をなるべく損なわない範囲で、横に延びる音楽物語を醸し出していた。
10月30日、サントリー大ホールに現れたアファナシェフが行ったベートーヴェンの最後の3つのソナタの演奏は、気の置けない民家の客間にだいぶ前から住んで、親兄弟同然のような初対面の来訪者である。ピアノを弾くアファナシェフは、一見気取り屋に見えてその実、弾いているには違いないが地味で目立たない。サントリーホールが自分の家の客間というのは一種痛快だったが、別に、だからげらげら笑い転げるでもなく、ピアニストを見守る自分は見たところ淡々としておりました。この空間ではだれもけばけばしく飾ることがない。ソナタ第32番が静かに、静かに終わって5秒も、動かないアファナシェフと観客席の沈黙が続いた。アメリカの短編小説家レイモンド・カーヴァーの本の題名みたい。「Will you please be quiet please?」。そっとしておいてあげようか。そのほうがいい。
これをベートーヴェンでやっているところがすごいですね(と、いきなり所ジョージさん口調になったりして)。そもそものはじめから内気に放埓にお話を書き散らしたシューベルトでやらないで、ベートーヴェンでいきなりやっちゃうところがりっぱだね。専門家っぽくないところが好きですねー。演奏内容をよく吟味検討すればかなり暴れているのに、コンサートのはじめから終わりまで1本の物語で引っ張ってきて、アンコールも弾かないで消えていくなんて、かっこいいじゃない。かなり地味変なパフォーマンスだが、ウタゴコロのあるベートーヴェンと無学非常識な人間ベートーヴェンを同化させるには、このアファナシェフがやったようにいくらか遅い速度で弾く必要があるかもしれない。どこかで会ったことがあるような初対面の客という印象も、この特殊な造型感覚から来ているのかもしれない。
別の話ですがリヒテルについて少し。彼が60年代に弾いたプロコフィエフのソナタ第2番と第6番、それに『束の間の幻影』から10曲を収録したCDを持っている。それぞれ別の場所で行われたライヴ録音で、ソナタ第2番はニューヨーク、カーネギーホール、第6はブタペスト、『幻影』はキエフ、となっている。海賊録音ではないか。60年代のレコーディングにしては音が悪すぎる。ラジカセで録ったような音質だが、演奏は傑作に近い。リヒテルはプロコフィエフという人をよく知っていた。だから、ソナタ第2番はあまり好きではない、第6番は好きだからきっとものにしてやろうと思った、ソナタ第7番を4日で覚えた(!)、というようなことが言えた。そのリヒテルが、あまり好きではないという第2ソナタの幕切れで(しかもカーネギーホールで)右手が落っこちてしまう。にもかかわらず嵐のような拍手。『幻影』の第15曲では発奮しすぎてもつれて転げてしまう。作曲家の友人だから作品の神経がよくわかるという背景はあるに違いないんですが、強調したいのは、落っこちることはあるにせよ、そもそも持ち前の超人的な技術が示している一種の荒っぽさである。鍛えた感じがしないというか、少なくとも洗練されていない。しかしある種の魅力と愛嬌を振りまいている。そういえば日本でも、三遊亭円生が高座を「すらすらと」務めたレコードやVTRなんてものはない。必ずとちりや誤魔化しがあるし、決して聞きやすい高座ばかりではないが、そういうことは誰も問題にしないのです。
アファナシェフの演奏技術は確かだが不器用な印象さえあって、如才ない感じや聞こえよがしな身振りは見当たらない。特徴のある音色で、美音と言うより少しざらついている。20世紀半ばの表現主義時代のピアニスト、例えばアルトゥール・シュナーベルやエドウィン・フィッシャーなどは、ミスタッチだらけの技術でも独自の解釈を優先した。というより、独自の解釈(彼らにすればそれが伝統なのだろうけれど)を優先すると、結果としてありものの技術を踏み越えることになるのだ。これを技術の不足とはもうさすがに誰も言わないが、かといってなんと名づけたらよいのか、誰もこの状況に命名する用語が見当たらない。「ヘタウマ」という俗語がせいぜいか。
テクノロジーの進化のせいで、ピアニストがそろってミスタッチを目の敵にするようになった。ミスタッチをなくしてしまったら、うまく弾けるだけでは面白くないと誰かが言い出した。こんな欲を出し続けていたらノイローゼにかかるだろう。アファナシェフさんの努力は、この音楽ノイローゼへの処方と見てもよさそうだぞ。そんなふうに考えると、彼のコンサートは肩がこらず、よくも考えてくれたアプローチのおかげで、聴衆は気兼ねなく音楽を吟味検討することができる。(このままハッピーエンディングにしちゃおう)イヤー、音楽って、ほんとに、いいもんですねぇ。
