目次

江村夏樹が作曲や演奏で実践していること
(何を考えてやっているか)
そのXVII

江村夏樹


240.
「2012年になりました」

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくご鞭撻ください。

 上の写真が現在、下の写真は40年前です。このあたりは昔からあまり変わらないんです。おもしろいでしょう(くだらないよ)。

 本日は正月ボケのため、さっぱり文案が浮かびません。数日中に加筆します。

[2012年1月3日(火)/続きは後日]
 

241.
「男性的自我同一性について考えてみよう」

 「男性的自我同一性」、いちおう言葉の意味は「私が男であること」ということになります。ぼくは男性である。

 1月中旬に帰省する機会がありました。ぼくの故郷は新潟県長岡市という地方都市です。いまはさいたまに拠点を移したので、長岡市に自分の家はないけれど、親戚や友人たちがいるから、出かけると会って話すこともある。ぼくはピアノを弾き、作曲をやる人間で、故郷の人たちもその点は評価してくれているようですが、どういう音楽をやっているのかということまでは知らない場合が多い。CDも出ているし、YouTube のぼくのチャンネルで演奏風景が見られるから、江村夏樹という名前とメディアの種類が結び付けば、あー、この男はこんなことをやっているのかと、少し具体的にわかってもらえるようになっています。

 けれども、長岡市という場所は音楽会も演劇公演もごくたまにしか行われず、ライヴハウスもない。市内に映画館もないようですよ。音楽や演劇のファンは一定数いますが、おもな情報源はやっぱりテレビやラジオなんだろうな。テレビやラジオが全国に流す情報は、星の数ほどある音楽や演劇のごく一部です。そこに乗らない大多数の情報を、インターネットや雑誌などで探して見つけて楽しむ人となると、どれだけいるか、とても限られていることは確かです。日本の地方都市は、たぶんどこも似たような状況だと思いますが、長岡市には(ぼくの知る限り)音楽や演劇を盛りたてようとする動きそのものが少ないのではありませんか。詳しく調べたわけではないけれど、街にそういう気配がないようでした。(なにかこのたぐいの動きにかかわっている方の話が聞きたいです。伝統芸能とか、もっとほかの価値を推し進める動きについては、ここでは言及しません。)

 こういうところで音楽会を開いて集客しようと思ったら、ひとつの例ですがベートーヴェンの『運命』ならだれでも知っているからやりましょう、ということになる。ぼくの思春期の頃はおおむね、そうでした。年に1回か2回ぐらいオーケストラが地方巡業に来るけど、プログラムにはたいてい『運命』が入っている。こういう図式は今もあまり変わっていないと思います。

 だから、ぼくが新しい曲を書いて東京でコンサートをやっているんですと言葉で説明して、自己紹介にはなりますが、実際がどうなのかを伝えることはできない、という事情が出来する。最近は「YouTube を見てください」ということにしています。これで輪郭はお伝えできると思うからソースを提供するのであって、言葉で「音楽をやっています」と言っても、それだけでは説得力がない。というか、そもそも言葉で説明するようなものではないと言ったほうが当たっていましょう。もちろん、コミュニケーションというのは双方向のものだから、話をしているうちに、ぼくの雰囲気なり気配なりが相手に伝わるということがあり、なにかは伝わる様子で、それだけでありがたいです。でもやっぱり現場を見てもらいたいですよ、ね。

 故郷に現場を作ってパフォーマンスをやればいいじゃないか、という意見があると思います。ぼくは思うんですが、地方都市は地方都市なりに固有の文化を持っています。それを無視して勝手に自己主張したって駄目だ、ということじゃないかと思う。ぼくが取り扱っているピアノという楽器ひとつをとっても、土地柄を反映したコンディションのピアノというものがある。ピアノの性能だけではありません。詳しく書くととても長いので割愛しますが、そういう制約があり、その制約とどう馬を合わせていくかが問題なので、上から押さえつけ、表現内容を水で薄めたりして、ほかの価値をすぐに持ち込めるものでもないんじゃないでしょうか。

 『運命』っていう交響曲はベートーヴェンだけでなく、クラシック音楽全体の代名詞みたいになっており、ジャジャジャジャーン、と聴けば、あー、これが音楽というものかと、一応みんなが思う、記号のようなものになっています。だけど『運命』全曲、30分観賞しましょうということになると、こんな深刻で長くて大規模なものにどれだけの人がつきあうか、ということになると思います。それに、音楽は記号じゃない。「音楽って何ですか?」「例のジャジャジャジャーンだよ」でこと足れりというわけにはいかないです。

 これを要するに、音楽というものをひとくくりに説明できるような方便はないと申せましょう。ここのところが「男性的自我同一性」と似ているような気がする。男だから、女を落とせばしめたもの、と思う人もいるでしょう。きもちがいいし、征服欲や権力欲のしるしです。そういう欲が満たされれば満足、で済む方はそうしてください。ぼくだってきもちがいいですよ。個人の自由ですが、成熟した大人の考える「男性的自我同一性」がもっと込み入った複雑なものであるということは、聡明な女の人は知っていると思います(ぼくが成熟した大人かどうかは別の論議ですから、ここでは展開しませんよ)。ぼくが好きな福田恒存の言葉を借りれば、「性とは、もっと包括的なものです」ということになります。マルセル・デュシャンなら「性とは巨大なものです」と言うでしょう。

 音楽でも、男性的自我同一性でも、その「包括性」を問題にするべきだと思います。それは記号や符牒で表せるものではなさそうだし、世界を征服すれば大満足、わっはっは、なんて話でもない。「これでどうだ」的な単純な発想とは違うんだろうなと、思っているところです。

 下の写真は、新潟行きの上越新幹線に乗車中、越後湯沢のあたりの雪景色です。車窓から撮った写真で、窓ガラスに反対側の窓ガラスの枠が反射したりしていますが、とてもきれいな風景だったのでカメラに収めてきました。御一瞥ください。

 追記
 もとより、ぼくの経験は限られたものです。識者のご賢察を乞う次第です。

[2012年1月31日(火)/続きは後日]
 

242.
「部屋掃除の話と楽譜の掲載」

 もう春が来たはずなんだけど、連日の寒さに閉口してます。寝坊して困ってます。

 作曲をやりながら、部屋を整理していました。数年ほったらかしになっていた積読(「つんどく」は、こう書くらしいです)は、去年3月11日の大震災で崩れたままだった。あの地震でぼくは、部屋掃除なんか手がつかなくなって、やれるときにやればいいやみたいな捨て鉢な気分で、そのままにしておいたんですよ。かれこれ1年近く経過して、ようやく稼働し始めたということだろうか。

 整理しながら気がついたことだが、そんなに美的に片づけなくても、機能的で便利で、清潔であれば、ある程度の整理でいいということ。そう思って部屋を見渡すと、散らかっているように見えて、実はそうでもなかった。表面に紙屑が散乱していたのを分類して、用事のないものは捨てて、白い紙はまとめて束ね、床に落ちている CD-R や DVD-R を集めて、空のディスクを選り分けてひとつの箱に保管する。フィルム付きレンズで撮った27枚ひと束の紙焼き写真は、袋に現像した日付を書いてまとめておいた。これだけで何日かかかり、いまもまだぼちぼち続けているが、ほかにやることは、ほこりを払う程度で、ずいぶんわかりやすい部屋になった。

 ぼくはデスクトップ型のパソコンを持ったことがなくて、いまこれを書いている機械もノートブック型のパソコンですが、テレビにつないで大きな画面で YouTube だとか、写真のスライドショーなんかを楽しもうと思いつきました。3000円の投資で接続ケーブルを2本買ってきて、接続に成功しました。いろんなコンテンツをテレビの画面で楽しんでいる。ただ、2メートル離れたところからは、視力が弱いぼくは細かい字が読めないので、いまはパソコンの画面を見ながら書いています。近いうちに眼鏡を買い替えよう。

 楽譜を掲載したので、興味のある方は見てください。pdfファイル、以下載せた順にご紹介します。

 ・地鎮祭 (2006) ヴァイオリンとピアノ
 ・山口誓子の短歌による朗読法 (2008) 声とピアノ
 ・反閇の音楽 (1996) 8人のメロディオン奏者
 ・与作 (2000) アクト
 ・I Rub You (1994) フルート、クラリネット、ファゴット
 ・客間 (2001) ソプラノとアルトのサックス各1、バリトン・サックスホーン
 ・あしとて (1991) アクト
 ・樹の曲 (2000) コントラバス独奏
 ・ピアノ舞踏 (2002) ピアノ1台、6手連弾

 以上、究極の9曲(笑)です。自分の心づもりでは、自筆譜は紙に油性のペンで書いたものだから、傷む可能性がある、それでどこかにバックアップを取っておきたいということなんです。今後も掲載しますが、1時間もかかるような作品は楽譜もページ数が多いから、どうしようか考えているところです。

 今春の寒さはまだ続くらしいので、朝起きが苦手なぼくは困っているんですが、毎日元気で過ごしましょう。

[2012年2月26日(日)/続きは後日]
 

243.
「Radikaで受信するFM放送」

 つい最近、Radikaを導入して、パソコンでFM放送を聴いている。ぼくはテレビをほとんど見ない。うちの隣に7階建てマンションが建ってから、チューナーの受信状態が悪くなり、雑音が多くなって、FM放送ともしばらく疎遠だった。居間に置いてあるオーディオ装置より、モノラルの携帯ラジオのほうが雑音が少ないので、たまにそれで聴く程度だった。モノラルだから、せっかくのFM放送も映えない。そういう事情があって、AM放送を聴くことが多かった。

 いま、居間に置いてある(洒落ではないよ)チューナーは、2000年だったかに先輩の作曲家のお姉さんからもらったもので、男の子のぼくは単純で、お姉さんからもらったことが嬉しくて、NHK・FMの朝のバロック音楽の番組を毎日早起きして聴くのが楽しみだった。それが7階建てマンションのせいで、チューナーが不快な雑音を拾って聴きづらくなり、なんだかしらけて、FMのマイブームも徐々に下火になった。部屋のゴミ拾いをした話は以前書きました。部屋を整頓した結果、12年前にFM番組を録音したカセットテープがたくさん出てきた。傷みもなく、いまも聴けるので、これも1999年だったかに1万円で買ったCDラジカセでとっかえひっかえ聴いて喜んでいた。トレヴァー・ピノックと彼のアンサンブルが演奏したヨハン・フリードリッヒ・ファッシュの『組曲 ホ短調』がたいへん気に入ったので、CDを取り寄せた。ファッシュという作曲家にたどりつくのに12年かかっているわけだ。アマゾンで調べてみると、ファッシュの組曲や協奏曲だけ集めたCDは、現在でもこのピノック盤以外はないようで、その唯一のCDも現在、既に絶版で、中古のCDがはるばる九州から届いた。状態もいいし、ぼくが買える程度の値段でした。いつかどこかに書いたかもしれないが、ぼくはバロック音楽ファンで、古楽といわれているアンサンブルが大好きです。特に古い木管楽器の音色が楽しいな。

 まあそんなことだったから、FMがいい状態で聴けたらいいのにと思って、何年か前、室内アンテナをネット・オークションで、確か1000円ぐらいで手に入れ、部屋中をうろうろしてみたが、7階建てマンションのすぐ隣の自室では効果が現れず、ほったらかしておけば何とかなるだろうなどと、いい加減なことを思って放置したままだった。

 Radikaをパソコンに入れたらとても便利で、ちょっと痛快です。FM受信の大敵である例のホワイトノイズがまったくないし、録音もワンクリックでできる。はるか以前、カセットデッキでエアチェックしていたのと同じことがパソコン1台でできるようになった。放送局が筋のいい台本作家を起用して、すばらしいポルノドラマを作ってくれたら万々歳だろうが、そんな寛大な時代はいつになったら来ることやら。ぼくの好みを言うと、アクションやバイオレンス、SFは選択肢から外している。ひとが言うことには、ぼくの好みは少し変わっているそうですが、当人にその自覚はない。去年の大震災以来、ヒマなようでいてそうでもなく、映画館にはまだ行っていない。東日本大震災のショックで文章が書けなくなったという人を知っている。ぼくの文章の量が減ったのは、それとは違う理由で、自分の中の未分化な部分が大きく変化し始めたことに気づいているのですが、どういう変化なのか、うまく文章化できない、という理由によっています。地震などの外的要因がそのことに拍車をかけ、事態が複雑になったらしい。

 Radikaでさまざまな番組を聴いていますが、FM放送の利点は、CDと違ってコンサートの実況録音がたくさん聴けることです。ぼくの場合は主としてクラシック音楽だが、さまざまな「生」を録音して放送・提供してくれる。CDのスタジオ録音ではわからない生演奏の雰囲気がある程度わかる。コンサート会場に足を運ぶのは楽しみなことには違いないが、高くつきすぎて手に届かないようでは、ぼくのように都市の中心から離れた所に住んでいる人間には困ります。先だって、ピアニストのマウリツィオ・ポリーニが健康上の理由から来日公演を延期したが、彼が企てた現代音楽を主軸に据えたコンサートは、いちばん安い席でも12000円で、これでは庶民は困るのだ。評価はさまざまだろうが、できればこの名ピアニストの演奏を聴きたいし、ポリーニさんも、本来芸術は値段のないものだということを、かつて言っていた。そんなら、なんで安くしてくれないの。わたしなんか自分のコンサートの入場料を3000円以下に設定したって「高い」と言われかねませんよ。いくら名ピアニストでもC席12000円なんて言わないで、学生さんの財布の都合を考えてあげたらどうでしょうか。

