目次

江村夏樹が作曲や演奏で実践していること
(何を考えてやっているか)
そのXV

江村夏樹


307.
「2018年になりました」

 謹賀新年、今年もよろしくお引き回しください。



 元日の武蔵一ノ宮氷川神社の参道は↓こんな具合でした。横から撮ったら面白い写真になった、がははと自画自賛しています。


 ではまた近々。

[2018年1月3日(水)/続きは後日]

308.
「わからないことはムリにわかろうとしなさんな」

 作曲。半月ほどでだいたい形になった。図書館で詩集を借り、選んだ詩におよその抑揚を指定する。ほかの楽器は、詩の朗読にアクセントをつける程度で、楽譜の見た目はシンプルなものになっています。でも、それにしちゃ時間のかかる作業だ。シンプルなぶんだけ丁寧に作業を進める必要があって、様子を見ながらゆっくり進めていると、意識の速度もゆっくりになってくる。寝てるんじゃないか。

 紙に書いた詩は音読するもんじゃないという意見がある。今やってる作曲では、なるべく口語に近い散文詩を選んだ。日本語の語感が正しければ、読んでみてもよいのではないか。

 インターネットでいろんな演奏の映像を観て、ややだらだら過ごす。ここしばらく関東一円は寒波に見舞われましたが、ぼくがいるさいたま市あたりがいちばん冷えたらしく、早朝はマイナス10℃ちかくまで下がった。こんなことは日本海側でもなかったとのこと。用事がなきゃうちにこもっていた。そのせいもあって、1月は怠け癖がついてしまい、この稿もだらだら書いています。

 ぼくはジョン・ケージは面白い作曲家だと思うけれど、1950年代、『易の音楽』のころの彼の曲は興味はあるが大好きとはいえない。テープや打楽器でやったことをピアノでやった、ということなのだろうが、どうも「破壊」のほうが目立って、すなおに面白がれない。この曲の硬質な感じはブーレーズの曲などと同じ種類のもので、アメリカの実験音楽の歴史とヨーロッパ音楽の伝統の交点にこういうものもあるのだろう。『易の音楽』の第2曲は1989年に弾いた。当時ぼくは24才で、かなり苦労した覚えがある。その後、ケージの曲はかなり弾いたが、1950年代のやたら複雑なケージ作品は保留している。

 ただし、これらの前衛音楽は、普通一般に信じられている美的感覚を放擲して書かれた、ということは言えそうだ。そうすることで、普通一般の美という思い込み・先入観を打開して、新しい感覚を持ち込む窓を作った、という働きはあるだろう。そして、そういう仕事のおかげで、のちの世代の音楽家は余計な囚われに惑わされずに作曲や演奏をすることができるようになった。そういう影響関係はあると思うのです。

 70才以降のストラヴィンスキーの興味深い十二音音楽は、こんにち、ほとんど演奏されないが、ヨーロッパのクラシック音楽の伝統と戦後の前衛音楽とをつないでいる。こういう仕事があると、戦後の欧米の前衛音楽の成り立ちを理解する助けになる。新古典主義以降のストラヴィンスキーはあまり評価されない場合があり、確かにあまり面白くない曲もあります。けれども彼が考えた「知性」がどういうものだったかは、後期の十二音作品にはっきり聴き取れる。初期の『春の祭典』などと較べると、やけに音が薄くて野性味がないとも取れそうですが、聴いていて案外見返りがある。これらの曲を聴いたあとで伝統的な調性音楽に接すると、こちらのほうが時代遅れに聴こえてくる場合がある。ストラヴィンスキーの十二音音楽は、ずいぶん筆を省いた書き方だが、充分モダンだ。

 周囲の友達は、ぼくが理解困難な前衛音楽を弾くと言って困っているらしいですが、何度も書くがバルトークやプロコフィエフ、武満徹あたりを「理解困難」だと言われたら、何を弾いたらいいんだか。モーツァルトかベートーヴェンを反復演奏するぐらいしか手がない。ぼくはクセナキスやケージを「理解が容易」だなんて言ってませんよ。興味があるから弾いてるんだけれど、ぼくにだってこれらの作曲家のコンセプトは理解しにくいところがあって、全部わかって弾いているわけでもない。説明できるかどうかなんてことではなくて、共感できる曲を弾いているのでして、共感できない曲は弾いてないです。曲目選択に当たり、いちおう論理的に筋をたどって、自分に合ったものを選んでます。好きか嫌いかはちょっと別の話でね。世の中、ピアノがうまい人はたくさんおられるので、ぼくが弾いたってうまくいかなさそうな曲は、そういう方々が手際よくさばいてくれるでしょう。

 わりあい保守的な作曲家も、20世紀の中頃は、やっぱり戦争の影響を受けてか、作風が難解になった場合は少なくない。その時期に、たまたま十二音技法→偶然性、という前衛音楽の流れも起こってきた。ケージが発明した偶然性音楽は、やはりシェーンベルクの十二音音楽の影響下にある。こういうことを観念的に解説するのはそう難しくないが、この一連の歴史の流れを理解してピアノを弾くのが難しいのである。自分の100年前まで立ち戻ることは完全にはできない。その理解不足を想像力で補えば、どうしてもスタンダードな演奏態度からいくらか外れる。アカデミズムの先生方から叱られる、というわけ。皮肉な言い方をすれば、なーんも自分のアタマで考えないほうが首尾よくピアノ弾いていられますよ。

 音楽家の感受性というのは論理的にたどれないところがある。なんで調性機能が壊れて無調音楽が普及したかと言ったって、あとから説明はできるが、その説明を使って何かが創れるわけではない。本質的に「わからない」ところがあるのは確かです。でもねえ、感受性にもまっとうなものと変なものの区別があり、感受性だけでやってると、往々、変なことになりやすい、ということもちょっと注意しておいたほうがいいんじゃないの?   

 めったにない大雪だったから、写真を撮っておきました。こちらに掲載します。 

[2018年1月31日(水)/続きは後日]

309.
「宗教的体験について覚書」

 ぼくは宗教を本式に勉強したことはない。自分の家系が浄土真宗だから、自分も浄土真宗だ、ぐらいの意識で生きてます。以下は、そういうぼくが見た、宗教そのものではなくて(←これ重要です)「宗教的な現実」を書いたもので、あまりまとまってないし、学的な信憑性はよくわかりません。ご承知おきください。

*      *      *

 今朝はフランチェスコ・フェオの『ヨハネ受難曲』を聴いていた。キリスト教国ならば、こういう音楽は日常に普通にあり、観賞用音楽としても親しめるが、日本にいて、この種の観賞用の宗教音楽を求めると、手ごろなのがない。日本の家庭で、朝起きて読経をする人はいる。でもお経やご詠歌のCDをいつも聴いている人はいないだろう。その代用がたとえば演歌ということになるのかな。演歌っていうのは仏教歌謡である和讃が西洋音楽の影響を受けて商業化したもので、どこででも手に入り、心理的に負荷が少ない。らくに聴けるという利点はあるんですが、これは慰安であり、気持よく温泉に浸かっているのと同じことです(演歌を含め大衆芸術をだめなものだと言っているのではありません。その代表的な効能を挙げました)。ふつう芸術と呼ばれている絵とか音楽、文学などは受け手にある程度の負荷をかけるように企ててあるから、この体験は軽度の疲労を伴う。だから節度を保って利用するといいと言われるのでしょう。

 ヨーロッパの舞台芸術の原型は、本来、舞台上の演者は民衆の代表者に過ぎなかったのだそうです。高いところから教えを諭す役割じゃなかったんですよ。観客にサーヴィスを施す役割とも違っていた。ルネサンス期になって、キリスト教の世界ではいわゆる「教理問答」が現れ、牧師が信者に説教をするようになった。これと軌を一にして、舞台芸術の世界でも、演者がスターで、見物客は受動的になってしまった。ぼくはそういう世界にはおりません。作曲とピアノ演奏の技術を身につけた一介の市井人で、自分で望んでそうなったというより、気がついたら自分の現在の立ち位置がそうなっているんです。どうもぼくは、たまたまそういう資質を持った人間らしい。