ピアノでなくても、斜めの床に置いてあるものは少ない。演出家で俳優の野田秀樹という人は「壁を走ることができる」らしいんですが、近所ではみな道路を歩いており(当然、道路は水平)、壁を歩いている通行人や走っている乗用車を見かけない。一般に都市というものの属性として「空間密度の凝縮」があるといったのは安部公房という作家だが、空間がなさすぎるとうっかりものも言えない社会になりかねない。ニュートンの万有引力の法則というものを中学校で習いました。あれはふたつの物体が引力で互いに引き合っていることを法則の形で表しているが、現代の宇宙物理論の世界ではこの引力ひとつをとってもとんでもなく複雑に話が展開するらしくて、ぼくらはそういう「論」の世界とはいちおう、切れた地平で日常生活を営んでいないと毎日が学問だらけになって、あまり塩梅がよくないようです。
信じられないシチュエーションで物事が展開するお話はたくさんあるが、ピアノに関して、信じるしかない実際のお話をいくつか並べてみましょう。東京都内にある、ビルの8階にあるコンサート会場でピアノを弾いたとき、企画制作の担当者と災害時の避難について話し合った。このビルには心細い避難用階段しかない。地震が起きたらどうするのか。何がおきても、ひとまず焦らないでその場から動かないように主催者側から観客に注意を促すことにした。ところが後年この話を某という俳優に話したところ、彼は即座に「客席めがけてピアノが飛んでくるよ」と言うじゃありませんか。よく考えればこれは充分ありうる事態で、こんなことになってしまったら、残念だが仕方がない。
ごくわずかでも、ピアノのある床が傾いていることがあるが、このどうしようもない老朽化(まさか施工ミスではないだろう)に対応する方法はただひとつ、あきらめるしかないのである。リハーサルの最初の段階では、弾いていると三半規管がおかしくなって平衡感覚が怪しくなりかける。この一種の船酔い感覚をどうにか克服すればその日の演奏はどうにかなる。そういうものなのだ。床は水平だが年代もののために、弾くと上下左右に揺れるピアノなどもたまに出くわす。一度、調律師にどうにかならんか相談したところ、調律師はピアノのあちこちを点検したあと、次のようにコメントした。「暖房が入るとゆるむんですよね」。そんなこといわれたって冬場はどうするのか。観客席は寒くてもみんな歯をがちがち鳴らしながらピアノ芸術に聴き入るのでしょうか。数百の観客が歯をがちがちさせたら、こっちのほうが本命のピアノ演奏よりおもしろい音響だったりして(悪い冗談ですね)。この「揺れるピアノ」の場合も、調律師にいくら礼金を払ったって、会場責任者にいくら交渉したって問題のピアノがよくなることはなく、観念して弾いているうちに揺れていることを忘れることもあるから、日ごろの練習はやはり大事だということになりましょう。
『戦場のピアニスト』『船の上のピアニスト』、ピアノやピアニストが登場する映画が多いが、戦場であれ船の上であれ、状況は過酷でもピアノの置き場所は力学的に安泰だ。これが安泰でない場合を考えて映画を作るというのはどうでしょうか。例えば電車の中。人が乗っているぶんには問題はなくても、ピアノの置き場所にしては揺れすぎる日本の在来線車内で美しくピアノが弾けるわけがないでしょう(世界中探したって「揺れない電車」はない。日本の在来線を批判しているのではありません)。なのになぜ電車の中でピアノを弾く人がいるかをストーリーにする。じっさいには「電車内のピアニスト」なんか自分でやるわけがないのにときどき考えます。たぶんユーモアの世界が楽しくて空想にふけるんでしょう。音楽の世界をいまよりよくしようという意見はあちこちにあるが、よくしようといっても、こういう無茶苦茶な物理的現実だってありうることを充分考慮に入れなければ荒唐無稽なギャグにしかならない(ギャグにもならないかもしれない)。グローバリゼーションの波の中でオポチニズムに陥らないで行動するには、よくよくの注意が必要なはずなんだけど。
