目次

江村夏樹が作曲や演奏で実践していること
(何を考えてやっているか)
そのXIV

江村夏樹


285.
「2016年になりました」

 2016年です。引き続きやれるだけやりましょう。

[2016年1月3日(日)/続きは後日]

286.
「例えばオーケストラのことなど」

 去年は公私にわたり多忙だったせいで、7月に金沢に旅行したあとは自宅からほとんど離れなかった。コンサートにも展覧会にも映画館にも行かず、読書も散歩も飲み会も大してやらなかった。たまに自分の生活圏から外に出て旅行したり、自分の専門から離れて違う分野の人たちのしごとを楽しんだりすることも、すこし取り戻したいような気分になっている。

 この1月は、頼まれて曲をひとつ書いた。もう1曲書く予定で、これは2月の作業になる。

 自分はオーケストラの曲を書かず、もっぱら室内楽を作っていることとも関係があるんでしょうが、長いあいだ、ヨーロッパの管弦楽曲を聴かなかった。毎日耳にしていたのは17世紀の小編成の古楽で、このほうが自分の波長に合っていたから楽しんで聴いていました。ここ数日、客間のオーディオで久しぶりに近代や現代のオーケストラのCDを聴いたら、響きがかさばって、やや大げさな感じがしたが、組織を維持しなければならないという、オーケストラが抱える現実的な問題を意識するまでは、ひとりの聴き手として、その大規模な合奏を純粋に面白がっていた。だけど自分が少しばかりモノがわかるようになったからといって、オーケストラを捨ててしまうのは了見が狭いですよ。それなりに楽しめばよいのではないか。

 別にオーケストラを聴かなくても、近所の神社で催される大規模な薪能のほうが面白い、という事情もあった。少人数なのに、こんなに豊かな舞台が作れるという仕掛けが面白い。そっちのほうに惹かれていました。

 オーケストラというのはヨーロッパ芸術音楽の伝統の中枢らしい。これはぼくたち日本人には、共感はできても実感できない部分があるんじゃないだろうか。オーケストラという巨大なからくりが、例えばドイツ人の音楽の拠り所なのだそうです。かの地の人に話を聞くと、どうもそうらしい。

 日本の場合、そういう確固とした伝統が感じられるのは、へんなことを言うようだが例えば相撲ということになる。あの国技はスポーツではなくて、いにしえを訪ねると演劇の起源なのだそうな。結構なものには違いないが、しかし普通に伝統芸能と言う場合は、能楽とか民謡というようなものでしょう。こういう種類の芸能はぼくたち日本人の日常にいつもあるわけではない。ぼくだって日常的に聴く音楽は洋楽が大半で、作曲でも演奏でもピアノやヴァイオリンを使っています。こういう事情のせいで、日本人が音楽や演劇を新しく創作する場合、「これは日本の伝統に則った新しい創作です」と言えるだけの論理や感覚の裏打ちが希薄だ、だからあんたが作った音楽や演劇には「意味」とか「意義」が認めにくく説得力を欠いている、などと攻撃される場合がある。ヨーロッパやアメリカの人たちは、自分たちの伝統というものを彼らが信じている、少なくとも表向きは信じていることを、彼ら自身、ほかの民族や共同体に説得することを全くためらわない。少なくとも「グローバルな」人たちの“確信”は、かなり強硬な場合が多い。

 ですが、そんなことじゃないのよ。「音楽」をやる場合、日本のぼくたちも、自分の信じるところにしたがって、やりたいように音楽をやればいいはずなんだ。それを信じることができるかどうかという問題は、他人の問題ではなくて自分の問題なんだというようなことを書いておきましょう。私やあなたが何かを本当に信じているかどうかは、ぼくや彼、彼女の顔つきや声の調子でおよそ見当がつく。それは、わかりやすく筋の通った言語で説明ができるかどうか、なんて問題じゃないですよ。日本人の場合に限らず、じつは世界中どこへ行ってもこのことは変わらないんじゃないかな。

 思いつくままに書いて、うまい結び方を思いつかないので、家の近所に以前あった讃岐うどんのお店のことでもおしゃべりしましょうか。すでに閉店してしまったこのお店について、ひとつ疑問があった。何回か食べに行きましたが、会計の卓の隣に巨大なガラス張りの水槽があって、ゆであがったうどんをその中に放り込む。しかるのち、女店員さんが、その水槽の中に腕を突っ込んでかき回し、冷水に泳いでいるうどんを手でわしづかみにして丼に盛り、客に出していた。ぼくは讃岐うどんの伝統はよく知らないが、この、なんとなくきたならしい調理方法が正しいのかどうか、判断できない。わりあい繁盛していた店で、疑惑の調理法が嫌われていたわけではないが、香川県のみなさん、どうなんですか、讃岐うどんはこれでいいんですか。

[2016年1月31日(日)/続きは後日]

287.
「夜歩く」

 2月末に風邪のようなもので熱を出し、月が変わる前にこのページを更新する予定が狂ってしまいました。インフルエンザだったらまずいなと思いましたが、熱は38度以上は超えず、用心しながら少し散歩するなど、軽く体を動かしていたら微熱程度になり、その微熱も下がりました。あれこれの用事が遅れて、片付けているうちに3月も半ばを過ぎましたよ。

 ぼくたち人間が音楽を聴いて喜ぶとか、絵を見て喜ぶという体験の中には、バカがつくほど単純な心理がある。「バカとは何だ、バカとは!」という罵声が聞こえてきそうだけど、ぼくも含めてこれは本当だ。芸術創作の核は幼児性や小児性だと言いますが、実際これはほんとうのことなんですけれけれども、それをとりまくもっと広い領域がある。大変ファジーで大まかな心の耳と目を、ぼくたちは持っている。それを感覚の広がりと言い換えてもいい。その広がりがなければ、音楽も絵も面白くないですよ。音楽や絵の制作や鑑賞は、その、ファジーで大まかな感覚の広がりがなければ成り立たない。音楽や絵を制作する場合、いやになるほどことを具体的に、かつ精密に実行する必要があるんですが、その最中も広がりの感覚を失ってはならない、というよりも、具体的で精密な作業を続けながら以前よりも広がりと幅を獲得すると言ったほうが、事実に即しているでしょう。制作者も鑑賞者も自分の“中に”鑑賞者を持つということで、ただ単にそこにある作品を受動的に見聞するのとは全然違う。そういうわけですのでね、ベルリンに拠点を置き、現代音楽のビジネスを展開することにした日本の某有限会社の女社長はただのバカ。お金になりそうな現代アートをかきあつめるだけの幼稚な傍観者だということに、気づいたほうがいいよ。

 深夜、ぶらっと外に出たくなるときがある。酔っ払ってるわけでもなく、散歩というほど長時間歩き回るわけでもなく、ただ近所のスーパーに行って、塩せんべいかシュークリームみたいなのを、金額にして200円分ぐらい買ってくるだけだ。ぼくは全くと言っていいほど間食をしないが、夜中にジャンクフードのたぐいをつまむことはたまにあります。つまみながら本を読んだり、ネットであれこれ検索したりして、気を抜いている。

 和菓子は高いからあまり買わないが、道明寺柏餅なんかを物色していて、ふと、このスーパーを解体して、さら地に必要最小限のものだけ用意して生活したら気分がいいだろうなあなどと考えた。冷暖房はどうするか知らないが、風呂とかトイレとか、必要なら個室などは簡単なベニヤ板で囲って、それ以外は一面の芝生に敷居なしという具合で毎日生活するのはどうだろうか。屋根はないのかとか、食物の調達はどうするかとか、現実的なことは全然考えていませんで、だだっ広い空き地みたいなところに家屋を建てずに暮らすのも素敵じゃないかと、一瞬、考えたのです。キャンプ生活なんかもう永らくやってないが、あれに近い感覚だろうか。森敦の『月山』に、よく似た居住環境が出てきますね。主人公が、山形県のお寺に泊まって冬を越すんだけど、寺の2階が火の気のないだだっ広い広間になっており、その一角を障子でもって囲って、その中で寝起きする。吹雪が吹き込んでとても寒く、熱い味噌汁を飲んで暖をとるとかいう話じゃなかったかな。

 3軒あった近所の古本屋がみな店をたたんだ話はいつか書いた。街の大きな書店は、店だけはあるけど在庫が乏しい。不況で、在庫を抱えていると店がつぶれるからか。CD屋さんもホビーショップも電気店も、みな消えた。インターネット通販でしか手に入らない物品も多くて、部屋から一歩も出ずにショッピングをする機会が増えた。当然、街から脚が遠のいたんだけど、ぼくは最近、5年ほど続いたこの引きこもり傾向もいかがなものかと思って、以前のように、またぶらぶら外を歩き回り始めた。街は、見たところ以前よりつまらなく見えるんだけれども、はてしなくつまらなくなっていくということもないだろう、ぐらいの気持ちでなんとなくぶらつく。コツのようなものがある。目を皿のようにして「オモシロそうなもの」を物色するのは、いい加減にしたほうがいい。意識に引っかかってきたものを拾って歩くほうがいいみたいだよ。

 だいぶ前のことですが、山手線車内で痴女さんから体でアプローチされたことがある。1回だけですよ。痴漢が犯罪であることは言うまでもないし、そんなのに巻き込まれて危険な目に遭うことだってある。注意するに越したことはなのは重々承知で、でもあの時はこの程度の痴女なら許す、という気持になったもんです。断っとくがぼくにはその種の趣味はないよ。ないけど、世に痴女さんはいらっしゃるらしい。その日の夜にコンサート本番を控えていなかったら、この痴女さんともうちょっと付き合っていたかも知らん(笑)付き合わなくたって、そう思うぐらいならいいじゃありませんか。

 たぶん、いまのぼくは人生でいちばん仕事量の多い時期を生きている。な〜んちゃって。いきおい、お散歩や行楽や旅行は後回しにしやすい。ですが、晴天にもかかわらず自宅の机に向かって、気がついたら夕暮れ時というような日常を過ごしながら、自分の態度をよく観察していると、いまやっている作業の延長線上に「外に出ること」が載っていることがよくある。際限もなく机の上の作業にのめりこむというのは、意識の日常にとって自然なことではないようだ。そういうときは、やりかけの仕事は脇に置いて、素直に外に出てみたらいいと、あるとき思いました。「夜歩く」こともたまにあるのですよ。春が来ますね。

[2016年3月17日(木)/続きは後日]

288.
「作曲家の身体性」

 世のピアニストを大きく2種類に分けると、作曲はやらない専業ピアニストと、作曲もできる兼業ピアニスト、ということになるだろう。多くの場合、ピアノ専門のピアニストのほうが技術的に器用なのですが、作曲家が弾くピアノは不器用な代わり、その作曲家独自のコンセプトが面白くて評価されることがある。

 自作自演の作曲家兼ピアニストとして活動している人たちは別として、専門の作曲家でピアノの職業的名手という人は、案外少ない。ルーカス・フォスとかレナード・バーンスタインなんかは、両立がうまくいった人たちでしょう。ピアノや指揮の演奏活動のほうが評価されて、作曲もやるけれども、作品はあまり面白くないという場合もある。あえて名前は挙げませんが、このたぐいの人たちの作曲は往々にしてだらだら長く、緊迫感や迫力に乏しい場合が多い。キース・エマーソンのように、クラシック・ピアノを完全にマスターして、活動はプログレッシヴ・ロックという人もいる。ぼくはキース・エマーソンを尊敬しますが、その理由は、あれだけピアノがうまくて、自作の『ピアノ協奏曲』などはあまり前衛的ではなく、むしろ大衆向けに書かれていながら、充分面白い曲になっている。こういうことは芸術音楽畑の作曲家は案外やっていない。(人のことは言えないか。ぼくもやってないから。)

 バーンスタインは晩年、自分はもっと作曲家として活動したかったと述懐したそうですが、実際この巨匠のピアノ演奏は、しっかりヨーロッパの音楽伝統にのっとっており、彼の『ウェスト・サイド物語』や『交響曲第2番《不安の時代》』に聴かれるオリジナリティを、必ずしも反映していないように聴こえる。推測ですが、バーンスタインはピアノを弾くときは作曲家としての自分を殺して引っ込めていたんじゃないだろうか。

 大半の作曲家が弾くピアノ演奏は、技術的にはいくらか破綻のある場合が多いが、音楽ファンはそれを承知で、かえってピアノ専門のピアニストにはないものを求めて作曲家が弾くピアノを聴く場合がある。それでいいんじゃないのですかねえ。ピアノの技巧家だったラフマニノフやプロコフィエフはもちろん魅力のある人たちだけれども、こういう、ピアノがうまい作曲家のピアニスティックな魅力ではなくて、作曲家が「ピアニスト」になったら失われてしまうようなある種の面白さというものは、また別にある。こういうものは、多少技術は破綻しても、不完全な演奏が訴えてくるほうがいいのではないか。

 ピアノを弾く人は男であるか、または女である。んなことあたりまえだろう、あんた、なに言ってんですかと馬鹿にされそうだが、「音楽における性の問題」は、置き去りにはできない意味を持っているのじゃないかと思う。それは生物学的な男女の区別の問題ではなく、心理的に、自分が男か女かという自覚が欠けたピアノ演奏は、なんか肝心のことが抜け落ちた音楽になっているんじゃないか。これは感覚の問題ではなくて、もっと具体的にピアノ演奏の技術にかかわる問題ではないかと、目下、探りを入れています。えっちな話ではなくまじめなことなので、誤解するな。

 作曲家が弾くピアノ演奏は、専門のピアニストの演奏にはない面白さがあると言われることがありますが、それは演奏中にその「作品が」でも「ピアニストが」でもなく、ピアノに向かっている「作曲家が」行動している、その行動がユニークで面白いからである。普通は作曲家は楽譜を書いている人ですが、楽譜を書いているときと同じ精神活動がピアノ演奏の場合にも働いているわけで、それは必ずしも、いま弾いているピアノ曲の作者、例えばベートーヴェンやショパンのコンセプトと一致するとは限らない。それどころか、全部一致なんかしないと言ったほうが事実に符合する。これは、ごく一般的に言っても、作曲家のピアノ演奏の場合だけでなく、あるピアノ曲の意味内容を、その曲の作者以外のピアニストが全部理解して所有しているということはありえませんよ。ぼくはありえないと思う。のみならず、作者自身だって、自作の「意味内容」を全部理解している、なんてことはありえないのじゃないですか。