 ぼくが生まれ育った新潟県は親鸞の浄土真宗が根強いといわれています。自分は意識していなかったが、その影響をずいぶん被っていた、ということに最近になって気づいた。キリスト教の場合は、中心に神がいるという構図だが、日本の浄土真宗の場合はそうではない。信教は民衆一人ひとりの自由気ままで、教祖様も、いるようでいないような感じでしょう。絶対他力というのはそういう世界のようです。こういう風土に、現代のキリスト教的な世界観は根づきにくいのではないかなあ。ぼくは欧米の音楽が好きでよく聴きますが、ある場合、自分の感覚に必ずしも合わない、という聴体験があった。作曲やピアノをやっているのは、その、欧米の感覚とは異なる部分を表現したい、という心理動機がきっかけになっている。これだけでは説明が足りないとは思いますが、ひとつ確かなのは、この領域で音楽の創り手と聴き手が離れてしまったらまずいです。これは考えたほうがいいことだと思う。

 ヨーロッパ音楽のあるものは求心性、中心に向かう力が強い性質を持っている。やっぱり一神教だからでしょうね。オーケストラは100人の団員が1人の指揮者の指示に従う。これに対して、日本の伝統音楽には指揮者はいない。合奏がどうにか合ってはいても、よく聴けばずれていたりする合奏も少なくない。雅楽、民謡、神楽舞などは、もちろん演者が集って団体を作ってはいますが、合奏形態はヨーロッパのそれとは違う。能楽は出演者全員が曲を暗記していて、ざっと申し合わせをして、すぐ本番だそうです。能舞台に特有の緊迫感は、このほとんどぶっつけ本番の一回性から生じるとのことです。思うに、あの舞台は3次元空間の「立体詩」ですよ。観客はこの立体空間を「体験」する、能という芸能の面白さは、体験に伴う観客の能動性にある。

 身体性。チャールズ・ローゼンは、音楽的な感動は「身体的なもの」と言う。シャンドール・ジェルジは、ピアノの演奏時には「代謝が活発になる」と言っている。舞台上の演者も観客も、同じように体を使う。芸術音楽の置き場所は、ふつうは四角く区切られた密室ですが、これは自然な空間のほうがいい。芸術音楽でない場合は屋外の演奏もあり、ほんとうはそういう環境のほうが開放的でいいんでしょうが、芸術というものの性質が「自然とは対立するもの」(ヘルマン・ヘッセ)だとしたら、環境音を遮断した密室で演奏するのが現実的なのかもね。

 なんにせよ、そこは部屋であって、身体の生理にとって不都合なものをよしとすることはできない。あたりまえのようだが、案外この配慮ができていない音楽の現場がある。自分が主催するライヴの会場の集客数すらわからない演奏家がいる。音楽に熱中するのも結構ですけれども、そんな危険な状態で音楽なんかやってていいのですかねえ。

 非常にゆっくりと作曲の手直しをしているので、1日、何もしていないような気がする。少し時間がたつと感じ方が変わる。その変化を評価して、直すのか元のままにするのか判断する。昨日書いた音符が、今日になったら響きが違う。それを直すか、元のままにするかで迷い、直してみてまずければ元に戻せばいいだろうと思って修正する。ここ数日はその程度の作業だが、やっていることが、一見、あまりに単純なので、余白の時間でピアノの練習ができると思って指慣らしを始める。しかし、これで腕の筋肉を痛めることがある。作曲では何もやっていないような気持だが、重心はこちらにあり、ピアノのトレーニングをムリにやってはいけないらしい。体は正直だな、と思う。

 宗教性というのは体験するものだから、これを語る個人性を素通りはできない。江村ごときの個人性なんて、世間さまにお見せするほど立派なものじゃないという気持もあるし、こうやって書いてみると、なかなか言語化できないもどかしさがあります。不充分は承知で、ここらへんでお出しすることにします。ぼくの作曲や演奏を直接ご参照くださると幸甚です。いちおう出しておきましょうか、こちらに一括、並べてあります。→ TAIKODO WEB THEATRE

[2018年2月27日(火)/続きは後日]

310.
「桜」

 1週間ほど、こーんな素晴らしい好天に恵まれて、5回も花見をした。桜の下で昼飯を食べて1時間ぐらいぼーっとしてくる。昼飯は広島風お好み焼きだったり、セブンイレブンのカレー弁当だったりした。おいしいですよ。

 桜の花は捉えどころがない。ぼくは散りぎわの桜、花びらがはらはらと風に吹かれて散り行くさまを眺めるのが好きですが、満開の桜を見て、「よさがはっきりしない」ような気持が強い。そういう桜を「なんとも言えん虚無がある」と形容した作家がおりました。薄桃色であって、黄色でも青でもない。ンなこと当たり前だろうと、長芋でぽこっと頭をたたかれそうだが、桜の花を眺めているとき、「この花は黄色ではない!」とか「青くない!」とか思う人は少ないだろう。

 花見の公園には人がごった返していて、寝転んだり、懇談したり、好き好きにすごしています。ぼくは1日目の花見のときは広島風お好み焼きを食べ、次の日はたこ焼きを食べました。縁日などもそうだが、もわっとした空気があり、なんだかよくわからない、不分明な良さとしか言いようがないから、そういうことにしておこう。あの空気は言語化できない要素が膨大です、なんて、物々しい言い方ですが、これは本当だ。なんだか阿呆になったような気分である。

 ニュージーランドの夏シーズン、12月とか1月とかに、ポフティカワという花が咲く。これが日本の桜のようなものなんだそうな。白か黒かはっきりしないような、輪郭があいまいな感じは、確かに似てますね。ただし花見と称して宴会騒ぎをやる習慣は、こちらの国にはないようで、道路沿いに静かに花が咲いているだけであった。

 今年は、関東地方でもマイナス10℃にもなったような記録的な寒さの冬のあとでやにわに暖かくなり、桜の開花が例年より早かった。そういう気候の変動の影響かどうかは知らないが、この春は静かにしていたいような気分なんです。これを書いている今も、やや退屈な昼下がり、BGMをがなり立てる気分でもなく、外は相変わらず好天だけれども、桜はもう終わりかけているし、なんかだらけてすごしています。こういうときはムリして張り切らずに、正直にだらけているのもひとつの手だろう。友達の中には、花見をしていない人もいるようだ。まあ、好き好きであって、ぼわっと流されて時を過ごすバヤイもある。

 せっかく桜が咲いてるからぼくは5回も花見をしたが、見たからどうしたということはなく、見ただけである。そういう無目的というか無責任というか、いい加減な時間をすごす春だってあっていいだろう。

 カメラがフィルムの時代は桜をきれいに撮影するには高度な技術が必要だったが、デジタルカメラは、たいして技術がなくてもそれなりに桜をとらえてくれるものらしいです。今年のお花見風景をこちらに貼り付けておきます。

[2018年3月31日(土)/続きは後日]

311.
「やしくせえべんきよう」

 大変いい天気で、少し暑いくらいだ。で、さっき、出先で「文化の○○の崩壊」について知人としゃべったんだが、それでこれは哲学用語なんですが、「○○」はカタカナ6文字ですが、ぼくはあんまり哲学をべんきようしていないので、使った先から忘れてしまい、電車の中で思い出そうとすると「キルケゴール」だの「マキャヴェリ」だの、人名ばかり出てきて、まあそのうち思い出すだろう程度に考えながら白昼の家路をぶらついておりました。なんか、外はのんびりと広い。ややこしく哲学をやるのもいいけれど、この、のんびりと広い風景を楽しむのもいいでしょう。

 それで、家に帰ってメールチェックをしていたら急に思い出したよ。「ゲシュタルト」だった。文化のゲシュタルトの崩壊。そういうことが、ただいまわれわれの日常でおきてませんかという話を、さきほど知人と話したんだっけ。哲学の本はあんまり読んでいないので、使い慣れない専門用語に戸惑った、というわけ。