2003年12月2日(火)夜7時半から、都内両国・シアターX(カイ)で作曲家・ピアニスト、三宅榛名が開いたコンサート《静かな時間》を聴いた(観た)。三宅榛名のピアノ独奏が主体で、フルートの千葉純子が客演、バッハからアルヴォ・ペルト、三宅榛名の自作、ピアノの即興演奏まで8曲、1時間強、休憩なく舞台が進行する。開演前に会場内の照明が全部落ちて暗闇になり、最初の演目であるバッハの平均律クラヴィア曲集第1巻から最終(第24)曲「前奏曲とフーガ ロ短調」の前に、独奏フルートが暗闇の中で静かな即興演奏を始め、ピアノが次第にそれに絡んで、しばし対話となった。この即興のスタイルは控えめなジャムセッションと言えそうだが、音が出たり消えたりの間合いはかなり不均一で、おそらく意識的に均衡を崩している。この間(というかこのコンサート全体を通じて)、照明はほの暗く、ピアノにアクセント程度のスポットが当たっていた。緊張感よりは、冬の夜の雨宿りみたいな人懐こい安堵感。しかし、プログラムを良く見ると1曲目のバッハは実はとんでもない難曲で、そういうものすごい曲が、なんだか「お気に入り感覚」という感じで心地よく響いてくる。新鮮。目の前で展開しているのは洋の東西を越えようとするれっきとした挑発だ。
私たちが面をつけたときには、その面の中は暗いんですよ。月ロケットで地球圏外にぶっぱなされたようなもので、まわりが何も見えず、本当に生きていて孤独という状態におかれます。その暗闇の宇宙から、役者が訴えたいこと、表現したいことを、面の裏側からぶつけるわけです。ですから、面が表で、演じる私は裏、そのせめぎあいのなかで能を演じていくのです。
(八世観世銕之丞(静雪)『ようこそ 能の世界へ』暮らしの手帖社 47頁)
三宅さんが渋谷・ジャンジャンでコンサートシリーズ《現代音楽は私》を続けていたころ、ぼくは一般中学→普通高校→音楽大学と進んでいる最中で、この8年続いたコンサートシリーズに出かけたことがない。今回のコンサートのなかで三宅さんが弾いた自作『My D』『O.ラッソのモテットによる変奏曲』『Come Back To Music』は最近の作曲ではなくて、《現代音楽は私》シリーズを展開していた20年前の作品だということを、舞台の終末近くに三宅さん自身が口頭で聴き手に伝えた。《静かな時間》のプログラムではこの3曲の再演があって、合間にクリスチャン・ウルフ『飢える者たちに汝のパンを分け与えよ(バッハのコラールによる)』(フルートとピアノ)、アルヴォ・ペルト『アリヌシュカの快気祝いに寄せる変奏曲』(ピアノ独奏)、エルネスト・フォン・ドホナーニ『パッサカリア』(フルート独奏)、ピアノの即興演奏(以上演奏順)が挿入され、三宅榛名作曲の3作品はピアノによる福音師の役割を担って1時間強の連続した舞台構成となっているようだった。
三宅さんの自作3曲ですが、つまりこれらは「X(エックス)」であるというようなことを言うのが結局、感覚的に納得できるようだ。一応、三宅作品の外観は、途中でやめてしまうメロディーとか、協和音の中に異物が混じっているとか、伴奏の音符がひとつかふたつ欠けているとか、突然時代が逆行して400年前が現れるとか、ウケるかウケないかわからないコントまがいとか、一口に言ってまとまらず、どう扱っていいのか戸惑ういろんな要素が混在して出来ているといると指摘することはできる。出来るし、そのちょっともつれたような外観に接する以外、三宅榛名の音楽世界への入り口はありえないには違いないが、この入り口から入って作品世界に接して、ぼくは思うんですが、そういう数々の属性はいっそどうでもよいと、実はほかでもない作品自体が澄ました顔で告白してるんじゃないか。いや、作品の外観はどうでもいいとかいう話じゃなくて、「X」が成り立つためにはどんな素材も入っている音楽世界なのだ。あるいは、成り立った「X」の外観がいま挙げたような属性だと言ってもよい。ぼくは脚を運んでいないけれども《現代音楽は私》というコンサートシリーズは、この「X」をめぐって8年間継続、展開したのだと思います。上記の3曲とも20年前の旧作と告げられるまで、これはこのコンサートにあわせて書かれた作品群だと思い込んでいた。だから渋谷ジャンジャンの時代から、三宅さんの「X」の根幹は今日に至るまで一貫しているのだなとおもしろく思った。「X」なんて具体性を欠いた形容でいくらでもほかに言い換えがきくのは一般論、正論のたぐいで、こんなのでは身も蓋もないと怒り出す人がいそうだが、はたしてこれは一般論か。語弊を承知で、括弧にくくって
