目次

江村夏樹が作曲や演奏で実践していること
(何を考えてやっているか)
そのXIV

江村夏樹


163.
「読書もいいけれど散歩もいいよ」

   えーと、近所のコスモスです。

 たまにはごちゃごちゃ書かないでシンプルにやるのもいいと思った。というか、これって手の抜き過ぎですか?まあ、いいじゃありませんか。大きな画像で迫力があるでしょう。こういうきれいな花は、論じるのもけっこうですが、風に吹かれて揺れて、とてもかわいいです。というわけで次回!

[2006年10月25日(水)/続きは後日]

164.
「部屋の整頓」

 そもそも、コンピュータのハードディスクに置いてあるデータのバックアップを、今後はどう管理するかを考えていたら、そのバックアップデータを保管しておく室内スペースが肝心だということに気づき、部屋の片づけを始めた、という話の流れである。今日は1日、自室の模様替えに明け暮れ、まだ終わらず、一段楽するまでに数日かかる見込み。

 読書好きで本がたくさんある。CDもDVDもある。撮った写真もある。手書きノートもある。これらを棚に並べてしまうと出すのがオックウで使わなくなる。ある時期、あれこれ考えたあげく籠に放り込んで床に置いて、持ち運び便利な分類籠にしたところ、棚より分類がわかりやすくていいんですが、今度はその籠の数が増え、籠じたいもそれぞれに重くなって、広くはない作業部屋のあちこちで歩行の障害物になって困った。ひとによっては資料保存の部屋を別に設けている場合もあるけれど、ぼくの蔵書やCD、DVDそのほかは、いまのところ、専用の部屋が必要なほどは多くない。ぼくは研究家ではないので今後もそれほど膨大な量にはならないだろうけれど、とにかくそういう次第で、このたぐいの資料は、床に置くと、やはり使うのがオックウになるから、置く場所は床ではなくて机の上のほうがいいんじゃないかとか。見えるところに置く、というのが味噌らしい。

秋の花第2弾。赤いのはケイトウかな。



 最近、美人の女友達が使っている60GBのipodというものを見せてもらった。ぼくも好奇心が強いので、今や60GBの情報量を一般の人がふつうに携帯しているのがおもしろい。美人であればなおさらおもしろい。数万曲も持ち歩いて何するんだろう、なんて思うのは余計なお世話だろうな。60GBのipodって、見たところヨウカンのかたまりみたいです。ちなみにこの文章を打っているノートパソコンは30GBぐらいで、ほかに外付けのHDDを使っている。






 部屋をいじっていたら、10年まえに書いて、その後ずっと忘れていた楽譜が数種類出てきた。ピアノ曲だが、弾くにしては厄介だし、何より曲調がだらしがなくて、という具合だがなぜか残っていた。いま見ると、そのだらしのなさがなんともおもしろく、弾くのが厄介と言っても弾けないこともないから、このさい使っちゃおうと思っています。過去20年間にそういう楽譜はまだほかにもある。どうしたものかなんて、ふだんはあまり考えていない。でも残っているということは、過去のその時点で作曲をしたということなのだから、あたりまえのようですが今日でも明日でも思ったことはなんかの形にしておくことでしょう。

 たいへん整理された、清潔で効率のよい住空間のようなものを空想してみるけれど、実際はそんな要領のよさがぼくに備わらない。自分の曲の楽譜のように、損傷すると困るものは整理のやり方がほぼ確立しているけれど、ほかのものはおおむねの分類程度でそのへんに散乱している。どうだっていいもののほうが多かったりする。でも部屋の整頓は何らかの形でやはり必要だ、節目節目で必要だ、という、自分の場合をレポートしました。みなさんはどうでしょうか。

[2006年11月6日(月)/続きは後日]

165.
「コンサートをやるということ」

 この3年、幼いころに非常に親しんで聴いた、思い入れの強いピアノ曲や室内楽をいくつか弾いた。それらはみな、演奏技術がむつかしいと言われているものばかりだったが、弾いてみたら弾けました。これからも折々、そういった大曲を弾いてみようと思う。

 音楽大学のピアノ科を出てコンクールで賞をとり、音楽市場に出向くという、よく知られた道のりでは、例えばベートーヴェンのソナタだったら第1番をよく練習したあとで『月光』や『熱情』や後期三大ソナタに進むというように、ある程度決まったカリキュラムがある。そして、そのカリキュラムからはずれた曲は視野の外に置かれる。ぼくはそういうよく知られた道のりに立ったことがないので、一般にむつかしいと言われているプロコフィエフのソナタとか、ケージのプリペアドピアノ曲なんかは自分には弾けないもんだと決めてかかっていた時期もあった。でも練習したら弾けた。

JR川越駅前を行き交う人々 2006年10月  1000人のお客さんの前で1年中演奏している人もいるけれど、ぼくの規模は100人内外だろう。作曲でも演奏でも、マンモスコンサートの予定はいまのところ考えていない。新しい作曲の披露は、曲の普及を目指して大規模に行なうよりは、その曲が置かれる環境をよく考えて、せっかく作った作品をぶち壊しにしないほうがいいんじゃないか。

 ある規模の集団を考えるとき、そこで行なわれる音楽の公共性の性質も決まってくるようですが、だからといって、しかじかの公共性を最初から考えて音楽を作るというのは、なんか打算的な感じがする。音楽を作るという行為は、最初の計画からはずれていくのがふつうではないだろうか。これは、一般に伝統と言われている、先人の成果を踏まえることが、そのままある種の脱線を許すような許容度の問題だ、とでも書けばわかっていただけるでしょうか。なかなか思うように書けませんが、アルフレッド・コルトーもこれについて言及している。

 実際に自分でやってみると、ぶっちゃけたはなし、ポリーニがスタジオでうまく作ったレコーディングのようには弾けない、というような種類のことがわかる。だから、作曲も演奏も、それ自体閉じた成果ということはありえないし、かっこうのつかない話のようですが、コンサートのたびごとの結果にはいいところと悪いところが同居している。そういう、なんか不ぞろいなことがうまく働いて、コンサート空間もおもしろくなっていくのだろう。言いたいことが伝わったでしょうか。

[2006年11月21日(火)/続きは後日]

166.
「ぼくはこれまで、作曲でどうやって音楽のおはなしを組み立ててきたか」

 まがりなりにも音楽としてまとまった最初の成果は、小学校6年生のときに書いた『ソナタ』というピアノ独奏曲で、三楽章形式です。これはドビュッシーのヴァイオリンソナタに感化されて書いたということにしてある。ドビュッシーのソナタを踏襲して三楽章形式になっているわけです。第1楽章の第1主題は、加藤茶のコント『タブー』の伴奏音楽の旋律をちょっと変えた品物だし、第2楽章の主旋律はストラヴィンスキーの『春の祭典』のある部分をそのまま引用したものです。第1楽章の経過部に出てくるC-B-Cというカデンツ音型が第3楽章の第2ロンド主題に使われて、循環形式になっています。この曲はヤマハ音楽教室にいたころ作ったので、30年経ったいまでもヤマハの生徒さんたちは教材として使っているようです。ぼくは自分のコンサートではあまり弾かないと思いますが、自分で作ったものなので言及しました。