 似たようなことが、つい先日もあった。度忘れした単語は「ジベタリアン」ではなくて、なんだったっけ。「ジベタリアン」は、「ベジタリアン」をもじって、床にべたっと座っている人のことを「地べたリアン」と言うのだそうで、3年ほど前に女友達から聞いたのであったが、いまネットで調べたら、これは若者を指して言う言葉だそうで、ぼくは別にじじいではないが、これは思い出したが、もうひとつ、なんだっけ。似たようなスラングがあったが、なんだったか。早世したぼくの妹がよく使っていた、そうそう、「アブラギッシュ」。額に油が浮いた男の中年サラリーマンを指す形容詞だそうで、こんな言葉は使う機会がなかったから、一過性の健忘症だが、必要な時は出てくる。ある文脈で話をしていると、流れに乗ってすっと出て来て、その文脈から離れると、表層意識から消えてしまう。単語だけを思い出そうとしても出てこない場合があるが、これは別に困る状況ではなく、ぼくたちの日常はだいたいそういうもんです。アタマの中の記憶の大脳生理学かなんかをべんきようしたら面白いだろうが、めんどくさそうだからこの問題に凝るのはやめた。

 いま午後3時45分で、ここらへんは、毎週火曜日と金曜日の4時になると「みやこや食品」という豆腐売りの巡回カーが通るのだが、この6年ほど「みやこや食品」に悩まされているが、ラウドスピーカから、がーがー流れる録音した売り声がうるっさくてかなわない。ですので、火曜日と金曜日の夕方4時は仕事を避けてゐる。いきなし旧仮名遣いだが、書いてみたかったんですよ。あのうるささは、どううるさいのか、ずっと考えていたんだけど、先日ぴかっと思いついた。どうやら@ヒステリックである、すなわち「感情的」である。A音声に変化がない。べたっと均一である。じつに落ち着かない売り声なのだ。同じ性質の音は、例えば子供の泣き声なんかはそうです。スーパーの中でよく知らないが悲鳴をあげている女の子がよくいるでしょう。

 ぼくは「物語」が読みたいのだが、1月に作曲の関係で詩集をまとめて読んだあとは、柄にもなく学問の本が多い。そういう方面のべんきようをしようという気はなかったんだけど、本屋を冷やかしていて出っ食わすのがその方向の本が何故か多い。べんきようをして偉くなろうという気はないから、傍学として好奇心で読んでいる。文化記号のフェテシズムはどう見るのか、なんて、およそぼくの適性にはないこととつきあっている。こういうのは本を読んだからといって学者になれるというもんではなさそうだが、なろうと思ったってなれるもんでもないと思うが、アタマの隅に置いておくと面白いかもね、ぐらいの気分で読んでいる。

 小説、つまり「物語」を読みたいが適当なのがなく、自分で書いてみようかと思ったことはかつて何回かありましたが、書いてみると、おかしいことになったり、全然展開しなかったり、とにかくだめで、そっち方面の才能がないことは明らかです。作文や雑文のたぐいなら、このサイトにときどき載せている。結局それは自分や自分周りの近況報告で、そういう私的な領域から離れて、完全なフィクションとかウソのたぐいを書いてみたいという夢はあるのだが、夢だけがあって行動がない。これが才能がないという状態なのだろう。そんなことは高校時代から自分のことだから知っており、本日は、ちょっとだらしのない作文がやってみたい気分だから試してみてますが、こういう悪ふざけは、たまにふざけるのもいいけれども、どうもすいません。

 しかし、まあ達意の文ぐらいなら書けるし、世には達意の文どころか手紙も書かない人もいるし、ぼくのは実用文なのかな。んで、この稿はテニヲハや順接・逆接をちょっとルーズに書いてみたらどんなことになるだろうと思って、思いつきを並べてみていますが、書いてるぼくはひとりで面白がっているが、読んでる人はいい迷惑かも知れないが、筆者は、べんきようや努力の産物ではさらさらなく、日なたに3日も『さらした日記』ではないかとおもってひとりニヤニヤするのも、たまにはいいんじゃないか的な気分です。

 「父」と「おやじ」と「パパ」は、同じ指向対象を持つことはあるが、それぞれ別な言葉だ、という記号学の本のくだりを読んで、思わず笑ってしまった。確かに「父」と「おやじ」と「パパ」は違うようだ。通行人のおやじを引きとめていきなり「パパ!」と呼びかけてはいけないということを、まじめな記号学の本の中で言っていないけれども、そういう意味のことを言っているのです。面白くてよかった。同様に「母」「おふくろ」「ママ」は違う言葉で、通行人のOLを引き止めていきなり「ママ!」と呼びかけたら、OLさんは「きゃあ」と叫んで飛び上がり、スカートがめくれてアレが見え、思わず昂奮し、大変なことになるだろうか(くだらないなあ)。

 こういうくだらん「達意の文」を綴ろうと思ったのは、日常、自分が好きなことをやって好きに2時間ぐらいの自由時間を過ごしたっていいだろうと、あるとき思ったからなんですが、やってみると、どうやらこういうバカくさいいたずらが大好きらしいんですが、文化ちんたれの折(意味がわからないッ)、窮余の策と言えば確かにそうだけれども、かろうじて文意が伝わる程度のバカそうな作文だけれども、折に触れホラ話もいいだろうと思いましたが、あまりの面白さとくだらなさで噴飯ものだったらすいませんでした。

[2018年4月20日(金)−22日(日)/続きは後日]

312.
「ヒマな哲学の材料」

 知人の映像作家曰く、映画のあらずじというものは、全部「A→B」という構成になってる。Aという状態からBという状態に変化するだけで、ばかみたい。ぼくとしゃべってて、彼女はそんなことを言った。そうですかねえ。その「A→B」の変化を楽しむのは、もう古いのかねえ。古くて、フィルムにカビが生えてて観にくいのか。それに、人生には「C」という出来事もあり、場合によっては「B」を認識せずいつの間にか「C」であったこともあった、なんちゃって。

 ぼくは、なるべくヒマそうな、目下の自分とは関係がなさそうな、あるいはバカそうな、時間つぶしの材料を見つけたくて、ひとが作った「物語」を読むか見るかしたいと思っていたら、方向がそれて、先日お話したように学問の本にばかりぶつかることになった。教養をつけたいと思ったのではなくて、犬も歩けば棒に当たった、それだけの話なんですよ。アリストテレスによれば、哲学っていうのはヒマなときにやることだそうで、ヒマを推奨している。先般読んだ記号学の本は、専門用語はあったし美文や名文でもなかったが、ヒマに任せて読むぶんには映画よりも面白いネタかもしれない。「皆さんは、ここに木があると思っているでしょうが、じつは木はないのです」なんてことは、およそヒマでなければ考えられず、普通一般の日常ではまあどなたもお話しにならないことがらでしょう。

 ふつうは学問というものはべんきようをするもので、映画のほうが娯楽で息抜きだよとの意見が多かろうと思います。気持はわかるけど、いい息抜きでなくちゃあね。それに、テレビやネットで観るのでなく、大きいスクリーンで、みんなで観て、帰りにパスタでも食ったほうが楽しみが増すような気がするが、ラーメンでもいいけどさあ、そういう万人共通の娯楽としての映画は、成り立ちにくいご時世なんですか。

 映画館では観客が「お金を払って仕事をしている」と言った人がいる。ちまたの映画(「ちんたまの映画」ではない)は、スクリーン上の映像を観客がアタマの中でつなぎ合わせなきゃ鑑賞できないシロモノだという意味です。まあ、そこまで悪く言わず、娯楽で観ればいいじゃないか、と思うが、作品じたいがくだらな過ぎる場合はしょうがなくてですね。電車賃と1800円払って映画館に観に行かなくても、街には貸しDVD屋があり、100円で名作を借りてきてうちで観られるし、インターネット動画サイトでも何かは観られる。うちじゃつまんない、と思うか思わないかの違いでね。自宅でうまい手料理を食うのもいいが、たまにはしゃれたレストランで外食したい、なんて思うときもあるが(「くだらんしゃれはよしなしゃれ」なんておやじギャグ飛ばしたりしてね)、ぼくがお世話になってるのはせいぜい590円の坦々麺ぐらいだ。21世紀に入ってから、外食で贅沢らしいことは1回しかやってなくて、周富徳さんのお店に親友一家と出かけて、北京ダックを豪快に食べました。でも、あとはたいてい粗食だよ。