 作曲家ではない専門のピアニストで、技術は申し分ないのに、ある種の曲を弾くと、どんどん楽譜から脱線していく場合がある。普通の耳で聞けば、それは不完全な演奏には違いないのだろう。しかし、にもかかわらず聴き手をしていろんなことを想像・連想させる、印象深いミスだらけの演奏というものに、ぼくたちはしばしば出会うという、経験的な事実がある。これを「不正確だから“再現芸術でない”」などと斬り捨てるのは狭量すぎるというものです。

 1980年代初頭、「ダイレクト・カッティング」という録音技術で制作されたLPレコードが出回った時期があった。スタジオ収録で、楽器の音の空気の振動を、磁気テープに録音するのではなく、直接レコードの盤面に刻み付けるというもので、いちばんナマの音に近いハイ・ファイ録音といわれた。もう少しあとになるとPCM録音というものが出てきて、とても音がいいと評判だった。この時代のレコードは、録音だけでなく演奏もミスのないものがとりわけ尊重され、ピアニストならポリーニ氏のようなサイボーグ・ピアニストが音楽ファンを驚かせた。現在、CDの中には、演奏は技術的に不完全で録音もひどく悪いが、演奏や録音が「モノとして」無類に面白い、というのが少なくない。どうも一時期よりも「完成度」をしゃにむに追求しなくなったのではないかと思われるふしがある。ぼくは一介の作曲家・ピアニストとして、完璧な技術を持っているわけでもなんでもないが、技術は達者なのに表現が出来ない作曲家や演奏家に較べたらましだと思う。表現に必要な技術が身についていれば、それでいいのではありませんか。

 違う人が集まれば、一人ひとり、言葉遣いや生活習慣が違う。作曲家が作曲する場合も、となりの作曲家とは違う曲を書く。それは、その作曲家がアタマの中に持っている「身体性」によっている。それなら、彼がピアノでひとの曲を弾く場合も同じだろう。ひとの曲を弾くときには、自分の「身体性」とは少し違う体の使い方と向き合っている。その相違を全部平らにならして「再現芸術」だの「グローバリゼーション」だのを言うのは乱暴すぎると思う。

 テレビがデジタル化しまして、しばらくは画面がきれいで毎日張り付いて見ていたものであった。それが、半年ぐらいで完全にテレビ離れになってしまった。ヴァラエティもドラマも見なくなった。どうしてこういうことになったのか。デジタル・テレビのプログラムは、「話がうますぎる」のではないだろうか。

 本当は、音楽やピアノの話だけでなく、もっと広範な現実について書くつもりでしたが、目下の自分の興味が、上に書いたようなことで、ほかの話題は材料が乏しくてまともな文章にならなさそうだから、時間を見つけてちょっとずつ書いたものをお出しします。なお、掲載した写真は拙宅近所の公園の、今春のお花見風景です。4月アタマのお昼時、でっかいお好み焼きをいただきながら撮影しました。なんだかもたもたしてて桜の季節は過ぎてしまったけれども、和やかで結構なお花見でした。

[2016年4月17日(日)−5月2日(月)/続きは後日]

289.
「衛生観念のことなど」

 日常を自分から追い出して純粋に音楽しようなんて気持はぼくにはないですよ。かつて「音楽とは、美しいものですよ」と鶴が鳴くようにぼくに諭した吉田弘美さんという笙奏者は、名前をさっぱり聞かなくなったが、なにをしてるんでしょうか。もし音楽が美しいだけのものならば、そんなものには、ぼくは興味はない。日常がいくらか汚れており、都合のよいものだけでなく不都合なものも含んでいるように、音楽だって汚わいなものや非合理なものも含んでいる。含んでいなきゃぼくたちは非常に困るということにお気づきでしょうか。

 アンドレ・ジッドの『狭き門』の女主人公は、「神を愛するがゆえに、彼を愛せない」。これは、例えば浄土真宗の親鸞和尚が、浄土門の戒律を破って肉食・妻帯したのとは正反対で、いわば“異常な純潔”を追い求める、馬鹿に付ける薬はないとでも言いたくなるような女性(笑)ですが、こういう人間は小説の中だけでなく現実に実在するようですよ。美しいものを求める人間の気持は大事だけれども、それだけでは不充分で、美しさとは対極にあるもの、醜いもの、きたないもの、いやなものに対する一種の注意も必要ですよ。日本人は外来文化に接するとき、このジッドが描いた女主人公のようになってはいかんのです。

 「きれいな現実」と「きたない現実」を分離してしまって、「きたない現実」は区別して破棄する。日常生活でゴミを捨てるように、創作・フィクションの世界でも「きたない現実」を追放したがる傾向があるみたいだけれど、小説でも絵画でも文学でも音楽でも、作品の中には忌むべきものが山ほど描かれている。ぼくたちはごく普通の態度でそれを鑑賞し、楽しんでますし、それでいいんです。ただ忘れてはならないのは、そういう忌むべきものは本来、ぼくたちの日常に普通に存在するということです。実在するものを題材にして創作するから、架空のツクリモノとのあいだに関連がつく。そうでなければ、わざわざ忌むべきものを題材にとって創作する意味がないわけですよ。

 かといって、きたない日常生活を愛する、なんて言ってる人もいますが、これもおかしいんで、不衛生なものは適当に処分しながらぼくたちは生活しているわけでしょう。今はどうだか知らないが、一時期AV業界でスカトロジーを「リアリズム」と言ってました。これはAVだって創作の世界だから業界用語として使ってる言葉であって、普通一般の日常で言う「リアリズム」とは意味が違うなんて、ぼくがわざわざ言わなくたってみんな知ってますよ。しかし現実は、芸術の世界でこの区別が出来ない人たちがいるようなのです。

 ぼくがどれだけだらしのない、紙くずが散らかった作業場で生きているからといって、味噌とくそをまちがえるようなことはしませんよ(笑)。まあそういうことです。ベートーヴェンという人は衛生観念がひどくルーズだったそうで、道を歩きながらあちこちにツバを吐き、極度に散らかった仕事部屋のピアノの下に「中身を空けていない室内用便器」が置いてあったと、伝記作者が書いています。だけどいくら不衛生と言っても、そのへんが限度でしょう。ヨーロッパ芸術が発達した実際の環境のなかにはこうしたこともあった、というひとつの参考にはなるような記事ですけれどね(笑)、率直なところ、こんなことを書きながら、かなり心理抵抗がある。ぼくは部屋が散らかってる割には潔癖の傾向があって、きたないものが嫌いなのはいいとしても、むしろあまり潔癖でないほうが生活がやりやすいようです。「整理癖がない」とでも言えばいいのかな。

 音楽の世界でこの「きたない」ということを考えたいが、これは文章では表現しにくい。それで、簡単な例を挙げるにとどめますが、ヨーロッパの十二平均律でいうところの「協和音」、つまりきれいに鳴り響くと言われているド・ミ・ソの和音などが、ほかの地域の民族音楽の中に置かれるとたいへん不自然に聞こえるということを、多くの人は知っている。唐突過ぎるし、変に濁って聴こえますよ。あまり「きれい」じゃない。どちらかというと「きたない」音がする。この論議はとても考えさせられる事柄を含んでおり、長くなるからこれ以上展開しないことにします。とにかく、いま挙げたような経験原則は存在する。これを指摘すればさしあたり充分でしょう。

 あのー、例えばスーパーへ買い物に行くと、やかましく騒いでいる子供たちがいる。金切り声で叫んだり、泣き出したりしている。うるさくてかなわないから、静かにしてもらいたいんだけど、子供というのは何かと騒ぐもので、こういうことも日常の一部であって、ぼくたちの現実のテクスチュアは、こういう余計なことも混ざり合って成り立っている。それが日常のひとつの形だよね。そりゃ、子供は静かにしていてもらったほうが、周りの人はストレスに悩まなくて済むから、公衆マナーをお子さん達も覚えてもらいたい。だけどこういう凸凹を全部削ってしまえば理想的な住環境になる、というような筋運びでものを考えるのも、程度がある。全部この考え方で押し通すことは不可能だということもわきまえておいたほうが良くないですか。確かに、近所迷惑な事物は存在する。しかし、極端な言い方ですが、そういうモノゴトを全部殺すわけにも行かないんです。ついでに書くけど、50を過ぎたオトナがわめいてんの、あれどうにかなんない?まさか殺すわけにもいかんでしょう。

 話が飛躍しますが、腹の皮がよじれるほど笑う、ということはときどきあったほうがいいですよ。精神の衛生にかなっている。こういうのは理屈じゃない。これでもってストレスが“吹っ飛ぶ”場合もあるから馬鹿にならない。人が可笑しいさまを見て笑うさかしらな真面目人間がいる。傍観者である。自分は笑われる側にはまわらないなんて、ずるいですよ。ぜひとも自分を笑うゆとりを持ってもらいたいと思うのですが、いかがでしょうか。

 今回掲載した写真には、能舞台が写っています。先日、5月27日にうちの近所のさいたま市・氷川神社で開催された第35回大宮薪能の開演前の様子です。番組は素謡『翁』(シテ=金春憲和)、能『葛城』(シテ=金春安明)、狂言『昆布売』(野村万作・萬斎親子の競演)、能『乱』(シテ=宝生和英)。日が落ちると空気が冷えて少し寒かったけれど、まことに結構な能楽鑑賞だったことをご報告します。写真手前にお年寄りの禿げ頭が写っていますが、そのへんは大目に見てやってください。

[2016年5月26日(木)−31日(火)/続きは後日]

290.
「風呂と便所と手の話」

     いい湯だな いい湯だな
     湯気が天井からポタリと背中に
     つめてエな つめてエな
     ここは北国 登別の湯


 今は亡きコメディアン、いかりや長介が率いるザ・ドリフターズのヒット曲にこんなのがあった。『いい湯だな』という題の歌で、いま調べてはじめて知ったんですが、作詞が永六輔、作曲がいずみたく、だそうです。この歌が流行ったのは、かれこれ40年以上前のこと。ぼくはまだ幼稚園に通っていた。

 「湯気が天井からポタリと背中に」。子供時代のぼくには、この歌詞の意味がわかっていたのか、いなかったのか。とにかく流行り歌だから覚えるのは早くて、そらで歌っていたんですが、「湯気が天井から」ではなく「湯気が便所からポタリと背中に」と覚えこんじゃった。祖母が、はじめのうちはしきりに不思議な顔をしてぼくの歌を聞いていたが、突如、手を打って馬鹿笑いしだした。そりゃそうでしょう、湯気が便所から背中にぽたりと落ちたでは、なに言ってるのかわからんじゃないか。

 「幼稚園」「便所」というふたつのキーワードで思い出すことがある。そのころの子供の躾のしかたで、「悪いことをすると便所から手が出る」と言いつける、というのがあった。変なのがあったもんだね(笑)なんで便所から手が出るのか知らないが、当時はトイレは水洗化されてなくて、便器にまたがって用を足していると便槽の中から手が出るというのだ。子供にはなんとなく不気味なイメージだった。

 ぼくは、実際に便所からその「手」が出てきたという記憶を持っている。しかしどう考えたって、これは実際にあったことではなくて、夢を覚えているのではないか。話が荒唐無稽にすぎるからだ。幼稚園児のぼくが汲み取り式トイレにまたがっており、文字通り便所から手が出てきたのだが、じつは、長さ2センチほどの小さな黒い手袋のようなものに金属の棒が取り付けてあって、便器の中から誰かが操って、「手」を開いたり閉じたりしているんである。父、母、祖母がその「手」を、操り棒ごとつかまえた。母がその「手」を洋服ダンスにしまう、という筋で、こんなことあるわけがないんだけど、これがしっかり幼少時の記憶として残っております。一体なんなんだ。

 ついでだから、幼少時の夢の記憶をもうひとつ。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』に、「ぶるぶる」という妖怪が出てくる。頭に白い三角頭巾をつけ、空中を浮遊する、歌舞伎の『東海道四谷怪談』のお岩さんのような女のお化けで、体の輪郭がぶるぶる震えるところからこの名がある。ぼくは幼稚園のころ、夜中にふと目が覚めたとき、この「ぶるぶる」が部屋を漂っているのを実際に見たのです。怖かったが、話の内容から考えて、どうもこれも、寝ぼけていたか何かで現実と夢がごっちゃになってできた記憶ではないかと思ってますが、事実はどうだったのかは、もう確かめようがない。

 「手」と「幼少時」で思い出した、当時のいたずらがある。家族でお茶飲みますね。ほうじ茶とか番茶とか。急須(きゅうす)というものを使うが、この急須の上蓋に空気を通す小さい穴が開いているのはご存知でしょう。ぼくはこいつを、セロファンテープを貼りつけてふさぎ、知らん顔して、頼まれたお使いをしに家を飛び出した。戻ってきたら、うちの人たちが、半ば呆れた顔をしてウケてましたよ。上蓋の空気穴がふさがってると、ろくに茶が注げないのだ。自分もやった(笑)という方もおられるだろうけれど、知らなかった皆さんは、家族の目を盗んでやってみてください。じつに面白いよ。(ちなみに、これはぼくの発明ではなくて、小学館の学習雑誌に載ってた「いたずらの仕方」を実行したまでです。)

 現代はうかうかいたずらもできない世の中である。いきなり真面目な話になるけど、ホントだからしょうがない。「いたずら」っていうのはアートの本質で、日常生活で「してはいけないこと」もやっちゃうのが、いわゆる芸術の面白さだったはずなんだ。それが、たかだか機能性を無視する程度の表現行為が禁忌になってしまった。これでは冒険も挑戦も出来ない。挑戦する“掟破り”は村八分、たかが駄洒落ひとつ言っても「おやぢギャグ」なる烙印を押され、座がしらける程度ならまだいいほうで、たいていは島流しの刑に遭う。あーあー、困ったなあ。

[2016年6月29日(水)−7月11日(月)/続きは後日]

291.
「テレビやインターネットの生理的現実」

 夕食のときはテレビのニュースを見ていることが多いが、事件や事故、この夏はリオデジャネイロ・オリンピックの報道というような“内容”がリアルに迫るとか言うんじゃなくて、別のことを考えてしまう。