 結びはRadikaに戻ろう。ぼくは、歩きながら音楽を聴くというような習性を持っていない。音楽を聴こうと思うと舗道に立ち止まり、歩こうと思うと音楽が聴こえなくなる、のじゃなかろうか。ムリに両立しようと思えば人や物に激突するかもしれない。それが美人との出会いだった、なんてハッピーエンディングならいいだろうけど、あぶないなあ。二束のわらじははけない。これでは、ちっともファッショナブルになれないね。iPodなんか持ってない。そもそも、自分の周囲を音楽だらけの環境にしたくないんです。のべつ音楽をがなりたてている人もいる。車の運転中に流行曲を聴くのは構わないけど、車外に轟く爆音、あれはいったい何だろう。そういうわけでぼくは自宅か、コンサートホール、ライヴハウスのような場所でしか音楽を聴かないし、自宅でもときどき聴く程度であった。だから、たまに好きで聴く音楽のための装置が、7階建てマンションのせいで不調になって、数年間ぶつくさ不平を言いながら我慢していました。そこへRadikaが登場した。これにより、音楽に接する時間が少し長くなったかな、センセーションですよ、というお話でした。

 追記
 上のところまで書いて、晩飯のメンチカツにかぶりつき、NHK・FMのニュースを聴いていたんですが、後半のほうで男のアナウンサーが「このほかのニュースを短くまとめてお伝えします」と言った。このとき、ぼくの頭の中で「このほかのニュースを長く引き伸ばしてお伝えします」というセンテンスがよぎったのは、ぼくが変人だからではない。このくらい、誰でも考えるでしょう。それから、そのいくつかの短いニュースの中に、今年に入ってから心臓バイパス手術を受けられ、術後の経過が順調な天皇陛下が、皇居の中にある苗代にうるち米と餅米の種もみそれぞれ150粒ほどを「ていねいに蒔かれた」という、嬉しい話題があった。ご軽快をお喜び申し上げます。と喜んだあとで、うるち米と餅米の種もみそれぞれ150粒ほどを、苗代ではなくそこらのドブかどこかに「いい加減にばら撒いた」人っているんだろうか、そういう人は晩飯時のニュースには登場しないのか、などとまるで無用のことを考えてひとりで笑いました。こういうのも、FM放送を聴く楽しみのひとつである。

[2012年4月28日(土)/続きは後日]
 

244.
「あと片づけ」

 例年、7月にコンサートをやって、終わると8月、花火のシーズン、というリズムだったんですが、今年は6月18日にコンサートだったから、次の月は7月で、1ヶ月得をしたような気分に浸っております。

 プログラムの後半ににぎやかな曲をいくつか置いたけれど、いったいに地味な選曲だった。観客席からどういう反応が返ってくるか、開演前は読めなかったが、演奏を始めてみると、どの曲も温かい拍手で迎えていただいた。主催者としてはとても恵まれた環境で音楽会を進めることができ、すごくうれしかった。御礼申し上げます。

 「すべての時間は相対的である」という言葉が、コンサートが終わってから1週間ほど、脳裏にこびりついていた。コンサートは複数の人たちが集まる場だが、ひとつの「絶対的な時間」にみんなが足並みをそろえなければならないという法律はない。うまく書けませんが、本来、人が集まる空間は、複数の時間が共存し、干渉しあっているはずだろう。一般に音楽の演奏で「集中」や「緊張」は必要なものだと言われている。そうには違いないが、これも程度の問題だな、と思った。「集中」や「緊張」が、ひとつの中心に向かって収斂・凝縮していくばかりでもないような気がする。中心はひとつだけではないのではないか。観客席に座っている全員が、舞台上の催しに向かって非常に集中し、演奏者も自分の行為に集中し、満場一致でひとつの「点」に注意が向けられている状況は、度が過ぎるとみなさんが疲れるということを思いました。これは今後、場数を踏みながら考えたい問題です。

 などと書くと、話題はたいへん真面目で近寄りにくいようですが、別にそんなこともないですよ。ヨーロッパのクラシック音楽や、一般に芸術といわれている営みの場を真面目に考えることは、青汁のような栄養食を毎日、まずいけど体にいいという理由で、我慢して、薬のように摂取する光景と似たようなものですよ。真面目に努力してばかりでは肩が凝るし、楽しく芸術がやりたいから「アート」なんて言って誤魔化してるけど、思いっきりふざけ散らす力というものもある。精神主義はやめましょう。偉くなるために勉強するのはやめましょう。お金を儲けてものを持ち、なに不自由ない生活をするのはやめましょう。そんなメッセージが浮かんでくる。

 コンサートを務めた翌々日ぐらいに、色っぽいねえちゃんと付き合いたいと戯れに友達にメールしたら、「きれいなおねえちゃん?遊んでらっしゃい(笑)」と返信がきましたので、何日か前、近所のおねえちゃんとしゃべっていました。そのとき得た情報によれば、ひもパンというものは、結んだ紐が腰骨に擦れてひりひりするから、最近は人気がなく、バーゲンで売っていても買う人は少ないのだそうです。女人にしかわからないある種の教養が感じられ、興味深い話題でした。しかし、だからひもパンではなくTバックなのだという論説は、あれは食い込むという話を聞いたことがあり、どうも説得力がいまひとつなかったのが残念でした。ついでに質問があります。「ぱんつ」と平仮名で書く習慣が定着しているようですが、いつから誰がこういう表記を始めたのでしょうか。

 だいぶ前、現代音楽の演奏家のコンクールで、みんながこぞってクセナキスの室内楽を採りあげた時期があった。超絶技巧で騒げば華々しく、入賞する確率が高いというのがその理由だが、ぼくは聴衆は馬鹿ではないことを信じたいし、面白いということは、もっと別の種類のことだと思います。 だからこそ、芸術に必要だといわれる「集中」や「緊張」について、落ち着いて考えたいと思います。

 原因と結果を短絡するような話し方・書き方は、いまぼくが考えている内容に沿いません。無駄話も含めて、脱線が多いと思いますが、折に触れ、感じるところをこちらに掲載したいと思います。

 そういう次第で、この写真も本文とは全く関係がありません。電車の中から撮りました。面白いから載せておきます。

[2012年6月30日(土)/続きは後日]
 

245.
「オーディオ的耳についての哲学的論考」

 音楽にはいいものもあるし、悪いものもありますよ。ひとくちに言ってしまえばそれだけのことだが、生演奏とレコーディングを比較するという観点から、少し踏み込んで論じてみよう。話の性質上、かなり理屈っぽくなりますが、この際、やむを得ない。

 生のコンサートと、CDショップで買うレコーディングとでは、聴く人にとっても演奏家にとっても、音楽の体験の仕方が全然違う。コンサート会場で体感できる熱気、雰囲気、空間性、距離と言ったものを、スタジオ収録のCDの制作では人工的に作って出しているわけだから、成り立ちが違う。ぼくは生演奏のほうが好きだが、安くはない入場料のことはしばらく措くとしても、自分の作業を優先しなければならない場合が多く、そうひんぱんにコンサートやライヴに出かけられないという不自由が大きい。しかし、出かけられないからと言って自宅に籠り、自宅のオーディオ装置に釘づけになっているわけでもない。どうやらぼくは、オーディオの人工的な響きになじめないらしい。電気仕掛けで作った音というのは言い過ぎかもしれませんが、CDやDVDの物理はそういうものだ。特にクラシック音楽を聴く場合など、こんな音響が生演奏にあるわけがないじゃないかという作為や不自然さが気になって、面白いと思えないことが多い。テクノのような、電子楽器をスタジオで録音して作るレコーディングのほうが楽しめる。クラシック音楽だったら、生演奏の音源を収めたCDのほうがいい。クラシック音楽のライヴ録音というのはミスがあったり、スタジオ収録の場合と違って、良くも悪くもメリハリがきいていなかったりするものですが、観客席のノイズや拍手が入っているとうれしい。

 生演奏は不完全なもので、スタジオ収録の場合ならほどよく計算できるタイミングや音の表情といった要素がアンバランスな場合が多い。ひとつも音を間違えない演奏もめったにない。スタジオ収録は、聴き手から遮断された場所で音づくりを行うわけですが、生演奏の場合は、音を作っている現場を公開しており、演奏家が気を入れてやっているか、そうでないか、というようなことが、見ればすぐにわかる。観客席とのコミュニケーションは別の問題ですよ。これは大きな問題なので、ここではその方向の論議には立ち入らない。要するに観客は、普通の場合は演奏しないで、聴いて楽しむ専門であるということにしておきますが、舞台と客席とのコミュニケーションのありようをしゃべりだすと、いろんな話題が出てくるものなんです。

 生演奏特有のアラみたいなものをおもしろがれるかどうか。この「アラみたいなもの」は、録音すると大部分、霧消してしまう。だからCD制作の 現場では、生演奏の録音をわざわざ電気的に汚して収録するという特殊な技術がある。ちょっと興味をそそることだが、精度の粗い録音機材で録った音のほうが、高級機材で録った音よりも現実感があるように聴こえる場合がある。録音物として面白い、ということだが、その録音機器の精度が低くて、各楽器の音量のバランスがいい加減だったり、演奏以外の雑音がいっぱい入っていたりする録音が、もとの生演奏の良さをどの程度伝えているかというのは、たいへん紛らわしい問題だ。もとの生演奏がいい演奏でなければ、それを録音したっていい録音になるわけがないじゃないかと、簡単に言えない。演奏じたいは特に言うほどでなくても、「録音の悪さがおもしろすぎる」という場合だってある。こういうのを喜ぶのは変わった好みだと言ったら、好奇心が強い、物好きなオーディオファンの方には悪いけれど、事実なのでしょうがありません。ぼくにだってこの傾向がないわけではない。ゲテモノを喜ぶ心理で、だから事実なのはしょうがないと言っているんです。一般的な基準で考えたら絶対に駄目な録音が、ときどきCDショップに置いてあるのは、それがスヴャトスラフ・リヒテルやヴラディーミル・ホロヴィッツの歴史的録音で、演奏の質は保証するから録音状態の難は勘弁してくださいということでは、必ずしもないと思うんだ。ただ、どうしようもない演奏は、録音してもやはりどうしようもないものだということも確かだから、逆の場合、つまりさっき書いたように、どう聴いても変な録音だが、優れた演奏の特徴が確かに聴き取れる、という場合はあるようだ。このふるいにかけて合格、という判断の産物は最近、増加していると思う。「レアもの」なんて呼ばれることもある。

 あたりまえのことを言うようだが、人間の興味や関心は、録音メディアにおさめられた音楽作品とその演奏に向けられているのが普通で、そっちはどうでもいいから自分は付随する雑音が聴きたい、という人はあまりいないだろう。というか、外界の刺激に対する生理的な快・不快の感覚は、程度に個人差はあっても、おおもとのところで一致する。そういう自然な判断の物差しが人間には備わっているはずだから、CDなどに入っている音楽を聴いていて雑音があったら、耳がその雑音を聴き分けて、本編の楽音と区別する。まあそうでしょう。ただ、このあと話がどう続くかというと、ぼくたちの日常には音楽よりも雑音のほうが多いし、多くの場合、住民は雑音と同居しております。音楽を聴くためには、一般に、不快な雑音を少なくして、あらかじめ音楽の鑑賞にふさわしい場を用意する必要がある。音楽の現場では一般に雑音が少ないというだけで、雑音がないわけではない。雑音はあるが、音楽の聴取の邪魔にならないように、少なく調節しているだけなのだ。楽音も雑音も存在します。だからこそ、前述のぼくのようなゲテモノ趣味や、音楽じゃなくてノイズに興味を持つ変わった発想が出て来る余地・可能性があるんだと思う。逆に、雑音なんか消してしまい、演奏じたいもMIDIなどの電気的な手段をあれこれ駆使して「楽音だけを取り扱う手段に訴える」というマニアックな姿勢に傾く場合もある。こういう特殊なことを意識的に企てる場合は別として、そうでない限り、このふたつの傾向は、方向は正反対だが、不自然な傾向だというところが共通している。ノイズばかり好んで聴くのも、楽音ばかりに陶酔するのも、この点に関しては変わりがないのではなかろうか。

 こんな話ばかりしていてもきりがないが、「音」というものからアラとかヨゴレとかいう要素を人為的に取り去っていくと、まことにつまらない音が残るというのは確からしい。美は醜を内包しているというか、ともかく、耳に都合のよい「美」だけ、ということは、仮にそういうものがあったとしてもたいしておもしろくなさそうだという哲学的な(?)考察で、この拙稿を締めくくることにします。

 生憎、スキャナーが不具合で、自分が撮った写真が掲載できません。上の蓄音器の写真は株式会社アップライトラーニングという企業のサイトに載っているものをお借りしました。金沢蓄音器館にこういう蓄音器があるそうです。

[2012年7月11日(水)/続きは後日]

246.
「音楽の機能について考える糸口として」

 ぼくが1996年に、KORGのMS-20というアナログ・モノフォニック・シンセサイザーを使って作った、『モノクロマティック』という、10曲からなる録音作品がある。これはすでにどこかに書いたかな。もうちょっと詳しく続けてみよう。当時、これらの多重録音で何をやりたかったか、思い返していた。『モノクロマティック』は、自宅録音でよく使われていたカセットテープ式の4チャンネル多重録音機を使って制作した。4チャンネルだけど、ピンポン録音で10回ぐらい音を重ねた曲もある。14チャンネルあれば、技術的には、YMOの『BGM』(知らない人も多いと思うけど、かれこれ30年前に制作されたテクノのアルバムの題名です)ぐらいの作品を作るのに充分です。『BGM』の場合は、意識的に音を少なくして、薄いサウンドを作ったらしい。