 20歳のとき書いた『操作』というヴァイオリン独奏曲は、ランダム乱数を用いた一種の確率音楽です。音程とリズムを、二十面体のさいころを振って決めました。不規則なリズムと歪んだ音色はぼくの嗜好の反映です。この曲は2002年に書いた声のための『物語』という曲と同時演奏することができます。

 25歳のとき(1989年)に作品コンサート『げんこやのたぬさん』をやりました。これは一晩のコンサートをひとつの作品に仕立てる最初の試みで、テキストの張り合わせでどうにかこうにかつないだ感じがあるし、押しの一手というかんじもします。嫌悪感を感じたお客さんもいたのではないでしょうか。今年はサミュエル・ベケットの生誕百年だそうで、世田谷で上演された演劇を観てきましたが、外見だけを取れば似たところがあります。どもりながらせりふをしゃべったりするやりかたは、ぼくも『げんこやのたぬさん』で使いました。じゅうぶん意識的に使ったとは言いかねるのでちょっと恥ずかしいですね。このとき使ったテキストの一部は、2002年に時々自動に頼まれて作った『プレ・ライトロジー』という作品にも使いました。文法が変な日本語を含んでいます。

 高橋悠治が1999年にコンサートで弾き、CDに収録しているぼくのピアノ曲『ファンファーレ集』は、1991年から97年まで断続的に、思いついた旋律的身振りをメモして、最終的に12曲にまとめたものです。1日に1曲を1ページ書く、という原則で書きました。

 というように、システマチックな枠組みの中で作曲を考えることを10年ぐらいやったあとで、音楽の物語性、つまり持続の問題を考えるために、システマチックな考え方から離れたのが2000年以降でした(1994年に書いた『云々』は、そのまえぶれです)。ベース奏者の吉野弘志のために書いた『樹の曲』とか、アコーディオン奏者の御喜美江から頼まれて書いた『月を見ながら歌をうたうか』とか、ぼくが自分で弾くために書いた『すきまの形』とかは、ある持続を作るためのシステマチックな考えは使っていません。複数、あるいは集団のイメージをコンサートで実現できるようになったのも2000年以降です。実際の問題として、ある集団を作っておいて、そのなかでできる音楽を組み立てるというやり方にはあまり賛成しません。そのコミュニティの中でしか通用しない音楽がパターン化するという結果をよく見かけるからです。

 シンセサイザーの周期的なパルスを使った録音作品『習作I』や『習作II』では、ぼくが感覚的に時間を組み立てる手作業を放棄して、持続の組み立てをアナログシンセサイザーの自動のパルスに任せました。録音作品でこの手法を試したあと、機械にまかせて持続を作るやりかたを、器楽の演奏家の感覚的な判断にゆだねてみようと思って、2004年に10奏者のための『夢』を、2005年に4人以上の演奏家のための『性質の異なる女たちの間で行なわれた不完全な対話』を、今年2006年には十三絃筝の独奏のための『銀鉄平を置く』を書きました。

 システムということに主眼を置いてお話しすれば以上のような説明ができます。いずれの場合も、ヨーロッパの概念で言うシステムとはかなり異なっていると思います。近年、カールハインツ・シュトックハウゼンが、上演に七日を要するオペラを書いたそうです。個人的にはそんな長大にやらなくてもいいと思いますが、これでわかるとおり、音楽における持続時間の問題は世界中の作曲家の主要主題のひとつだと思います。

 いくつかの作品の楽譜を掲載しておきます。今後、ほかの作品も公開します。演奏に使っていただく場合は太鼓堂までご一報くださると幸いです。

 ◆ファンファーレ集(ピアノ独奏;1991-97) (pdf形式)
 ◆3つの音楽(楽器は任意;2002) (pdf形式)

[2006年11月30日(木)/続きは後日]

167.
「作曲とピアノの両立の問題」

 作曲を始めるとピアノを弾くのが、オックウになるとでも言えば、いちばん感覚的にぴったりくる言い方だろう。自分の中の音の組み立てと、ひとが作った曲の組み立てが折り合いにくいんだと、いままで思っていたが、そういう建築的な相違のことより、情報の量の問題じゃなかろうか。自分の作曲をやっていると、ひとのピアノ曲までさばくのはめんどうな気分になってくる。

 クラシック名曲のようなものを弾くとき、どうもこの部屋、この環境、この集いの性質に不似合いだから弾きにくいと思うことがある。ときと場所次第で、演奏曲目も演奏内容も変わるだろう。こんにちのコンサートホールは、場の特徴を均一にして、価値があると思われているものならなにを設置してもいいように作ってあるらしいが、これはタテマエで、本音のところでは、ふさわしくない内容はふるい落としている。コンサートホールも、演奏曲目や上演内容によって、客席や舞台の位置関係とか、照明や内装を取り替えられるといいと思う。また、違うコンサートホールに行ったら、このまえ足を運んだ別のホールで聴いたのとは違う音楽が聴けるほうがいいだろう。

東京・晴海埠頭 2006年12月
 コミュニケーションの輪の中で弾いて喜ばれる種類の曲は、深刻な大曲ではないのがふつうで、そういうとき、サティの『ジムノペディ第1番』のような、使い古しの大衆名曲のように思われているものを「ほどよく弾く」のは、ピアニストの立派な技術だと思う。この、「ほどよく弾く」技術がなければ、どんな名曲、大曲もただデカイだけの、内容空疎なパフォーマンスになってしまうだろう。これはベートーヴェンの場合だってクセナキスの場合だって、バド・パウェルの場合だって同じことで、コンサートホールの演目に、次から次へと「ぱっとひとの眼を惹く」新種のネタを考案しなければならないのは、行き着くところ興行全体の技術不足のせいなんじゃないか。まあ、毎晩同じ曲目や内容でいいわけはないけれど、目新しければいいってもんでもないのは、あらゆるファッションと共通の問題だと思う。そこまで考えるなら、別に、ファッションでなくてもいいじゃないかとでも言いたくなる。