と付け加えてもいい。括弧の中の固有名詞が変わっても、「X」という述語にかわりはないところが大事で、どうも最近の研究によるとこの「X」はひとによって成立事情が違うらしい。しかし、極端な例として人以外のものを挙げるが、北海道で生まれた熊がタンザニアに移住してのち、チーターになることはないし、奈良から近鉄に乗ってどこまで走っても土星に到着することはなく、ちゃんと大阪や京都に出かけることが出来る。こういうのは、そうなる素地や計画と必然があってそうなっているわけで、ふだんぼくらはこういうことを当たり前だと思っているが、一般に北海道の熊はチーターにならないけれども例外がある、という話ではない。あたりまえということと一般論とは別のことなのです。
以上を踏まえ、三宅榛名コンサート《静かな時間》を眺めようというのがこの稿の本来の趣旨であって、この「静かな」ということに関してはいろいろな話が出来そうに思ったのです。思ったのですがすでに相当長くおしゃべりしすぎたかなあ。
私は自宅で、諸事情により、「水を打ったような静けさ」を半年ばかり体験したことがある。夜10時になるとものが全部動かなくなるような、異常に澄んだ静けさで、その異常な透明感に感心するほどだった。あの1994年の後半の拙宅はなにかが狂っていて、その異常を誰もどうにもできなかった。雪国の(私は世界的な豪雪地帯に生を享けました)、大雪、ドカ雪の冬の夜の静寂も相当に澄んで、「しんしんと」雪が降り積もるという表現があるぐらい静かだが、これは楽しい天然であってぬくもりがあり、異常とは思われない。子供たちははしゃぎ、犬は喜び庭を駆け回り、猫はコタツで丸くなります。積雪でへたをすると家屋がつぶれるから雪下ろしという厄介な重労働をやるわけで、毎年、この作業中に大屋根から滑り落ちて怪我したり死んじゃったりする人がいる。大人はこれを嫌がって関東に引越しを考えたりします。ちなみに地球温暖化で、いまはもうあのあたりは雪がめっきり少なくなりました。つぶれたスキー場も少なくない。対極的といえばいいのか、私が現在の住居である埼玉の自宅で体験した「水を打ったような静けさ」は、喩えが適当でなかったらお許しを願いたいのだが、川端康成の文学世界が現実に飛び出してきたような、観念的とでもいいたいような肌触りが目だって、温度がなかった。
(江村夏樹ウェブサイト『太鼓堂』から)
世の中が騒然としているから静かなコンサート、では、どうも考えが短絡に過ぎる、そんなコンサートじゃあなかったよ、ということが言いたい。一体に、自分も含めて、世の中が騒々しいとコンサートでも仰々しく騒ぎ立てたくなる。というわけで自分の思うことを書きたいのだが、《静かな時間》の設計をたどるとかなり入り組んでいるようで、ぼくの筆が足りません。三宅作品以外の4曲についてざっと書くだけでも新聞1面の3分の1ぐらいは必要に思われる。当然と言えば当然だが大きな音や激しい身振りのない選曲で、自分的に言うとドホナーニの連鎖式変奏曲は曲が平板だった(フルートの千葉純子のソロは振るっていた)。これ以外はいずれも、三宅さんの3作品のちょっともつれたテクスチュアと連携して、切り分けては考えられないような舞台になっていた(ここらの話はクリスチャン・ウルフの独壇場ではないだろうか。個人的に大ファンです。一方、アルヴォ・ペルトのほうは、正直言ってよくわからんことが多くて、ぼくは彼の大作の良い聴き手ではありません)が、どの曲でも共通するのは力ずく腕ずくでやっつけたところがないということだ。ピアノの即興演奏ではピアノの弦の上に紙を1枚置いてびびり音を出し、どうしてかはよくわからないがぼくはおかしくて笑いがこみあげてきました。どうしてかな。自分の心理分析がムツカシイがおそらく、舞台全体を通じて唯一猥雑な気分が感じられたひとこまだったからだと思う。そして、こちらを主軸に展開した舞台なら、音楽の空間と言うよりはむしろ芸能の空間に近くなっただろう。