 いわゆる宅録(自宅録音)を楽しんでおられる方々から見れば、ぼくがそろえた機材はごく簡単です。シンセサイザーはこのMS-20が1台、エフェクターはRolandのアナログエコー1台のみ、録音機とミキサーは前述の4チャンネルMTR(Multi Track Recorder の略)、マスタリングには、当時将来を嘱望されていたDATを使いました。これだけだった。

 ぼくの宅録のキャリアが、このMS-20を98000円で購入した高校1年生のときから始まることは、以前書いた。ただ、自宅録音用の安価な多重録音機、カセットMTRの登場が1984年、ぼくが大学に入った年で、TASCAMの新製品が、やはり90000円ほどだった。自宅録音なりにまとまった録音ができるようになったのはそれ以降のことだし、ノイズのないマスタリングは、カセットテープでは不可能で、オープンリールは高価すぎ、道具としてもかさばり過ぎていた。1990年代に入ってDATが普及して、やっとノイズから解放されるようになる。環境が整うまで10年ほどの時間が流れているわけです。MTRの登場までは、2台のカセットデッキを使ったピンポン録音をやっていました。

 ぼくがやっていた多重録音は、楽譜がなくて、そのときの思いつきを多重録音で重ねていくというものだった。まあ出鱈目に近いことなんだけれど、それでも音楽らしいもの、曲らしいものができた。結果を聴いて面白かったら、喜んでいたわけですよ。計画性からは程遠いシロモノだが、いま思うと、機能和声と正反対の、「偶成和音」とでも言えばいいような音の重なりを実験的に作ってみることができたのは、ぼくの音感を育てるのにとても役に立ったのではないかと思います。

 即興を楽譜で書き表せないように、ぼくの多重録音の結果も楽譜に起こせない。あらかじめ計画的に演奏したのでは実現しない演奏が録音媒体に残るわけです。思春期のぼくは、それを聴いて自画自賛していました。同級に同じことをやっている友達がふたりいて、時折集まって、お互いの多重録音を聴き較べたり、3人で共同制作をやったりした。研究会っていうほど立派じゃなくて、もっぱら遊びでしたね。

 こういう成果を機能という観点から見れば、全然なっていないということになるんですが、この際、その「機能」ということが問題なんだ。もちろん、音楽を機能的に構築することを少しでも勉強することは必要で、フーガの1曲ぐらい書ける能力があったほうがいいんだけれど、その勉強して身につけた機能について正直に考えを延長していくと、ほかでもない、その機能自体を批評することになり、結果として機能を否定することも起ってくる。これはいまさらぼくがこんなところに書かなくても、20世紀の音楽作品に、この機能が崩壊した作例はいくらでもあることはご存知でしょう。

 だから、すでに19世紀ではショパンのような人が、20世紀に入ってからは、近いところで武満徹のような人が「耳」ということを言っている。耳が許さない音は書くな。弾くな。というわけで、機能性とは別の着眼は、この2人に限らずいろんな人が試みている。音感は個人差があって、やっぱり耳のいい人もいれば、悪い人もいますよ。それはしょうがない。それを平らにならして大勢の人が一斉に共感できる基準なんか、そもそも作れません。話がそういう方向に向かうと、音楽の世界は全体主義的な傾向を帯びてきます。(ついでだから書いておこう。世界に向けて第六感も含む人間の全感覚を使った共同作曲をしますという、どうとでも取れる宣言を書いた日本の作曲家がいる。はっきり言いましょう。あの程度の文章力しかない作曲家がいるなんて、国外にばれたら笑われますぜ。事柄が音楽だから、いいかげんな文章でも通るというのは、音楽バカの発想ですよ。)

 シンセサイザーで多重録音をやって、カッコいい曲らしくしようと思っても、うまくいかなかったんですが、出来上がった一連の“変なもの”は、作っているときも面白かったし、結果を聴いても面白かった。欠点やアラなんかどうだってよかったんです。ぼくはアカデミックな教育の枠の中で、そういう面白さを過小評価するようになったのではなかったかと、最近思うんです。

 それは出鱈目に近かったかも知れないが、大勢の人が集まって、拍子とか音色とかごく大まかな枠を決め、あとはめいめいが好きに演奏する、という実験を実際にやれなかったので、シンセサイザーの多重録音で試そうという方向ははっきりしていた。機能性が希薄だから、曲調の変化、転調なんてものはないけれど、時間軸に沿って、ルーズな変化はありました。

 音楽は、機能的にできているかどうかという物差しで評価することもできるが、そうじゃない評価の仕方もあるだろうし、機能的でない要素を多分に含んだ音楽の成り立ちもある。幼稚な遊び、だけで話は終わらないだろうと思うから、しばらくこのことを考えたい。同じようなことを、今度は楽譜に書いてみたい。

 宅録マニアだった「あの頃」へのノスタルジーを書くつもりはないので、このへんで切りあげましょう。 

 最近写真を撮ってなくて、これは5月の拙宅近所です。まだまだしつこく続く残暑ですが、また写真、撮ろうかな。

[2012年8月30日(木)/続きは後日]

247.
「五線紙が曲がった話」

 ぼくはあたらしく作曲するとき、わざわざ楽譜屋でマルティーノの五線紙を買ったりしない。うちにある、20段なら20段の五線紙を、近所のセブンイレブンのコピー機で増刷したものを使っている。安いからではない。いつだったか先輩作曲家A氏のうちに遊びに行ったとき、アップライトピアノの上に過去何十年かの作品が積んであり、それらの楽譜の大半は、コピーで増やした五線紙に書いてあった。これを真似したのです。一般のコピー用紙が何年持つかは知らないが、ぼくがコピーで増刷した五線紙に書いた楽譜のうち、古いものはすでに20年以上経過しており、まだ傷みもなく、インクの色あせやにじみもない。今後、スキャナーで読み取ってPDFファイルにしておこうと思う。実物が傷んでも筆跡がわかるし、それに、曲が残ってればいいわけです。まあ、自分が生きているあいだ保存ができれば、だいたい用事は足りるだろう。

 妙なことに気がついたのはわりあい最近だ。版下に使っている五線紙も、やはりコピーしたものなのだが、五線のいちばん上の段が、ごくわずか弓なりに反って、左端が右端より1ミリぐらいうわずっているんです。このうわずりは紙の下のほうでは徐々に直っているが、紙の上のほうでは、ちょっと見ただけではわからないが、よく見ると、五線が左端から右端へ斜めに傾斜しているんです。この、「ちょっと見ただけではわからない」というところが曲者で、いままで、自分の楽譜を多くの演奏家に渡したが、五線が反っているから見づらいとか不都合だとかいうクレームは聞いたことがなく、実用上は全く問題がない。

 実用上は問題がないが、これをスキャンしてパソコンのディスプレイで見ると、この弓なりの傾斜がけっこう目立つんだ。気になる。困ったなあ。










 今日、近所のお屋敷が塗装工事中で、面白い眺めなので撮ってきました。












 それでその五線紙だが、いったい、いつから弓なりになったのか、過去の楽譜を調べてみた。すると、去年の夏までは曲がっていない。去年の冬から、この弓なり現象が現れるのだが、問題は、なんで弓なりに反ったかということだ。ふつうに考えて、市販の五線紙の五線が曲がっているということはないだろう。だから、これをコピーした版下の五線紙の五線も曲がっていないと、ふつう思うだろうし、本来そうあるのが筋だろう。ところが、このコピー機の精度が悪くて、もとの原稿を忠実に複写してくれない可能性があるらしい。だって、そもそも紙の上に水平に描かれた五線が、なにもしていないのに弓なりに歪曲するわけがないじゃないか。なんか原因があったから曲がったのであって、その原因を探して特定すると、どこのコンビニにも置いてあるコピー機の精度、ということに極まりそうなのだ。

 だが、その不正確なコンビニのコピー機に腹が立つわけではない。いま、この稿を書きながら、しきりに「そんな、ちょっと曲がっていたっていいじゃありませんか」という声がアタマの中で聞こえている。確かに、曲がっていたっていい。言われなければ気付かない程度の湾曲は、実用上、別に問題はない。実用上問題がなければ、とやかく言う筋はない。とやかく言う筋のない事柄を、ぼくはどうしてこんなところでわざわざ報告しているのだろうか。実を言うと、この話題は文章にしたらちょっとおもしろいナと思ったんです。なんだか皆さんに報告したいと思ったんです。

 ぼくは軽い乱視で、いまこれを書いているパソコンのディスプレイも、見る角度によっては、画面の左側がちょっと反って見える。眼鏡を買い替えたほうがいいのかな。だが今は、ぼくの眼鏡の話ではない。人間の感覚器がとらえる情報には、幾何学的な精密さのほかに、もっと微妙で、大事なものがあるようだ。だから五線紙が弓なりでいいということにはなりませんが、少しぐらいはかまわないのではないか。

 以上を要するに、実用上、問題にならない程度の五線紙の湾曲は、考慮する必要はないようだ。現に先輩作曲家B氏の自筆譜などを見ると、五線の1段目は左に傾斜し、次の段は逆に右に傾いて、まるでデパートのエスカレーターみたいであった。それに、ぼくの曲を演奏してくれたC嬢に「五線が曲がっているということは、ぼくの態度が曲がっているということの反映ではないか」と訊いてみたところ、一笑に付されました。誰もそんなことは気にしていないじゃないか。そういうわけで、別にこだわることもないようなものだが、ぼくは今後少し気をつけて、いつの間にか弓なりに反ってしまった五線紙を、ほぼ直線の五線紙に変えたほうがいいんじゃないかと思っているところです。

 たいして内容のない文章になりましたが、掲載することにします。

[2012年9月29日(木)/続きは後日]

248.
 「正面を向いて取り組もう…」

 どうも、日本語が優秀で困る。歩道を通行中、放恣な連想にまかせて、おもしろいことを考えてにやにやひとり笑いしている。最近、しきりに脳裏をよぎるのは、「正面を向いて」という言葉です。たたかいのときや入学試験のとき、「正面を向いて取り組もう」なんて、神社に行って願をかける人は多いと思います。戦いに打ち勝たなければいけない、入試に受からなければいけない、その覚悟はよくわかります。だが歩道を通行中のぼくはそういう差し迫った必要がなく、ぶらぶら、ぶらぶら、街並みを眺めながらほっつき歩いているに過ぎず、いきおい、無用のことがアタマに浮かび、くすくす笑うのです。

 どうしたわけか、この「正面を向いて取り組もう」が頭に浮かぶと、つい「小便を拭いて汲み取ろう」といいたくなる。こんなことを口にして、「あほか、おまえ」と突っ込みを食らう程度ならまだいいが、下品極まりないなどと酷評された揚句、世間のさらしものにされたりなんかしたらやだなあ。ぼくの判断では、このくらいのアナグラム(アナグラムじゃありませんよ)はコミュニケーションの潤滑油にちょうどいいんじゃないかと思いますが、会場の皆さま(どこでしゃべってるんだい)、いかがでしょうか。

 歩道を通行中、ふと、「小便を拭いて汲み取ろう」というスローガン(…?)が頭をよぎる。周りのだれも、こんな危険思想(危険でも何でもないッ)を抱いている俳優が通行中(どんなドラマのロケだよー)とは、思いもしない。それをいいことに、優秀な語学の放恣な連想でひとりにやけているのも、オツなもんなんですよ。こういうおもしろい連想は、通常、おやじギャグと呼ばれ、思わず口に出したりなんかしたら女学生から必ず嫌われることになってるから、口に出さないことにしている。けれども、ただ連想しっぱなしでアタマの中にこんな瓦礫が増えるばっかしでは、置き場に困るから、アタマが散らからないように、バカッ話につきあってくれる友の存在が不可欠だ。こういうのを朋友というようで、世の中には奇特な人も複数いるのである。朋友は西友に多いらしいよ。

 無用のことを連想しながら、街をぶらぶら散策していると言っても、パンツはちゃんとはいているから、アレがぶらぶらしてて公衆道徳を乱すようなことはない。乱さないがはみ出しているということもないから、おまわりに長芋でぽこっと一発アタマを叩かれる心配もなく、私たちは安心して、このような言語の自由を行使することができます。「小便を拭いて汲み取ろう」というスローガンに、国民は蜂起し(どこの国だ)、ホウキで路上をせっせと掃き、実力をはっきり発揮し、ぱんつを履きながら、おれたちを奮い立たせる交通標語は「小便を拭いて立ち上がろう」に違いないなどと、血気盛んな若者たちは、景気を回復すべくケーキを食べながらアレが、必殺仕置き人が必殺しごき人に、お父さんはなんとか落とさんと(もうやめましょう、もうやめましょうね。)

[2012年10月19日(金)/続きは後日]

249.
「音楽は日常の一部であるということについて」

 「日常とぼくの音楽の交点」、音楽にこだわらずに「交点」を言うと、例えば趣味の写真というのは、ぼくが、自分の属する日常のある時点で、ある地点に立って、そこから見えるものを記録する。だから、それはぼくが、あるとき、日常のどこにいるか、という「交点」を表している。下の写真は今年の11月10日に撮影したもので、時間は正午過ぎ、この日は素晴らしい秋晴れで、ぼくはセブンイレブンでカレー弁当を買って、この公園のベンチに座って昼ご飯をいただきました。そういうことはこの写真には写ってないけど、まあ、見る人には関係のないことですよね(笑)