 内容本位に曲も演奏もがっちり固めてしまって、王宮の御殿でも公園の便所でも、どこへ持って行ってもクォリティだけは崩れない、という話でもない。音楽は場所柄の影響を受けて変容する。同じコンストラクションでも、王宮の御殿に持って行った場合と、公園の便所に持って行った場合とでは、違う相貌になり、公園の便所のほうが王宮よりも下等だとか、下品だとか、格が低いとかいうことには、必ずしもならない。逆も真なりで、王宮の御殿でやったから格が高く完璧だということでもないだろう。まあ、一般に、王宮の御殿のほうが公園の便所より衛生的なんだろうけれど、これは別の問題。

 特にヨーロッパのロマン派音楽の場合、ああいう、長くてまじめなものは、作品のほうから場所柄を規定する。商業映画の上映時間は2時間程度で、観客は画面にある時間付き合ってストーリーを理解する。ロマン派音楽の大作も、「あなたの就寝時間や最終列車の発車時刻までには終わるから、ゆっくり付き合っていただけますか」「そういうことなら大丈夫だからじっくり拝聴しましょう」という相互了解のある状況でなければ、全曲演奏できない。

 作曲をやり始めるとピアノを弾くのがオックウになる、という気分も、おそらく同類の問題で、時間や空間を大幅に作曲のほうにとられるから、ピアノの大曲まで付き合う気が起らないということが生じてくるのだろう。そういうことなら、いまぼくは録音作品を作っているから、ピアノは指ならし程度に控えているのもバランスの取れた配慮ということになるんだろう。

 楽譜を掲載します。

 ◆江村夏樹:月を見ながら歌をうたうか(アコーディオン独奏、2002)(pdf形式)

[2006年12月14日(木)/続きは後日]
 

168.
「実に不謹慎な作曲家・ピアニストだと思われていますが」

 実際、その通りか、いくらかはその通りなのだから仕方がない。かがやかしい受賞歴はないし(はたが無視・黙殺したがる程度のものしかないよ)、ヨーロッパやアメリカから全然歓迎されてないし、自分のサイトでは猥談ばかりしているし、だから出世もしないし、学齢期の多感な子供たちの反面教師にしかなっていないか、それにさえなれていないか、いずれにせよそんなようなことで、現状改革してみようと一念発起したって始まらないから、この年末は演奏時間9分ほどの録音作品を作って、ようやくけりがつきましたが、なんというか、作ったからって、世のため人のために全然なってないようなもんです。コンピュータのハードディスクに作業記録が残ってるだけだ。

 絵を描くときに描線を引く要領で録音の作業ができないか、やってみた。例えば油彩画では、いちど引いた線は消せないが、マティスという画家は、いちど線を描いて、よくよく見て、雑巾でぬぐって、もういちど描き直して、という変更を半年も繰り返しているうちに、最終的な描線や色彩が決まって、描き始めの計画からずいぶんかけ離れた結果がカンヴァスに残る、という制作過程を経て1枚のタブローを仕上げた。だからマティスの絵って、細かく見ると描きなおしがめだってきたないです(そのきたなさに独特の妙味があるのがマティスのタブローのおもしろさだよな)。

 ぼくがマティスのようにえらいわけはないけれども、似たようなことをやっている。五線紙に書いているときは、油性マジックを使っているから消しゴムで消すわけに行かない。消すときは修正液を使う。だからぼくの楽譜は凸凹だらけです。コンピュータのハードディスクに電子音を記録していくときだって原理は同じはずだ。いちど定着した信号をアンドゥー(undo)するのは、少なくとも1回記録したデータを、ハードディスクを初期化しないで、そのデータだけ見えなくする、ということだから、紙の上に油性インクで書いた黒い線や点を修正液で塗りつぶしても、その下に筆跡が残っているのと、話としては同じだ。だからまったく同じ作業工程を意識的に踏襲して、録音作品をひとつ作ってみたわけですが、感覚的に、紙が1枚あるのと、ハードディスクが1台あるのとでは、ずいぶん違う。ひとことで言ってしまうと、紙が1枚あるとありがたい感じがしますが、ハードディスクがあってもありがたい感じがあまりしないところが違う。

 これは、音が存在するかしないかというような美学的哲学的な論議とは、いちおうのところ関係がない、実際の作業の物理的側面を拡大してお話ししました。なんか、作品を作るというと崇高な行為で近寄りがたいように勘違いしてる人がいるけれど、少なくともぼくのやってることはそんな大それたことではないよ。3週間近く録音機の前でああでもない、こうでもないとぶつくさいいながら曲作りましたけど、出来がいいかどうかとか、役に立つかどうかはよく知りませんが、本人の感覚的に、なんか、作った実感がない。または、薄い。作らなかったということではなくて、作りましたが、実感がいまひとつわかないというのはいかにも不謹慎だなあ。どうにも恰好がつかないので、このように、何かコメントしたら少し恰好がつくだろうか。やはり、恰好はつきそうにない。

 このまま、恰好がつかないままこの稿は終わってしまうのだろうか。終わってしまうらしい。今日はクリスマスイヴイヴだそうで、どさくさにまぎれてしょうがないことだってあるでしょう。

[2006年12月23日(土)/続きは後日]

169.
「灯台に近づきすぎると難破する」

 灯台によって航路が照らされ、自分の位置がわかる。しかし、灯台に近寄りすぎると。船は難破するのではなかろうか。理想の夫そのものになった男性が破局を迎えたように……。
 確かに灯台から遠く離れているときは、灯台が「一時的な」(原文傍点)目標として役立つときもある。しかし、その近くに行くと、もっと遠くに他の灯台が見えてきて、その先の航路を示してくれるのではなかろうか。唯一の灯台を目標として設定し、それにがむしゃらに接近を試みるとき、難破の危険性が生じてくる。
 (中略)
 理想に至る間に多くの障害や、長い距離がある間は、理想という灯台そのものを目標に突き進んでいっても問題はない。そう簡単には近づくことがないのだから、難破の危険性はない。しかし、灯台がだんだん近くに見えてきたときには、われわれは慎重でなければならない。その灯台に注目するのみでなく、闇の中を、じっと目をこらして見ると、はるか遠くに、他の灯台が見えてくるはずである。それに従って、われわれは自分の航路の変更を行なわねばならない。(後略)

(河合隼雄『心の処方箋』収録の「灯台に近づきすぎると難破する」から抜粋)


 ひとつの曲の、例えば演奏の場合で言うと、「山場」を征服して一丁あがり、ということではなくて、その山場にさしかかったときに、いま弾いているその曲じゃなくて、ひとつむこうに別の曲(自分のでも他人のでも)が控えていて、まさに今やってるはずの演奏から、うまくいえないんですが、意識が逸れてくるというか、ひとつの点に向かって猪突猛進するんじゃなくて、ぼわっと開けてくるというか、こんなことを言うと「本気でやれ!」なんて怒られるかもしれないが、ぼくは冗談でやっているのではない。けっこう刻苦勉励しているんだけれど、そうするうちに、とにかく一点に集中しないで散らばり始める、ということが起る。演奏でも作曲でも面白いのはそこでしょうね。