 今年1月、久しぶりに貸しDVD屋に行き、これも、犬も歩けば棒に当たったんですが、ルイス・ブニュエル監督の『ビリティアナ』を借りて、自宅で鑑賞しました。そのー、ベラ・バラ―ジュじゃないけど「ドラマツルギー」というものは映像の質感までを含めて言うことのようで、その気にさせる画面なんですよ(文字色を変えちゃったりなんかしち)。ヒマつぶしをして、得をした気分になる。損した気分になったら、いやじゃないですか。

 どこの国の映画だったか、『電車に乗った男』という題で、電車に乗った男がどうするか、観たれば、まあ、この男は映画が始まって5分ぐらいで頭痛がして電車を降りてしまい、田舎町で爺さんを相手に延々とわけのわからない話をするばかりで、2度と電車に乗らないのだ。がっかりしました。いや、その俳優は映画の撮影が終わってから電車に乗ったかもしれないが、そんなシーンは映画本編には映っていない。そもそも娯楽と言ったって、くだらな過ぎたらしょうがないでしょう。

 アルフレッド・ヒッチコック監督の『鳥』はサスペンス映画の傑作ですが、ヒッチコックは鶏肉が好物だったそうで、だから『鳥』という映画を作ったんじゃないかしらと、ヒッチコックの奥さんが言っていたそうですが…ほんとうかね。こういう、いわば「ウソ」の世界をぼくたちがおもしろがれるのは、感情の乖離作用があるから、とのことです。悲劇や悲しみを楽しむことができるのです。そういうありがたい作用もねえようなシロモノを、わざわざ見物に出かけるわけがないじゃないかというのが、煩悩具足の凡夫の代表的な見解なのだ。『ストリッパー』というフランス映画に、あろうことかストリッパーが出てこない!これではよくない。当たり前のことですよ。

 ここ10年でじつに楽しかった映画は『ホノカアボーイ』(2009年)で、当時81才の喜味こいしさんが出ているよというので、観に行ったら、長谷川潤さんのまぶしいパンツも観れてラッキーでした♪ 美女のパンツじゃなくても、何かそういう観どころ…。

−−−− ここで2時間ほど休憩。出会い喫茶に出かけたのでなく、自宅で休憩。−−−−

 ふと思いついて、YouTubeで寺山修司の映画を探し、『二頭女』という17分ほどの実験映画と『草迷宮』を観た。1983年に寺山氏が亡くなり、入れ替わりで翌年、ぼくが大学に受かって東京に出たら、渋谷で追悼映画祭が毎年のように開かれて、ぼくは学校をサボって渋谷に通っていた。そのせいで寺山映画はどの作品も3回ぐらいずつ観ている。いくつか見逃した実験映画があり、『二頭女』はそのひとつ。『草迷宮』のほうは、1983年の暮れに六本木の俳優座でかかっていたのを観た(かかっていたといっても、誰かが俳優座にコーヒーぶっかけたわけではない)。追悼上映だったのかな。ピアノの受験勉強のためにときどき東京に出てきていて、教師の自宅が六本木にあった。

 当時は寺山的なモティーフの意外性に夢中だったのと、とにかくヌードがいっぱい出ているから、セックスを知るきっかけになった(いまさら教わらなくてもぼくは最初から男だった)。いま観てみても新鮮だしとても綺麗ですが、あれから30年以上経って、ハダカの役者さんも、奇態なモティーフも、寺山修司的思想も、そういう、いわば生き方のお手本があったけれども、自分の人生は映画とは別物で自分の人生である、という趣です。2ミリぐらいはオトナになったということか。だらけてヒマな哲学には、うちで寝転んで映画鑑賞という手もあるのか。

 人生、四六時中充溢しっぱなしでは息がつまるんで、詩人の金子光晴は昼間からポルノでごまかしていたそうです。べつに晩飯時にテレビでポルノを流せと言っているのではないが、無茶苦茶な編集としか思えないような駄作映画をああくだらない、あーくだらないと愚痴ったれつつ渋面して付き合ってることもないだろうがよー。最近ネット上に出回ってる、大して意味もねえようなイメージ映像をあてがっておくのも、さしあたり打開策なのかもね。

 付記 今年は寺山修司没後35年で、6月に渋谷で映画祭があるそうです。

[2018年5月12日(土)/続きは後日]

313.
「再現芸術、グローバリゼーション、新しい世代の作曲家について」

 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー著『音と言葉』を拾い読みしている。1918年から54年までの論文集で、かなり古いものだが、現代のぼくたちにいくつかの問題提起をしてくれる。以下、ちょっと…まあこの本を参照しながら、「20世紀までの芸術音楽」と「20世紀からの芸術音楽」が1本の線でつながるように論じてみたい。足らないところは誰かが補ってくれると思ってやってみよう。

 この大指揮者は「再現芸術家」をかなり徹底的に皮肉っている。シェーンベルクの十二音技法は「有機的」ではないといって斬り捨てている。この2点、ぼくは概ね同意見です。こんにち、日本では「音楽は再現芸術だ」との見解がまかり通っていますが、勘違いじゃないのか。「再現芸術家」の作品解釈は、その曲の作曲者が制作のときに抱いた「全体」なるものをくみ取ろうとしないと、フルトヴェングラーは言う。「ロマン主義的」な気分で部分をつなぎ合わせているだけだと指摘する。この意味で、フルトヴェングラーはいわゆる「ロマン主義」に対しても否定的で、自分はロマン主義者ではないという意味のことを言う。

 この大指揮者が「知性的」というとき、それは例えばベートーヴェンの交響曲第5番『運命』の「楽節法」に見られる高度な作品構築とその自然さを尊敬し、理解に努める、という意味なんですが、それが「知性的」かどうかは疑問の余地がある。ヨーロッパの古典音楽の場合はそうかもしれないが、ほかの地域ではこの埒外という可能性だってある。彼が人間について言う「合目的性」というゲシュタルトは、ヨーロッパ古典音楽の「楽節法」だけによってもたらされるというものではない。もちろん、彼が擁護するパウル・ヒンデミットのような作曲家の曲を聴いていると、確かに高度に「知性的」で、こういう人はむしろ例外的存在だろう。もうちょっと周りを見てみると、ヨーロッパにおけるそのような作品構築の時代は、20世紀初頭にはもう消えてしまった、のちの「無調」の作曲家も「有調」の作曲家も、バッハやベートーヴェンの作品のような有機的な作品構築を参照しない、とフルトヴェングラーは批判するが、現在のぼくたちの音楽の世界は実際に、この大指揮者が指摘した通りのことになっており、この人の立論では語れない現実があるように見える。

過去の偉大な作品は高度に直観の上に立っています。演奏する場合、そういう直観を正しく描き出してゆく、ということはしないで、あらゆる手段をかたむけて、それを追放し、迫害しようとします。作曲された作品の内部について、「直観」とは何であり、何でありうるか、今日人はもうほとんど知ってはいないように思われます。

すべてそれぞれの時代、芸術家、いや多くの場合、すべての作品自体が、それぞれ違った理想とする音調から出発している。そういうことも今日はもう考える人さえいなくなりました。むしろその反対に、ひとはすべてこれらの千差万別の作品をただもういつも同じ一つ覚えの大げさな「様式にふさわしく」とか、「楽譜に忠実な」とかいう掛け声をもった演出でもって、さっさと演奏をすましてしまう。まことに理論万歳で、その内容が愚劣で、幼稚であればあるほど、いよいよ大衆に迎えられるものになると言うのです。なんとまあ人は途方もないしまり屋になったものか、まだ気がつかないでいるのでしょうか? (1954年、芳賀壇訳、アンダーラインは原文では傍点)