 ぼくは今ではテレビとか、圧倒的に普及しているインターネットに関して、完全な傍観者になってしまった。だがそれは、俺のせいじゃねえよと内心、言いたい気がする。情報の質の問題とかいうより、変なこと言うようですが画面に登場する人やものの「生理」が感じ取れないんである。

 リオデジャネイロ・オリンピックが終わったばかりなので、スポーツの話題から入りましょうか。ぼくはいちおう水泳ができる。雪国育ちだから、都会に移り住んで、凍える冬に室内プールに通って泳ぐ習慣が身につかず、スポーツ・クラブは2年でやめたから、また再開するには、それなりの準備体操が必要だろうが、基本のフォームは忘れていない。ほかに中学高校のころは短距離走が速いほうだった。というわけでスポーツマン精神はそれなりにわかるつもりです、もっとも、みんなが好きな野球やサッカー、テニスのような集団競技、球技のたぐいはぜんぜんだめだった。高校の球技大会でなぜかテニスの選手に選ばれ、その試合で生まれて初めてテニス・コートに立った(!)ぼくは、玉を打ち返さなければならないことも知らず、コートに突っ立って、飛んでくる玉をただ見ているだけだった、そんなこともあったっけ。

 そういうアホな試合体験もあったけれども、水泳とか陸上はまあまあだったから、スポーツ選手の汗みどろの闘いはいくらかわかるはずなのだが、テレビの前に座っていると、その熱い空気が感じ取れない。野球やサッカーが苦手で、テレビでのスポーツ報道に特別強い関心がないと言っても、毎日一応見ている。しかし「画面」が、さしあたりの興味にも応えてくれないから、晩飯を食いながらただ流してるだけだ。

 テレビならテレビというメディアの性質を、一応検討しておく段取りです。「テレビは現実の代用品である」とかなんとか、面倒な話を展開する気はないが、テレビ局の人たちは、いい加減な仕事をしているのではないだろうか。インターネットの場合は、情報の発信者は非専門家・一般大衆が大半だろうが、ネット上の情報は、煮ても焼いても食えない粗製乱雑なばかげた記事も多く、慎重に取り扱わなければならないという現実がある。にもかかわらず、インターネットのアーカイブもテレビも、現在、新聞や雑誌やムック本に代わる生活の情報源になっており、新聞や雑誌の記事の場合と同じく、伝達される情報には一種の「面白さ」がある。これはメディアに載っている情報の一般的な性質なので、情報は、カメラマンや記者やディレクター、あるいは一般の個人の働き次第で、実際の出来事よりも「面白く」できているほうがよい。みんなが見たい情報をいちはやく伝達するのがネットのアーカイブやテレビであって、より速く、より正確に、そして、より「面白い」情報を、ネットやテレビの視聴者は求めている。断るまでもないが、事故でけが人が出たとか、人死にが出たとか、台風で町民が避難したとか、そういう深刻な“事実”を、げらげら笑いながら見ましょうという意味で言っているのではないよ。念のため付け加えておきます。

 ネットやテレビの情報や報道は、多くの場合、それを見ている自分たちはその出来事の当事者ではないが、実際のとき・ところが伝えられているのだから、視聴者の日常と陸続きである。にもかかわらず、ネットやテレビの画面には、あるものが欠けている。それをひとことで言えば、妙な話ですが「現実感」というようなことになる。カメラやレコーダーが記録したものだから、正確に言えばそこにあるのは「現実感」ではなくて「現実感のようなもの」なわけですが、視聴者の興味を惹くだけの「質感」が全然ないようだ。視聴者にとってマスメディアやインターメディアの情報は自分達の現実の延長のはずなんだけど、テレビだってネットだって、現実の描写であり、報告であり、一種の表現だろう。それがしかるべく「質感」を伴っていないとなれば、そんなものに誰が付き合うのか。

 ネットやテレビの視聴者は、そんなものを無反省に信用しつつ、自分たちの「くそレアリズム」、そのものずばりの現実を生きたいが、それだけの現実感覚・実感が自分の生活に足りないから、ネットやテレビで代償満足したい、しかしそれは満たされない、というあたりが現在のマスメディアやインターメディアの実相かなあ。いくらネットやテレビの画面がリアルに迫ったって、その内容は、しょせん自分たちの身のまわりで実際に起こった出来事で、たいていは俺やあんたさんには関係のない他人の日常に過ぎない。それで“代償満足”しようというのは土台ムリだろう。これは私にとってもあなたにとってもずいぶん強引な筋運び、と言うより、深く考えなくてもわかるようにそもそも変なんで、満たされないのはわかりきって付き合っている「現実感のようなもの」となれば、テレビやネットの情報は日常でも非日常でもない、妙な性格の捏造だということになる。そんなものとつきあわなければならないほど、ぼくたちの日常は生活実感が乏しく、軽薄なもんなんですかね。逆に言うと、ぼくたちはそんなに切実にそのものずばりの「くそレアリズム」を生きたいのだろうか。そんな馬鹿な話はないだろう。鼻血が出るような恋愛、ゴムで作ったからコシが強すぎて噛み切れない蕎麦、便所とベッドと台所と玄関と防災用具を常備したテレビ収録スタジオBでの命がけの生放送、くそレアリズムの極限を想像してみれば、例えばこういったものになる。人々はこんなものがほしいのだろうか。

 「生理」というのは表現においては「質感」のことである。それは人為的に作られたもので、現実の肌触りそのものではない。だからなるべく上手に作ったほうがよいという筋運びになってるわけです。現在のテレビやネットには「質感」と呼べるほどの感触はないようだ。凸凹な「質感」は、やっぱり必要なんじゃないでしょうかねえ。

 今回掲載した写真は一月前、うちの町内の自治会が主催した納涼大会の模様です。部屋にこもってメディアと付き合ってるのもいいけど、アウトドアって楽しいです。ビール飲みながら結構な夏祭りでした。

[2016年8月22日(月)−31日(水)/続きは後日]

292.
「パソコンやスマホを使ってゆっくりする法…」

 ぼくは工学系のアタマではなく、機械のことは得意ではない。しかし、パソコンはもう誰でも持ってる電化製品になったし、パソコンどころか、手のひらサイズのスマートフォンを持たない人間は、出先で友達同士、ヨコの連絡が取れない世の中になっている。新聞記事によれば、スマートフォンやタブレットの出現でパソコンの売り上げが落ちた、なんて言ってる。これから先、世の中からコンピュータが消えることはあり得ないから、開発する人たちは、より使いやすい電化製品としてのパソコンやスマートフォンを作ってくれることでしょう。

 ぼくはパソコンを使って、自宅で音声ファイルや動画ファイルの編集をやってますが、実のところ、これはかなりヒマがないとできない作業です。というか、そういう結論に落ち着いた。その作業量が多いし、ほかにも自宅作業が多いから、出先で電化製品に拘束されたくないような気分なんです。思うに、コンピュータが普及したから通信も事務も効率よく便利になったというのは、行き過ぎた考えである。パソコンやスマートフォンがあろうがなかろうが、人間の日常生活にたいした違いはないですよ。飛行機を飛ばすとか、超難解な数学の定理の計算をするとかいう場合でもなければ、ぼくたちの日常というのはおおむね手作業で、手作業にまとまった時間と労力が必要なのは昔も今も変わらないんじゃないですか。

 だから、忙しいからスケジュール管理や通信や、音楽鑑賞などの趣味までをスマートフォンにまかせる、あるいは頼るというのは、ちょっと矛盾してませんか。スマートフォンがあって便利だから時間や気持にゆとりができるのではない。逆だろう。そもそも時間やゆとりがあるから、パソコンやスマートフォンを使うことができる、という順序じゃないのかな。この順序を取り違えれば、人間は際限もなく加速していくことになる。

 紙を漉くとか、魚を3枚におろすとか、コンピュータにはできない手作業がある。絵を描くにしろ音楽を作るにしろ、文字通りの「手作業」というのは、アナログだろうがデジタルだろうが、かなり長い時間、作業部屋に引きこもらなければできないし、ある程度の作業効率は考えるが、原因と結果が直線で結びつくとも限らない。ときには作業を抛り出してエロ本でも見ていたり、ぜんぜん違う方向で怠けたりというような、無用に思える時間も、合間合間に挟まっている場合がある。スマートフォンを持ってれば家にこもらず、街に出ている間もある程度のコミュニケーションとか通信ができるというのは、要するに雑務も含む時間のかかる手仕事と、効率がいいに越したことはない凡々たる日常生活との一本化をいくらかでも実現できないか、誰かがアタマを絞って考え出したんじゃないですかね。そのうち、スマートフォンが洗濯や飯炊きをするようになる、ですか。

 コンピュータというのは生き物ではなく「モノ」だから、ディスプレイに向かってなにごとかを行う感覚は、一方方向のコミュニケーションだ。仕事道具としてコンピュータを使う場合、これは必ずしも面白いことではなく、したがって相応に疲れる作業でもある。ぼくがわざわざ言わなくても、デスクワークをする現代人ならわかりますよね。疲れる作業である以上、一定時間これを行なったら、休んだほうがよい。

 あるいは、スマートフォンのように軽量化して何事にも手軽で便利な電気製品が現れると、小さなディスプレイの向こう側にどんな現実があるのかがはっきりわからぬまま、漠然と依存することになるのかもしれない。携帯電話もスマートフォンも持っていないぼくにはその感覚がわからないから、推測でしかものがいえないことをお許しを願います。コンピュータ一般に話を広げれば、それはいろんな種類のデータファイルを持ち込める一種の箱ですよ。持ち込むのはいいが、機械を濫用していると、データの整理・保存の必要ができたときにかなりてこずる。ディスプレイの向こうには、有益な情報もあるけれども、有害無益な粗大ゴミのほうが膨大だという現実はアタマに置いておいたほうがよろしいようだ。

 カスタマイズという言葉がある。パソコンを自分の使用目的に応じて、使い勝手よく機能を整理整頓すること。最近は手軽で便利なアプリケーションが増えているせいなのか、カスタマイズする、なんてあまり聞きませんが、とにかくIT機器というのはなるべく自分に合った使い方をするのが賢い。概念そのものは、別にコンピュータに限らなくても、日常茶飯にいつもあったことだろうと思います。ぼくはこの、使い勝手よく整理整頓するということが器用にできないタチです。作業部屋もハードディスクの中も、いつの間にかとっ散らかってしまう。そういう効率の悪いことにならないためには、「自分にとって不必要なことは切り捨ててしまえばいいのだ」ということに、なるんですか。どうやらマニュアル化社会の基本概念は、そんなことになってるようですね。いいのかねえ。

 と、コンピュータに文句ばかりつけたが、うまく使えば便利な道具だということも書いておかなければ不公平だから、付け足しておきます。デジタルカメラで撮った写真の管理、オーディオCDやDVDの自作なんか、コンピュータのおかげでずいぶんラクになった。2001年に最初のコンピュータを買ったときのトキメキだって忘れたわけではない。ただ、最近のIT機器の使われ方を見ていると、どうも問題のほうが目に付くから、採り上げてみようと思ったしだいです。もしコンピュータをコミュニケーションの手段にしたいのなら、もっとましな使い方を考えようじゃないか、と言いたくなる場面が多いようだ。

 安野光雅氏は、インターネット上の文章には「行間がない」と苦言を呈しておられます。これは正論で、縦書きの文庫本なんかはこの「行間」ということをとても大事にして作ってあります。行間がないと、息が詰まるような気分になって、せっかくのアーカイブが読めないということは、ぼくも経験している。これからのネット社会の課題だろうな。

[2016年10月16日(日)−21日(金)/続きは後日]

293.
「テレビ」

 テレビがデジタル化してしばらくの間は、ものめずらしさも手伝って毎日けっこう長い時間、付き合っていたものでした。同時にDVDレコーダーも購入し、めったに見られないアーカイブを録画して楽しんだが…フルトヴェングラーが指揮するモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』のライヴ映像を録画したのは、確か東日本大震災の次の年かなんかの正月で、録画はしたものの、現在に至るまで、まだ見てないんである。

 これといった理由もないまま、テレビ離れになってしまった。番組がつまらないから見るのをやめたわけでもない。そういう積極的な理由もなく、なんとなく離れた。なんでですかねえ。ニュースぐらいしか見なくなった。

 そもそも、あまりテレビは見ないほうだったが、以前は毎週必ず見るドラマはあった。そういう番組は今はない、というか、ひとつぐらいそういう番組があってもいいかと、さっき、晩飯を食いながらある番組を見てて、楽しかったから、これなら付き合ってもいいかと心変わりしつつあると、現時点の報告をしておきます。何のことはない、美人女優さんが出ていたからだ。自慢になりませんが、ぼくは美人に弱いんです。

 かれこれ35年前、自分と同い年のタレントさんがテレビに出ているのを見て、ぼくも含め一般の中学生、高校生は連帯感のようなものを感じたもんです。芸能人はその程度に貴重だった。憧れのなんとかちゃんを脳裏に思い描いてあらぬ妄想にふけるというようなことは、いまもみんなやってるのかな。いまはパソコンでポルノグラフを検索すれば、ひょっとすると自分の友達が写ってるかも知れず、そんな環境でテレビの美人タレントさんは必要があるのだろうか。

 35年後、ぼくはアーカイブを創る人間になったから、そっちのほうに時間とエネルギーを奪われて、テレビを見る時間が相対的に減ったのだと考えようとするが、どうも一面的な理由でしかなさそうで、テレビから「なんとなく」離れた、その「なんとなく」のところのもっと突っ込んだ理由があるような気がするが、探してみても行き当たらない。

 ぼくだって野郎ですから、SPEED の上原多香子さんに夢中になり、『アンドロメディア』という出演作をわざわざ映画館まで観に出かけましたよ。あの映画、SPEED のファンだって観ないような出来そこないだったんですが、上原多香子さんを忘れずにチェックしてはしゃいでいた。こういう人やものは、日常生活のわずらわしさをいっとき忘れさせてくれる、馬鹿になるための道具だったといったら、上原さんに失礼だろうか。

 別にテレビが嫌いなわけじゃないんですが、テレビのチャンネルを家族で奪い合って、夢中で見ていた時代もあった、あの熱気は今はない。やっぱり治安の悪化とか不況、それからインターネットの普及というような社会状況の変化と無関係ではないだろう。こんなことを書くと、自分がじじいになったような気がするが、まだじじいを名乗るほどの年ではない。ヴァラエティやドラマを見て、テレビが面白い、あの気持が戻ってきたら、怠けるときには便利だろうと、繰り返しますが心変わりしそうな気配がある。