 年末だから言っちゃおうというわけではないが、この「散らばり始める」かんじは、例えば、いまぼくの部屋のNHKラジオで「オーダーに従って曲を作っていますから」ってしゃべっている商業作曲家(なんだかよくしゃべる人だなあ)がいるけど、注文に応じて10本同時に書いているから「散らばっている」とかそんなんじゃなくて、ひとつのことをやっていると、意識が周囲に拡散して、まわりのことがよく見えてくる感じで、表面的に観察したらこういうのを不真面目とでも言うのかもしれないが、ひとつの音楽のどこかにこの「不真面目」がはたらいていないとおもしろくないという気がする。

木の杭








 それは、不真面目に作業をするということではない。それなりに段取りを踏んで作業を進めていると、出てきた結果が不真面目な面を持っているということ。つまり、真面目にはじめたつもりが、どっかで逸れてくるんですよ。そういうのが面白い。

[2006年12月30日(土)/続きは後日]








170.
「謹賀新年」

単なる空き地ですが、春を待つ潅木がかわいらしい。
2007年になりました。今年も健康で元気でまいりましょう。どうぞよろしくお願いします。

[2007年1月5日(金)/続きは後日]

171.
「身のまわりのこと」

 作曲もピアノも継続中ですが、ぼーっと日常生活の整頓について考えている時間が長くて、できることから片付けているから、音楽もそのほかもゆっくりやっています。ピアノの練習も楽譜の制作も大事ですが、音楽の置き場所について、考えをまとめているところです。とは言っても、実際はぼーっと過ごしてる時間が多い。新年明けてスカートめくりばかりやってるのもいいけど、年が改まったら、去年とは別なことを考えるようになったのかもしれない。というわけで、短いけれど、続報は次回。

[2007年1月23日(火)/続きは後日]

172.
「身のまわりのこと(2)」

 いま作曲をやっていて、ちょっと込み入った楽譜を書くのにてこずっていまして、文章に身が入りません。文章にしても、ただ書けばいいわけもないから、短い経過報告でご勘弁願おうという心積もりです。いまやってる作曲を眺めていて、ひょっとしてこれはジャック・ボディ(ニュージーランドの作曲家)の『3つのリズミックス』というピアノ連弾曲の第3曲が念頭にあるからこういう譜面が現れるのではないか、と思いつきましたが、関係がどうなっているかはわかんないな。とにかく、例年のように1月は寝坊で、ぱっぱと作曲がはかどらない。地道な積み重ねがものを言うから、少しずつ書いています。

 歌手の柴田暦さんから、以前、ポップソングを書くように頼まれたことがあって、2曲書き下ろしました。今回はこのふたつの歌の楽譜を掲載しましょう。流行曲なんかぼくには書けないのだが、曲としてうまくいってるかどうかは各自でご判断ください。

 ◆江村夏樹:追熟の森(2000) (pdf形式)
 ◆      :南へ十二歩の(2001) (pdf形式)

 んじゃまた次回。

[2007年1月30日(火)/続きは後日]

173.
「身のまわりのこと(3)」

 作曲がほぼ終わって、文章を書くよりは読むほうに時間をとられ、つまり、このエッセイの更新をするのはいいけれど、書こうと思うことはどれもこれも熟さない話題ばかりで、そういうことは自分の私的なメモに書いておけばそれでいい。ウェブサイトの来訪者に読んでいただくほどの題材がないときにはどうしたらいいか。

 おととし、ブログというものが登場したら、ブログに日記を書く人が増えた。やる人はやってていいけれど、私生活が丸見えのブログ日記などもあり、読む人には関係のない交遊録や、食事や入浴の実況中継などもなされて、ずいぶん無防備な世の中なんだなあと思わなくもない今日この頃、ぼくはウェブサイトやブログに毎日の私的記録をそのまんま書き綴るつもりは持っていない。だって、ブログに朝風呂の話を書けば、読むほうは、書いた人のヌード姿を、意識的にせよ、無意識的にせよ、連想するのが人情ですよ。つまり、そういう言語は挑発の一種なんである。けれども一方では、だれだって風呂に入るんであって、べつに自分が風呂に入ったからといって、なにがどうしたわけでもないが、いちどブログでそれについて書けば、もうりっぱな言語表現なわけだから、読む人は、なにが言いたくて入浴シーンが書いてあるのか、シマ憶測したくもなる。事実は、女、または男主人公はその朝、自宅だか旅館だかの風呂または温泉に入った。どうせ書くなら、体の洗い方や、風呂における個人的嗜好にも言及すればいいのに、ただ風呂に入りました、ではあたりまえすぎてなんだか物足りないですが、とにかくそういうことが、個人のメモにではなくブログ上に書いてある。いっぽうで読者のほうは朝風呂に入ったかもしれないし、入っていないかもしれないし、各人好き好きにすればいいのであって、朝、入浴する習性のない人は、たまたま朝風呂関係のブログを読んだから、自分も明日の朝はひとつ、朝風呂というものをしてみようと思うかもしれないし、思わないかもしれないし、どっちにしたって、朝風呂に入った報告をブログに書いたからといって、書き手と読み手のコミュニケーションが成り立つ保証になるわけのものでもない。ブログ日記が用もないのに無防備なことのひとつの理由です。これが日常のおしゃべりなら、こんな御託のほうが馬鹿げているんですが、文字の表現は、まったく別物だと思うんですが、いかがでしょうか。まあ、そういうことがみだらな感じや、だらしのない印象を与えたとしても、表現の自由だ、なにが悪い、というものなのか。

 そういうわけで今回のこの拙稿、単なる埋め草原稿もいいところで、ブログに風呂のことを書くんだったら、読む人がおもしろがるような芸を盛り込んだほうがいいんじゃない?という、アジテーションか駆け込み訴えか、好きに書いていたらそんなようなものになりました。じゃあ、次回。

東京・銀座 昨年12月

[2007年2月16日(金)/続きは後日]

174.
「身のまわりのこと(4)」

 この3年は、わりあい、せっせと作曲や演奏について考えて、その全部ではないけれど、主なものはこのページに、まとめて掲載し、あいだに雑談や猥談がはさんであった。現在、まともな文章を書くつもりがあまりないのは、その3年のあいだに仕込んだことが発酵するのを待っていましょうという時節なのかもしれないし、そんな大それたことではなくて、梅が咲き春が近づくこの季節にはただ単に眠くて思考能力が落ちるという、それだけのことかもしれない。