 あのー、フルトヴェングラーが“20世紀前半の”音楽家だから、もう彼の時代ではないとか、そういう話ではないんですね。哲学の世界でアリストテレスが論じられるように、フルトヴェングラーも“論”の対象なのだ。21世紀の日本で活動している一介の音楽家として、ぼくは基本的にこの彼の指摘に同意する。現在行われている「再現芸術」の大半はこれである。フルトヴェングラーだって、現在の音楽上の「グローバリゼーション」なんか、「理論万歳」のしまり屋の音楽だと言って一蹴するだろう。それはいいんですが、この引用文を正直に延長すれば、現在の新しい音楽の作曲家だって(まともな作曲家なら)「すべての作品自体が、それぞれ違った理想とする音調から出発している」のであり、検討に値する作品や作曲家に「直観」がない、と言えるだけの論理的根拠がフルトヴェングラーの本には書かれていない。どうも、別の考察が必要になってくるらしい。

 フルトヴェングラーはシェーンベルクの十二音技法を「科学的」で、「有機的」でないとして、頭ごなしに否定しているが、少なくともひとつの点で、この2人の考え方には共通の論理的な誤りがある。音楽は言語ではないにもかかわらず、「音楽語法」としての「楽節法」が言語の文法に相当するものだという考え方がそれだ。

 この論理的な誤りを指摘したのがストラヴィンスキーだった。「音楽の目的は何かを表現することではない」。ひとつの作品について「正しい解釈」はひととおりしかなく、それがその作品の「全体」というものだというくだりに於いて、フルトヴェングラーは初期のストラヴィンスキーを評価する。要するに彼が言いたいのは、Aという曲はAであってBではない、ということだろう。ところで、ストラヴィンスキーが大変嫌った「解釈」という言葉と、フルトヴェングラーが言っている「解釈」という言葉は意味が違う。ストラヴィンスキーが言っているのは演奏家が主観的な色付けをすることで、フルトヴェングラーが言うのは作品の「全体」を描き出すこと、意味が逆である。紛らわしいが、2人の用語法は異なる。

 フルトヴェングラーが理解・尊敬しているヨーロッパ古典音楽の「楽節法」が、20世紀に入って、いろいろに変化した、あるいはほかの語法に取って代わられた、それは社会の中での音楽の相対的な位置づけの問題が関与していたのだろう。フルトヴェングラーが言いたいことは、音楽の“包括的な”全体が必要だということなのだろうけれど、それは別に「単純」で「規則的」な「楽節法」に見られると決めなくてもいい。確かに、「規則的」な「楽節法」は人間の合目的性にかなう場合があって、これは例えば人間の日常で、朝起きて昼間に活動し、夜は眠りにつくというようなおおまかな規則性、あるいは、文法にかなった達意の文章が書けるという一般的な読み書きの能力などと同等に評価してよい。このたぐいのきまりごとのようなものを知らずに、ところ構わず音イヴェントをばらまいている世界は「全体」を知らないという批判はありうるだろう。しかし、別に表現一般に合目的性なんかなくたっていいじゃないか。美術の世界で、例えばピカソのような人が古典的な理想化されたデッサンを取り入れない場合があった。ヨーロッパ古典音楽の「楽節法」は、古い美術の「理想化」や「均整美」に対応していないだろうか。(忘れずに付け加えますが、ピカソは古典的なデッサンを、唖然とするほど完全に身に付けた画家だった。)

 大指揮者が十二音技法を否定するのは、それが科学的思考の産物で、ベートーヴェンの作品構築を全然参照せず、無機的で、ノウハウさえ修得すれば誰にでも音楽作品が創れる、そんなばかな話があるか、ということのようだ。

 こんにち世界中に普及したいわゆる洋楽の歴史、芸術音楽の歴史を遡ればモーツァルトやベートーヴェンに行きつくから、確かにそうだと同意してみる。しかしこういう論法で行くと、そんなら20世紀以降の作曲法や演奏法は先がないじゃないかということになる。これではこんにちただいまの世界中の音楽のありようは説明がつかない。無調音楽を皆さんが創るようになったというのは、賛否は別として現実なのだ。フルトヴェングラーが強調する古典音楽の「楽節法」は、現代では意味がずれ、単なるシステムにすり替えられ、惰性化・制度化・形骸化している。それは政治的配慮の産物で、音楽とは別物なのだ。音楽の伝統は惰性化でもなければ、政治的配慮でもない。そういうことがつまんないと思った人が、無調音楽や即興演奏をやっているんです。どのような事情であれ、こんにちただいまの音楽の現状を受け入れずに、ベートーヴェンを尊敬するようにいわれたって、すっと受け入れられるものかどうか。

 フルトヴェングラーが言う音楽作品の「全体」というのは、作曲家の直観がもたらすものである。彼が軽蔑した「再現芸術家」は、作曲家の直観を無視する。そうではなくて音楽作品の解釈は、この「全体」をつかまなければならないと、彼は言う。でも、シェーンベルクの十二音音楽はこの「全体」を原理的に認めないというくだりは、少なくともぼくが読んだ論文からは根拠がはっきりしない。それは「科学的」で、かつての「有機的」な古典音楽とはよりどころが違うと書いてあるが、十二音技法は別に科学ではないし、伝統的な調性機能を壊したのだから、よりどころが違うのは当然だ。

 ぼくは、十二音技法というのは歴史的な偶然性の産物だったが、結果としてこれは「脱・ヨーロッパ」のきっかけになり得るものだったと理解してます。しかしシェーンベルクの十二音技法は、後期ロマン主義を極度に推し進めた揚句、調性機能を壊したデフォルメの世界で、どうやらそれは新しい音楽語法として定着するには問題の多い作曲技法だった、だからそのままの形で受け継いだ人はそれほど多くはない、という歴史的経緯がある。

 あまり言われないことだが、例えばジョン・ケージの偶然性音楽の萌芽は、その250年前のバッハの音楽などにはすでにある。それは、音楽を構成する個々の音の質のばらつきのような形で現れている。12平均律も機能和声もできたばかりだった。シェーンベルクの十二音技法はひとつのシステムだが、歴史的に見れば、のちの偶然性への導線だったという見方もできる。ケージが初期の作曲に音列技法を使い、打楽器アンサンブルやプリペアド・ピアノのための作品を経て偶然性音楽へと進んだのは、自然な展開だった。

 フルトヴェングラーはバッハを「主観的」で「客観的」な作曲家だと言っている。どういう意味だと突っ込みたくなるが、音楽の創作が個人の営みだとすれば、バッハの音楽も特定個人の産物で、現代のバッハ演奏は全部、ぼくたちの時代の共時的な演奏だということになる。将来成り立つかどうかは知らないが、ただいまのところ成り立っている演奏、という意味です。だからと言って全部が全部「理論万歳」のしまり屋の演奏だとは限らない。でも現代のバッハ演奏の多くが類型化しているのは事実で、正直に言うと、ぼくはどうもそういう演奏は結構なものだと思うが共感できない。現代の「無調」の音楽というのは、その作曲家や演奏家の発想の恣意性に負うところが大きいが、バッハだって彼の時代には同じだっただろう。後世の批評家がバッハ作品にある意味づけをしたから、その意味なるものを表現するのが「再現芸術」だという考え方は、フルトヴェングラーだって否定している。ぼくは、かれが強調する「知性的」な態度には同意するが、それは「楽節法」と同じではないと思う。

 だいぶ長い間加筆・修正したこの文章、ここらへんで出してみよう。なお、『音と言葉』の中には、ベートーヴェンの『運命』の詳しいアナリーゼがあるし、そのほかブルックナーやワグナーについても言及しているが、ぼくはブルックナーもワグナーもあまり好きではないので、自分の肌に合わないところはとばして読んでます。全文を読んだのは「偉大なものはすべて単純である」(1954)、「バッハ」(1951)、「ベートーヴェンの音楽」(1918)、「ブラームスと今日の危機」(1934)、「ヒンデミットの場合」(1934)、「作品解釈の問題」(1934)の6篇です。