…この「芸能」という言葉ですが、そもそもは「態芸」とかいう名前で呼ばれていたもの(どういうものを指すのかははっきりしない)の、その「態芸」の「態」の字にある「心」の部分が取れて「能芸」になり、さらにこのふたつの漢字の順が逆になって「芸能」になったと見られる、という折口信夫の興味深い説がある。折口さんが言うのは、そもそも芸能それじたいも芸能の比較研究という学問も、成り立ちからして無茶苦茶になりやすいということなのだが、ぼくたちの新しい音楽が振舞えることのひとつに、この無茶苦茶になりやすい芸能にある程度の骨格を考えてみるということが挙げられてよいように思う。《静かな時間》は文字通り静かに、あまり目立たないように行われた。それは、例えばダンスパフォーマンスを仕込むとき、床にリノを敷くか敷かないかというような舞台空間の生理の問題と通じるところがある。ぼくはおもしろかったが、音楽の世界、ひいてはぼくたちの日常が無茶苦茶にならぬように開かれるコンサートが世の中でもう少しばかり数多く行われ、(例えば)フリルをつけたり、それなりに(それなりにですよ)自己PRしてみちゃったりしても、趣旨が曲がることがなくてよさそうな時勢ではないだろうか。
「音楽は私たちが生きていくうえでどうしても必要なものではない。しかし音楽がないのは悲しいことだ」。これは旧ソヴィエトの大指揮者エフゲニー・ムラヴィンスキーの発言です。年末、この「音楽」という言葉を「ラーメン」に置き換えてひとりでおもしろがっていました。「ラーメンは私たちが生きていくうえでどうしても必要なものではない。しかしラーメンがないのは悲しいことだ」。確かに悲しいかもしれないよね。少なくとも音楽というような正体のはっきりしにくいカテゴリーがない状況より、巷のラーメン店が姿を消し、カップラーメンも手に入らない生活は殺風景になってしまうだろう。しかし、生活に必要なものは限られていて、ラーメン食べなくたって最低限、なにか滋養をとっていれば飢えに苦しまなくて済む。現実にそういう過酷な日常を余儀なくされている人たちは地球上に少なくない。日常一般からぎりぎり必要なものだけ残してあとは全部捨ててしまえば、生命や人生というものをもっと切実にかみしめることができるとしたら、音楽というようなそもそも特殊なものが世界に蔓延して大混乱をきたしているこんにちの状況はいっそバカみたいな光景で、必要な音楽だけあればそれで結構ということになるが、ムラヴィンスキーの発言に倣わなくてもこれは根本的な矛盾である。音楽がなかったら話が反故になってしまう状況としてまず思いつくのは祭儀の場面でしょう。なんかムダな音でも鳴らしていてくれるとムード作り(このさいわざわざ語弊のある言葉を使います)に役立つ。ここで鳴る音は、例えばロックや歌謡曲のように、誰が聴いても音楽だと思う形をしているものではいけないので、逆にぼくたちがたいていの場面でどうでもよいと考えているような、こんなものが音楽かい?と合点がいかないような音響が尊ばれることは、冠婚葬祭ご祈祷そのほかの儀式ばった集まりに出てみれば感覚的によくわかります。妙なものが鳴っているが、内容なんかどうだっていいんで、どうでもいい音が鳴ってくれているから出席者が騒いだり、泣いたり笑ったりできる。この「どうでもいい音」の用意は、その場所にふさわしくどうでもいい音、という、考えようによっては(いや、よらなくても)ずいぶんぜいたくな条件を満たしていないと用意ではない。そこでムラヴィンスキーのように「どうしても必要なものではないが、ないのは悲しい」ということを言う人が出てくるのだと思われます。音楽は贅沢品だということはムラヴィンスキーは言っていないが、彼の発言の前提にあるのは「あったほうがよい」という充分条件で、「なくてはならない」という必要条件のほうはいちおう除けてあります。
その、ある側面は「どうでもよい」という性質があるから、音楽を真ん中に持ってきて聴くに堪えるものにしようという努力じたいがおかしな方角へ行ってしまうことがあり、これは音楽というものを中央にすえること自体に問題の根本があるので、土台こういう努力に正しい方向なんかないのだ。あったとすれば、それは「音楽=しかるべく(聴くに堪えるように)組織された音群」の枠からはみ出した別の精神風土に矛盾しない、という方向であって、このへんは「うまいラーメン」と「まずいラーメン」や、「食べられるキノコ」と「毒キノコ」を区分けする人間の味覚と共通した、もっと一般に知られた方向性である。当たると死ぬと言われる猛毒を持つフグの肝は最近、法律で規制されて食べられない。肉は少し鮮度が落ちているほうが旨いんだそうだがたいてい恐がって食しない。生牡蠣(「カキ」ってこんなムツカシイ漢字を当てるんですね)や生ウニはスーパーでも売っているが、佐渡や北海道に出かけて採れたてを賞味するに越したことはないようだ。