 受験生の皆さんは春先が眠いなんて言ってられませんね。駅ビルの喫茶店に行くと、教科書や参考書をノートに写している思春期の男の子や女の子をよく見かける。じつはぼくも喫茶店で、本が読みたいのだが、コーヒーと読書が両立しない。むかしからそうだ。コーヒーを飲んでいると読書に注意が向かないし、読書を始めるとコーヒーを飲むタイミングがずれて、飲めなくなってしまう。

 そういうわけで、あまり重大な本は喫茶店では読めません。大竹省二『女性写真セミナー集』みたいなものを眺めて、いつ見てもエロティックなヌードと、いっときは目を惹くが、じきに飽きてしまうピンナップヌードとの違いはどこか、専門家の意見を乞う、あるいは自分で考えてみる、というようなことが、喫茶店でできればいいが、画集や写真集のたぐいは大判で目立つし、それに喫茶店で画集やヌードを見るのはどうも場違いだ。そういうわけで、ぼくは喫茶店ではごく軽い本しか読まない。

 ある程度込み入った読書は、日が暮れてから自分の部屋で読んでいる。1日の用向きがたいてい済んで、寝る前とか、よく「枕頭の書」っていうでしょう、あれですよ。これだと雑念が邪魔しないで、内容がよく頭に入る。でね、その「枕頭の書」、「ちんとうのしょ」と読みますね。これをまちがえて、「チントンシャン」と読まないように。「私のチントンシャン」なんて、ひとを疲れさせるだけだし、バカ扱いされるから言わないように。

 というシャレがどうしても書きたかった。何年も前から、書いてやろうと思っていたのです。本日の趣旨はこれだけなのです。爆笑問題がネタにしてくれないだろうか。シャレだけ書いてもつまんないから、延々と前置きをつけました。というわけで、次回。

[2007年2月27日(火)/続きは後日]

175.
「審美眼」

若い女の体の線は、点の集積からできていて、線の流れの中心が腰にあって、そこから体の上体と下肢へ流れていっている。

(大竹省二『女性写真セミナー集』 日本カメラ社)


 わかるようでありながら、難解な発言だ。若い女の写真をたくさん撮っている大竹省二氏の経験論である。写真の素人のぼくなどにはちょっと高級すぎるようで、理解が追いつかない。大竹氏の女性写真は確かにおもしろいし、ありがたいことに非常にエロティックだから、写真の技術や哲学も信用していいだろう、若い女の体の線が点の集積だと、その大竹氏が見るのだから、きっとそうなのだろう、いつか、自分にも、若い女の体の線が点の集積に見えてくる日が来るのだろう、きっと来るだろう、などと自分を説得してはみるものの、「若い女の体の線」と「点の集積」は、残念ながら、ぜんぜんつながらない。プロのカメラマンの発言でも、さっぱりぴんと来ない。写真でなく、実物の裸の女性なら見たことがあるが、フォルムとして目で押さえ込む心積もりで取り組んだことはない。まだ、よくわからない、というべきか。

 だいたい、女性をそんなふうに観察する機会がない。道行く人々はみな着衣で、したがって当然、日ごろ見かける女性は服を着ているし、肌が露出している部分、顔とか腕とか脚とか、を専門に研究するにしては、日常の世界は人の往来がいっぱいで、ゆっくりじっくり見ていることはできない。それに、見知らぬ女性の、腕はともかく、顔だとか脚だとかをじろじろ見たら、相手は、いったいなんだと思うに決まっている。視姦ということばだってある。(そのあたりの機微は、以前、自分の音楽作品で使ったプロの美術モデルは、よく心得ていました。こちらの気分が明朗になる。)

 顔見知りの女性の場合はどうか。絵画や写真を制作します、という、目的かどうかは知らないが少なくとも方向がないと、相手の女性は、自分がなんの標的になっているかが気になって、くつろげないだろう。写メールに写るのが苦手で断ってくる女性も案外多い。(奥さんやガールフレンドの場合は、経験がないからよく知らない。いままで必要も感じなかった。いずれアマチュア美術家として意欲がわくものだろうか。)

 主眼も方向もなくて、女性が目の前にいて、ただ観察する、という場合があるだろうか。コミュニケーションもしないでただ観察するだろうか。そういうことがもしあったとしても、ごく特殊な場合じゃないだろうか。観察専用のガールフレンドを持った場合(?)なら、まあそういうことはありえましょう。でもねえ。男女交際の機微はどんな場合だって、なんか色気があるのが一般で、観察オンリーの交際なんて、理科の実験じゃあるまいし、そういう趣味でもあれば、好きにしてもらいたいようなものではないだろうか。

 別な角度からの問題もある。すべての人やものが観察の対象たりうるとしても、こちらの主観的に、願い下げにしたいような人やもの、「わたし」の目に魅力的に映らないものは、写真や絵にしてみたって、どうしようもないのではないか。まあ、これだって特殊な場合があって、その、どうしようもないものを求めている人もいる、ということになれば、どうしようもないものに対する需要だって当然、あることになる。でもさあ(写真の場合、これは実例を挙げるとひどいことになりそうなので、やめておきましょう)。

東京都北区 飛鳥山公園 2007年1月

 趣味の写真と言って、自己満足して楽しんでたくさんの枚数を撮っているうちに、自分の意識の方向が時間の流れとともに変化してくるのがわかる。最初は、モティーフが「樹木」だった。それがどういういきさつか「街頭」になり、抽象的な「遠近法」になり、最近は「雑踏」になった。次はどう変わるかわからない。変わるのはモティーフの種類だけではない。「なにか」が変わる。その「なにか」というのは、完成した写真のできばえから確実に読み取れる以上、実際的な構図にかかわる、ある属性には違いないのだが、ちょっと言葉では表現しにくい。「焦点」とでも言えばだいたいの感じがつかめただろうか。あるいは、写真全体の構図に、計算外の時空をとらえる「タイミング」かもしれない。それは、いろいろ試行を重ねているうちに、自分が発明するのではなくて、向こうからやってくるような、ありがたい種類のこと、とでも書いておこうか。それがあると楽しいからありがたい。ただ、思うに、これは一種の運だと思うので、いつになっても、何も来ないことだってあるかもしれない。

 女性写真の場合にも、この「ありがたい種類のこと」が画面ににじみ出てくるまでには、なによりも、やはり多くの美人、女性美を見なければならないだろう。趣味で写真をやっているぶんには、そこまでの熱意がないというか、「美」を撮るところまで腕が熟していないというような審美的判断が働いて、どうも実在の女性を相手取る決断がつかないんです。それに、顔見知りの女性にモデルになってもらう口説きの手口は、めんどくさいにちがいない。そういう次第で、女性写真の制作と研究は、とうぶん先の話になりそうである。

[2007年3月8日(木)/続きは後日]