 ここしばらくお天気が不順で自分で撮った写真がないので、さっき出てきたピカソの『泣く女』を貼り付けておきます。束の間、名画鑑賞とまいりましょう。

[2018年5月30日(水)−6月21日(木)/続きは後日]

314.
「ヒマを過ごす」

 疲れたら、どうでもいい猫ちゃんのイメージ映像かなんかあてがって眺めていることもある。猫缶150グラムを完食する猫、マグロが大好物の猫、名前を呼ぶと駆けつけてくる猫、お風呂が大好きな猫。ヒマだなあと思うが、事実ヒマなんであって、わざわざくたびれるようなことをしなくてもいい時間なわけです。生きてる人や動物を撮影すれば、しょーもない映像も文化記号には違いない。そういうものを、うちに居ながらニタニタ変な笑い顔で眺めているのが、私たちの日常なのだ。

 なるべく意味のないバカそうな読書はないかと思って、河合隼雄・大牟田雄三共著の『ウソツキクラブ短信』をアマゾンで1円で買った。古本ですが、1円だった。たぶん20年ぐらい前、図書館で借りて読んで、不思議なウソばっか書いてあるので覚えていた。初版が1995年、23年前だ。読み直したら、初対面のときの不思議な感じはさすがにないが、現代は時節柄ウソというものが成り立ちにくいというか、ぼく自身、ウソはあんまり言わないほうなので、ウソの効能を見なおそうという気分がないでもない。それにしても古本が1円とは、ちゃんちゃかちゃんですね(意味不明)。

 ネット上には壇蜜さんをはじめとして、きれいな姉ちゃんのイメージ映像が流れている。美人なら見る。それはいいんだけどさー、くだらないテクノみたいなBGMが流れているのでだいたい消して眺めている。あんなものなら、ないほうがいい。菱川師宣の『見返り美人』という日本画があったが、現代では無音美人がナウい(なんでこんなところで断定するのかねえ)。「タダほど高いものはない」というから、もし金を払わずに美人の映像を蒐集して自分の部屋でぐふふと笑っているうちに、とんでもないところでツケがまわってきたらやだけど、ネット上の映像は別にタダではない。契約してるプロバイダに月額何千円か払っているから、いちおう、タダではない。いやなものは拾わないだけの話だ。

 川上弘美さんが書いている小説は「ウソ話」だそうです。ご本人がそう言っている。確かにこの方の小説は、読んだ先から霧消してしまう。ウソのリアリティとは、なんだろうか。ウソの具体性とは、なんだろうか。なんだろうか。「なんだろうか」がひとつ余計である。100%完璧であるかのような別物のB、というようなこと。ダリやマグリットが描くだまし絵なんかは、そういうものだろう。「美=B」という次第で、ちゃんちゃかちゃんである(意味不明だってのに)。

 先日、自分のコンサートを終えて自宅に戻り、時刻は深夜、最寄りのスーパーにちょっと寄ったら、顔なじみのレジ打ちのM嬢が「結果はどうだった?!」と訊いてくる。国民の関心はぼくのコンサートなんかにではなく、テレビのワールドサッカー中継にある。Mさんはその試合の結果が知りたいのです。コンサートで2時間ピアノを弾いていたからサッカー見るヒマがなかったよと答えておいたが、相手のアタマにはサッカーの試合のことしかない。ド憎たらしい…というのは半分ホンネで半分ウソですよ。ご商売の方の「勘」の鋭さはハンパじゃないので、レジ打ちの姉ちゃんたちには日ごろから、自分はご商売の方よりはヒマですと言ってるんですがね。

 バッハの息の長い対位法音楽は「抒情」の世界だということを知るのに、フルトヴェングラーの音楽論を読んでおいて損はなかった。このバッハの音楽と、例えば初期の近藤譲さんのピアノ曲『クリック・クラック』とは関係がないようにみえるが、「抒情」というひとことで関連がつく。そういう性質の音遊びの世界なのだ。この人は音楽の1970年代を代表する作曲家として知られ、ぼくが音大生になったのは1984年で、当時すでに、70年代は「遠い昔」だと見る向きもあった。しかし近藤さんや松平頼暁さん、高橋悠治さんなんかは、1980年代にはアンチ・アカデミズムの標識のような存在だった。それから30年がたった現在、おかしなことに、グローバリズムとアカデミズムがほぼ同義語のような現実になり、かつての前衛、かつてのアカデミズムは両方とも成り立たなくなっている。そういう一種の党派思想が体をなさなくなったのはいいんだけど、どっかのコミュニティに所属しないまでも、友達づきあいぐらいはないと自己表現の機会と手段が得られない、という現実問題がある。だからといって友達が多けりゃいいもんでもないところが、んったく、ちゃんちゃかちゃんですね(意味不明だってのに)。

 落書きを文化記号として見る研究がある。一流企業が値段をつけたブランド品だけが文化だと思っていると「世俗に堕ちる」(横尾忠則氏)。音楽の生産者は、自分が文化の担い手だ、なんて意識はないほうが正解だろう。それは作品制作に必要な自己意識とは別物の、思い上がりだと思う。美人さんそのものが文化記号なのか、彼女がつけているブラジャーやパンティが文化記号なのか、すぐにエロを持ち出すこのうすぺらい品性!はともかく、束の間(「たばのま」と読まないでください)考えてみてもいいのではないか。

 そうそう、「ウナギのヒマつぶし」っていったいどういう料理かと思っていたら、そうじゃなくてあれは「ウナギのひつまぶし」というのだそうで、「呆れサンドリア」というブドウではなくて「アレキサンドリア」だと学習し直し、自らのバカさ加減を自覚する冷や汗もののスルリ(× 正しくは「スリル」)を味わう楽しみだってないわけではない。ったく、ちゃんちゃかちゃんですね(意味不明だってのに)。いつまでもくだらないことを書いている初夏の宵、まあ、いいじゃありませんか。

追記 ここしばらく、西日本の水害に続き、記録的な猛暑だそうです。暑いところは避けて過ごしましょう。

[2018年7月7日(土)−15日(日)/続きは後日]

315.
「ちょっとマナーを崩す」

 ゲオルク・フィリップ・テレマンというドイツ・バロック音楽の作曲家が好きだとぼくが言ったら、意外そうな顔をした人がいた。理由はわからない。とにかくこの作曲家の音楽は楽しい。

 楽しいのですが、彼の『食卓の音楽』を、食事時に聴こうという気にはならない。むしろ邪魔になる。食事のときには音楽は聴かないか、どうでもいいテレビやラジオをつけているか、どちらかだ。理由は簡単で、魅力的な音楽が聴こえてくると耳も気持もそっちに行ってしまい、食事が止まってしまう。両方やれないんです。以前、渋谷・道玄坂のスペイン料理店で魚介類が入った炒めご飯を食べていたら、フラメンコのショーが始まり、赤い照明の中にどぎつく赤い衣装のダンサーたち、掻き鳴らすギターと手拍子、そっちに見入っていると食事はとまってしまった。ワインを飲みながら音楽を楽しむ人がいるが、ぼくは不器用なんだろうか、ワインならワイン、音楽なら音楽と分けないと、両方ごちゃごちゃになって、なんだかよくわからなくなる。

 ぼくはプロコフィエフのバーバリズム音楽が面白くて、中学生時代からずっとファンです。ファンですが、ある晩うちに女の横笛奏者がリハーサルに来て、いっしょに夕飯を食っているときにこの作曲家の『交響曲第2番』のCDを流したら、音が暴れて、暴れて、食事どころではなくなってしまいました。聴きながら呆気にとられ、めしを食う箸が止まってしまうのだ。食事のためにはもっと気楽な、どうでもいい気分もあったほうがいいんです。

 案外、ぼくたちの日常にとって、この「どうでもいい」隙間というのは大事なものらしい。それは、どうでもいいから大事なのであって、そこに何か肝心なものを詰め込むと、その時間はもう「どうでもよくない」時間になる。音楽だって文学だって、いくらか「どうでもいい」から、緊張に息が詰まることがなく楽しめるという心理は、どなたにもあると思うのだが、どうですか。