*    *    *
  

 コンサートで音楽の演奏をするというとき、多くの演奏家が「緊張」ということを大事にする。ジャズ・サックスの坂田明さんなどもそのひとりで、「緊張しなきゃ音楽になりませんよ」と言っていました。確かにそうだと思います。坂田さんが言っていることは、これ以上説明を付け加える必要がない、的確な実践論にもなっている。と同意して、次に進みます。

 ぼくはよく考えるんですが、コンサートで演奏中、その「緊張」あるいは「緊迫感」というものをぶち壊しにする外的要因が割り込んでくる可能性が、いくらでもあるわけですよ。たまたまコンサート会場にコメディアンの加藤茶さんが来ていて、例の調子でバカでかいくしゃみをしたら、ロマンティックなショパンの夜想曲より、加藤さんのくしゃみのほうが面白いじゃないか。そういうことをぼくがひんぱんに考えていると言ったら、宇野千代さんではないが「呆れてものが言へない、と言はれるかな」。

 一般に芸術音楽のコンサートが堅苦しいと言われるのは、そういう、加藤茶さんのバカでかいくしゃみのような、荒唐無稽な出来事を受けつけないで、のっけから断って成り立っているという雰囲気があるからだと思います。コンサートの主催者も観客も、ひょっとするとステージ上の演奏家も、加藤茶さんにくしゃみをされたら、コンサートがぶち壊しになってしまうと思っている。笑う場所はここじゃない、ほかにある、そっちに行ってくれ、ということだろうと思う。公の場では公衆マナーを守りましょうというのは、一応正論ですが、行き過ぎも考えものじゃなかろうか。その行き過ぎの、必然の結果として、クラシックや現代音楽のコンサートは、くそまじめなものになり、面白くありません。その堅苦しさとか、ある場合は退屈さが敬遠されるから、「芸術」と言わずに「アート」と言い換えて誤魔化す音楽家も出てくるんだと思う。「芸術」と言おうが「アート」と言おうが、やってることは同じなんだから、名前はどっちでもいいじゃないか。だから、「芸術」は難しくて近寄りにくいけど「アート」は難しくなくて近寄りやすいですなどと広告し、「アート」と称して、くだらない悪ふざけをするのはやめてください。

 あたりまえのことを言うようですが、人間の感情や感覚との関係が切れてしまった造形は、もう、芸術ではないよ。切れていないから、鑑賞者の感覚や感性が反応するわけでしょう。演奏家の自己陶酔やうぬぼれが有害無益だということは、亡くなったグスタフ・レオンハルトも言っていました。芸術が日常や現実の模倣という側面を持ち、ある種のウソを含む場合があるのも事実です。だからこそ、創作には確実な審美眼と技術が必要なのであって、芸術は現実そのものでもなければ、嘘八百を並べ立てたナンセンスでもない。ヒトには想像力があるから、この想像の領域をいろいろに使って、笑うこともできるし、泣くこともできるんです。くそまじめなコンサートの会場では禁じられている、荒唐無稽な想像だってできます。芸術はこの想像の世界でいろいろに応用される素材であり、道具だと思う。知人の筝奏者が師匠に演奏を聴いてもらったら、「真面目すぎて息が詰まる」と言われたことがあるそうです。これなんかは、音楽の場で行われるコミュニケーションに必要なものは何かを教えてくれる一例だと思います。

 こないだ、朝のテレビで、日本の弦楽四重奏団がベートーヴェンの弦楽四重奏曲を弾いているコンサートを見ました。実況録画です。どこへ演奏しに行っても、必ずベートーヴェンをプログラムに入れるとうたっているだけあって、プロの演奏には違いなかった。しかし、ぼくがまずいと思ったのは、4人の団員の顔の表情が、みなさん凍りついて、にこりともしない。ぼくが面識のある人も混じっていますが、ふだんは気さくでラクな感じの人ですよ。それが、コンサートでベートーヴェンをやるときは、蝋人形か何かのように硬直した顔つきになってしまっている。見ていて、困りました。

 だからといって、現代の作曲家がお笑いの要素をふんだんに取り入れた新曲を提供すれば、演奏家が笑ってやってくれるというもんでもないだろうと思う。こう言ったら演奏家に失礼だけれど、ベートーヴェンの有名曲であれ、現代の作曲家の新曲であれ、演奏家の態度が変わらなければ、問題は同じことですよ。どちらの場合も、硬直した顔と同じくらい硬直した態度で曲に挑んで、練習してるんじゃないのかなあ。

 この稿を書きながら、しきりに「させられ体験」という言葉がアタマに浮かんできます。ベートーヴェンを公開する、この弦楽四重奏団の人たちは、自発的に演奏しているのではなく、ベートーヴェンに演奏させられているのではないか。そこのところが、現代の作曲家の新作の場合も変わらないのではないか。そこには、演奏家独自の想像力や感覚や感情が働いていません。むしろそれを排除する方向で、ただ単に硬直しているだけみたいな造形を、気づかないうちに企てているのではないか。レオンハルトが「作品に仕える」と言っているのは、「させられ体験」のことではないはずだ。

 ぼくもピアノを弾くから少しわかりますが、演奏家がクラシックの名曲と言われるものを取り扱うとき、自発的に感情を働かせ、演奏に反映させるということは、簡単な作業とは言えない。まず、その曲を演奏家がどう思うかは少し引っ込めて、ある部分は楽譜につきあわなければならない。これは楽しい作業ではないこともあります。でも、そもそもその曲を弾いてみたいから練習するわけで、演奏家自身の感覚や感情の自発的な行動が、ぜひ必要と言うよりも、本来は自然に、その曲に対する興味や共感、なんらかの能動的な感覚が発動するもんじゃないかと思うんですよ。だから演奏家は音楽作品と対話をすることができ、その結果、演奏が精彩を帯びて面白くなるのではないかと思う。もちろん、聴き手には、この演奏家が作品とどういう対話をしているか、その内容までは見えませんが、演奏家が、少なくとも作品に無関心ではなく、関心を持って、協力的であるということは、かなりはっきりわかると思います。だから、繰り返しになりますが、この対話が欠けた音楽の演奏は、芸術ではない。単なる音響現象であって、聴き手に伝わる要素を演奏家が担っていない。だから聴き手も感動しない。加藤茶さんに来てもらいたい。そういうことになっていなければいいんだけど。

 「緊張」の話に戻りましょうか。つまり、演奏家がいま演奏している作品と対話を行っていないとき、彼らの気持、少しムツカシク言えば精神は緊張しているのではなく、硬直しているだけではないか。「緊張」というのは、演奏家が自分の感覚や感情を発動して、現在向き合っている音楽作品と対話をしているときの、引き締まった気持のことです。これはクラシック音楽ばかりではなく、すべての音楽に言えることではないかと思う。そして、そういう対話のある場では、時として荒唐無稽、抱腹絶倒な音楽表現が為されることもある、ということなんじゃないかと思います。

 この稿では、日常の中での音楽の位置づけについて書くつもりでしたが、ここまでですでに長くなりました。ぼくは、音楽であれ美術であれ、根底にユーモアのない表現や表現行為は好きではありません。ひとりのパフォーマーとして、ぼくはこの条件を充たしているかどうか。前に書いた弦楽四重奏団の4人の場合はどうか。日常と音楽との関係を考える材料になりそうだ。まあそのあたりのことが書きたかったんです。言いたいことが、いくらかでも伝わったでしょうか。

[2012年11月30日(金)/続きは後日]

250.
「選民の芸術っていうやつ」

 つまりそういうものが嫌われるから、「芸術」という言葉じゃなくて「アート」という言葉を使い、アーティストは大衆受けを狙って、面白おかしくおどけてみたり、聴き手と一緒に風呂に入ってみたりするんだろう。そういう、見たところ「庶民的な」身振りを買いあげることが文化の浸透に寄与するというような、大向こうの阿諛追従がそこかしこに見え隠れしている。社会的に偉い人が面白おかしくおどけたら、周りからなめられますからね、自分は見物人になって、存分におどけてくれるトリックスターが必要だ、ということですか。

 亡くなった作曲家の林光さんは、オペラシアター「こんにゃく座」の座付作曲家で、「こんにゃく座」は日本国内の小中学校に乞われて、体育館などで公演することがあった。林さんの著作に書いてあったことですが、開演前に音楽担当の教官か、教務主任か、とにかく学校側の責任者が、生徒に向かって「お前たちが騒がしいと、先生方はお怒りになって、お帰りになる!」というような説教を垂れることがたまにあったそうです。林さんはそれを皮肉な目で見ていたようだ。芸術に対する社会の側からの締め付けや固定観念は、いまに始まったことではないという、いい例である。こういう空気は現在もあまり変わっていないと思う。

 他方で、芸術家みずから「選民」たることを望んでいる場合もある。日本の著名な女性ピアニストが、どこだったかの高等学校に乞われて、体育館のピアノでショパンのワルツを弾いていた。集まった生徒たちはクラシック音楽に関心がないようで、行儀悪くざわついていた。すると、ショパンのワルツを弾いていたこの高名な女性ピアニストは「お怒りになって」、演奏を中断してお帰りになったそうな。生徒のマナーもよくなかったんだろうけど、ピアニストがなにも「お怒りになって」「お帰りになる」ことはないよ、という感じがしませんか。別にショパンのワルツを型どおり弾かなくていいから、生徒とコミュニケーションをとる方法を考えることもできたんじゃないか。

 ぼくが、自分で自分を見てみると、その選民意識というのは、ピアノが弾けます、作曲ができますということを自慢したい、という気持の表れだと思う。「見てもらいたい」。これが高じていい気になると、「見せてやる」みたいな、でかい態度に変貌することがある。本人にはその自覚がない場合が多い。

 ぼくは、演奏家や作曲家は、どうして聴き手の前に出て、わざわざ聴き手より一段高いところに上がって自分の創作を披露するのか、いつもわからなかった。このことをジャズ・ベーシストの吉野弘志さんに白状したことがある。この先輩は例の深くていい声で「それは…ハジサラシ」と言ってましたよ。実際、やってみると、格好をつけることなんかより、この「ハジサラシ」=恥をさらすことは、たいそう難しい芸で、これが立派にできるには相当しっかりした自己意識や哲学、技術、経験が必要だということが、骨身にしみてわかります。アーティスト諸氏は、いちどためしてみるといいですよ。もっとも、ぼくはまだこういうことをおさらいしている最中で、修養が足らないです。すみません(苦笑)

 ただ、ぼくは音楽の商業主義やアカデミズムのベルトコンベヤーに乗っからなかったおかげで、こういう諸問題について、自分なりに考える機会と必要に恵まれた。これはありがたい。犯罪ができなくなりました(笑)「選民の芸術」なるものを疑ったこともない芸術家がいる一方で、商業主義の芸術があることも知らない人もいる。

 「選民の芸術」という、とっつきの悪い言葉は、じつは福田恒存が60年前に言っていることです。古い言葉なのです。そんなことは言われなくても承知しております。たしかチャールズ・ローゼンも同じ時期に、同じようなことを言っていたと思う。しかし言葉はどうであれ、選ばれたものを、選ばれた人が受け取る芸術の様式は、昔も今も変わっていませんよ。変わっていないどころか、一部の専門家のあいだでは、逆にこの傾向がエスカレートしている。少なくともアーティストのほうは、自分が選ばれたものであるといういい気な態度はとらないほうがいいと思いますが、どうでしょうか。「選民の芸術」が嫌われているんなら、試してみていいことだと思いますよ。

[2012年12月28日(金)/続きは後日]

251.
「2013年になりました」

 2013年になりました。本年も変わらぬご声援、ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

健康で元気に、やれることをやれるだけやりましょう。

[2013年1月3日(木)/続きは後日]

252.
「時間について思いを巡らすのも悪くないだろう」

 今日は午前中、1時間かそこら作曲をやって、銀行に用事があったので出かけ、天気がいいから、ついでにお散歩して、ココイチのキノコカレーを食べて、のんびり帰ってきました。

 ぶらぶら歩いていたら、現在、ぼくはさいたま市の道路をお散歩していまして、これまで生きてきた「過去」というものがあって、歩いているうちに、これから現れる「未来」があるだろう。つまり、自分が存在し、歩いていることで、「過去」と「未来」がつながる、そのことをとても面白いと思いました。


(ひむかしの野にかぎろひの立つ見えて返り見すれば月(かたぶきぬ   柿本人麻呂



 吉本隆明の『言語にとって美とは何か』に倣えば、これを詠った人麻呂の言語感覚は、


ひむかしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ



のように、時系列にしたがって“変化”している、ということになる。ぼくが今日のお散歩で気づいた時間の感覚も、同じ性質のことだろうと思う。

 横光利一に『時間』という小説があって、ぼくは25才のとき、自分のコンサートで途中まで朗読したことがあります。句点も句読点もない文章の連続で出来上がっている作品です。そのことが面白くて読んだんですが、内容は忘れました。いま思いついたから横光利一のことを出して来たんだけど、再読していません。また読んでみようかな。