176.
「本日の写真」

 じつは風邪をひいて寝込みました。回復傾向ですが、こういうときにはろくな文章が書けません。最近の写真の中から、気に入っているものを掲載します。季節の風邪にはくれぐれもご留意ください。

東京・銀座、昨年暮れ

ぼくはこの写真の、光線の具合がうまくいったと自分勝手に思っているんですが、みなさん、いかがでしょうか。

[2007年3月27日(火)/続きは後日]

177.
「自作の練習」

 自分のピアノ曲で、コンサートで1回弾いたきり、その後5年、まったく弾いていない曲があった。アメリカ東海岸に旅行したとき、ニューヨークとフィラデルフィアのホテルで書いた『散らかす』がそれだ。3分ほどの小品だが、弾くのはやさしいとはいえない。

 何回か弾いたあと7年もうっちゃらかしになっていた曲もある。7年弾いてなければ忘れるものだ。思いついてさらいなおしてみているが、放置しておいたあいだに耳の方向が変わったらしい。記憶とは別の響きがきこえてくる。おもしろい体験だが、ちょっと戸惑う。こんなこと書いたんだっけ、と思っても、楽譜はちゃんとそこにある。

 いちばんなじみぶかいのは『ファンファーレ集』で、自分も繰り返し弾いたし、高橋悠治が1999年にコンサートで取り上げ、その録音がCDになっている。こういうものは、特別なトレーニングをしたわけではないのに、いつの間にかほぼ暗譜している。 JR大宮駅前 2007年3月


 自作自演のコンサートの準備中なら、専念して練習するだろう。目先の目的がなく、自分の曲だから指になじませておこうと思ってやっていると、現在準備中のコンサートの練習のほうが優先になる。いずれ、楽譜をなぞっていれば、時間の経過とともにいろいろな気づきがあって、いま弾けるような弾きかたが見えるでしょう。

 作曲というのは、それを書いた時点ではちょっとしたマイブームで、そのときの必要に応じて、ふさわしいものを書いたんだというような、思い入れの延長で演奏することもできたのだろう。時間がたってほとぼりがさめたとき、その曲がどう見えるかは、今回、練習しなおしてみようと思いつくまでわからなかった。


 ということは、今後これらの曲を弾くときには、作曲当初とは違う演奏のしかたをすることになる。この、意味の移ろいを受け入れることが練習の眼目だ。何年たっても曲の響きや意味が全然変わらないよりも、時間の経過につれて曲の意味も変わってきこえるほうがいいのではないか。そんな気がする。毎回同じことをなぞるほうがラクだろうけれど、飽きてくるだろう。気持の根底でそういう類型は望んでいないようだ。

[2007年4月3日(火)/続きは後日]

178.
「古典音楽と現代音楽の両立」

 いまは、おもに現代日本の、ピアノが入った室内楽を準備していて、去年までヨーロッパやロシアのいわゆるクラシック音楽をさらっていたときの感触と比較すると、曲のテクスチュアがあまりに違うので、日本の室内楽の準備のかたわらでヨーロッパのクラシックも弾きこなしておこうと思っても、実際には両立しにくい。誰かがこれを、ヨーロッパのクラシックに較べて日本の現代曲の世界は“劣って”いるんだといっているのを聞いたことがあったけれど、優劣の問題を言ったら、現在進行形の音楽なんかやれないことになる。変な劣等意識でヨーロッパの古典の世界に「勝とう」と思うのは、どうも有害無益のような気がする。かといって、両者を別のカテゴリーに分類してしまうのもいかがなものかと思う。

 現実問題、少なくともピアノを取り扱う以上、ヨーロッパのクラシック、特にロマン主義的な作品と、日本の現代曲は、技術的に、用いる力学が違うから、同時に並列的に取り扱うムツカシサは確かにある。しかしながら、ヨーロッパのピアノ演奏技術の基礎が身についていなくて日本の現代曲を取り扱っても、貧弱な演奏になるだけだろう。日本の現代音楽しか弾かないピアニスト、あるいは、ヨーロッパでも現代音楽専門のピアニストは多いし、職業的な要請で現代音楽ばかり多く取り扱うようになる一種のパターンを馬鹿にしようという魂胆は全然ありませんが、実際には、古典の演奏技術を知っていないと、視野が狭くなりがちで不便なことが生じてくる。

 古典音楽に普遍の価値を求めるという態度も、行き過ぎると妙な時代錯誤になりやすい。新しい音楽を特殊な現象だと言って済ませられるものでもない。実際には、古典音楽の伝統といわれるものを固定的にとらえる態度が、現在進行形の生き生きした音楽の世界の邪魔をしていることが多い。

 新しい音楽のあるものは見た目がやけに単純だったり、演奏はむつかしくても、近しい感覚で受け取りが容易だったりする。そういうのを弾いていると、ヨーロッパの古典大曲を熱演する場合と較べて、自分がいちじるしく怠惰で不勉強か、ことによると阿呆ではないかと思えて来そうになることがある。「思えて来そうになる」ではなく、実際に怠惰で不勉強で阿呆なのかもしれん。それなのに、ぼくたち東洋人はわざわざ背伸びをして、舶来のありがたそうな伝統音楽なら何でもかでもごてごて塗ったくって、見栄を張ってることはないだろうか。ときにそんな懐疑が頭をもたげて、バカっぽい気分になりそうになる。現代のノリのいい音楽と同じ感覚でヨーロッパの古典音楽を取り扱うのは高等な判断と技術が必要だけれど、そんなふうに音楽してみたい。そう思うのは、まさかぼくだけじゃないはずだ。

埼玉県久喜市 今年4月

[2007年4月26日(木)/続きは後日]

179.
「伝統というものについて思うこと、少しだけ」

 ひとつの現実として、自分の地域に属する文化は親しみやすく、だいじにもする。世界中どの地域でもこれは同じだろう。そのアイデンティティを「伝統」といっているわけですが、このアイデンティティにこだわりすぎると文化的強硬派になる。西欧諸国がそのつもりでなくても、ほかの地域に対して、文化的強硬派になってしまうことがある。東洋の諸国で「脱西欧」の動きが垣間見られるのも、西欧諸国の文化が押し付けがましく感じられたときである。

 古典芸能や在来の芸術で言われる「伝統」なるものを頑なに固守しようとしている限り、つまり、文化的強硬派を押し通そうとしていれば、その芸能や芸術は袋小路に陥っていくしかなさそうに思う。そんな狭苦しいものじゃないはずなのだ。現在進行形の音楽には、この頑迷さから脱出する出口を提供してくれるものがある。新しい音楽はわけがわからないからという理由で遠ざけている人も多い。しかしその結果、決まりきった古典音楽や、決まりきったポピュラー音楽を、毎日同じレコードで、同じ環境や再生条件で、同じ時間帯や同じ機会に聴くのがいちばん楽しめる音楽体験なのだろうか。そういう音楽体験は、砂漠化してこないだろうか。