こういう話になると、おおざっぱに聴いたら耳の毒、体の毒になる音楽は敬して遠ざけるのがいいということになりそうだが、ラーメンとかキノコ、獣肉や牡蠣やウニの鮮度には神経質になるところが、話が音楽だと途端に判断がずさんになりがちなのは、食べ物の場合には下手をすると命を落とすこともあるから恐いというような目に見える選択基準があるからだろう。音楽となると、何をどれだけ聴いても死なないから好きなものを聴けばいいというような、これは「人間の自由のはき違え」の典型のはずだが、ものが目に見えないから気付きにくいのだろう。耳だって有害なものを感知しないはずがないし、有害か有益か、少なくとも無害かというようなことを確かめるにあたっては、食べ物の場合と同じく、その音楽を体験する以外に手はない。人間のいいところはさー、相当アブノーマルな刺激でも、薬味ぐらいの感覚で試す好奇心が持てるところにあると思う。そして、試していやだと思ったらそのアブノーマルな刺激には金輪際手を出さなければいいだけの話である。
それだけの話に必死の心理抵抗を感じることがあるのは、刺激に毒されたら後戻りができないという恐怖があるからだろう。でも、いずれどこからか音楽の世界に入ってみなければ音楽の良さも悪さも、自分が音楽を聴きたいのか関心がないのか、どちらかということはわからずじまいのままだ。そういうとき、音楽家の側から耳あたりのいい音響を用意するのは親切と言えば親切だが、冒険したい人にとっては余計なお世話なんだということがもう少し、音楽を提供する側から謳われてもよい。音楽をやる人間たちがこういうところで変な遠慮をする責任も必要もない。ときどき、悪い音楽を聴いてはいけない、いい音楽を聴くこと、という提案をする人がいる。これは有効な場合もあるが、いい音楽か悪い音楽か判断するのは聴き手である以上、とにかく聴き手がなにかの音楽に接しなければいい音楽も悪い音楽もあったものではないという摂理を忘れた、具体性の欠けた提案になることが多いようだ。幸運に恵まれた場合、最初はどんな劣悪な音楽体験から出発しても、いずれヴァージョンアップして、少し時間はかかっても、その人なりのおもしろい音楽にたどり着くようになっているものである。
そもそも音楽というものはなんか目的達成のための道具とは違うのだ。音楽を聴いて満足する、楽しむということは、信じるに足る日常を保障するための手段なんかじゃないはずだ。自分の生活が骨がらみの貧弱なものにならないための素材提供、実現手段、嗜好の対象という目線で音楽をとらえる傾向が一般的だが、こういう具合に音楽を道具として使っている限り、人間の幸福に対する欲求は留まることを知らない。無限の幸福に対する無際限の欲求というのは常軌を逸している。みじめな生活から免れたくて音楽にしがみつくざまほどみじめなものはない。ヒトの興味・好奇心は、結局、自分が得をする方向に向かうように準備されているはずじゃあなかったのか。その方向があっているかどうかに対する信頼の度合いを測定する基準が他人の音楽の中にあるわけがない。特別な準備をしなくてもぼくたちはそれぞれの生活環境を持っている。その中に音楽が入ってくる可能性もあるという話なので、道具をそろえてさあ日常生活をこれから始めましょう、なんて具合には始まってくれないのが日常生活の一般的なあり方ではないのだろうか。こんなふうに考えると、音楽が嗜好品や目的達成の手段として日常に有益だというのはずいぶん突飛な話で、自然な成り行きはそうではなく、むしろ日常に対して音楽が訴えてくるショックや違和感が無視できない、というところから音楽体験が始まると思うほうが近道のようだ。そして音楽とはなにかという問題は、この入り口から入ったほうが正体をつかまえやすいし、幸福を求めて音楽を漁って都市や地方をむやみに徘徊するより損害が少なく、楽しみがたぶん今より多くなると信じたいわけです。どうぞみなさん、よい新年をお迎えください。
神話の世界では、日本の作曲家・ピアニスト高橋悠治はデビュー当時から天上の人だったことになっている。高校時代にジェームス・ジョイスの『ダブリン市民』の原書(英文)を小脇に抱え、英語担当の教官丸谷才一が「それは猫であるべくしてあまりに大きすぎるためライオンに違いない」(だったっけ、うろ覚えですごめんなさい)と授業している最中に文法を間違えたりすると、教室の後列にいた、やたらに英語のできる生徒がにやりとした。五ヶ国語を話し、クセナキスに師事してから15年ほどのあいだは数式とコンピュータを操って作曲し、レナード・バーンスタインの交響曲第2番『不安の時代』の独奏ピアノパートを代役で頼まれたときには2週間で準備したあと、楽譜を持たずに出かけるなど、要するに同時代や後代の崇拝者やマニアが彼の伝記や伝説に接して圧倒されるのは「アタマのできがちがう」という印象が膨大なためである。