 同じ道を何度通っても、その都度、風景が違って見えるということがある。ぼくはこれが面白くて、今日みたいに天気のいい日に、うちの近所をぶらぶらお散歩している。同じ風景を何度見ても見飽きないというのは、じつは、2度目に見たときは、最初に見たときとちょっと違っているんだろう。太陽光線の具合というような外的条件が変化することもあるだろうし、見ているぼくの心理コンディションも、日によって違うはずだ。陽気な気分の日と、落ち込み気味の日とでは、景色の見え方が違うんじゃなかろうか。

 なんか、絵画というのは、興味がない人も、絵の前に立って、ただ眺めているだけで情操が豊かになるという話を聞いたことがある。絵の展示というのは音楽のライヴ以上にライヴなんじゃないか、というようなことをこのあいだ、日比野克彦がテレビで話してました。下の写真は今日のお散歩のとき撮ったものです。この風景じたいは別に絵画作品じゃないです。ぼくの写真も別にアートじゃないと思う。そこまで作って撮ってません。好きで撮ってるだけの無責任なアートなんです(笑) でも、こういう風景も、おもしろく見えたら、その前で立ち止まって、ちょっとよく見てみる。これなんか、美術館で名画を見るのと似た作用があるかもしれないと思いますが、どうでしょう。

 寺田寅彦によれば、「自然は何かと重宝なものである」ということになります。ぼくは「entanglement(もつれ)」という英単語が好きで、街の中のいろいろな「もつれ」に興味があります。この写真の植物は、もつれではなくて、いちおう規則性があるね。でも整頓された感じでもない。そのあたりが好きです。

 時間を見つけてこのページを更新するつもりですが、また月末になってしまった。主として寒波のせいです。これでだいぶ束縛されました。今日のサイト更新はこのへんで放り投げて、明日、2月になったら続きを書こうという心づもりですが、明日は話題が全然違う方向に行くかもしれません。

[2013年1月31日(木)/続きは後日]

253.
「時間について思いを巡らすのも悪くないだろう(2)」

 晩年のジョン・ケージが、彼のいわゆるナンバー・ピースの中で取り入れた「time bracket(時間の篭)」は、だいたい1分の長さを持っているが、1分未満でも、1分以上でもいいという書き方になっている。最近、このケージの考案はべつに実験音楽の新手法ではなくて、日常の時間の性質がそもそもそういうものだということに気がついた。

   ぼくは、うちにいるぶんには夕方4時ごろがお茶の時間で、カフェオレを飲むんですが、なんですか、「みやこや食品」という豆腐売りの巡回カーが、ラウドスピーカーでえげつない売り声をがなりたてつつ、拙宅の前のバス通りを通過するのが、だいたい3時半から4時ちょっと過ぎの間なんですよ。これが、たいそうやかましい。

 こんにゃく〜、しらたき〜、あぶらあげ〜、がんも〜、おいしー、おとーふ料理はァ、いかがでーしょうかッ?納豆もー、ございますよッ

 こういう「ダメな歌」を、なぜダメかというと節回しが変なんですが、とにかく割れんばかりの大音声でやってくれます。この巡回カーが遠ざかってから、ゆっくりカフェオレを飲むのが賢い。だからぼくのお茶の時間は、4時の時報のすぐあとだったり、4時15分だったりするわけです。「みやこや食品」が通り過ぎる時間に合わせて、お茶の時間のタイミングを、早い時間や遅い時間に調整している。お茶の時間なんて4時に極めなくてもいいんだが、習慣的に4時になっている。4時という時刻にこだわるのは偏執狂で、強迫神経症ではないか。ケージが発見した time bracket は、「3時50分でもいいんだよ」「4時半を過ぎていたって構わないじゃないか」と、規則をぐずぐずに緩める心遣いでもある。

 一般人が勝手に作って自分で歌っているうたを募って、編集して大合唱曲を作りたいと言っている作曲家がいる。この手の創作は全体主義か偽宗教のようなもので、当の作曲家がわけもわからないくせに気分だけなり上がって、カネ持ちになる以外はデメリットだということにお気づきか。なぜ作曲家の創意を働かせて「ダメな歌」を率先して書かないのか。

 ここまでを昨晩、2月1日金曜日の夜に書いて、風呂に入り、ごろんと横になって、気持よく寝てしまった。いま2月2日、朝の6時ですが、外はまだ暗い。気分的には深夜の気分だけど、FM放送は朝のクラシック音楽番組でハイドンの弦楽四重奏曲「ひばり」を流している。この重層的な時間の感覚、悪くないですね。よく寝た。目覚めると深夜で、朝を告げるFM放送が、放送時間を間違えたように、深夜の延長上に乗っかっている。朝食まではいま少し時間があるから、布団の中で朝寝を楽しんでいますよ。ケージの time brackets がふたつ、打ち重なって、たぶんそのへんの公園で柿本人麻呂さんが「ヒムカシの」と詠っているんでしょう。今日はとても暖かくなるとの天気予報ですが、窓の外を覘くと、少しずつ明るくなっているが、どうも朝日があまりかがやかしくない。薄い雲がかかっているんだろうか。


 追記
 昨日、柿本人麻呂の短歌を引用しましたが、たくさんの方々が読んで下さった、そのあとで、仮名遣いの間違いに気がつきました。「かぎろひの立つ見へて」となっていたんですが、これは「立つ見えて」の誤り。深夜に急いで修正しておきました。文学者の方が見てたら困ったなあ(苦笑)

[2013年2月1日(金)および2月2日(土)/続きは後日]

254.
「モノゴトの自然な流れの中で」

 いまやってる作曲、昨日までに2曲、いちおうそろい、本日は陰気な曇り空、すぐ3曲目の作曲にとりかかるのは気が急いているようで、せっかちな感じがしたから、作曲は抛り出して、ベートーヴェンの『月光ソナタ』を1回弾いた。休んだりしながら、合計3回弾いた。弾けるが、ひとつ問題がある。ピアノを弾くとき、ぼくは完成したゆるぎない彫刻みたいなものを取り扱っているのではないということです。『月光ソナタ』の造形やイメージは「動いて」いる。ヘッセの言う「不可測物」の働きがあります。これを固定しないで演奏に生かすには、どういうトレーニングが必要か。

 造形の前提を確かめてみましょう。絵を描く場合は、デッサンができているかどうか、という問題だろうし、作曲の場合は、音楽の基礎、和声とか対位法とか、もっと広い意味での音感や想像力とか、そういうことをしっかりわかって書いているか、ということだろうと思う。ピアノを弾く場合も、ピアニストがこの曲をどう弾きたいか、ちゃんと計画があって鍵盤に向かわなければ、楽譜に書いてあることは覚えていますが、どう弾いたらいいかわかりません、という始末になるだろう。そして、どう弾きたいかという計画は、固定していないで動くものだと思います。

 最近、日本のアーティストが純金かなんかで作ったアニメのキャラクターが、米国のオークションで12億円で落札されたようですが、固定した価値が欲しければ12億円払えばいいというお話だろう。ピアノなんか弾いて、固定できない価値をわざわざ生産するなどは、今日日まったくご苦労なこったと呆れる人が実際にいるようだが、たしか『狂気の沙汰も金次第』っていう随筆集があったよ(作者は筒井康隆さん)。感覚の誤謬も、12億円の現金を見たら目がくらんだということですか。

 いったい、街の活気とか、生活の潤いとか、動きのあるモノゴトの性質はいろいろあると思うけれど、さしあたり、今日は雨ですが、お散歩がてら郵便局で為替をお金に換えてきた。ここ数日は倹約モードなんだけど、小額でもお金が入ると心理的にラクですよ。「動き」の問題は、自分でよくわかる、身のまわりのことから確かめよう。

 うまく言えないが、自分を規定するモード的な空間というものがあるようです。ひとりの人間が行動できるのは、そのモード的な空間の範囲で、ということのようだ。

 絵を描くにしろ、楽譜を書くにしろ、自分の前に、何も描かれていないカンヴァス、何も書き込まれていない1枚の紙を用意する。制作する人間、ぼくならぼくのほうでも、あれこれの知識や先入観をできるだけ忘れて、捨てて、高橋源一郎の『小説教室』の言い方を借りれば「馬鹿になる」。ピアノを弾くときだって、楽譜にとらわれていてはいけないので、いままでだれも演奏していない、白と黒の鍵盤が、ピアニストの目の前に現れます。そういう状態を用意するために、ものを作ろうと企てたら、数カ月もかけていろんな準備をするんだと思う。単なる無知蒙昧、無学文盲を「馬鹿」と言っているわけではない。最低、自分が馬鹿であること、何も知らないことだけは知っている、という必要条件を、高橋源一郎さんは忘れずに書いております。たしかにぼくはガンチクのない単なる馬鹿かもしれんが、いい年をしたアーティスト気取りが、ぞんざいに「馬鹿になれ」などと放言しているのとは違うんだよ。

 筑波大学で「平面」の研究をしている人がいる。名前は忘れちゃったんですが、ともかく凸凹がまったくない平面の研究をやっています。その人の1日の仕事は、どういう計算をするのかは知りませんが、ともかく電卓をはじいて、水平な金属の板の上で1回、カンナのようなものを縦にシュッと滑らせる。これで、この金属の板は、昨日よりも正確な平面に近づいた、というわけです。この研究者の1日の作業はこれだけです。顕微鏡で覗いてみなければ、昨日の粗い面と、今日の滑らかな面の違いは、ぜんぜんわからない。それほど微細な変化を取り扱う研究です。いつ見たか忘れましたが、テレビでやってました。面白いなーと思って、ずっと記憶に残っている。

 毎日、規則正しい生活を過ごしましょうと言っても、今日みたいに、こんなに曇って雨降りでは、行動もいまひとつ冴えません。こんな日はムリして作曲しないで、ここ何日か、まともにピアノを弾いていなかったから、今日は指ならしをしておこうかと思って弾き始めた。ベートーヴェンのことはすでに書きました。いま練習中の新曲は、数日ほったらかしておいたら、弾き間違いはまだあるが、曲がつながって来た。弾いてないのにいつの間にかつながってくるとは不思議な話だが、なにか、ピアノ以外のことや、日常の小さなこととのかかわりの中で、自分も環境も変化する、という流れがあるのだろう。モノゴトの自然な流れの中でピアノも弾けるようになってくるとは、面白いではないか。はははははははは。(宇野千代さんの真似をしてみました。)

 そう思ってみると、いちばん最初に書いた不可測物のことも、それを中心に据えて熟考・研究し、その成果に基づいて段階を踏んでピアノのトレーニングをやるというより、不可測物のことを気持の中に置いて、忘れない程度に留意していると、自然に身につくようなものなのかもしれない。


 追記
 なんか、今日は作曲やピアノについても考えていたけど、この稿を書くことにはまってしまいました。これもモノゴトの自然な流れかと、思ってみるが、白状すると、作曲の作業からどんどん脱線しているようで、少し気がかりである。しかしながら、作曲やピアノの実際の作業のほかに、音楽の制作に必要なモノゴトというのは、ぜんぜん性質の違う行動や出来事の場合もあります。この稿を書いたのも、そのたぐいのことなのでしょう。

[2013年2月15日(金)および2月16日(土)/続きは後日]

255.
「音楽のまわりのこととか、自分のこととか」

 能役者さんたちは、『葵上』とか『俊寛』とか『隅田川』とか、100以上ある曲を全部覚えていて、これからこの曲をやりますという相談がまとまったら、その場で演じることができるのだそうです。そういう人たちをプロの能役者と呼んでいるそうです。もちろん、そのために日ごろの稽古を怠らないことは言うまでもない。

 クラシック音楽のピアニストの場合を見てみると、100曲以上もレパートリーを常時持ち歩いているのは、世界中に数人だろう。トップレヴェルの何人かだけだと思う。大多数は、10曲ぐらいを1年中弾いている。日本の能楽の世界と、大きく違う。

 能の曲の場合は、ひとつの曲をどんなふうに演じるかが、一回ごとに違う。ぼくたち素人は、その違いまではわかりませんが、とにかく上演に先立って演者が全員集合して「申し合わせ」をやり、ここはこんなふうに、あそこはこんなふうに、と決めて、すぐ本番という段取りなのだそうです。そういうやり方でいつもやっているから、能楽の世界では普通のことなのだろう。しかし、能舞台の緊迫感は、時間にして10分ほどの申し合わせのあと、ほとんどぶっつけで演じるやり方から生じるものだと、なんかの本に書いてあった。実際の上演までの段取りは、演能に緊迫感を持たせるための一連のからくりなのだと言っても、言い過ぎではないでしょう。

 クラシック音楽では、こういう、能の場合のようなことは、ふつうはやらない。ひとつの曲を、いつも違うように弾けるピアニストは、すでにプロ中のプロで、世界に数人しかいない。巨匠でも、自分の弾き方を確立している場合のほうが多い。

 なぜかなあと考えてみる。ぼくは専業のピアニストではないから、作曲家として、ピアノ演奏のマナーについて言えることは多くはない。けれど、兼業ピアニストにも発言の権利があることにして、先を進めてみよう。ある曲を弾く必要ができたら、本番までの数カ月、その曲の練習をやって、本番がうまく務まるように準備する。以前の演奏とは違う弾き方をしようと思って準備することはあるが、こんどはその弾き方が、ひとつの「型」になる。ショパンの『葬送ソナタ』を全曲覚えていて、本番の直前に弾き方を決めて舞台に上がる、というのは、一般的なやり方ではない。ほとんどの場合、ピアニストはこの曲の弾き方を以前から練習して、用意している。即興の余地が、能楽の場合は広く、クラシック・ピアノの場合は狭い、ということは言えると思う。