JR大宮駅西口の、とある風景。今春撮影  コンサートで古典音楽をやる場合だって、そんなパラダイムにとらわれないで演じたほうが俄然、好感度がいい。例えばクラシック音楽には楽譜というものがあって、楽譜にどれだけ忠実かということが、その演奏の良し悪しを判定するひとつの基準になることがある。けれど、そもそもある曲の楽譜というものは、美的体験のための基準でもなんでもなく、それを演じる演奏家が必要とする目安なのだ。その目安が聴き手の聴体験の絶対的な価値基準になったらおかしいでしょうよ。そんなところに絶対的な価値があったら、ほかのいっさいの価値はダメだということになる。

 文章がしかつめらしくなってますが、ぼくたちが新しい音楽をやりたいのは、文化的強硬派になりたくないからだ。新しい音楽にあるものは、感覚的な同調性と言ってもいいが、それだけではなくて、ある信憑性みたいなもので、正しいか間違っているかとか、倫理的か否かとかいう判断を超えて肯定できるもの、そういう要素があるから、新しい音楽もやりたい。

 伝統を守る態度はあって構わないが、それが絶対のものとして巾を利かすようになると、その人たちはよくても、周辺の空気がむさ苦しくなってくるのではないか。

[2007年5月10日(木)/続きは後日]

180.
「充電期間中」

 先月末のコンサートをキャンセルした理由を書いたほうがいいのでしょうけれど、少々入り組んでいるので、ピアノを弾くコンディションの調整が必要で、時間が足りなかった、ほかの出演者とも相談のうえ、やむを得ず中止した、と申し上げておきます。自営コンサートを12年続けて、節目でいろいろかわる時期でもあるのでしょう。公私ともども「充電」ということにしてあります。

 このウェブサイトの更新をしばらくサボっていたので、さしあたり先般のコンサートのキャンセルについて一言書きました。今日はこれだけですがご勘弁ください。このウェブサイトは随時更新していきますので今後もお見捨てなく。ではまた。

[2007年6月17日(日)/続きは後日]

181.
「充電期間中・続報」

 いっとき、でしょうけれど、理屈っぽいことがめんどうになりました。このサイトでときどき書いてきたようなコウシャクはいまは持ち合わせていないし、やる気もなくて、だいいち、文章の制作というのは相当エネルギーが要る、それだけの熱意はいま充電中です。ちょっとのらくら過ごしたい。のらくら過ごしているうちに、今までの自分の意見がいろんな意味でこなれてきて、思わず頭でっかちになったりしてたのが、もう少し融通がきくようになるかもしれません。

 音楽学の本というのは、かならずしも、楽しむようには書かれていない。チャールズ・ローゼンの『シェーンベルク』という本(武田明倫訳)はエンターテイメントではないし、趣味の音楽愛好家用でもない。音楽の専門家のための音楽の専門書です。そういう性質の文書一般を読む気分でもないし、自分もあまり書いてみようと思わない、という時節です。あまりこねくりまわしたくない。そうでなくても、文章を作るというのは手間ひまがかかります。いま、大規模な計画は持ってない。(笑)それで充電だと申しております。

このあたりでアップしておきますね。論文なんか企てないで、ときどきメモを書くのもいいかもね。またこんど。

[2007年7月18日(水)/続きは後日]

182.
 「皆さんの夏休みはいかがですか」

 猛暑が20日以上も続いて、かなわない夏ですね。猛暑お見舞い申し上げます。

 優れた音楽家のYさん(Yujiさんではない)がぼくに「怠けなよ。もっとだらしなくていいよ」と提案してくれたのを鵜呑みにして、音楽のがり勉はつとめてやめて、ごろごろ寝てばかりの夏休み。ここまで書いて、次をどう続けようか考えていたらスクリーンセーヴァーが動き出し、マンハッタンの中央公園の写真が大写しになりました。このウィンドウズの「マイピクチャ」フォルダには、公園の写真のほかにケシカラン写真も入っていますが、わざわざ報告しなくていいし、しなくたって、個人のパソコンの中身は、どうせそんなようなことになってますよ。ここまで書いて、またスクリーンセーヴァー。出だしはいつもニューヨークの公園です。デスクトップ上で1分なにもしないと動き出します。まあ、Yさんの報告によれば、しばらく怠けていると、怠けることにも飽きて来るそうで、勤勉(うそこけや)だったぼくも怠けたくなった次第。というわけで、もうしばらく怠けましょう。

これがその公園です。2002年撮影。

[2007年8月27日(月)/続きは後日]

183.
「充電期間中・続々報」

 きのう、某コンサート会場に脚を運んだら、足立智美が声をかけてきた。会うのは久々だ。最近コンサートをやってるの?と聞かれた。コラボレーションする相手がいない時期だから、ここ2年ぐらいはソロ中心だ、というようなこちらの事情を説明したあと、彼に年間何回コンサートをするのか聞いてみた。だいたい30回、新しいアイデアを考えるためにもうすこし減らしたいそうです。ぼくのほうは1年に、多くて3回、少なくて1回の自営コンサート。これに較べると30回は多い数字だと言うと、ピアノのコンサートとは仕込み方が違うから、回数の問題ではないという反応が返ってきた。うれしかった。ぼくが商業ピアニストだったら最低1ヶ月に1回弾いていただろう。商業作曲家だったら1年に10曲のスコアを仕上げていたかもしれない。現在のペースでは、作曲は1年に3曲ぐらいが平均だ。(ちなみに足立君とぼくは、1996年に野村誠が設立した鍵盤ハーモニカ合奏団「P-ブロッ」の、ちゃんとしたメンバーだったんですよ。古事記の冒頭に「乾坤未だ分れず」と書いてある。出発時点のP-ブロッはそんなかんじだったかな。エネルゲイアみたいなP-ブロッだったなあ。いまのP-ブロッはヨーロッパの管弦楽団のような組織らしい。)

 商業ピアニストや商業作曲家ではないから、地方巡業もしないで、自宅の近場にいることが多い。ただ、地方巡業をやってる人は観光が出来ないらしい。以前、新垣隆が日光に行くといったからうらやましがったら、小学校にピアノ伴奏をやりにいくだけですよ、とのことだった。ニュージーランドの首都ウェリントンのど真ん中に“テ・パパ(TE PAPA、博物館の意)”というマオリ語の名前がついた大きな郷土資料館があるが、ぼくにニュージーランドを紹介してくれた高橋悠治は、ぼくが行って帰ってきて、何を見たか話すまで、“テ・パパ”を知らなかった。これ、書いても名誉毀損にならないと思うけど、そういうもんなのかなあ。