ピアニスト高橋悠治は本質的なところでは技巧派ではない。キャリアを作り始めたころのレコーディングにはすんばらしく名人芸を発揮した演奏があるが、35歳を過ぎたころからこのヴィルトゥオジティは影をひそめる。はじめから聞こえよがしのピアノ演奏がきらいだった、では演奏家としてほかにどういうピアノの弾き方があるのか。これは35歳からの高橋がこんにちに至るまでずっと抱え続けている宿題である。観客として彼の舞台に接していつも思うのは、コンサート用の大きなホールでは演奏に託されたメッセージが届いてきにくい、ということだ。世界中を巡業してまわる専業ピアニストはその場その場での観客へのサーヴィスを一義に考える(同時に、作業効率ということも考える)。作曲家・高橋悠治のピアノ演奏の場合、これは一義の問題ではなく、ほかに言いたいことがあって、必ずしも観客へのサーヴィスと順接していない。
いまの日本では、個人がインターネットを使ってウェブサイトを作るのが一種の流行になっている。その大半は簡単なプログラムさえ書かずに、ホームページビルダーなどを用意して貼り絵のように直接画面上でレイアウトを作る方式で、観たところはにぎやかなページがウェブサーヴァー上に置き場所がないほど数多く並んでいる。プログラム言語の初歩でもわかり始めると欲が出て、一歩間違えれば救いがたく壊れた工学人間が出来上がりそうだから、絵を描く感覚でコンピュータのディスプレイに向かってにぎやかなページを作るやり方は考えようによっては懸命だ。しかし、そうやって作った自分のページのプログラムを調べると、なんのことはない日本語の文章を表示するのにとんでもないフクザツなHTML言語やスタイルシートの羅列が何十行も用意してあって、初心者なら必ず仰天する。1990年台にバブル景気が崩壊したのと同じようなことが、インターネット上で起こらないという保証はない。もちろん、だれでもコンピュータに親しむようになるのはよいことだし、にぎやかなウェブサイトがあればちょっと立ち寄ってみたくなるような気楽さは今後、どんどん浸透していくだろう。
というような、準備と結果のあいだのギャップの性質そのものを有効に実現しようという意識が高橋悠治の作曲にもピアノにも、いつもある。粗い言葉で言えばそれは合理性で、以前は信じがたく複雑だった楽譜が今では見かけ簡素なのは、パウル・ヒンデミットが非専門音楽家が演奏するための作曲にたいへん熱心だったことなどとも一脈通じている。ピアノ演奏でも、権威主義、技術主義、教条主義を嫌った代わりに、なにが信用するに足る演奏技術の足場になりうるかを実践している少ないピアニストのひとりである。彼自身があちこちの記事によく書いているように、自分の経験のなかでうまくいかなかったことから以後の照準を定めていくやりかたで毎回の仕事を乗り越えて、さらにその経験からあたらしい作曲のアイデアも拾い上げる態度は、試験勉強に慣れた現代社会では例外扱いされている。
例外扱いされ、ときに変わり者と呼ばれる理由はそれなりに存在する。というのは、試験勉強に慣れた社会がこの人を疎外するのではなく、やはり高橋悠治もその音楽も、一個の人間が自分のやり方で往く先々の見当をつけているという意味では、ほかの誰彼と区別や差別がないということが知られていないからである。どうやら人間の発育というものは後天的な部分はひとによりけりで、ある水準まででも全員に共通する筋道をたどるのは不可能らしい。可能なのは、全員が加われるコミュニケーションの場の仕組みについて説明すること、それも、一応の説明はできても実際に場の性質がどうなるかということまでは予測できない要素が多い。
高橋悠治のピアノ曲のテクスチュアはどちらかというと薄い。これを「つまらない」と一蹴する人たちもいる。おそらく高橋が考えていることは、雑多な要素を片付けたところこれだけ残った、作曲の作業でできることはここまでで、あとはそれを解釈・実践する人の手にゆだねられるということなのだろう。これは漫才の台本作者と寄席漫才芸人の関係に近い。台本に余計な尾ひれがついていると、それを解釈する幅が限られてくる。実際に台本を生かして客席に笑ってもらうのも、へたに殺してしらけさせるのも漫才師の修行次第。ここには作者の意図を優先する形式美とは相容れないテツガクがあり、天才をいくらでも抱え込んでいるヨーロッパ流とも対立する。