 クラシック音楽のピアノ演奏が、ともするとステロタイプ化しやすいのも、このあたりに原因がある。それを打ち破ろうと、作曲と演奏の両方で、音楽の即興についてさまざまな試みがなされていますが、どうもヨーロッパ音楽の場合は、即興性を考えに入れても、ひとつの曲のイメージは固定する傾向があるようだ。これはしかたがないのだろうか。

 自分の経験を言うと(笑)、ぼくの曲をどこでだれが聴いているかは知りませんよ。ぼくは作曲家としてより、ピアニストとしてウケがいいですよ(本人がしゃべることではないかもしれないけど、事実なのでご報告します)。歌謡曲の世界は話が別だが、どうも自作自演型の作曲家は、曲なんか置いてけぼりにされて、演奏家として人気を博する傾向があるらしい。これは20世紀以降の新しい音楽の場合だけを見ても、世界的にその傾向があるみたいですよ。アントン・ヴェーベルンは、生前はグスタフ・マーラーの交響曲の指揮者として有名で、自分の作品が一般大衆にウケた史実は見当たらない。バルトーク・ベラは音楽学校のピアノの先生で、とてもピアノが弾ける人だったが、作品のほうは知られていなかったか、少し知られていても難解で敬遠されたりしていた。こういう例はほかにいくらでもあります。

 例外もあるでしょうが、音楽を聴く人は、曲があればいいので、だれが作ったかは二の次の問題だろうと思う。ところが、いわゆる芸術音楽や新しい音楽の場合は、まず作曲者の名前があって、演奏家の名前もあって、曲がどうであるかは2番目か3番目の問題にされてしまう。どうしてこうなるかは、長くて、あまり面白くない話なのでここには書きませんが、ともかくそういう現実があるから、芸術音楽や新しい音楽は敬遠される。無視できない現実だと思いますね。

 だから一般的に言って、すでに知られている曲・音楽作品は喜ばれるけど、うちの近所に住んでる作曲家本人のことは別に知らなくていい。普通に考えて、聴き手は音楽を聴きたいので、自宅近所の作曲家と付き合う義理はないわけだ(苦笑) ほかの国のことは知りませんが、日本の事情はそうなっています。その、耳に入ってきた曲が名作であれ、駄作であれ、同じことです。ある音楽作品が名作か駄作かの判断は、いますぐ決められることではない。もちろん、これは聴き手の側の話で、作品を作る側は、ひとつの音楽がいいか悪いか、およその見当はつく。まあそういうことなのでしょうね。

 というわけで、新しい音楽作品を手掛ける演奏家の姿勢や態度が重要になってくる、というところに話を戻して、その演奏家の「姿勢や態度」について論議を展開したいのは山々ながら、ここまで書いてくたびれたから、次回にします。乞うご期待。

[2013年3月11日(月)/続きは後日]

256.
「音楽の作曲や演奏という仕掛け」

パフォーマーが音楽の作曲や演奏でイメージを演出し、聴き手に押し付ける、というのでは、コミュニケーションが一方的になってしまう。演じ手がイメージを生産し、聴き手がお金を払ってそのイメージを消費するという図式は、広く信じられているけれど、音楽のありようはそれだけだろうか。

 作曲家や演奏家が提供するのは、聴き手に使ってもらうための、音楽の仕組みや成り立ちだと思う。もちろんそれ自体が魅力的だという場合はあるし、魅力的な仕組みや成り立ちのほうがいいのでしょう。しかしながら、音楽の作曲や演奏は、それ自体で完結しておらず、聴き手の想像力をある程度限定する枠組みとも考えることができる。

 音楽の聴き手は、そこにある音楽とはぜんぜん関係のない、どんな放恣な想像や連想をしてもいいわけですよ。その人が、ひいきの中華料理店のタンメンについて考えていたっていいし、週末のゲートボール大会が楽しみで音楽どころじゃなくたって、おれは知らないよ。音楽以前に、聴き手の基本的人権の問題だ。だけど、わざわざ選んで聴いている音楽の演奏と全く関係のないことばかり思っている法もないというものだ。なんか面白い気持になりたい。逆に、心理的打撃は受けないほうがいい。あたりまえだよ。そんなものを望む人はいない。もっとも、聴き手にダメージを与える音楽の演奏というものだって、世の中にはあるんですが、これについてはここでは展開しないことにしよう。

 絵や小説なら、現実の模倣や描写ということをやりますから、描かれている薔薇や噴水や裸婦や自動車のような、具体的なイメージを楽しむ。あるいは、通行人が道路に落ちているバナナの皮を踏んで、つるっと滑り、ズボンがびりっと破けた、というようなストーリーを面白がります。

 音楽にも「描写音楽」というものがある。日常音をそのまま音楽に用いる場合もある。けれど多くの場合、聴き手が感じ取るのは、もっと抽象的なイメージである。もちろん、音じたいは具体的なものだし、音そのものに雰囲気があることは確かですが、その具体的な音で聴き手が思い起こすイメージは各人各様、千差万別で、音楽の作曲家や演奏家は、聴き手がなにを思うかまで規定することはできない。

 作曲家や演奏家が自分の創造性を使って、聴き手の想像力を喚起するような音の仕掛けを提供するということは、聴き手の想像力を拘束することではない。聴き手が思い起こす想像力や連想をないがしろにしたくないなら、作曲家や演奏家が「こんなふうに思いなさい」「こんなふうに想像しなさい」と舞台上から指示や命令をするのはナンセンスだ。聴き手が自由に想像や連想を行うほうがいい。

 ただ、自由な想像や連想というのは厄介なもので、何でも好きに思っていいという機会に居合わせたときに限って、何を想像・連想したらいいかがわからんということが多いと思う。音楽作品の作曲や演奏は、聴き手の自由な想像や連想のための手段であるべきで、猿ぐつわではない。

 音楽の作曲や演奏は自由な想像や連想のための場を用意する、と言ってもいいし、自由な想像や連想のための心理動機を用意する、と言ってもいいと思う。そのほうが、いろんなことを想像しやすい。作曲や演奏にできることは、ある枠組みを与えることで、その枠組みの中で聴き手はめいめいの想像力を自由に思い起こすことができる。理屈っぽく言えば、まあそういうことなんじゃないかと思う。

 聴き手は、作曲家や演奏家が仕掛けた罠を選んで、それにはまり、だまされたことを面白がる。悪ふざけを言っているわけではないよ。演じられている音楽のイメージに価値があるから金を払って買うとか言うような、打算と言ってもいい、生産と消費の図式とは別の、創り手と聴き手のあいだの関係があったほうが望ましい。それだけしっかりした音楽の作曲や演奏の仕掛けが必要だということになる。

 聴き手に必要な音楽作品はどういうものか、あらかじめ調べておいて、聴き手に受け入れてもらえると見当がつくような作曲や演奏を提供する、如才ない音楽家もいる。これなら、いちおう聴き手とのコミュニケーションが保証されるからだが、ぼくに言わせれば、そんなのナシですよ。打算そのものじゃないか。実際は、この音楽家は自分の自尊心を満足させるために、聴き手のイメージを当てにして、先回りして利用しているだけだ。そんなことでいいのか、よーく考えてみよう。

 聴き手が作曲家や演奏家が創りだしたイメージの言いなりになり、名曲の意味や意義や教養を、まるでビタミン剤でも飲むように鵜呑みにすることほど、味気ないことはない。そんなことをやっていて楽しいですか、という疑問を提起しておきます。ぼくたちは、もっと自然な音楽の楽しみ方ができるはずだと思う。

[2013年4月29日(月)および30日(火)/続きは後日]

257.
「舞曲集『永久の華』についてしゃべろう」

 1990年、ピアノ独奏のための舞曲集『永久の華』を書いた。ぼくは25才でしたよ。前年、1989年は平成元年で、初めてピアノの公開演奏と作品コンサートをやった。備忘のために書き添えれば、1989年5月2日に原宿・アコスタディオでやった初めてのピアノ・ソロコンサートでは、ストラヴィンスキー『イ調のセレナード』、バッハ『6声のリチェルカーレ』、ベルク『ソナタ』、松平頼暁『アノテーション』、クセナキス『ヘルマ』、江村夏樹『続Kougi』、コープランド『ピアノソナタ』を弾いた。作品コンサート『げんこやのたぬさん』は、声のパフォーマンスを主体とする1時間の舞台だった。

 今日、うちで昼飯の野菜塩ラーメンを食べながら、ふと思ったんですが、自分の音楽を公開し始めたころは、すげえ意気込みだった。それが半分ぐらいはマイナスに作用しちゃったかなというのが、この時期の作曲や演奏に対する、現時点でのぼくの素直な評価です。『永久の華』も、その例外ではない。

 当時、松平頼暁さんは『永久の華』を悪くはおっしゃらなかった。ひとつの批評として、低音があまり変化しない、だったか、和音があまり変化しない、だったか、そのたぐいのコメントをいただいた。同じころ、築地の本願寺で高橋悠治さんに初めて会った。悠治さんは、三宅榛名さんと室内オペラ『カフカ』の仕込みをやっていた。悠治さんはぼくの楽譜を見るなり、ぐふふふと笑いだした。え?なんですかと訊いたら、「すごい題だ」。つまり、『永久の華』というタイトルがものものしくておかしかったんですね。曲の内容のことは何も言わなかった。

 (歴史的視点から付け加えると、松平さんも悠治さんも当時50代、三宅さんは40代。ぼくは松平さんのピアノ曲、特に『アノテーション』をたびたび弾いて、褒められた。悠治さんは水牛楽団を解散して、久しぶりにピアノを弾き始めた。悠治さんと三宅さんはデュオで活動していて、『いちめんの菜の花』など、何枚かのアルバムを制作した。ぼくはいま40代後半だから、そろそろ当時の先輩たちの年齢です。自分がこの年齢になってみると、成熟とか円熟には、まだずいぶん距離がありますなあ。)

 ぼくは当時、いわゆる現代音楽の“現代音楽くささ”のようなものを、自分の作曲に持ち込みたくなかった。そのため、へヴィ・メタルやパンク・ロックのような周期的なビートを使って、輪郭のはっきりした曲を書いた。ただし和音とメロディは自分流です。最近、このスタイルを「新古典主義のフィギュアを参照した」と評論して下さった、親切な御仁がおります。実際は「新古典主義のフィギュア」を参照した事実はない。見た目がちょっと似ている、という程度だ。自分のシンボルのように使っていた風変わりな主和音があって、これを濫用しすぎていると、自分では思うが、松平さんが好意的に批評してくださったように、作品のトレードマークになっている。

 いま、この曲の楽譜を引っ張り出して来たんですが、「すっとこどっこい」「突進列車」「執刀医師」「灰皿で飯を食う男」「希望をもたらす驚くべき自刻像」の5曲セットです。これは各曲の名前です。「すっとこどっこい」というのは、当時ビートたけし(現在の北野武)がテレビで“この、すっとこどっこい!”っていうコントをやっていたののパクリで、“すっとこどっこい”と音読するときのリズムのパターンを使った曲。「灰皿で飯を食う男」というのは、寺山修司の発言のパクリです。「例えばここに灰皿がありますが、これで飯を食う人はいないわけです」とかなんとか言っていたのをもらって来ました。曲の内容とは別に関係がありません。

 まあ、自分がどれだけの才能を持っているかもわからず、すげえ意気込みで徹夜して書いたピアノ曲で、書いたときと同じように、すげえ意気込みで弾いた。弾いたというより、ぶっ叩いてました。当時、松平さんと話していたとき、この曲を室内アンサンブルに編曲したら面白いだろうという話題が出たが、室内アンサンブルを組織する方法もわからなくて、この編曲はまだ実行していません。

 ぼくは昔話をするほど年とっていないんだが、平成の最初の7年は、公私にわたり、まあいろんなことがあって、たいへんな暮らしでした。そういう混乱のなかで書いた『永久の華』を、どう評価したもんか、ずっと考え続けていました。好意的に評価するのをためらっていた大きな理由は、この曲は、前にも書いたように、風変わりな主和音の多用があり、すこしうるさい。デリケートな表現が聴き取れない。こういう騒々しい曲を書いた自分は何だったんだろうと思い、自責の念にさいなまれていました。ただ、久しぶりに弾いてみると、自分が過小評価していたほど騒々しくもないんですよ。弾くのは難しい曲で、その難しさは、さあ、ぼく自身が弾くために書いた曲ですが、弾けなくはないが少しムリではないか、ということをわざわざ書いた形跡があるようにもみえる。

 これを書いた平成初年のころのぼくの曲は、ハタチからやってる作曲の中で例外になっている。19才、東京芸大に入ったぼくが書いた曲は、クセナキスやケージの影響を受けた演奏至難な無調音楽だったし、『永久の華』以後も、演奏が難しい無調音楽のスタイルに戻っている。平成に入って2年ほどだけ、調性に則った曲を書いたのは、何か理由のあったことなのだろうが、なんであの時期だけ調性音楽だったのかが、今もってわからんということです。