 これは映画のことですが、今年7月、じつに4年ぶりに映画館に出かけた。渡辺謙さんが出ている『追憶の森』を観に行ったのだ。映画そのものは、傑作ではないにしろ、飽きないで全編つきあったが、なんだか映画館の中の雰囲気がすごかった。映画館の観客は「現実逃避」に来ているのだろうか。館内に重ーい空気がこもって、換気扇を回したくなるようだった。娯楽なんだから、もうちょっと場所柄、活気があってもよさそうなものなのに。

 以前は「マス(Mass)」といえば一般大衆のことだった。いまは意味が変わって、互いに孤立したコミュニティのことだろう。コミュニティが外へ開けてくる兆しはちらほら見えてきているが、まだ各コミュニティのあいだの連携はできていないようだ。現実はむしろ、コミュニティの内側に向かって閉塞する傾向があるようにみえる。それは、かつての村社会への退行のようで、よそものを警戒する空気感があるが、人間の始原的な感情や感覚に立ち戻るには、避けられない「一時的な否定の傾向」なのかなと思ったりしています。

 夕飯時の1時間は、テレビはついている。見ない人もいるそうで、ぼくなどは、まだ見るほうかもしれない。なんとなくテレビがついている、その続きのように、この稿もなんとなく書き、なんとなくアップすることにした。たまにはこういうこともあっていいだろう。

[2016年11月21日(月)−29日(火)/続きは後日]

294.
「コンサートの手触り」

 ふつうは、コンサートもライヴも、それをやる会場があって、価値のある、あるいは意味のあるパフォーマンスをその中に持ち込むという感じでしょう。このありかたでは、公共の会場で行われる公開コンサートでの出し物は、観客が代価を支払って受け取りに行く「目的」だということになる。きれいに言えばそうなるけど、要は「ものを溜め込むこと」です。「目的意識を持て!」なんて言ってる人もいますが、ぼくなどは「目的意識を持つな!」と言いたい気がする。タンパク質と同じで、溜め込んだものというのは脳の中で腐るんだ。

 この2年ほど自分のコンサートをやっていて、10年前とは制作の姿勢がずいぶん変わったなと思う。自営コンサートを始めて、とにかくまっとうなコンサートが作れるようになるまでに10年ぐらいかかる。コンサートが作れるようになったら、それは巷の音楽コンサートやライヴとはずいぶん性質の違うものであり、なぜ性質が違うかというと、演じる内容がほかとはちがうから、興行の見てくれも変化するという変化の性質に気づいた。それはせいぜいここ数年だなあと、振り返っています。

 実質、作曲家としてひとつの曲を書くのと同じように、一晩のコンサートも制作しているようだ、ということに気がつくには、思いのほか時間がかかった。古くからよく知られた曲をプログラムに入れれば、コンサートの「目的」は、その伝統音楽を「再現する」ことだと、つい思いがちです。音楽は再現芸術だ、再現芸術だと、クラシック音楽の関係者の多くは、口をそろえて言ってますが、これは本当かね。ひとつの曲に対して、理想的な再現像があるというのが、彼らの言いたいことだとすれば、これは論理的におかしいみたいだよ。ひとつの曲の内容には矛盾も含まれているとかそういうことが言いたいのではなく、論議の筋運びがおかしい。せいぜいその意味するところは、ベートーヴェンの交響曲第5番「運命」とレッド・ツェッペリンの『天国への階段』は別の曲である、という程度のことで、つまり当たり前もいいところ、何も言っていないに等しい。

 ストラヴィンスキーという人は音楽演奏の「解釈」という言葉とマナーを嫌った。自作を自分で演奏してレコードに録音し、のちの演奏家がこれを聴けば、どのように演奏したらいいかがわかる、と言った。「音楽というビジネスはテクニックである」とも言った。これは論として正しいのですかね。ぼくは違うと思う。というか、この論は「こんにちの現実に照らした場合には」正しくない。ストラヴィンスキーが強調した「知性」の実体は、もっと別のものだったろう。彼は、演奏家がやれるのは楽譜にある音を実際に演奏することであって、それは「解釈」というような主観的なシロモノではないという意味のことが言いたかったらしい。ちょっと考えるとこのことは楽譜に書いてある記譜の「再現」ということを言っているように取り違えやすい。違うと思うなあ。まさか現代のMIDIシーケンサーによる自動演奏の正確さが、ストラヴィンスキーの言う「知性」の帰結だなんて、ぼくにはとても思えない。現代のテクノロジーのほうがなんかおかしな方向へ行ってしまった。そうとでも考えなければ話の筋が通らない。あるいは、ストラヴィンスキーの発言がどこかおかしいだろうか。

 これが漫画ならね、誰も作ってないのにそこに人形が現れたとかいう「想像上の現実」はいくらでも思いつくし、これを描写・記述することもできるが、ぼくたちは漫画の登場人物ではない。現代社会に生きていると、こんなわかりきったことまで疑わなければならないわけですか。

 あまり硬いことばかり考えるつもりもないから、今日の晩飯どきはテレビで「猫」をしばらく見ていた。かわいい猫ちゃん特集をやっていて、ぼくは猫は好きだからちょっと付き合ったが、すぐに馬鹿馬鹿しくなり、15分ほどでテレビを消してしまいました。かわいいからどうしたと言うんだ。もっとミのあるものがほしいという気分になるね。

 このクリスマスは酒を飲みながらDVDの編集をやっていたが、パソコンのCPUが足りないため、編集ソフトがわけのわからん行動を起こして閉口しましただ。馬鹿と道具は使いよう、この「使えない」編集ソフトのクセを飼いならしてどの程度のDVDができるか、ゲーム感覚で暇つぶしに作業してました。まあ何とかなったみたい。

 パソコンでなにかものを作ると言うと、すぐ作業効率を考える。たぶん誰でも考えるだろうな。しかし、油絵1枚を仕上げるのに1ヶ月程度はかかる、というように、本来ものを作るのにまとまった時間は必須なのだ。油絵なんかは絵の具が乾く時間も含めて、焦ったってできないものはできないという物理的制約がとても多い。ITの時代になったから制作時間の短縮ばかり気にするのは、よく考えれば変な話、場合によっては変な話なのだ。テクノロジーの発達で社会の効率化や高速化が進みましたという表面はあるが、その効率化・高速化を支える開発者は、膨大な時間が必要だということなのじゃないかな。

 猫ちゃんのテレビの話が出たからついでに書き付けておく。例のグルメ番組というものがあるよね。あれも内容空疎な、せいぜい色が豪勢なのと、美人女優が高級料理を食ってるだけが取り柄のやっつけ制作が多いが、そのことはしばらく措く。いつも思うんだけど、ものを食べたら放尿脱糞をするのが人間の宿命である。なにも、うまい料理にうっとりしている美人女優が撮影の合間に便所に行く、そのときの現場を写せと言いたいわけではないが、トイレのドアぐらい、たまには撮影してもよいのではないかと、チラッと思う。ぼくが下品下劣なんですかね。どうもみんなでそろってそのたぐいのことを社会の表面からひた隠しに隠しているせいで、ぼくたちの日常の水面下はすごいことになっているような気がするんですが、どうですか。1年の締めくくりにとんでもないことを書くことになったが、生身の人間の日常をいま一度見直してみませんかと、控えめに提案するしだいです。皆様、どうぞよい新年をお迎えください。

[2016年12月25日(日)−29日(木)/続きは後日]

295.

「2017年になりました」

あけましておめでとうございます。昨年同様、よろしくご声援ください。

ちょ、写真が大きすぎますか(笑)元日の武蔵一ノ宮氷川神社(さいたま市)の様子です。この新年はお天気に恵まれて、神社もにぎわっておりました。

引き続き、やれるだけやりますので、どうぞよろしくお願いします。また書くね!

[2017年1月3日(火)/続きは後日]

296.

「旅をめぐる対話」

 新年、三が日は見事に寝正月でした。明けて4日から、頼まれていた作曲を始め、2週間ほどで1曲書いた。終わってみると、何もしていなかったような気分で、人に言うと「いつもそう言ってるよね」とのことでした。

 さいたま新都心の近郊に住んで、せいぜい半径10キロ以内ぐらいの生活圏を行ったり来たりしている。新年明けて三が日はいい天気だったが、その後日本列島は寒波に見舞われ、ちょっと遠くへ出かけるという気分ではなくなってしまった。

 東京都内に住んでいた頃、移動手段は電車だった。上野に住んで、30分地下鉄に乗って渋谷へ行くというようなことを毎日やっていた。現在、自宅から電車で、都内とは反対方向、栃木県や群馬県のほうへ30分動くのは例外的な行動だ。普段はさいたま市の繁華街に出るのにJRで2駅、東武線なら3駅、時間にして10分足らずの乗車、天気がいい日の主な交通手段は自転車、だいたいこれで用が足りる。車の免許を持っていないので時代錯誤な感覚かもしれないが、脚で歩くことが好きで、重い荷物も持たないなら、自家用車の必要も感じないで今まで過ごしてきた。

 自分の作曲のきっかけは自分で作るということをずっとやっている。旅行のきっかけの作り方もたぶん同じだろう。少し意識的に近場でヨコに動くということを始めたから、少し続けてみる。この5年ほど、演奏が難しい曲を書いたから、今年は逆にちょっとシンプルな曲を書こう。このふたつ、どうも年明けからこればかり言っている。

 2010年以降、ヨーロッパ音楽はぼくの中心ではなくなってきた。久しぶりに海外へ出てみようと思うが、ムリしてヨーロッパに行かなくても、もうちょっと近い国を訪ねてもいいんじゃないか。7年前、韓国に行ったのも同じ気持からだった。少し国外を見渡してみようと思っていたが、大震災が起き、身内や友達の不幸が相次ぎ、気持がぶった切れてしまいました。

 正直な話、旅行の準備がめんどくさい。しばらく公私にわたり厄介な状況が続き、海外なんて言ってるゆとりも持ちにくかった。そのごたごたがいちおう片付いたから、少しヨコに動こうと思っているけど、まだなんだかおっくうだ。でも「習い性」という言葉があるように、そのつもりを念頭においておけば、だんだん広がってくるのではないですか。

 音楽の作曲は価値を生産して蓄えることだと思い込んでいる作曲家がいる。聴く人もそう思って聴いている。そうかねえ。ひとつの曲を聴くのは、その曲の“中に”意味や価値があるからですか。

 ぼくには所属がないし、音楽でビジネスをやっていないから、旅行は観光で、奥さんも子供もいないからいつも一人旅だ。と人に言えば、一人で気楽ですねといつも言われるが、所属を持たないから自由で気楽ということにはならない。むしろ逆であって、生活環境も作業の内容も、いつも自分で考えて作る必要がある。

 旅行ひとつとっても、いわゆる「目的」がない。知らない街をただ徘徊しているのもなんですから、世界遺産を見に行きますとか、美術館を見に行きますとか、目安程度は決めて出かけるが、特別な用向きはなく、電車や飛行機に乗ってなにしに行くのか、計画の一番初めの段階では皆目見当がつかない。この点は作曲の始まりと変わるところがない。作曲だって感情や感覚の旅なのです。要するに「なにを書くか」さんざん迷うということがないと、作曲という作業は成り立たない。「目的」を最初に設定すれば作業効率がいい、ぱっぱと片付けろという発想は通用しない。

 旅行のメリットのひとつは、短期間でも自宅から離れると、「外から」自分の住環境を鳥瞰することができる、ということかな。いわば、重心を少しほかへ移すことで、いままで思わなかったことに行き当たる。毎日、小刻みにこれをやっていると、バランスとアンバランスの間を小さな単位で往復することになる。それをちょっと拡大すれば旅行ということになるんでしょう。

 ここらで抛りだしてみようかな。


 PS
 ぼくのこの雑文連載を「日記」と言ってる友達がいる。呼び方は何でもかまわないけど、ネット上に出回る文書だから、私的な日記はうちで別なものを書いてます。純粋に私的な事柄はここに出す必要はないんで、分けております。念のため申し添えます。

[2017年1月26日(木)/続きは後日]

297.
「Wi−Fi」

 ひょんなきっかけから、出先で Wi-Fi接続を使うことになった。携帯電話とかスマホを持っていないから、だいたいは、自宅以外の場所でインターネットに接続する必要もなくて、うちにいてはADSL接続、有線LAN で特に不便も感じない。今年に入って、ちょっと自宅から離れて空間移動するということを意識しはじめ、外出が増え、いきおい、旅行の機会も増えそうな気配です。いま、自宅近所のコンビニの簡易机の上でこれを書いている。ネット上のアーカイブの閲覧が必要になったら、ブラウザを立ち上げればいい。

 もっとも、無料の Wi-Fi サーヴィスはセキュリティ対策ができてなくてかなり危険な場合があるそうだ。コンビニで文章を書いても、FTPを接続してhtml ページをアップする、なんてことは、やらないほうがいいそうだ。パスワードを盗まれる危険があるのだそうです。だからそういう用向きには使えない。メールチェックをする程度、ネットサーフィンをするにしても、数時間の一時滞在者だからたいしたサイトは見ない。

 Wi-Fi なんて、携帯電話やスマートフォンを持っている人にはあたりまえのことになっているでしょう。いまさら何言ってんの、あんたバカじゃない?と言わないでもらいたい。ぼくはパソコンに向かってまとまった文章を書き、自分のサイトにアップする。ケイタイやスマホでは用事が足りんのです。単なる通信手段ではなくて、一種の仕事道具です。ところでぼくは企業や団体に所属していないから、いきおい、パソコン仕事は自宅にこもって行うことが多かった。それが、出先で気軽にメールチェックができることになり、家から出て別の空間で仕事をすることもできるようになった。少しばかりアウトドア志向になるきっかけができた、だからめでたいということなのよ。仕事っていうほど本格的なことをやってるかどうかは、わかりませんけれどね。

 その Wi-Fi接続をコンビニで初めて試したのが今日の早朝なんで、この拙稿も、記念にコンビニの机に向かって書き始めました。自宅にいて文案を練るのと比べて、何か目立った変化がこの作文に現れるでしょうか。

 ぼくは旅行が好きだ。そう頻繁に旅行に行くわけではないが、着いた先では滞在メモを書いて、街の写真を撮って、適当にレイアウトを決めて自分のサイトにアップする。作曲もやってくる。まあそんなに長い曲は書けないが、1ページで完結する小曲とか、そのとき進めている作曲の途中の何ページかを書いてくる。これはパソコン作業ではなくて紙にペンで書く。作曲にしろピアノの練習にしろ、いま書いているこの文章のたぐいの、執筆というほど本格的に書いてませんがいちおう「随筆の制作」にしろ、自宅にカンヅメというのは、ほんとはあまり好きじゃなかったんである。

 以前も書いたけれど、2年ばかり公私にわたりあわただしかったし、これも以前書いたと思うが、近隣の書店、古本屋、ホビーショップ、CD屋さん、みなつぶれてしまいー、自宅というメインだけがあって、サブの拠点というか、散歩の目印みたいなお店とかスポットが全然なくなってしまった。こういう場合、人にもよると思うけれど、ひとり喫茶店で時間をつぶすということがぼくにはできない。コーヒーとかココアを飲んだらそれで用は終わりなのだ。それに、いちいち純喫茶で500円のコーヒーを飲んでいたら高くつく。諸外国のことは詳しくないけれど、日本の都会には遊びの余地がないように見えるが、どうですか。

 だからこのたび Wi-Fi のお世話になることになって、行動半径がちょっとだけ広がりそうです。心身の健康のためにも、これってけっこうよくね?