 小説など文学に陶酔することの大事さを教える文学者がいる。もっともだと思いつつ、でも難解な詩や文学に陶酔するのは技術がいるではないか、と思い直す。音楽に弱い人がいて、音イヴェントに接するとめろめろになってしまうらしいが、ぼくはそういうのは陶酔したのではなく、溺れているだけだと思う。危険が全然なければ、溺れたければ安心して飛び込んでみればいいという、まことに平和なユートピアである。

 陶酔境というのはそんな安いものだとは思いたくない。というか、そもそもその対象に尊敬の念があるから陶酔もしたくなるというものじゃなかろうか。尊敬があると気楽に飯が食えないということか。いや、そうではなくて、単に二足の草鞋がはけないだけだ。音を聴くことも行為であり、めしを食うことも行為であり、ふたつの行為を同時には行えないというゲシュタルトなのだ。

 だけど、対象が音楽だろうが、女だろうが、陶酔することは必要だし、別に悪いことでもない。ぼくたちは、いろんな場面で心身のカタルシスをやって生きている。それやんなきゃ快適でないわけです。ぼくが美人に弱いと言った女友達がいたが、だからといってすぐにアブナイ行為に及ぶわけでなし、美人がいるのはとても結構なことだ。溺れるなと申しているんです、音楽でも、女でも。そのほうがむしろ女は落ちやすい(余計なこと言うなってのに)。

 いつぞや、通っている歯医者さんの待合室で、安っぽいスピーカーで流しているBGMを聴いていた。イージー・リスニングがずっと続いていたが、いきなりラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』が出てきて、没個性と超個性ぐらいの段差に、思わず椅子からずり落ちそうになった。このときのラフマニノフはずいぶん、人を酔わせる官能に富んで聴こえ、陶酔もしたくなったというものだ。してみると、少なくともぼくは価値の高いものに陶酔する気持はあるのであって、陶酔が全然できない人間でもない。

 世の中には先進国首脳会談のように、昼飯を一緒に食いながら政治の話をする、いわゆるめし食い会議というものがある。気の置けない仲間と飲み食いしながら懇談するのも一興だ。が、腹がふくれると眠くなることもある。いつぞや、年若い女友達を誘って大宮薪能を観に行き、「薪能弁当」というものを1000円投じて買って食べながら観ていたところ、その女の子は眠気が差して、静かな演能のあいだは半分寝ていた。ということは、残り半分は器用に起きていたということだが、とにかくこういう女を見ると、世の男はちょっとがっかりしませんか。

 むしろごろごろ寝ながらのほうが、音楽でも文学でも楽しめるという経験がおありの方も多いだろう。コンサートホールは疲れる、というのなら、自宅にいて気楽にCD鑑賞や文庫本の読書が悪いと言っているのではない。かなめのところになにが控えているかというと、「マナーの崩し方」だろう。ちょっと崩したぐらいがいいらしい。コンサートホールの座席というのは、多くは舞台と差向いになっているが、この欧米風の空間は、東洋人の心性にそぐわないところがあるようだ。これをちょっと斜めにするだけで、演目や演者に対峙する観客の心理は和らぐ。そういうものなのだ。ぼくは、靴を脱いで座席の上で脚を崩したりしている。諸外国では嫌われるかもしれないから、場の空気は読むにしても、日本でこの程度はいいんじゃないのか。他人さまのおたくに訪問してかしこまっていると、「どうぞ、座布団をお当てになって、脚をお崩しになって」と言われませんか。

 お酒は、現実逃避なんですネと、精神科医の斎藤茂太氏が講演会で話しておられたが、この人は酒と飛行機旅行が好きな人だった。酒と対話することさ、そうすりゃいやでもマナーは良くなるんですと、詩人の田村隆一氏が書いている。酒のありがたさを力説するのはフランス文学者の河盛好蔵氏だ。確かに、酒に酔う「技術」というものがあり、そもそも酒に酔うことを知っているか、いないかの違いがある。悪酔いしたくなければ、ほろ酔いの加減を覚えてたゆたっているのが楽しい。達しそうで達しないあのエロの快楽もこれに似たるかな(なんのこっちゃ)。これだって、溺れればアルコール依存症だが、うまく使えば「百薬の長」になるそうです。

 つまり酒であれ音楽であれ、文学でも女でも、愛でて対話をすればいいということになる。ぼくがそれを知らないとは思わないけどさー、晩飯時に松村禎三のピアノ協奏曲や八村義夫の『錯乱の論理』を聴こうという気分にはどうもなれない。いい曲なんだけれど。でも、ちょっと心に留めて、ぼくたちの文化記号との対話の仕方に気を配ってみるのもいいかもね。

[2018年8月11日(土)−24日(金)/続きは後日]

316.
「偉そうなことはやめよう」

 鶴見俊輔によれば、芸術は「楽しい記号」である。日常の文化記号で楽しいものはみんな芸術だと言いかけて、「しかし、飯を食うことは美的な行為だろうか」と鶴見氏は立ち止まる。それはともかく、氏が「限界芸術」と言ったのは、その「楽しい記号」の世界で、この考え方を拡大すれば、日常の記号が楽しければ、それが芸術かそうでないかは二義的・副次的な問題だと言ってもよさそうな気がする。やはり鶴見氏の用語である「凡人芸術」というのは、この拡大された世界を指しているのではないか。

 バルトークの6曲の弦楽四重奏曲から、最初の3曲を聴いた。これが芸術かどうかの定義は、さしあたりどうでもよい。事実は、第1番から順に聴いていくと、いわゆる音楽かどうかの枠も超えて、音が面白くなってくる。これらの曲を聴いていて、曲の上に「音楽」とか「芸術」とかいう文字が書いてあるわけでもなく、現象として一群の音があり、バルトークはそれが芸術かどうか、音楽かどうかを規定していないように聴こえる。

 ぼくたちが音を体験する場合、テクスチュアを帯びた一群の音があれば、それでよいのではないだろうか。作者が誰かとか、音の意味といった問題は、音を体験するのに必須の条件ではないようだ。

 じつは厳密に言えば、音楽というものは音の現象じたいが自分で定義するものではない。誰かがそれを聴いてなにごとかを思ったときに音楽が成立する。最初から一群の音が「音楽」としてそこにある、という概念は、20世紀に入ってからは音楽の前提ではなくなった。ただ音があるだけでは音楽ではないから作曲技法が必要だ、というのはいちおう現実だが、作曲技法に音が縛られて、音の遊びがなくなってしまったら、面白くないのだ。括弧つきの「音楽」の、括弧をはずしたのが20世紀という時代である。

 あらゆる表現には形式があるが、形式というのは表現の結果であって、原因ではない。形式だけがあるわけでもなく、内容だけがあるわけでもない。ひとつの音には、中も外も、表も裏もない。

 写真なんかはわかりやすい例だろう。現実の街は立体パノラマではない。街角の写真をいくら撮っても、街が減るわけではない。カメラは画像構成のための道具だが、カメラ自体はなにも行動しない。楽譜に書かれた音楽作品を、カメラのように使われるべく作られた装置として見ることができる。やがてファインダーを通して街角の遠近法も見えてくるだろう。21世紀になったら、300年前の音楽も読み替えができるようになってくる。

 こういう、ものを作るときに働く力学を《直観》という人もいる。そういうものの働きで、古い時代の音楽も時空を飛び越えてしまうのですよと、言いたい気がする。こういうのはずるいんでしょうか。断っておくけど、単なる飛躍だけなら論理の破綻でしかない。無茶苦茶な論理は、感性の飛躍とは全然、何の関係もない。

 ヒロイズムという言葉がある。ヨーロッパの音楽は日本の音楽よりも立派そうに聴こえるという場合の「立派そうな」感じは、ヒロイズムと同じではないかもしれないが、19世紀の人間至上主義は、グローバリズムにも名残が見える。人間一般が偉そうなものに弱いと言えば、意地の悪い言い方だが、事実はそうだろう。「偉大な」創造性というのは多くの場合、もっと地味なものである。