 曲の内容や題名、成立事情について、くだくだしく分析するのはやめよう。名曲か駄作かの判断も、脇に置いておこう。当面、この『永久の華』を再演する予定はない。そうかと言って、廃棄処分するつもりもない。とっておく。なんかのはずみで弾くかもしれない。こういう曲を書いた時期もあった。ぼくにはそのファクターは、それなりの大きさと意味をもっています。しらばっくれて、これをないことにしたら、現在の自分の立脚に穴が開く。1990年作曲の舞曲集『永久の華』は、駄作か傑作か、なんだか知らないが、今のぼくの音楽や日常の中で、何らかの位置づけを求めている作品のように思えます。すげえ意気込みだけが取り柄の曲だって、それはそれでいいじゃないかと、ちょっとは思えるようになって来ているのかなあ。

[2013年5月28日(火)/続きは後日]

258.
「窓から現実が見える」

 かなり前の話だが、作曲家の中田喜直と湯浅譲二が、ジョン・ケージの例の『4分33秒』という曲を巡って、NHKテレビで喧嘩していたことがありました。このケージの有名な曲を中田さんは「こんなものは音楽じゃない」と切り捨て、湯浅さんは「試みだと思うんですよね」と擁護し、ふたりで言い争っていました。第1楽章「休め」、第2楽章「休め」、第3楽章「休め」、という指示があるだけのこの曲を、中田さんは、まるで絵が入っていない額縁のようだと言った。壁に額縁がかかっている。中に絵が入っていない。絵はどこですか、その額縁の中に見える壁が絵です、そんなばかなことがあるか、と言っていた。

 ぼくはこのケージの『4分33秒』を何回か演奏しているが、ケージは楽譜上で「音を出すな」とは指示していない。「TACHET」とだけ書いてある。つまり休めばいいんですね。普通、音楽の演奏は、音を出すということをやる。それと同じで、ケージのこの曲は「休む」ということをやる。これはよく言われるように「沈黙の音楽」じゃありませんよ。意識的に楽音を演奏しなければいいんだと思う。楽音を演奏する音楽に必要な注意・緊張は、楽音を演奏しない場合は不必要ですよ、と言っていると考えてもいいと思う。そういうことを舞台に立ってやるのがこの『4分33秒』ではないか。そういうパフォーマンスなんであって、俳優が舞台の上で「何もしていない」のと同じだ。音楽美学にこだわらないでください、ということなのじゃないか。

 舞台上の演奏家が、客席にいる聴き手にはできない名演奏や名演技を披露するというのは、演奏家が聴き手より高いところに立って、聴き手の頭上から価値をばらまくこととは違う。入場料は名演奏という価値を手に入れるための代価である、なんて、そういう成金趣味はもういいかげんやめたほうがいいよ。ピアニストも観客も成り上がっていい気になっているコンサートなんか、ぼくはごめんだ。

 なんで舞台上の演奏家がつけあがるかというと、そのほうがラクだからですよ。ピアノ弾きロボットになったほうがサーヴィスしやすく、カネ儲けができるからです。一般社会で言えば、マニュアル通りに行動しない人は就職できない。できても馘になる。そんな社会で創造性なんか、邪魔でしかないわけだ。安楽に暮したければ、自分の想像力を全部殺して、試験勉強ばかりしているほうが賢明ですよ。そんなことをしていたら、どんどんつまらない人間になるけど、「世間のさらしもの」になりたくなかったら、キミは自由な想像なんかしちゃいけない。そういう危険なことは、日常ではご法度なのですよ。どんなにつまらなくても「役に立つ」人材が有用だということなら、どんどんつまらなくなんなさい。

 およそ、えらそうな顔をした音楽家ほど、見ていて胸糞の悪いものはない。おれは価値を担っている。おれに金を出せ。おれを買え。そういう顔をしているピアニストに会えたといって狂喜している「ざーませんわ夫人」の人生観が聞きたいものだ。

 音楽家の立っている地面には、ざーませんわ夫人をはじめ、さまざまな人がいる。特権意識を捨てて、そういう地面に降りてみようよ。友達と語り合おうと思ったら、えらそうな顔をしないことにしよう。ぼくは、偉そうになりたくありません。そして、そういう地面に立って「休むこと」や「何もしないこと」をやってみませんか。できるかできないか、試してみませんか。

[2013年6月29日(土)/続きは後日]

259.
「だらしなく過ごすということ」

 月半ばから軽いバテで、うちでおとなしく過ごして少し治りましたが、連日蒸し暑くて、空調がなければ座ってるだけで汗が出てくるし、ここしばらくは雨が降ってるんで、今日も遠出はしないことにした。基本、7月はオフなので、安い旅費で行けるシーズン・オフのタイまで飛んでってカレー食べて来ようかと考えていましたが、この暑いさなか、日本よりも赤道に近い国まで出かけるのもおっくうになり、先延ばしにした。知人は家族そろってレジャーに出かけた模様で、沖縄の海で泳いでご馳走三昧なのだそうです。楽しそうだとは思うけど、もうちょっと涼しくなってから動くことにしましょう。

 ありがたいことに、時間が経つとちゃんと腹が減ります。バテてても食欲はあります。いまちょうど夕方6時なんですが、怠けながら近況を書いていると腹が減ってきました。夕食は7時ごろで、あと1時間ほどあります。今日はレモンのドレッシングがかかった生野菜のサラダとローストビーフ、豆腐、ジャガイモを食べながらヱビスビールを飲むことにしました。コップ2杯ぐらいでほろ酔いですよ。それ以上飲むのは年に数回で、自分ひとりじゃなくて相手がいるときですね。何人かでわいわいにぎやかにご飯を食べてるときは、3時間ぐらいかけて、いつもよりちょっと多く飲みます。飲むけど、せいぜいビールの中ジョッキが1杯増える程度です。お酒は好きなんだけど、量は多くないな。

 お酒が入るとでかい声で騒ぐ人がいるけど、あれ、うるさいですよ。まあ、別にぼくは飲酒マナーについて一家言持つほどの飲兵衛ではない。騒ぐ人も、よほど気にならない限り、ほっといて、自分はほろ酔いで静かにしてます。

 一家言で思い出したが、豆腐の食い方なんぞに一家言があるやつがいました。豆腐なんか好きに食えばいいじゃないと思うが、東大文学部卒の彼によると、まず、スーパーで買ったパック入りの豆腐の蓋の部分、ビニールですかね、これを一気にはがす気合の入れ方、タイミングというのがある。このタイミングをはずすと、うまくはがれてくれない。次に、四角い豆腐に割り箸を突き立て、タテヨコに動かし、碁盤目状に、京都の町並みのように分割する。そして、上から醤油をかけて食う。この3段階を必ず踏むのだそうで、「常道だよ」などと、彼は納得したような声で言ってました。そんなもの、どうだっていいじゃないか(笑) なんでこんなことにこだわるのか、よく知りません。まあ彼なりの流儀でもてなしてくれたので陽気に酌み交わしましたよ。その後音信が途絶えて久しい。気の毒なことにこの男は、例のオウム真理教の地下鉄サリン事件の実行犯のひとりと同姓同名なんです。年齢が違うので、同一人物ではない。旧友の名誉のために付け加えておきます。どうしているかねえ。

 話は飛びますが、以前、先輩同業者と電話で喧嘩したことがありました。この人はどうやら、一時的に虫の居所が悪かったらしい。こちらで電話の声を聴いていると、話の意味内容ではなくて、声の調子、抑揚とか発音とかが少し不自然な気がした。そこらで対話に齟齬が生じたのですね。変なんじゃないかと思ったから、この2人をよく知っている、やはり先輩同業者のCさんに電話をかけて、じつはこれこれしかじかなんだけど、ぼくの感覚がおかしいですかね、と振ってみた。そしたら、「いや、あなたの日本語は非常にしっかりしています」。まあ、人間ですから酒飲み話だったのかもよで済んだんだけどね。

 別に自慢じゃない、なにが言いたくてこの話を出したかというと、テレビとかインターネットで有名大学の教授が政治論や時事論をしょっちゅうやってるでしょう。ああいうのを読んだり聞いたりするにつけ、この人たちは精神がおかしいのではないかと思うことが、最近増えているという感じがするんです。御用学者とか政治家ぐらいなら、あー、この人たちは毒にも薬にもならない一般論しかわからないんだね、気の毒ですねで済む。だけど、精神の軸がおかしい人たちがメディアに出て、我が物顔に論説を展開(?)するのは、まずいんじゃないでしょうか。どうですか。

 バテから回復途上ですので、思ったことをざっと書きとめました。お読み捨てください。

[2013年7月29日(月)および30日(火)/続きは後日]

260.
「だらしなく過ごすということ(2)」

   朝9時51分。マルエツまでお買いもの。セブンイレブンで電話料金支払い。今日はそれほど暑くないけれど、外はやはり暑くて、動くのがめんどくさい感じ。眠気もあります。ただ今作曲継続中ですが、ムリに作曲しない。ヴィオラの微分音程が念頭にあるが、しばらく抛っておきます。あと5分書けば全曲そろいますが、先をどう続けるかが決まらないので、今日はこの文章を書いて過ごそうか。

 タテマエの社会は、自分たちに都合の悪い芸術は受け入れないとかいう調子で、マニュアル社会について難しく考えてましたが、自分に即して言えば「ストレスをため込まないこと」でしょうね。これならわかりやすいです。自分の言いたいことを言うのに、「ヤル気や勇気は必要だし、それなりの疲労も伴うけれど」、自分の発言の評判をあれこれ気にして疲れすぎるのも、なんだかね。

 今年の夏はやたら暑くてみなさんが「熱中症に注意しましょう」と言っているから、ぼくもあまり動かなかった。見たところだらだら家にいる感じになった。まあ、でも「すナマき」(高橋牧さんと砂川佳代子さんのユニット)のライヴを見たし、近所の花火を見たし、両国門天ホールの下見をしたし、それなりに出ており、健康診断では「そのまま、自分が思う通りにやって大丈夫」「普通に体を動かして大丈夫」という主治医の判断もありますから、引き続きこのまま行きましょう。

 牛乳を買い忘れたので、またマルエツに行ってきました。要するに「美とは何か」というようなことを考えながら日々過ごしているわけです。思うに、創造的な「美」というのは、「きたないこと」を取り除いていって「きれいなこと」だけを残すというような衛生思想とはあまり関連がない。それよりは、「不自然なこと」をやめてなるべく「自然なこと」をやりましょう、という一連のプロセスではないか。衛生上「きれいなこと」が、いかにもわざと作ったようで「不自然なこと」になっている場合は、誰にも経験があるでしょう。

 芸術やアートで行う発言の性質は、特別変わったことではないと思う。ひとが気づいていないことに誰かが気づく。ぼくたちはそれを言ってみるわけです。言うのが恥ずかしいなとか、言うと目立つから困っちゃうかなとかいう気持は、たぶん誰でもある。でも、言ったほうがいいようなら言ってみましょうか。音楽の発言も、たぶんこれと同じだと思いますよ。わかりきったことなら、わざわざ言う必要もないわけです。

 メジャーなアートや芸術っていうのはだいたい政治的配慮の産物なんで、なるべく通りのいいことをやって世間さまの公的認知を得るわけです。この政治性に異を唱えるような言動は黙殺されたり、国や時代によっては作者もろとも鈍器で撲り殺されたりしてます。世の中はなるべく、人々が過ごしやすい環境になってるのがいいから、しかるべき秩序はどうしても必要だ。たとえ善意から行うにせよ、それをひっかきまわすようなアートや芸術は危険視され、僻地に飛ばされるわけですよ。一般庶民の意識というのは風評そのものと言っていいほど、このメジャーな公的認知のイメージに弱いです。

 専業のアーティストだけが創造するのではなく、世の中のみんなが創造的に生きる時代になってきていると、すでに多くの識者が指摘している。だけど、一方で社会はどんどんマニュアル化しているでしょう。ちょっと創造的なことをやろうと思うと、実にくだらない邪魔が入るのがぼくたちの日常でして、たいへんに窮屈です。こんなにマニュアル化しなくていいのに、自分の所属する管轄のマニュアル以外何も知らないという人は多い。それにね、長くなるからうんとはしょって言いますが、せっかくマニュアル化するのなら、微に入り細にわたってよく考えてマニュアル化しましょう。ずさんなマニュアルが多すぎるよ。みなさんの行動の仕方までそんなもので決まっているようなコミュニティからは逃げましょう。マニュアルを書き換えるわけにいかない、これも現実なのだから。

 ぼくはタール1mgの、つまりいちばん軽いタバコを1日に6本吸います。それ以上吸いません。この程度の量なら吸ってて構いませんよと主治医に言われた。で、うちにいるぶんにはマルエツでタバコを買うんですが、店内のタバコはショーケースに並んでいて、番号が振ってある。ぼくが買う銘柄は67番なんだけど、ショーケースの表から見ると「67番」ですが裏から見ると「66番」になってた。手違いでそうなってたんですね。だからレジのおばさんに「67番ください」というと、ぼくが買いたい銘柄とは違う「67番」が出てくるわけです。これはけっこうややこしい事態ですよ。今朝、レジのおねえさん(さっきのおばさんとは違って美人さん)にこのことを伝えたら、「あらー」と言って、今日は10回ぐらいマルエツに行ってますが、すぐ直ってました。

 創造性だとかマニュアル化の話と違うとお思いでしょうか。ぼくね、こういう些細なことも想像力次第という気がするんですよ。店内のマニュアルを覚えている最中の実習生さんは、この程度の配慮ができない。できませんでした。ぼくは2ヶ月ぐらい前、別の女の子に同じことを言ったのよ。このときは直らなかった(笑) この場合、マルエツとしては「67番」と言われたら「67番」を売ればいい、その67番の内容なんぞ知ったこっちゃない!という理論になります。客の立場からはそういうことになる。一国の政治を考える理論も、おそらくこの程度の節穴だらけの粗忽な、ひとをばかにした理論なんじゃないんですか。