 ピアノの練習はまとまった時間が必要だが、それでも1日当たり長くて3時間程度だろう。そのほかの時間が空いているからと言って、ヒマにしてるのもなんですからーとか言って用事を詰め込んだら、当然、毎日の生活はむさ苦しくなるに決まっている。だからだらだらと、たいして意味のない時間を過ごすのも必要と心得てはおりますが、寝てるのもなんですし、街に出たら、そういうヒマな時間を無駄に費やすための適当な場所があったら便利なわけです。だから今後は、気が向いたとき、今みたいにコンビニの机の上でてきとーなことを書いて過ごすタイミングも増えると思われます。ムリに習慣にすることはないが、今日のところは割と気の利いた過ごし方ではないかと思ってます。

 夕方5時をちょっとすぎたところである。今いるコンビニの近所の西友でトマトサラダを買って帰り、それが今日の晩飯の一品になるのだが、この西友もあと1ヵ月ほどで店をたたんでしまう。便利な店がまたひとつなくなる。やだなあ。

 人が住む街というのは、その街の住民が過ごしやすいように、職人さんたちがこしらえてくれた集合体で、街並みは面白いお店や風物があったほうが住民の心も潤うというものですよ。それが、量販店が全部店をたたんで、買い物も半分以上はネットショッピングなんてことになると、ぼくのような自由業者はさっきも書いたけど自宅にカンヅメみたいになってしまう。自由業じゃなくたって、昼下がりの団地妻さんなんかはヒマを持て余して、ついイケナイことをしてたりする可能性はおおいにあるんじゃないですかー。

 さて、1時間でこの程度書けた。いったいどんな文章ができたか、そろそろ腰を上げますか。

[2017年2月27日(月)/続きは後日]

298.
「Wi-Fi (2)」

 08時52分。東大宮駅前に新しいセブンイレブンが店開きしたので、好奇心に駆られて来てみました。昨日開店したばかりで、入り口には花束が飾ってある。珍しく2階があり、そこのイートイン・コーナーでこれを書いています。けっこう広いスペースだが、店開きしたばかりだからなのか、誰もいない。なんだか痛快だ。

 朝5時には起きていて、NHK・BSでチェリストの独奏リサイタルの録画を見た。こんな早朝にテレビでクラシック音楽の番組をやってるんです。1976年生まれの男のチェリストで、当年41才。迫力のある演奏だった。ただ、この人に限らず、世のたいていの職業音楽家は、少々「音楽的すぎる」。「豊かな」音楽性、それは結構なことだけれども、あんまり音楽だらけだと、ごちそうを食べ飽きたような気分になる。このチェリストなどは、放送を聴く限り、「音楽外的な」アプローチにも気を配っているようにみえ、その、いわばはみ出した部分のほうがぼくには面白かった。

 画家のゲルハルト・リヒターがアトリエでグレン・グールドのレコーディングを聴いていて、だんだん腹が立ってきた、というエピソードを著作に書いていた。バッハの『ゴルトベルク変奏曲』の2度目の録音だったと思う。完璧すぎて腹が立つ、というわけ。早死にしたのも当然だ、なんて毒舌も書いていたよ。そのグールドと親交のあったヴァイオリニストのユーディ・メニューインも、「グールドの生涯は音楽的すぎた」と、インタヴューに応えて語っていました。似た話で、指揮者のレナード・バーンスタインが晩年、札幌に来てPMFオーケストラを指揮した、そのコンサートのリハーサルで、「音楽以外のものが見えてきたぞ!」と楽員にエールを送ってる風景をテレビで見たことがある。こんなふうに、「音楽だけ」とか「音楽だらけ」の状況を回避する芸術家はいるし、実際そのほうが音楽のためにも望ましいんである。ただし、これをやるのはやさしいこととは言えない、と書いておこうか。

 ぼくは、自分が特別音楽的な人間だとは思わないし、作曲でもピアノでも「音楽だらけ」の心境や状況は意識的に避けるほうです。そうしないと、重苦しくてしんどいよ。

 たまたまコンビニで Wi-Fi を試すようになり、自宅から外へ出て、いまみたいにコンビニで短時間でも過ごすことがマイブームになったから、自宅で作曲やピアノに集中する時間が相対的に少なくなるものと予想しております。つまり、以前より「音楽だらけ」ではない日常の過ごし方が割り込んできたわけで、これも面白いだろうと思う。

 1ヵ月もすると、この新しいセブンイレブンの、いまぼくがいるイートイン・コーナーは、学生さんたちのたまり場になるかなあ。今後の変化にちょっと興味がある。それと、さっきも書いたけど、ぼく自身の生活環境や生活態度も、たぶんゆっくり変わってくるだろうから、今まで思いつかなかったことに行き当たるかもしれない。別に変わらなくたって、それはそれですよ。

 セブンイレブンの Wi-Fi は1時間たつといちど接続を解除するそうです。この程度の雑記なら1時間あれば充分だ。ちょうどいいかもね。しょせん、一時滞在者であって、このお店はぼくのオフィスではない。てきとーな時間を過ごすコツも身についてくるんだろう。

 夕方4時45分。再び東大宮駅前のセブンイレブンのイートイン・コーナーです。朝と違って、何人かの子供たちが出たり入ったりしている。おねえさん方がおしゃべりをしている。そうですね、このコーナーはおしゃべりの空間にはちょうどいいかもしれない。ここで書く雑文も、おしゃべりに近いようなことだろう。どこの店でもかかってるようなBGMがけっこう大音量で流れていますが、そういうものは、耳が雑に流して拾わず、したがって邪魔になることもない。もうちょっと気の利いたBGMのほうがいいのかなあ、でもこの程度のもんなのかもね。

 さっきまでうちでピアノの練習をしていた。楽譜の見かけは割合シンプルな曲を弾いているんだけど、なんか、「何を弾いているか」がいまひとつ自分の気持の中で具体的にならないから、ひととおり弾いたところで練習を切り上げて、街に出て、このようにしております。音楽の造形の具体性というのは、楽譜に書いてある音符の中になんかないのであって、書いてある音符を手掛かりに、ピアニストが自分で考える領域というものがある。それを考えながら長時間ピアノの前に座っているのもいいが、抛り出して外に出てみよう。しばらくそうしてみましょう。

 アンパンでも買ってきてほおばるか。長居をしたところで、「コンビニ生活者」にはならないでしょうね。学生の頃はファミリーレストランが華やかで、一晩デニーズですごす、なんてこともやった。大学に入ると「仕事で忙しい」ことを自慢する同級生がいて、どうも、ぼくはあのたぐいの人種とはウマが合わなかったなー。

 このへんでアップしておこうか。

[2017年3月2日(木)/続きは後日]

299.
「酒と酒飲み話」

 精神科医の故・斎藤茂太氏が「お酒は、現実逃避なんですネ」と講演会で述べておられた。と書いてから、「斎藤茂太」先生をネット辞書で調べると、氏は「アルコール健康医学協会会長」だったそうです。どういう団体だろうね。専門的にどうかは知らないが、酒を飲むと批評能力や判断力が少し落ちる。酒はほろ酔いぐらいが一番楽しいとは漫画家のサトウサンペイ氏の言葉。ぼくもほろ酔いのクチで、好きだが強くはない。ビールなら1日500mlが限度で、これでほろ酔いになる。

 20代前半は、中国の白乾児(パイカル)という強い焼酎が好きで、よく飲んでいたが、「酔い方」を知らなかった。誰だったか忘れたけど水で酔う“技術”を知っている人がいた。あれは技術なんです。悪酔いしないためにも知っておいたほうがいい。酒は酔わなくちゃあ、と教えていただいたのは作曲家の松平頼暁氏。アルコールの度数が強いから酔うとかそんなんじゃなくて、“酒に酔う”というれっきとしたマナーである。英文学者の林望氏はお酒をまったく飲まないそうですが、その理由は、飲酒マナーの悪い人間を憎むがゆえ、とのこと。そう、ぼくも一時期飲酒マナーが悪く、新宿の一番街で友達と飲んでいて、店のマスターから「机をバンバンたたくな。酒飲みの資格ない」と叱られたことがあった。

 元マラソン選手の瀬古利彦さんがラジオに出て、走り続ける理由を訊かれたとき、ひとこと「ビール」と答えていた。その日の走りを終えたあとのビール1杯がうまいそうだ。茨城のり子の『六月』という詩にも「一日の仕事の終わりには/一杯の黒ビール」とあり、ぼくはこの詩を中学の国語の時間に覚えた。そのせいで、ぼくも1日の仕事の終わりには500mlのビールをたしなんでます。

 現在20才の人は1997年生まれで、ぼくより32年年下ということになる。お酒やタバコそのほかいろいろ、勉強も恋愛も覚える年代だ。ぼくの32年年上の先輩方は現在84才で、昭和8年生まれ、つまりさきの大戦の前の、戦前派になる。ぼくが初めて海外旅行をしたのは30年前、1987年で、ブラジルのリオデジャネイロに行った。現在も演奏の機会がある独奏ヴァイオリンのための『操作』を書いたのがその2年前の1985年、ぼくはハタチだった。平成元年、1989年から小規模な自主コンサートを試し始めたが、このころは飲酒マナーがよくなかった時期、というわけね。

 飲みすぎとか不養生を避け、大病しないでしゃんと生きていれば、70才、80才になっても、作曲とピアノ演奏はやっている。今まで不調な時期もあったが、大筋において自分を取り巻く世界に対する興味の持ち方の根幹は、子どものころから変わらず、音楽でやりたいこともハタチぐらいから変わっていない。理想や理念に近づいたというよりも、不自然なことを徐々にやらなくなっている。集計の段階までは、まだしばらく間がありそうだ。

 音楽というのはガチガチの固形物ではなく、ひとつの曲を10回演奏すれば全部結果が違う。それは移ろうもので、その移ろいの性質が大事なのだ、と言うは易いが、実際に音楽を創ってみると、この移ろいの「巾」を心得るのは簡単ではない。それは音楽の周りの日常やぼくたちの世界とも連動している。ぼくたちを取り巻く日常と音楽との「交点」があり、この「交点」は一定の巾を持っている。ゆえに音楽の表現活動が日常の中で生きてくるし、毎日の制作や作業はそのためにやっているんだと言えば、ぼくの日常の説明になると思う。ただ現実は、たいしたことをやっていない時間、ヒマに思える時間のほうが、音楽の制作や練習の時間よりもはるかに長い。

 だからと言って、そのヒマな時間は酒でも飲んで酔生夢死してるわけでもない。いちおうわかりやすく、ヒマな時間だって自分のなりわいから降りて過ごしているわけではない、と書いておこうか。

 もっとも、人は四六時中かしこまっているわけにもいかない。ジャニーズ事務所所属の某男性タレントさんのように、深夜、酒に酔って新宿(だったかな)の公園で全裸になりたい日だってあるんです。あのとき石原慎太郎元東京都知事はにやにやしながら「裸?騒ぎすぎじゃないの?」と言った。男も女もときには脱ぎたいような気持になることはあるし、うちで全裸になり庭を走り回るのが好きだったという、映画評論家の故・淀川長治氏のような人もいる。なにもエロでなくても、徹夜でマージャンやって存分に楽しむとか、大枚はたいてバカうまいご馳走を食うとか、そういうこともたまにあったほうがいい。たまには、ですけどね。

 酒飲み話のように脈絡のない雑文を書いておりますが、偉そうに言えば、ここに書いているのは、どちらかというと不器用なぼくの生き方のコツみたいなことなのかなあ。ぼくはワインをいただいて酔っ払ってるときにピアノは弾かない。弾く人もいるらしいが、ぼくはそういうときは指も酔っ払って、ろくに回らないから弾かない。いちおう順序を決めて、まずピアノを弾き、その後、ワインを飲む。というように分けないと、指は回らないわ、お酒は楽しめないわ。虻蜂取らずになってしまう。

 話が飛び飛びですが、「〜ことができる」という日本語の表現がある。「この小路を通ると、となりの国道の急な坂道を避けることができる」なんて言う。いい表現なのか悪い表現なのかわからんようなところが面白い。よく言えば奥ゆかしく、悪く言えば回りくどい。「こと」という体言止めは、肝心の内容をぼやかすために使われる。「これは、たいへんなことになりました」というように。発言者は目的格に対してどのような態度なのか、明言を避けております。その効果に対する是非は、ここでは論じない。

 目的格だけボンと抛り出す、妙な作文もある。例えば「タラちゃんのお弁当を作ること」。推測で言うと、お弁当を作るのはサザエさんなのだろう。「サザエさんが、タラちゃんのお弁当を作ること」。だから何なんだよ、と笑いを誘う。

 遊びもないと、日常も音楽も息が詰まる。街というのは機能一辺倒ではなくて遊びの空間もあったほうがいい。リーマン・ショックからそろそろ10年、そういうゆとりが街からどんどん消え、ようやく近頃、見直しの動きは出てきているように見える。「夜ごと、酒におぼれる私も、決してまともな人間じゃございません」(美空ひばり『残侠子守唄』)というのは演歌の世界であれば充分で、まさか庶民全員が夜ごと、酒におぼれている日常でもないだろう。

 そういうわけで、実は今宵はさいたま市の大宮薪能第2日目で、金春安明氏がシテをつとめる『黒塚』がとても観たかったが、@ここしばらくスケジュールが立て込んでいる。A残念ながら今晩は寒い。Bこれは今後、薪能主催者の方々にぜひ考えていただきたいことですが、入場料が高すぎて、今日のぼくの財布の都合が許さなかった。S席7000円、A席6000円。ちょっと考えてしまう。いろんなことで出かけられなかったから、YouTube で全曲観ました。『黒塚』は観世流では『安達原』(観世喜正=シテ)。平成18(2006)年10月27日、新橋での実況録画、かなりライヴの雰囲気がわかるので、こちらに貼っておきます。野村萬斎さん、笛の一曾幸弘さんも出ています。ぜひご覧ください。

[2017年5月27日(土)/続きは後日]

300.
「お金のかからない旅行」

 音楽の稽古は相応にくたびれるから、疲れ休めも必要だ。近所にヨークマート(イトーヨーカ堂)ができて、夕方のお散歩にはちょうどいい距離だし、今日は昨日と違って天気がいいので、ぶらぶら、近隣の街並みの写真を撮りながら、風に吹かれて歩きました。我ながら、これはいいアイデアだ。1日の音楽の稽古が終わったら、夕暮れの街をぶらぶらほっつき歩く。いいんじゃなかな。お店の周りには畑などもあり、百姓のおばさんいわく、「ヨークマートまで、よーくまあ」と。(…ナニを言っているのかな?)