実現意図と実現手段がかみ合わないとき、意図が前面に出たらへたでも魅力のある演奏になるし、手段が先んじたら意図が置き去りにされて、何のことだかわからない演奏になる。例外も認めた上で大きく括弧にくくってヨーロッパの音楽は、実現意図と手段がじかに結びついたときにすばらしいということになっている。だから音楽は世界共通の言語なんだということになっている。こういう主張が少し理屈っぽく聞こえてくるようになると、んじゃ自分たちの伝統、よって来たるところは何なんだということにもなってくる。ひとのことをいわなくてもアジアでだって似たことは起こっている。なにもすべてヨーロッパのせいじゃないのだ。双方で相容れないときに、高橋悠治は「音楽に必要なものはほんの少しだ」と言えた。民族の壁を乗り越えるときほんの少しのものを持っていれば充分大丈夫である。特殊な音楽社交界にいつも加わっていなくていいのなら、どこの国や地域へ行っても、少しのものを持っていればいちおう誰とでも話ができるということになるが、この「少しのもの」の成り立ちは人によって違う。高橋悠治を「つまらない」というおねだりにも相応の理屈があるにはあるが、受け取り手のいない対話にどうやって応じればいいのか。
これらのこんがらかった問題に、高橋作品は当面の打開策を与えている。面倒なことのようにみえるけれど要は「主語→目的語→述語」という構文がはっきりしていて、「誰が何をどうする」ための骨格が高橋作品の楽譜には見かけよりもわかりやすく書いてある。にもかかわらず彼のピアノ曲がめったに演奏されないのは、「誰が」「どうする」という関係を楽譜から引っ張り出して主語を高橋悠治から自分に置き換える段取りがはなはだ入り組んで厄介だからである。言い換えれば(うまく言い換えられるかどうかわからないけど)、楽譜上にある「高橋悠治」という固有名詞は隠れている。その隠れ方にこそ、ピアニストなら魅力を感じるところだろうと思う。
1997(平成9)年、初めて奈良へ一人旅をした。これ以前に関西に出かけたのは1978年、小学6年生のとき、目的地は三重県志摩半島で、保護者、ピアノの先生や生徒と一緒の集団旅行だった。関東以北の様子は少しずつ知っていたが、小学校時代のパック旅行があったにしても関西のことは既知数がゼロに等しかった。
長い病気療養の途中に住環境の激変がはさまった7年のあと、JR大宮駅前から夜行バスに乗り、10時間揺られて、11月29日朝7時半に近鉄奈良駅前に降り立った。旅の目的は奈良市繁華街から近鉄線で30分ほど、法隆寺を超えて大阪方向の山岳地帯に入ったところにある当麻寺(たいまでら)駅…ここから歩いて10分ほどのところに「当麻寺」というお寺があるが、その近くに建っている「相撲発祥の記念塔」を見ることだった。近所の住民の方々にはおなじみでしょうが、ぼくがこの記念塔を見に行きたくなったのには理由があった。同年5月、大宮市(現さいたま市)の氷川神社薪能で、亡くなった人間国宝・八世観世銕之丞が演じる『俊寛』を観た。それまで33年間、音楽やってても本格的に能舞台を観たことがなかったが、ほとんど超能力みたいな圧倒的な舞台で、満場息を呑む沈黙となり、まるで自分が俊寛和尚になったような錯覚を家に持ち帰った。ものすごいショッキングな見物だった。
別の方角からの冷静沈着な学的発言があることを知っていたから、観世銕之丞の名舞台と神話としての史実とのあいだに横たわっている現実を、自分の目で確かめたくなった。
演劇と能との関係は後で申さねばならぬが、演劇の昔の伝統を尋ねて行くと妙なことに他には行かないで相撲に行ってしまふことです。これは日本の演劇の正当なものなのです。(中略)野見宿禰と当麻蹶速とが争つて、蹶速が踏みくじかれて死んだ結果、腰折田の恩賞のあつたといふことは著明なことですが、昔の相撲とすれば殺されるといふのも避けることが出来なかつたことだらうと思ひます。
(折口信夫『日本藝能史六講』講談社学術文庫 58ページ)
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