 たかがこの程度のこと、ですか。飲食店や電車の中で「おれは客だ!」とふんぞり返っていばってるオッサンがたまにいるでしょう。ああいう人種に創造性の大切さを理解してもらうには、どうしたらいいのですかねえ(笑) コンサートの出演者や関係者、お客さんや評論家にも、似たのがいませんか。

[2013年8月27日(火)および28日(水)/続きは後日]

261.
「私的なこと」

 ご無沙汰しました。先月の更新をお休みしたのは多少事情があります。ぼく自身が自分について考える材料が多くて、親切な読者のみなさんにうまくお伝えする筆力がないと思った。純粋に個人的なことは書く必要がない場合があり、どの項目をとりあげて書けばいいのかがまとまりませんでした。まあ、うまく言語化できない事柄について、何事かを考えておりました。何を考えているのか、自分にもうまくつかまえにくいような、おそらくはある一連の変化なのだと思います。

 1ヶ月たっても、まだ考えてまして、変化の流れは続いている。ある程度途中経過を書き留めておこうと思ったからこの稿を書き始めました。ただし、例えばそれが「音楽」なんてものだったら、言語で書き表わせるのはその全体ではなくて一部でしょうね。あるいは概略でしょう。なんか形のよい結論が出てすっきりすれば痛快ですが、いまのところ、そういう便利なモノゴトに行きあたらないみたいです。それに、あれやこれやこねくり回してみたからどうなるというもんでもないところもあり、ある日、「あ、そうか」なんて、スッとわかってしまう場合もあると思う。全体的に、それまで気長く待ちましょうということなんですが、前にも申したように、いまは経過報告を書いているんです。

 でも、言葉で書けなくても、いずれつかまえることはできるのではないか。現在、年末のコンサートに向けて準備中で、ピアノを弾きながらいろんなことに気づいたり、出会ったりしています。べつに物騒なことに行き当たったわけではなく、気づいたら受け入れることにしてます。音楽の意味内容というのはほとんどが私的なことですが、それを公表するために、誰でも受け取ることができるようなある形式に隠しまして、社会に出すわけです。作曲もピアノの演奏も、どちらもこの原則は同じです。

 そこにある音楽作品というのは、あるイメージを呼び起こすためのからくりです。からくり自体が作曲者の個人的なイメージを聴き手に押しつけてくることは「ない」。ぼくはそう思うんですが、どうですか。誰かの意見とかイメージを信じるように強要されたら嫌でしょう。まともな作曲家なら、自分の個人的なイメージをしっかり言いはしますが、聴く人に押し売りすることは避けて書いているはずです。聴く人のほうも、アタマの中に何もないということはなくて、なんか思っているでしょう。それが目の前のからくりに触発されて、何がしか動く。音楽を聴く体験は、このほうが風通しがよくないですか。この相互の働きが音楽の世界のコミュニケーションというものだと思うのですが、どうでしょうか。これがないと、なんで音楽を押しつけられているのか、聴く人はわけがわからない。そして、戸惑った揚句、この曲はどういう主張をしていますかとか、実験と考えればいいのでしょうかとか、他人が考えた外的な意味づけがないと安心できない。つまるところ、好き好んで音楽を聴いて主体をなくして、外的な意味づけに頼って安心したいわけで、こんなことで面白い音楽体験と言えるのか、ぼくには疑問です。

 全然関係ないことですが、先月のいつだったか、自宅で左肩をぶつけました。床にあぐらをかいてパソコンに向かっていて、一息入れようと背伸びをしたら、バランスを崩して後ろにひっくり返ってしまった。どこにぶつけたか知らないけど軽度の打撲で、脱臼とか骨折でなくてよかったよー。なんかひとつのことに打ち込んでいると、ほかのことが散漫になるのかな。気をつけましょう。この話はそれだけです。

 ある意見とかイメージを誰かに伝えたいとき、その「誰か」は、普段から親しくしている人たちであるほうが伝えやすい、確かにそうでしょう。だけど、みなさん共通のモードをこしらえて、その中でならどんな意見も共有できると思ってるんだったら、それは違うんじゃないですか。あらかじめ世界中をひとつのモードでくくっておけば、自分が書いた曲はなんでも通用すると考えている如才ない作曲家が、どうやらいるらしい。そんなら、いっそ作曲なんかやめてしまって、モード作りに専念したらどうかと言いたい気がしますね。符牒みたいなものでつながっている人間関係は、信頼とは別物だと思うんだけど、どうでしょうか。

 レトリックを探して書いていたら、こんなようなことになりました。言いたいことが伝わるでしょうか、経過報告として出してみます。ご高覧下さい。

[2013年10月25日(金)/続きは後日]

262.
「遠近法のお話…」

 きもつ(気持)の中で、しきりに「遠近法」について書かんかい、という声がこだましてますんで、思うところを“メモしときましょう”(刑事コロンボ)。

 いったい、この「きもつの声」というのは馬鹿にならないようだ。それはやってくれる、じゃなくて、やって来る。ほかならぬ自分の肉声なんだけど、ある日、あるとき、霧の向こうから呼びかけてくるように、やって来る。幻聴のような病理的な声ではなくて、音声が聞こえるのではないけれど、アタマの中にしっかりこだまするんですよ。

 ぼくたちは義務教育の時代、多感で感受性も強い20才以前に、べんきようをさせられる。「便器用」は人間だれにも必要だから止むをえぬことかもしれんが、毎日こればかりでは、くたっと、くたばってしまうま。ぼく自身は、どうもこの時期の過酷なべんきようのせいで、楽しい遠近法を抑圧したり、見られちゃまずいもののようにひた隠しに隠し、押し殺して、おしっこおろして、なんであんな苦しい青春を過ごさねばならなかったんだろうね。つまりべんきようと遠近法とに引き裂かれ、分裂して過ごした過去を、ぼくたちはみんなしょっているんではないですか。

 その甘酸っぱいけど苦くて(どういうカクテルだろう?)、げらげら笑い転げていたが苦しみの連続だったような思春期の、キズの舐め合いが大人の世界のモラルだとしたら、よく知りませんがおじいさんは泣いてしまうよ。泣いてしまうま。「よ」と「ま」は形がよく似てますから、よく書き間違えるんです。まくかきよちがえるんです。なんでシマウマにこだわってんのかと言うと、別に理由はないんだよ。実を言うとビールひっかけてちょっと酔ってましてね。文法があやしい。ビールをひっかけたと言っても、アタマからビールを浴びたわけではなく、口からビールをコップ2杯ほど飲みました。たったこれっぽっちの飲酒で文法があやしくなるなんて、情けないってか?

 中学3年生のぼくは、2年年下の和美さんにコクられました。それはいいんですが、この和美さんがしきりにしししーれーということを連発する。やめてくっさい!ってのもあったぞ。えーと、ちーと解説が必要ですかね。やめてくっさい!はいいとして、しししーれーは何のことだか分らん人がいると思う。新潟中部方言では、「しらじらしいよ」を「しらじらしいれー」と言うことがあって、和美さんはさらに勢い込んでしししーれー しししーれーと連発し、挑発したつもりだったんだろう。13才や15才の男や女には、粋なファッションだったのかもしらんけど、こっちはムードが台無しだったりしてね。

 ひょっとして、あれは空耳(そらみみ)だったか。

 みんなで歌おうはっはっは。

 ぼくは先日も、遠方の彼方からラヴ・レターをもらって、『ラヴ・レター・フローム・カナタ』と2度歌ったんですが、周囲の女人たちはだれも笑わなかった。しししーれー。少しくらい反応しろよ(笑) どうも彼女たちは義務教育で遠近法を喪失したように見える。

 遠近法を復活するのに絶好のタイミングを見つけて、遠近法を復活しよう。そのためなら、わたくすたちはひつようなべんきようをするでしょう。そうすることで、いためつけられたししゅんきのモトをとるでしょう。あんま力弱い結語だけど夕日に向かってダッシュしながら「きっとよ!きっとだよ!」

[2013年12月20日(金)/続きは後日]

263.
「バッハとピアノと日常性」

 先日の自分のコンサートで、バッハの『フランス風序曲』を弾いて、いろいろ気付いたことがある。この曲の演奏は、さまざまな情報の「量」と「質」のコントロールの問題なんだなというのが、やってみてわかったことでした。「量」のほうは、楽譜にたくさん音符が書いてあるんだから、それをさばく技術ということになるが、「質」のほうは、ほかの多くの作曲家の鍵盤音楽の場合と事情が違うようだ。どうやら、事前に弾き方を考えておいて概ね自分の企画に沿って演奏するという、いつものぼくのやり方では、対処できない問題が伏在しているらしい。楽譜からは読み取れない、さまざまな性質の「質」の集合体がこの曲の本性なんじゃないのか。(同様のことを高橋悠治がすでに指摘しているが、彼の論説の受け売りではない。)

 だとすると、このバッハが差し出す曲の内容は、20世紀半ば以降の偶然性音楽や総音列音楽と直結するところがあるということになる。これはちょっとややこしい問題だが、ケージが提案した「偶然性」に対し、ブーレーズが「管理された偶然性」を強調した例の論議なんかとも関連付けることができる。そして、ケージは「音楽は日常の一部です」と言っているから、バッハの音楽の「質」の問題は、こんにち的な日常の問題とつながって来ると考えることもできそうです。しかし今日は、話題をバッハの音楽に限ることにする。バッハと20世紀音楽はよく比較されるが、偶然性や日常性の論議にバッハが出てきた機会はなさそうなので、ここに出しておきます。

 ヘルムート・ヴァルハが弾く『フランス風序曲』の録音を、小・中学校時代、さかんに聴いた。このLPはどこかに行っちゃって手許にないし、現在、入手困難で、聴くことができないんですが、はっきり覚えているのは、演奏が少しよたっているということだった。ヴァルハは盲目の人だったが、だからよたっていたとは考えにくい。当時ぼくが作曲を習っていた先生は「探しながら弾いてたりしてね」と冗談半分に言っていたが、ヴァルハのようなよたった『フランス風序曲』の演奏は他を探しても見当たらず、その後長く印象に残っていた。

 この曲の練習の段階で気がついたことは、各音の粒をそろえて弾こうと思ってもできなさそうだ、ということだった。いろんな人がこの曲を弾いているが、いずれも幾分遅めに弾いて、各音の粒を意識的にそろえている、のではないかと聴こえるんですが、違いますか。粒をそろえて弾かないとCDにならないし、コンクールで賞が取れないから、各音を均質に弾くように心がけているんじゃなかろうか。

 この曲のほとんどのレコーディングの演奏時間が30分前後だが、どれを聴いてもやや長い。スヴャトスラフ・リヒテルはすべての繰り返しを行なって37分もかけて悠々と弾いている。リヒテルは確かに巨匠に違いないし、ぼくもリヒテルのファンですが、ちょっと37分は長い。

 ぼくはこの曲を「芸術音楽」として弾くことをやめようと思った。バッハの時代には市民のためのコンサートもなかったし、“プロの鍵盤音楽演奏家”もいなかった。「芸術」という概念もなかった。テクノロジーもなかった。メトロノームもまだ発明されていなかった。ぼくは、そういう時代のチェンバロやオルガンの演奏はどういうものだったか、想像してみたが、どうもうまく想像できなかったから(苦笑)、コンサート本番では、要するに弾きたいように、自分が弾けるように弾いてみましたよ。練習段階で幾分遅めに弾いてみたところで、各音の粒がそろうというものでもなかった。なんか、粒をそろえるための特殊なトレーニングが必要に思われた。それは不自然な感じがしたので、やらなかった。

 この曲を速く弾いているピアニストもいる。ぼくが知る限り、ワルター・ギーゼキングと高橋悠治、この2人は、どちらも18分ほどで弾いている。高橋悠治のほうは、遅い部分を極端に遅く弾き、速い部分は極端に速く弾いて、はっきり対比させているから、ちょっと異質なアプローチかもしれない。繰り返しの指定も全部省略している。ギーゼキングは繰り返しの指定のある個所のうち、全部じゃなくてところどころ反復し、全体的に速く弾いている。

 この2人のようなアプローチは、時代考証の結果なんかではなくて、直観的な判断だろうと思うんですが、ひとつ言えるのは、現代のピアノは、チェンバロやオルガンよりも音色が均質でつまらない場合があるということですよ。まあ、厳密に言えば均質ではないんだけど、合理的な演奏法を目指していると、音色も似てくることがある。だからピアノの音色で30分もやってると、聴くほうも弾くほうも飽きるのではないか。ぼくはこれを考えました。『フランス風序曲』は冒頭の「序曲」が終わったあとは11曲の舞曲の羅列で、ドラマティックな展開もないから、音色は重要なファクターだと思う。チェンバロやオルガンのようにレジスターで音色をガラッと変えることは、ピアノではできない。全体がだれるのは嫌だった。

 先日のぼくの演奏は、とにかく出してみたというところがあり、スタジオ・レコーディングのように器用にいかなかったかもしれない。ミヒャエル・プレトリウスの『テレプシコーレ舞曲集』のように陽気に弾いてみようという心づもりで、陰気な演奏にはならなかったけれど、ねらいがどのくらい実現したか、あるいは見極めが浅かったか、もう少し時間がたってみないとわからないことがあるようです。 

[2013年12月30日(月)/続きは後日]

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