 「ぼくは、夕日に照り映えた田舎の民家が好きだ」と思いついて、ふと、「照り映える」って正しい日本語だっけ?確信が持てなかった。しかし、いまこうして雑文を書いて、「てりはえる」を変換したら、やっぱりこれでいいんですね。こちらには、その照り映えた街並みの写真を何枚か貼り付けておこうと思います。言っとくけどさー、これはアートなんてご立派なものじゃないよ、ぼくが好きで撮った写真です。

 「照り映える」は大丈夫だが、たまに思い出す「敬語の誤用」がある。「万事お繰り越しのうえご来場ください」?正しいのはなんだっけ。「万事さし繰り合わせのうえご来場ください」?なんか違う。いま調べたら、「万障お繰り合わせの上ご来場ください」か、「万障お指し繰りの上ご来場ください」か、どちらかだそうで、「聞こえは柔らかいですが命令に近いです」なんて書いてある。こわ〜!!

 「街というものをシュールな観点から切り取ると」という日本語もなんか、あまり使わないね。「シュールな寒天」?(…ナニを言っているのかな?)さっき街並みの写真を撮りながら、構図というものも考えようによっては超現実的(=シュール・レアリスティック)な場合があって、何の変哲もないそのへんの近所が、ジョルジュ・デ・キリコの形而上絵画みたいに写るから面白いな、などと、ひとりでにやにやしていました。

 俳優の小松政夫さんは「看板」を集めるのが趣味だと伺いました。ほかの人にはどうでもいいようなものでも、当人には面白くてたまらない。高級品でもなんでもないところがいい。ぼくの写真も、特別なものはなんも写ってない。こういうふうに写すと面白いという構図の考え方が自分の嗜好を反映してるんだろう。街並みを作り替えたわけではない。理屈じゃなくて、好きなことはできる限りやんなさいというのは心理学の世界でも言っている。写真や美術は好きだから、やりましょう、やりましょう。

 2009年暮れにやったコンサート『そのときつかまえたうた』の実況録音を通して聴いてみる。リーマン・ショックの翌年だったし、当日のピアノのコンディションがまずいことにがたがたで、かなり苦労したことを覚えている。いろんな悪条件を思い出すのが厭でめったに聴かなかったが、今日、再聴してみると、案外やれている。これは「いわゆる音楽」のカテゴリーには収まらないと思った。自己満足ではない、正直な感想だ。ぼくの耳には世の中の「音楽」は、音楽的に創りすぎている。そんなにてんこ盛りの「音楽」は、かえってひまな時間の邪魔をする。そこにある音楽が遮蔽物になって困る、という妙な事態が出来することになる。

 以前、近所に「湯の郷」という銭湯とレジャー施設をごたごた混ぜた風呂屋があったよ。ご商売の方が言うには、仕事がない日にここに来て「遊ぶのがとても楽しい」のだそうです。ぼくなどにはない趣味で、この風呂屋には出掛けたことがない。「うちの風呂」じゃなくて公共の大衆浴場で、ちゃんばら芝居のショーなんかも見られる(らしい)。そりゃ風呂に入ってきもちいいけどさ、なんか特別に楽しいのかどうか、とにかくその人にとっては楽しいとのことです。「湯の郷」はすでに廃業しました。休日の入浴が楽しみだったおじさんやおばさんは、代わりにどういう娯楽を探しただろうか。サウナが楽しみという方もいますね。ソープは?

 電子メールのバックアップをとる。2014年8月下旬からのぶんで、サボっていました。パソコンが元気でよかったね。ほぼ3年分のメールのバックアップにはかなり時間がかかる。ついでに、10年ぐらい前のメールを読み返してみた。当時は多難だと思っていたし、実際多難だったけれども、メールの文面には手書きの手紙のように筆跡から読み取れる空気がない。あるのは情報だけで、その情報じたいも、たいしたこと書いてないんですよ。意外だった。「馬鹿げた」とまでは言わないけど、当事者が思っていたほど深刻な現実だったのかどうか。浮き沈みはあったが、そう悪いばかりの生活環境でもなかったらしい。

 13年ぶりに、近所の手打ちうどんの店に入った。従業員が全員女性で、朝11時から午後2時まで3時間だけ営業している。地縁で成り立っているとはいえ、かなり本格的なうどん屋さんです。注文したのは冷たいざるうどん、とろろと鶏の生卵の黄身と薬味がついて850円。コシが強い麺で食べごたえあり。ほんとは「うまいラーメンが食べたい」と漠然と思ってたんだけど、たまたまこのうどん屋さんの前を通りかかり、そういえば元カノと一緒に食べに来て以来寄ってないな、不況だけどちゃんとやってるかな、みたいな一種の興味で暖簾をくぐった。健在で何よりでした。1993年4月創業とのこと。

[2017年6月27日(火)/続きは後日]

301.
「四角くない」

 Von Quartet という団体がバルトークの『弦楽四重奏曲 第4番』を演奏している。2016年12月6日にインディアナ大学のホールで行われたライヴの録画である。この曲はぼくの好きな曲だが、生演奏に接したことはなく、LP時代の名演奏といわれるジュリアード弦楽四重奏団のスタジオ録音と市販のスコアで親しんできた。

 ひょんなきっかけでこの録画にたどり着いたが、曲の存在感に吃驚仰天した。この不協和音の塊が音楽なのか?ということでしたら、別に、無理に音楽でなくてもいいんですよ。音で創られたあるモノだということがわかれば、それを体験すればいいのだ。理屈も美学もいらない。いやならいい加減に聴き流したっていいんです。

 ウェブ上にぼくが弾いたコープランドの『ピアノ変奏曲』(1930)の録画を載せておいたところ、それを観た Matthew Bridgham なる人物が「This is terrible! You don't get Copland at all!!」とコメント欄で吼えている。そんなに吼えないでくださいよ(笑)これは7年ほどまえの書き込みで、何が気に食わないのか、もしぼくの演奏に欠点があるとしたらどういうところか、ときどき考えていた。で、さっき、この Bridgham 氏がウェブ上で公開しているこの人の歌曲や弦楽四重奏曲をちょっと観てみた。ネオ・ロマンティシズムと言っていい作風で、一応のところきれいな曲調だが、甘い。おそらくこの人には「音楽」という自己規定がある。だとしたら、それは音楽家としておかしい。「その人にとっての音楽」なんてシロモノを作って出して、振り回してはいけないと思う。ぼくにこんなことを言う資格がないとなれば、氏に「ホンモノの Copland」というものを演奏して聴かせてもらいたい気がする。それは氏が「Copland」だと言っている、それ以上の何かだろうか。氏の自己規定以上の何かだろうか。ぼくはこの点に興味がある。

 久しぶりにウェブ上で音楽の録画を観ているうちに、たまたまバルトークの曲にたどり着いた。ぼくが観た四重奏曲の録画は、スタジオ収録ではないせいで、ワサビがきいていない部分はあった。だけどそんなことより、この曲をどうにかこなすだけで相当大変なはずですよ。その、上手下手を超えたパフォーマンスの迫力に喝采を送りたい。

 ぼくの興味は、舞台芸術にしろテレビ・ドラマにしろ、アダルト・ヴィデオにしろ、それは「観るもの」なのか、それとも「体験するもの」なのか、という点です。観るだけでいいものは息抜きに使う。しかし体験するというのは能動的な行為です。舞台上やメディア上の演奏や演戯に、観客が体験できるだけの心理的引き金があるかどうか。創造的な演奏や演戯は演者が聴かせるものでも、見せるものでもない。それは“訴えてくる”はずだ。

 体験するのは疲れるから観るだけで、何かが訴えてきたら断るわけですか。人間の体調だって、腹が痛いとか、本日は機嫌がいいとか悪いとかいうようなサインを拾って、体を壊さないように生きている。拒否して生きる法はない。やりたきゃやっててください。心や体の声を聞くって、元気に生きるいろはですよ。好き嫌いはあるとしても、絵や音楽が訴えてきたら見ないことにする理由でもあるんですかね。

 バルトークは音楽史上最も過大評価された作曲家で、彼の曲には対位法がないと言ったのは、かのグレン・グールドという有名なピアニストです。だけど過大評価するも何も、バルトークの曲が人間の本質を突く表現に満ちていることは普通の耳で聴けばわかることで、「対位法がない」という批評は基本的な謬見のように見える。あとのほうの意見を受け入れることにしても、代わりに「掛け合い」がふんだんに用いられている。バルトークの『弦楽四重奏曲 第4番』は「四角くない」。別の形の音響だ。グールドは、対位法が成り立つために調性機能が必要で、変質音が増えて不協和的になれば対位法は成り立ちにくくなるという当たり前の事実に気づかなかったのではないか。

 それでもなお対位法が成り立つためには、調性システムに変わる別のシステムが必要で、シェーンベルクが発案した十二音技法がその役割を果たすと期待された。周知の史実ですね。でも、新しい世代の音楽家たちが前の時代とは違う表現を求めたから、システムを捨てなければならない場合も多かった。という流れになっているのに、100年経って21世紀になった現在、まだ多くのみなさんが四角いシステムに執着しているのは、なんだか知らないが古くさい趣味ではないでしょうか。

 「四角くない」。新しい音楽について、おおかたの耳が敬遠するとしたら、この点ではないかと思う。四角くないと安心できないのだ。変化を拒んだ耳。あーあー、つまんないなあ。

[2017年7月29日(土)/続きは後日]

302.
「オーケストラと日本」

 8月はぼくの居住地、さいたま市のオーケストラのコンサートをふたつ聴いた。ひとつは浦和ユースオーケストラ、もうひとつは大宮光陵高等学校管弦楽団。ぼくはこのふたつのオーケストラを「アマチュア団体」とか「高校生の部活」とかいう雑な言葉でくくりたくないなあ。それだけの演奏だったから、驚いています。

 正直に思ったことを書くけどさー、プロの音楽団体のコンサートは必要があるのだろうか。音楽の専門家が本当に専門の仕事をしているかどうか疑わしいと、思わず言いたくなった。それは聴いていて面白くなきゃしょうがないでしょう。今月体験したふたつのオーケストラ公演で、ぼくは涙腺が緩みましたよ。直球を投げてくる。専門家の芸のように完成してはいないけれど、その専門家は「うまさ」と引き換えに、訴えかける力を失ってしまったのではないだろうか。そんな馬鹿な話があるかと、長芋かヨウカンでぽこっと頭を叩かれそうだが、じつはここしばらく、なまはんかなプロの演奏にばかり接して辟易していたので、そう思わずにはいられない。

 ふたつの団体の演奏曲目はクラシック名曲でした。浦和ユースオーケストラは8月12日土曜日、ワグナー『ニュルンベルクのマイスタージンガー 序曲』、モーツァルト『ヴァイオリンとヴィオラのための二重協奏曲』、チャイコフスキー『交響曲第5番』(さいたま芸術劇場の音楽ホール)。大宮光陵高等学校管弦楽団のほうは8月26日土曜日、シベリウス『ヴァイオリン協奏曲』とマーラー『交響曲第1番(巨人)』(埼玉会館大ホール)。演奏のことじゃなくて、客席に活気があったと指摘するのは頓珍漢のようだが、事実そうだった。老若男女、いろんな人がいて楽しい。曲目は、どれも世界のオーケストラの常演レパートリーに入っている有名曲だが、これだけの大曲をともかくまとめるだけでもたいへんな技量だと思う。マーラーの交響曲などはCDで聴くより実演に接したほうが面白いから、たまに聴きに出かけるんだけど、下手をすると崩れそうな演奏にぶつかったりします。

 すでに公的認知を得た有名曲だから演奏にも熱が入るという現実はあるだろう。どなたか日本の作曲家が作ったオーケストラ音楽に取り組もうと企てても、難解だったり演奏至難だったりで成り立ちにくいと思う。だから当面は、クラシック名曲に力を注ぐ、という姿勢でいいと思われます。ぼくはオーケストラに入って演奏した経験は1回しかないが(曲はプロコフィエフ『ロミオとジュリエット』、ハープとチェレスタのパートをピアノで弾いた)、有名曲をしっかり演奏する基礎訓練はかなりたいへんだということならわかります。