   だからぼくの旅行には、たいがい、「当麻寺、相撲発祥の記念塔が見たい」というような、ほとんど思いつきばっかりの目印がある。当地で商売はしない。さっきの新垣君のケースとは反対だ。大学や音楽事務所に勤めていれば、経費で各地に行けるということを、以前はうらやんでいたものですが、最近はそれほどでもない。自費ででも、作曲やピアノから離れて脚の向くままに歩くのは好きです。

 終わり方がずいぶん唐突だがご勘弁ください。ではまた次回。

[2007年9月14日(金)/続きは後日]

184.
「芸術の秋…」

 埼玉県立近代美術館が近所にあって、散歩に便利です。ときどき思いついて、デルヴォーやルオーの絵だとか、ジャコモ・マンズーの枢機卿(すうきけい)の彫刻だとかを見に行く。今日、9月21日日曜日ですが、なんとなく出かけて、館外の噴水を眺めた。コンピュータかなんかで制御して水を噴き上げる方式の華麗な噴水を1時間だか見物してきておもしろかった。水がバレエをやっている、というイメージなのだろう。音楽はもっとふさわしいものがあるんじゃないかなあ(笑)。ロッシーニの『ウィリアム・テル』序曲がラウドスピーカーからじゃんじゃん放送されて、スピーカーの近くはかなりうるさい。しかしまあ、日曜の行楽客を歓迎する大掛かりなインスタレーションだからいいことにしましょう。ぼくはこれを見聞して悲しまずに、楽しんできたのだから、もっといい曲をかけろなどと難癖つけるのははしたない振る舞いだ。そんなことはわかりきっているが、こういう不釣合いを目撃したら、ぜひとも皆さんにおしゃべりしたくなっちゃったなあ。続きは後日。 

[2007年10月21日(日)/続きは後日]

185.
「芸術の秋…(2)」

 前章でご紹介した、埼玉県立近代美術館の庭の噴水の写真が、ぼくのカメラに写ってました。どうぞご覧ください。

埼玉県立近代美術館の噴水

 まったくの素人写真術で、光線の調子がうまく撮れたなどとうぬぼれていますが、いかがですか。

*   *   *

 ひょんなことから、インターネット上で観られる名ピアニストの動画のアドレスを集めたブログを見つけ、夜になって時間ができるとほうぼうのサイトにアクセスしている。89才のアルトゥール・ルービンシュタインが『英雄ポロネーズ』を弾いているシーン、アート・テイタムがドヴォルジャックの『ユモレスク』を弾いている(!)シーン、デヴィッド・テュードアがケージの『4分33秒』を、弾いている(?)シーン、その他、数日のあいだにいろんなものを観てました。ほとんどが1曲まるごとのヴィデオだし、DVDになっていないと思われるものがほとんどで、度肝を抜くような超絶技巧や、奇想天外なアイデアを見ることができた。

 ピアノ、というと、両手の指を速く動かして行なう名人芸の披露、という先入観が、やっぱり、どうしてもあるのだろう。というか、ピアノという楽器は、いつの時代にも、そもそもそういう名人芸を発揮するための道具として発展してきたんだろう。そういう歴史の流れを厭世的に、小ばかにしたような横目でながめて愚痴るつもりはないが、世界中がピアノを使って、いったい、俺たちゃ何をしているんだろうという気持にならなかったと言えばウソか見栄になると白状しよう。プロコフィエフの『トッカータ』の速弾き競争というような流行があったって、ぼくはだめだろうな、いや、「だろうな」じゃなく、だめだ。

*   *   *

 サンダルが好きで、公務でもなければ外出はサンダルだ。去年ほうぼうへ寺社めぐりをやったときも、サンダルでハイキングコースを歩いた。こんなのはハイキングにいちばん不適格な履き物なんですが、これで300メートルの山を登りましたよ。いつだったかの誕生日のプレゼントに似非ブランド品の、見たところカッコよさそうな黒いサンダルをもらったから、よろこんで履いていたら、足がずれてかすり傷から血がにじむ。新しい履き物の場合はそのつど足を痛めるのだからと、気にしないで、そのまま広島まで旅行したことがある。その黒いサンダルは、旅行から帰ってきて数ヵ月後に鼻緒が切れた。修理に出そうと思ったが、なんと、売り出して半年後にはカタログから落ちるそうで、カッコよさそうに見えても、似非ブランド品でした。せっかくのもらい物だからむげに捨てるのもなんだし、ビニール袋に入れてそのへんに放ったままにしてある。記念品。

[2007年11月8日(木)/続きは後日]

186.
「メリー・クリスマス!」

 11月に自分のコンサートでメシアンを弾いてみて、速度の設定の仕方が案外めんどうだった。速くもできるし、遅くもできる、というような曲の場合、ぼくはどちらかというと速くなりがちで、速くなることが自分のピアノ演奏の問題・欠点のように、自分では思っていた。ところが、先日シェーンベルクの『6つのピアノ小品』をミシェル・ベロフが弾いた映像を観たら、疾走というほどではないが、ねばってじっくり弾くのとは正反対で、さらっと、こねくりまわさずにやっちゃっている。ポリーニの同じ曲の演奏が重厚なのと較べて、軽薄なベロフ、なんていうとワルクチになってしまうが、重くない。軽薄といわずに軽快と言い直せば、あのテンポ感覚がわかってもらえるだろうか(ただし、ポリーニも、遅く弾くのは好きではないそうです)。

 速度の違いの実例をもうひとつ、プロコフィエフの第6ソナタの第3楽章は「非常に遅いワルツ」なのだが、この楽章の演奏でいちばん遅いのが(ぼくが聴いたかぎり)ジョルジ・シャンドールで、10分を超えている。ところが、プロコフィエフと親交があったスヴャトスラフ・リヒテルは5分ちょっとで弾いてしまう。この場合は、10分で弾いているほうは、聴く人が居眠りしそうな遅さで、シャンドールはわざわざそういうふうに企てたんだろうか。

 どれが正解か、なんて問題ではないだろう。ただ、弾く人はいちどは考える、興味深い問題なので、すでにいろんな討論が交わされていることがらですが、自分も書き付けておこうと思った次第です。速く弾くのは間違いで、遅く弾くほうがいいとかいうように簡単には片付かない。師走も残すところあと1週間、「師走」にこじつけて音楽の速度のお話になりました。ほんとうはクリスマスにちなんでなんか書こうと思っていたんですが、ふさわしい題材がなさそうで困ったから、別のことを書きました。まあ、いいじゃないか。

[2007年12月25日(火)/続きは後日]

187.

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