 プロなら、自分なりの創意工夫を打ち出さなければならない。それができる人をプロというんじゃないんですか。ここしばらく都会のライヴハウスに出かける機会が多かったが、ときどき出食わしたのは、せいぜい3種類のコードに乗せて使い古しのアドリブを20分も続けるジャズ・ピアニスト、30年間もひとつの持ち歌を歌っている歌手、自分でも何をやっているのかわからない即興演奏家。首を絞めたくなるね。「お金、稼がなきゃいけないじゃないですか」と申し合わせたように彼らは言うが、事実は、貧弱なヴィジョンしか持っていないからかえって利用しやすいという理由のもと、低迷した経済原則をまわすためにこき使われているだけだ。

 職業音楽家ならしかるべく技術を持つのが当たり前とのことですが、そうかねえ。それは「当たり前」のことなのですか。プロの「技術」というのはもっと包括的な、ある視野の広さを指して言う言葉ではありませんか。ぼくは行動範囲も視野も広くなく、包括的な「技術」を持とうと思ってもなかなか、すっと行かない自分の現状をどうにかしたいから、そういうことが「当たり前」な職業音楽家諸氏にはまったく脱帽だ。恐れ入りやした。

 ぼくなどは非力なもので、新しい音楽のあり方を自分なりに探っていると言えば聞こえはいいけど、目立たない一介の市井人に過ぎない。こっちから見て、今日の洋楽主導型の都市の音楽事情には、素朴な感覚で疑問を感じます。便宜として一応考えたのは、ヨーロッパの芸術音楽は、英語のような各国共通言語と同じ働きを、音楽の世界で果たしているのではないか。もしそうなら日本だけじゃなくて世界中の音楽の楽しみ方として、これはこれで結構なことだ。ぼくたちの先輩の音楽家の優れた業績があるから、こんな考え方もできる。この人たちの努力があったから、後代のぼくたちも音楽がやれるというのが話の順序です。オーケストラの普及は、そのいい例だろう。

 ただ、この話には続きがある。近・現代のヨーロッパ芸術音楽は、それ自体「脱・ヨーロッパ」を志向するものだったはずなんだけど、ほかでもない世界各国のヨーロッパ音楽の専門家たちが、その発達史を途中でぶったぎって、ヨーロッパ崇拝のような構図を仕立てた。もちろん例外はありますが、ぼく自身、ヨーロッパのピアノ曲を弾きながら、それはそのままでは芸術的感性の「普遍的な型」には必ずしもならないことを往々、感じます。ヨーロッパ音楽を全否定するのではない。ぼくだってヨーロッパ音楽の強い影響を受けて育ち、これを受け入れています。だからこそ「脱・ヨーロッパ」という文脈を考える必要が生じるのです。

 そもそもクラシック音楽ファンだったから、いい演奏を楽しみたいと純粋に思っているんですが、そういうものが卑近な現実にはなかなか見当たらなかった。不思議なことですが事実そうでした。国内外のオーケストラがいっぱいコンサートをやっていて、ときどき脚を運び、それなりに結構だったが、何か自分の欲しいものと違っていた。そこへ、今月はふたつの地元オーケストラ、浦和ユースオーケストラと大宮光陵高等学校管弦楽団の渾身の演奏に接することができた。たいへん喜んでいます。

[2017年8月29(火)−31日(木)/続きは後日]

303.
「実物を論じるということ」

 ぼくは詩というものがどういうものなのか、よくわからなかったし、今でもわからんところはあります。しかし、そこにある一連の日本文に節をつけて歌ってみると、それが詩なのか、詩ではないとしたらどういう種類の日本文なのか、およそ見当がつくらしいということに、さっき気がついた。たとえばこんな日本文がある。


 漁船から港にまぐろを降ろす作業は早朝から行なわれる。尾を括られて吊り下げられたまぐろは背が黒くて腹が輝くように白い。生まぐろならではの美しさだ。



 「サライ」2016年12月号のマグロ特集の中から引いてきました。わかりやすい文章で、マグロがうまそうに書いてあります。が、これに節をつけようと思うと、たちまち妙なことになってしまう。ためしに、好きな節をつけて歌ってみましょう。思わず噴き出しますよ。この文章は、ここに1匹の生きのいいマグロがぶら下がっていることを説明する文章で、乱暴に言ってしまうと、その説明さえ果たしてしまえば、文章そのものはとくに鑑賞に値しない。この文章はそれでいいんですよ。だが、同じ日本文でも、

 お酒はぬるめのかんがいい。さかなはあぶったイカでいい。女は無口なひとがいい。あかりはぼんやりともりゃいい。しみじみ飲めばしみじみと、想い出だけが行き過ぎる。涙がポロリとこぼれたら、歌い出すのさ舟唄を。


 八代亜紀さんが絶唱する『舟唄』(作詞:阿久悠、作曲:浜圭介)の冒頭部分を続けて書いてみました。これを「説明文」として読んでみると、実用的な機能はなにひとつ果たしていません。酒を飲んで泣きながら舟唄を歌いだそうとしている男がいる。最初の4つのセンテンスがあらわしているのはその男の勝手な嗜好で、ああそうですかで終わってしまう。意味を伝達してはいますが、たいした意味ではない。実生活にはほかにもっと重大な用向きがあるはずなんだけど、そういうことはちょっと措いておき、保留にして、この酔っ払って泣いている男の言い分を聞きましょう、ということらしい。

 仮にこの『舟歌』の冒頭部分を、正岡子規の俳句論に倣って「客体描写」の形に直してみれば、こうなるのかな。

 ぬるめの燗。あぶったイカ。無口な女。ぼんやりともる灯り。しみじみ通り過ぎる想い出。ポロリとこぼれる涙。舟唄。


 脈絡があるような、ないようなモティーフが並列しているけれども、こういうバラバラのモティーフをつなぎとめるレトリックと、八代亜紀が歌う節回しがあって、この作品は成立しているわけです。原作をぜんぜん尊重していない無責任な分析ですが、ともかくこの作品の世界は、廃棄処分にする前にふと立ち止まる程度の意味とかキッカケはありそうだというような、酒を飲んで泣いている男の周囲にただよう微妙な空気感の表現で、やっぱりここに登場するのは御詠歌でも応援歌でも瞽女唄(ごぜうた)でもなく、舟唄なんだろうな。港が見える酒場で男が酒を飲んで泣いている。こんなの絵にならないよとか、そういう批評もちょっと脇にどけて、この男の周囲に漂う一種の詩的情緒のようなものを、歌謡ホールの観客は全員で鑑賞しているのでしょうね。人間なら、泣く男を見て漠然と同情ぐらいはするだろう。

 実際にこの歌を芝居に仕立てたら、荒唐無稽なコントになってしまう可能性もありそうだ。泣いている男が舟唄をうたってみたって、節もリズムも崩れ、聞くに堪えないシロモノになる確率が高い。実際にそれをやらないところにこの歌唱の味があるなんて、話がうまいけど、悪口を言えばごまかしの産物である。ぼかしてあるからなんとなくいいような感じがしているのだ。

 しかし「歌として」味がある、というのはまた別の話だろう。こういう、ある漠然とした空気感を表現する道具立てを考えた人はやっぱり偉いと思う。この表現は歌詞だけでは成り立たないし、節回しだけあってもだめだし、八代亜紀さんだって単独では行動しない。それぞれの役回りというものがあって、助け合って成り立っている表現形式なのだ。この歌の前提として、あるとき酔っ払って泣いている男がおり、そこへ誰かが通りかかって「お兄さん、どうしました?」と尋ねる。男が答えて曰く「お酒はぬるめの燗がいい」云々。なんだか受け答えになっていないような気がするけれども、酒が入っているのだからしょうがないのかもしれない。ともあれここから、この歌が始まるわけですが、背景は全部取っ払われて、いくつかの断片的なモティーフだけが聴き手の想像力を刺激する仕掛けになっている。

 だから『舟歌』の歌詞はそれ自体は詩ではない。しかし、歌の歌詞として機能を果たしていることでわかるように、冒頭のサライのマグロの文章と比較すれば、いくらか詩のようなものです。ぼくはこの違いに着目して拙稿を書き始めたんですが、いったい話がどこへ行くのか、書きながら考えてました。で、どうやら主題は、この「詩のようなもの」ということらしい。散文・説明文・達意の文ではないけれど、単独の詩でもない、その手前にあるもの。鶴見俊輔流に言えば「限界芸術」ということになるか。[※](プロの文章家なら、ここまで主題を絞ってからレトリックを考えるのでしょう。残念ながらぼくにはそれだけの文才はない。なんかそのへんをぐるぐる回っているうちに、自分の関心の輪郭がたどれてきたわけです。まあ、書きながら論じたことにしておいてください。)

 この「詩のようなもの」だけでなくて、広く芸能と呼びうる表現様式の中には、単独では定義がしにくい人とかものごとがかなり沢山あると思う。そんなら、そういう人やものごとの相対的な関係が大事になってくる。これは単に論じるだけでは充分ではなく、その関係を実地に検証する必要がありそうだ。簡単に言っているように見えますが、酔っ払って泣いている男が舟唄を歌いだそうとし、通行人がこぞって雑誌や新聞の記事に節をつけて朗誦する新時代は、まだ来ていないようだが、そのうち来るかもしれない。今夜はそういうことにしておきます。

 なお写真はまぐろステーキです。「サライ」2016年12月号から写真をお借りしました。

※厳密に言えば『舟唄』の歌詞は作者がわかっているので、鶴見氏が提唱した「限界芸術」には該当せず、「大衆芸術」だということになります。しかしこの歌の歌詞の機能を考えると「限界芸術」に近い面もあるのではないかと思いついたので、少々こじつけかもしれませんが「限界芸術」という言葉を用いました。

[2017年9月29(金)−30日(土)/続きは後日]

304.
「日本文化の現状」

 別に誰か偉い人が文化の衰退や危機を警告したわけではないのに、ここのところ文化が低迷していると思っている人は多いらしい。文化というのは人間が作って、人間が使うもので、家屋も下着も食べ物も文化です。インターネットもテレビももちろん文化ですが、文化が足りないというのは、実際にはどういう状態なんだろうか。

 全然ありません、というのならもうちょっと話がわかりやすいんだろうけれど、いちおう芸能も物資もある状態だからね。それでも、文化が不十分だという人がかなりいるようだ。漠然とした雰囲気の問題だろうか。少しゆっくり考えるのもいいかもしれない。

 理由はどうあれ、文化が低下しているから焦っていろいろ作りすぎ、数は増えても質はなおさら落ちるというようなことも、たぶん起きている。写真とか音楽の方面で言うと、今は誰でもアーカイブを作ってインターネット上に公表できる世の中で、便利ですが、だからといって皆さんがクリエイターだということにはならない。だけど、何かあればいい程度の意識だったら、プロが作ったものでなくてもさしあたり間に合う、という感じなんだろう。インターネット上のある場所はゴミ箱同然に荒れているが、そのことはいまは問わない。

 街に出てもいる場所がねえようなことなのかもしれない。場がない。下種な例ですが、ポルノは写真も映像も全部インターネットのディスプレイに収まってしまい、皆さんで集まってポルノを鑑賞しましょうという一般の映画館がない。ゲームセンターもおなじこと。街にあるのは「セキュリティ」で区切られた、限られた空間で、短時間で追い出され、ひまを過ごすゆとりがないようだ。

 話がわき道にそれますが、ベルリンやワルシャワにわたったぼくの友達が、かの地の美人度は高いし風俗営業も優れているから、おいでおいでと誘う。東京なんか、きたなくてだめですよとおっしゃる。ちまたに美女が多いのはうらやましいが、美女=文化ってことにはならんでしょう。確かに美女が多いと場が華やぎますけれども、身だしなみとかお洒落とか話し言葉に気を遣っているということは、服飾とか化粧の「文化」を身につけているという話で、便所を含む彼女たちの私生活もろとも文化財ということにはならないよ。あまり勘違いをしないほうがよさそうですよ。

 テレビでやってる芸能や芸術は、見た目がきれいだから優良とでも言いたくなるほど「古び」や「よごし」がない。いわゆる欧米化とかグローバリゼーションの潮流が、少し変わってきているのかな、というのはぼくの推測です。いろんなメディアの情報がそれに追いついていないのではないか。

 もっとも、世の中が文化で充満してるのも考えもので、どうでもいいすきまもあったほうがいい。寺山修司の『スキマオロジー (Sukimaology) 』という実験映画の題名はいまや国際語になった。その意味するところは文字通りすきまで、なにもないからすきまである。

 ここしばらく、ぼくは以前よく聴いたLPレコードを引っ張り出して聴きなおしている。べつに、いま文化がおかしいというような危機感からではなくて、もっと個人的な興味からやっている。自分の文化というものを確かめようか、というつもりで、中学生ぐらいから親しんでいたLPを聴いている。これらのほとんどが、生演奏に接する機会がほぼまったくない音楽だということは、言うに値する。優れた作品でも、コンサートを企画すれば大赤字になりそうなものばかりだ。規模が大きすぎるとか、評価が定まっていないとかいう理由によって。

 ぼくは行動範囲が狭いから、見えるものも限られていると思うけれど、現場体験から言うと、つきあってくれている友達には悪いが、音楽の作り手の意識じたい、そう高くはない。混浴風呂に行けば柄物のぱんつぐらいは見えるが、混浴風呂につかるように、ある漠然としたコミュニティの中で楽しくやりましょうやみたいな空気が支配的で、興味の対象を煎じ詰める努力がしにくい。そういう困難な場所に身を置いて、できるだけのことをやれば、それは仕事になる、と鶴見俊輔が書いている。

われわれが、われわれの仕事が思わしく実らない場所で一生懸命に努力し、その努力を持続することができれば、それだけでも一つの仕事になる。そういうことによって、われわれ日本人にとって最も必要な種類の思索を身につけることができる。(鶴見俊輔「大衆芸術論」より。『限界芸術論』ちくま学芸文庫、135ページ。)


 1950年発表の評論文ですが、現在も状況は変わっていないように見える。

 マニュアル化社会では、コミュニティの中では人は割合適応できているが、そうではなくてマニュアルしかできず、自分のコミュニティから出たら何も行動できない、これは適応障害だが病気じゃないと、ある精神科医が言っています。この種の適応障害者が大変増えているのが現状なのだそうだ。だとすれば、文化の力でコミュニケーションが回復するはずだと言ったって、それは遠い先のお話なのでしょうかねえ。回復の兆しは、ご近所のさりげない会話の中にちらほら見えているようですが、これと文化を短絡しないほうがいいような気がする。

 「男と交際しない女は次第に色あせる。女と交際しない男は次第に阿呆になる。」(チェーホフ)ぼくはいま以上に阿呆になりたくないから、夜な夜な近所のスーパーへ麦茶や塩せんべいを買いにいき、レジ打ちのお姉さんたちとふたことみことの会話を交わして、さしあたり間に合わせています。いまのところそれ以上のことにはなっていません。今後の展開に乞うご期待!このように、現実との接点を保って、泉重千代さんが言うように女人に興味を失わなければ、毎日なんとか過ごしていけるでしょう。

[2017年11月3日(金)/続きは後日]

305.
「文化における身振りと型」

 文化の「型」ということを考えていたら、シャンドール・ジョルジが弾いたプロコフィエフの『ピアノ・ソナタ第6番』がしきりに思い出され、いま聴いています。ぼくは小学生のころ、プロコフィエフの音楽に特有の調性のデフォルメに夢中になった。このシャンドールの演奏は、かなり豪快にミスをやっているんだけど、それも不思議な魅力になっていて面白い。作曲家ショスタコーヴィッチのピアノ演奏などもそうだが、ある種のピアニストのミスタッチは、弾き損ないではなく、そのピアニストの「創造性」の現れである場合がある。この場合、ピアニストは作品と「対話」をしており、ピアニストがピアノを弾きながら作曲しているわけではないから、作品の構成とピアニストの想像力がどういう形で結びつくかが問題になる。これは音楽的な「身振り」の造型であり、ひとつの「型」になっている。

 プロコフィエフはときどき無調音楽に近いものを書いたが、基本的には調性音楽の作曲家だった。ピアニストとしてのプロコフィエフの演奏マナーは19世紀ロマン主義の演奏スタイルに近い。『ピアノ・ソナタ第6番』もその次の『第7番』もそうだが、チャールズ・ローゼンが言うところの「音楽言語」というものを巧みに活用している。個々の旋律は「身振り」の連続で、調性機能のデフォルメは、その「身振り」が向かう方向に沿ってなされている。(ちなみに、『ピアノ・ソナタ第6番』の第1楽章に日本の国歌『君が代』が出てきますが、このことを踏まえた演奏に、まだ行き当たりません。)

 シェーンベルクが考えた音楽上の十二音技法というのは、1オクターヴの12の音を任意の順で並べて音列(セリー)を作るところから始まりますが、この音列はバッハなどのフーガの主題にヒントを得たものだろう。これをひっくり返したり、逆に演奏したり、転調したりという手順は、両者に共通している。音列をひとつながりの主題とみなせば、その反行形や逆行形も使って作る曲は原型の音列に基づく一種の変奏曲になる。たぶんシェーンベルクが注目したのは、この音列に見られる一連の変化の性質だったろう。最初の音から次の音へ移る質の変化。音列の原型だけが繰り返し使われる手法はモールス・コードと呼ばれ、十二音技法の初期の段階では、このやり方で1曲を通すことも多かった。システマチックに言えばこうなるが、シェーンベルクの音楽はかなり極端な「身振り」を用いて書いてある。無調や十二音列を必要としたのは、たぶんこれらの「身振り」を裏付ける論理性が必要だったからだろう。

 美術の世界の、ものを曲げて描くデフォルメという手法は、インターネット百科事典によれば原始時代からあったそうですが、もうちょっと狭い美術史で、たとえばピカソのキュビスムは1907年の『アヴィニヨンの娘たち』に始まる。シェーンベルクが無調音楽を書きはじめたのも同じ時期で、十二音技法の確立は1923年。美術上の「曲げる」手法は、音楽の世界での変化の性質と共通している。ひとつの音を延々と延ばしていれば、聴き手は次にどんな変化が現れるかを期待する。つまり1本の線が別の方向に「曲がる」わけで、聴き手のカタルシスの作用もこの変化の性質によっている。無調音楽や十二音音楽の場合、この変化の性質はかなり入り組んで複雑なため、カタルシスの作用も入り組んだものになる。現代のぼくたちは、この複雑なカタルシスの世界に生きている。ですからどんな音楽も、「あなたの耳で」聴いてください。どこかで話題になった人の曲だから、というような先入見は捨てたほうがいいと思います。

 十二音技法が発明されたと同じ時期、ジークムント・フロイトが『夢解釈』を発表し、現代のぼくたちが深層心理と呼んでいる精神の世界を明らかにした。これが1900年。ぼくたちが寝ているときに見る夢には検閲機能というものが働いて、脳内の記憶を変形するのだそうです。これもやはり、ものを「曲げる」作用であり、変化とかかわってくる。サルヴァドール・ダリは、このフロイトの深層心理学に注目し、一連の超現実主義的な油彩画を描いた。ぼくはダリの絵を面白がって見ていますが、ダリ本人に会った横尾忠則氏とか、エルネスト・サバトなどは、彼を皮肉っている。

 ヨーロッパ音楽の世界で、この「曲げる」という操作は、バロック時代に半音階という形で現れ、19世紀後半にはこれが汎用され、ドビュッシーは全音階を用い、調性機能をやめてしまおうと言ったが、実行はしなかった。実際に調性機能を廃止したのはシェーンベルクやエドガー・ヴァレーズ、チャールズ・アイヴズ、ジョン・ケージなどだが、こういう人たちも、新たなシステムを模索する傾向があり、完全にシステムを放擲するのはそのまたのちの世代の少数の音楽家たちだった。

 おそらく、19世紀末から20世紀はじめのヨーロッパ文化はなんかが過剰だった。一般には、音楽に限らず文学でも美術でもロマン主義の行き過ぎという批評で説明されている。だから20世紀初頭には人間の知性を見直す動きが出てきた、という話の流れです。現代のいわゆる欧米化、グローバリゼーションというのは、その延長です。現在のシステム化・マニュアル化・商業化した「グローバリズム」のありようは、19世紀ヨーロッパのロマン主義の続きだということになります。知性はどっかに置き忘れてきたらしい。流通がいいのはかまわないとしても、これじゃ単なるグルーピズムでしかない。

 文化には形式がある。文化の「型」と言っているのはこのことです。鶴見俊輔はかつて、言語表現の「身振り」に注目した。それはまず、わりあい小規模な「小状況」のなかでの表現に成功し、次に、社会的な「大状況」でも有効であるためには、象徴となる必要があると論じたが、これは文化の形式の考察だろう。ぼくはべつにほうぼうを取材したわけではないけれど、現状を見渡すと、言語の場合に限らず、表現行為の「身振り」そのものが小さくなっているようだ。違いますか。現在のテレビやネット、ライヴ会場などを見て、これが「大状況」だなどと思わないほうがよいですよ。「大状況」はそんなところにはない。もっと別の種類の「大状況」を考えたほうがいい。いま冬ですけど、夏場に行われる近所の花火大会などは「大状況」と呼んでいいんじゃないでしょうか。

 ものごとだけは氾濫しているような現実の中で「形式=型」を見出せなければ、文化の享受者は状況におぼれているだけだということになる。芸術表現の「形式=型」は、風変わりな形をしているものも、最終的には日常性の方向を向いている。システム化、マニュアル化の社会というけれど、人間の感覚や感情をそんなに割り切って把握できるものかどうか、疑問だ。その揺り返しの兆しがちらほら見える気がする。

 システム化すればものごとはわかりやすくなると、一応そう思われているようだけど、ほんとうですか。ごく浅く考えても、このシステム化は20世紀以降100年の文明国の歴史の流れの上にあるものです。人間の日常はそんな単純なものではないし、そうかと言って、新しい時代に、それまでとはぜんぜん違う人間感情が出てくることもないと思いますが、違いますか。

[2017年11月15日(水)−11月25日(土)/続きは後日]

306.
「馬鹿らしい歳末のお話」

 ジーナ・ガーソン(Gina Gerson)というロシアのポルノ女優さんが大人気なんだそうで、見てみたらロリ顔だしスリムで感じやすそうだし、当年とって26才にして、体型はちょっとスポーティだが色気もある。確かに可愛い。可愛いけどさ、いい加減にしましょうよ(笑)

 音楽を「再現芸術」と言い、生演奏に完成度の高さを求めるのは、やっぱり変だよ。「芸術はそれ自身目的ではない。人間を表現するための手段である。」これは19世紀のロシアでピアノ曲『展覧会の絵』を書いたムソルグスキーの発言です。最近ツイッターでこの発言を目にして、やっぱりそうかと思った。「再現芸術」とやらの基本概念は、これとは逆で、音楽を手段ではなく目的とみなすことだろう。生演奏というのは人間がやることで、もし、そこにある音楽作品が目的なら、極端に言えば演奏家が作品化しなければならない。それは違うんじゃないですか。

 そのムソルグスキーですが、晩年は飲んだくれてアルコール中毒で死んだそうです。ですが、それとこれとは関係がないのであって、『展覧会の絵』を酔っぱらって演奏するピアニストはいない。本日はクリスマス・イヴで、ぼくは赤ワインをグラス1杯半ぐらいたしなんで、これでほろ酔いだ。酒飲みの中に入りませんよ、こんなのは。こんなのでも、酒は「飲み飽きる」ことがある。いい加減、もういいやという気持になったら、なんで飲んでるんですか。

 近代日本文学は酒飲みの歴史で、「今日もまた酒飲めるかな!/酒飲めば 胸のむかつく癖を知りつつ」(石川啄木『悲しき玩具』より)とのことですが、「歌は私の悲しき玩具である」ああそうですか、好きになさったらいいでしょう。

 ある音楽作品の成り立ちと、演奏者の心積もりが一致しないなんてことは、演奏会場の空気や演奏者のコンディション次第で、いくらでもありうることだよ。その結果、生演奏には部分的な不恰好が現れることがある。これについての賛否はともかく、演奏というものは、その演奏家何をしているかが主眼だ。作曲家自身の実現意図を優先すると言ったって、それは結局、演奏家自身の想像力や創造性の産物で、作曲家の実現意図そのものではない。そりゃまあ確かに、コンサートで演奏家が興奮して演奏がぐじゃぐじゃになってしまったらよくない。けれどもそういう瞬間は、程度の差はあっても、どの生演奏にもあると思ったほうが自然で正直なあり方ではないか。

 タイかマレーシアに行ってカレーを食べてこようと思い始めたのは2年ぐらい前で、今年3月にタイに行って、炎天下の中、1週間、グリーンカレーとかヌードルスープのたぐいばかり食べて飽きなかった。だけど帰国後、レトルト食品の直輸入タイカレーは、なんか、たまに食べるぐらいでいいような気がしている。好物なんだけど、なぜかなあ。自宅の台所でレトルト食品では気分が出ないからか。タイでぼくに親切だった屋台のお姉さんは、いまどうしているでしょうか。

 台所と言えば、ぼくはハタチをちょっとすぎたころ、自分の作曲のテキストに「台所ヨウカンあたりまえ」というセリフを用いたことがある。なにが「あたりまえ」。

 このあいだ、シェーンベルクのピアノ曲を弾いた。この選曲には理由があった。テレビやラジオ、CDなどでシェーンベルクの曲を聴くことができるが、その多くがぜんぜん面白くないばかりか不快なのはどうしてか、いぶかしく思っていた。それで、この作曲家の曲を自分が弾きたいように弾いてみようと思った。やってみて思うのは、多くのシェーンベルク演奏が「グローバルな」演奏と見られることだ。シェーンベルクと現代のグローバリゼーションは別に関係がない。基盤は、もっと地域的(local)なもので、無調や十二音列を考え出した知性はそのために用いられている。それを無理やりグローバルに拡大すれば、変なものになる。この「地域的」ということはストラヴィンスキーもバルトークも同じで、地域的な関心を音楽で表現するための知性とか理論を必要とした、ということのように思う。ストラヴィンスキーが「テクニック」と言ったのも、たぶんこのあたりのことじゃないかな。地域性を失った表現というものは、何にしたって駄目だよ。

 その地域性ですが、文化のことはちょっと措いて、自分たちの近所の連帯がちょっとずつできてきているという感じがします。これは、コミュニティを作って、ちょっと広げたらグローバルになるとか、自分たちはアンチ・グローバルだとかいう話ではない。ごくありふれた近所でいいのですよ。自分が所属しているコミュニティの中の連帯なんて、閉塞していくしかない。自分の所属から外に出たら適応障害になりましたじゃ、話がお粗末すぎる。

 あと1年ちょっとで天皇さまが退位され、平成が終わるとのことです。現在の天皇さまのファンとしては、長いあいだお疲れさまでしたと申し上げたい。ところで、最近は「菊タブー」という言葉を聞かなくなった。天皇さまや皇室を誹謗中傷する言語表現のことで、ぼくはこの用語を高校時代に習った。そのときからですが、どうも「菊タブー」ではなく「菊田ブー」と聞こえて仕方がない。「高木ブー」の親戚でしょうか。「菊田ブー」「高木ブー」。ブーブー言うなって(何を書いているのかねえ)。

 うちの近所のスーパーのレジ打ちのお姉さんたちとはすでに顔なじみになったと言えば、せっせと働く美人さんたちとお友達になれてうれしい表現ですけど、要するにマークされた(笑)最近このスーパーに「怒鳴るお客さん」が現れて警察に通報したそうです。会計の手違いで、店のほうは訂正・謝罪したんだけど、客のおっさんが暴走したとのこと。ぼくはどうやら顧客のブラックリストには載らなくて済んだらしい。はっはっは。

 日常性は、手の届くところにあって、毎日、小刻みに表情を変える。その振幅を読んで、歩調を合わせてみる。自分も含めて、生活感情というのはデリケートな部分がある。こういうのは、急がないで、少し時間をかけて皆さんの表情を読んで、警戒心を煽らないように割り込んでいくのがよいようだ。これは妥協とかじゃなくて、Bというれっきとした交際術ではないかと思うが、いかがでしょうか。

 今年のクリスマスはチキンレッグをうちで焼いて食おうという算段で、塩・コショウをすり込んでしばらく置いておく。高村光太郎『智恵子抄』といえば、連鎖反応的に「ちえこしょう」→「塩・コショウ」→「柚子コショウ」と、どうしようもないアイデアばかり思いつき、なんもしないでひとりニヤニヤする年の瀬、どうぞ皆様よいお年をお迎えください。

[2017年12月22日(金)−12月27日(火)/続きは後日]

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