 言葉に置き換えればこの問題ははっきりする。おかしな論理性はばれてしまう。なにが言いたいのか分からない言語行為というものがある。どの分野でもこのたぐいの問題は起きるものだが、音楽の場合は気付かれにくいと言っておこうか。音楽だから論理じゃなくて感性が問題だという人がいるが、まともな感性は論理性に裏打ちされているものだ。でも現実には、ともかく音が鳴っていればそれでいいというような雑な音楽でも、あんがい実態がばれないで、漠然と尊敬されている。

 楽器を音楽的に演奏するというと、楽譜通りに音を並べておいて、その上に音楽的なるものを載せることだと思っている人は多いし、現にアカデミックな音楽教育はだいたいそういうものだ。でも、現に鳴っている音と「音楽」の実態を切り分けるわけにはいかない。音楽でない音はどうしたって音楽にはならないし、逆に、音楽としての音は廃棄音ではない。抽象的で実態のない音楽という概念なんか存在しない。

 音楽から偉そうな、立派そうな身振り、派手な意匠を取り去ってみる。なにが残るだろうか。「偉大な」ということと「偉そうな」ということはどこにも関係がない。そこにある一連の音の連なりのテクスチュアを調べてみれば、この違いははっきりするだろう。こけおどしの音楽には取るに足るテクスチュアがないとわかったとき、聴き手はどんな気持を感じるだろうか。 

[2018年9月23日(日)−30日(日)/続きは後日]

317.
「レジ打ちお姉さんの話」

 うちの近所のスーパーのレジ打ちに新しいお姉さんが加わった。Iさんです。ここにこっそり書きますが、肌がきれいなんだよなあ。ぼくは彼女の「頬」を見て言ってるんです。いちどでいいから、その小麦色の頬を触らせてくれないか。

 なんか、どっかで読んだような文章だと思ったら、金子光晴の『詩集69』の中に「S・S嬢よ、/その卵のやうなお尻を/すこしばかり/さすらせておくれ」という詩がある(「愛情4」)。引用したのは冒頭部分。老境の詩人の生への賛美のようですが、ぼくはレジ打ちのIさんのヌードを見たわけでもなく、ただきれいな肌に感嘆し、隠れファンになった。が、隠れたつもりになってるのは自分ひとりです。同じスーパーに夜間勤務している顔なじみのM嬢によれば、ぼくが常連客だということは店の全員が知ってるっていうから、バレバレである。ゆめ悪いことはできないのだ。

 肌がきれいで、けっこうだが、エッチだなあと思う向きがあるのなら言いなおします、Iさんの顔は「絵心を刺激する」。藤井勉さんの絵に出てくる少女が成人したような顔立ちだ。ちょっと、見てないふりをして観察すると、目鼻立ちが可愛いと思っていたら、あんがい骨格がしっかりしている。とくに美人ではないが、その控えめな表情がいいですね。年ごろの女性にしては長身、スレンダーだ。

 レジ打ちのお姉さんたちは、冷房が当たらない場所で暑かったり、立ちっぱなしで脚がくたびれたり、眠いまま接客してたりで、けっこう大変らしい。いまほど麦茶を買いに出てIさんがいるレジに寄ってきましたが、しなやかな黒髪を束ねて、やっぱりいいかんじである。

 愛人を「ペット」と呼ぶ人もいるそうですが、レジ打ちのお姉さんはイルカや猫ではない。スーパーの店員さんたちは客商売だ。その店とその地域では「名前が売れている」。このスーパーの店員さんたちは左胸にひらがな書きの名札をつけていますが、ある夜、ぼくは夜間勤務のM嬢をその名で呼びかけたところ、彼女は恥ずかしそうに照れ笑いし、名札を隠して「見ないで、見ないでっ」とささやいた。

 別に想像がたくましくない人だって、いま書いた箇所を読めば、いささかポルノチックな文章だと思うだろうなあ。しかし、これは映画でも小説でもなく、ぼくを取り巻く現実の一断片を切り取ったノンフィクションである。別に、ぼくひとりの現実でもなく、この地縁スーパーを取り巻く一般庶民みなさんがたが、大なり小なり思っていることを書き写したにすぎない。老若男女どなたも普通に感じることを文字で書けば、ざっとこういうことになる。

 繰り返しますが、ぼくが見たのは自宅近所のスーパーのIさんの顔であり、制服を着た容姿である。この人に限らず、制服をキメているお姉さんは、見ているこちらが思わず姿勢を正すような、こちらの「そこ!」に対して直球を投げて来るようなところがある。タイトな黒いズボンを履いた高級ホテルのドアガールさんなんか、そうですよね。この種の品の良さはあでなものですよ。

 そこにいる人を見ないわけにいかないでしょう。見ればその人の品性はわかるでしょう。綺麗な人に会ったら、その新鮮な第1印象を、できれば保存しておきたいと思う。でもそうもいかなくてね。だから、この欲求のために画家は絵筆を握り(別なものを握るわけではない)、その人をカンヴァスの上でなぞるし、最近はスマホなどで写真を撮る。でも現実は見るほどに具体的になり、かつては夢のようだった「美」が、「美」だけではないことを知る。

 IさんにしろM嬢にしろ、毎日見ていると慣れてくる。日常はある程度はそういうものか。深夜12時を過ぎて、塩煎餅を買いにこのスーパーにぷらっと出向いたら、いつものM嬢が店外の駐車場に散らばっている買い物カゴ台車を集めて整理していた。シフト通りの出勤だというから、「休みの日はどう過ごしているの」と訊くと、ちょっと間があって、「お店で会おうよ」と言って笑った。そのちょっとすれた感じがなかなか面白い人なんだけど、率直に言って、ぼくは休日にM嬢を誘い出そうという魂胆はなかった。相手はどう思ったのか知らないが、これがホントの現金な女☆

 改装のため長期閉店していた駅前の西友が、つい先日、営業を再開した。散歩の目安ができて好都合なんですが、ここの食品売り場は自動精算機を導入し、これはこれで面白いけれど、美人のレジ打ちさんなんかはいない。現代化すると街に美人がいなくなるのか。まさかね(笑)美人はテレビの中にではなくて街角にいてもらったほうがいいよ。

[2018年10月23日(火)−31日(水)/続きは後日]

318.
「ノイズの問題」

 ノイズ音楽というものがある。正確に言えば、ノイズそのものではなく、ノイズを利用した音楽パフォーマンスだろう。ホワイトノイズというのは、全部の周波数の音が同時に鳴っている音響で、これじたいは音楽ではない。

 テレビのザーッというノイズの画面を思いっきり拡大して撮影した映像を見たことがある。雲のような形のひとつひとつの粒子がぷかぷか浮かんでいるような映像だった。音現象のノイズも、ゆっくり横に拡大すれば、プツプツという音の粒子の不連続なつながりになる。

 すべての周波数の音を同時に鳴らせばホワイトノイズだが、継時的にひとつひとつ順番に鳴らせばノイズにはならない。現代音楽でよく使われたクラスター(音塊)というのは、多数の音が同時に鳴るが、分解してみれば有限な要素の集合体である。

 こういう物理現象が「Maxな」状態というのは、まあ、存在しないだろう。音だろうが映像だろうが、それが置かれる空間があり、分けて考えられないからだ。

 人間の心理も同じではないだろうか。なにか「Fullの」「Maxな」心理状況、例えば緊張状況というのは、具体的な現実にはないだろう。打ち割って言えば、そういう心理状況は成り立たない。音現象と同じで、人間の心理も常に相対的なものである。いつまでも変わらない心理状況というものはない。人間のカタルシスというのは、こういう場面でも有効に働いているんでしょう。こういうことを、「ある事故のようなものを踏まえて完璧を期す」というのは論として成り立たない(吉本隆明による)。

 ノイズ音楽の場合でもこのことは変わらない。単調なノイズがいつまでも続いていれば、聴いていて飽きるし、うるさいしで、人間の聴覚にとって異常な、または不自然なものになる。

 ぼくはこの種の発想や現象が嫌いだ。人間はあり得ない事象を考えることもできるから、例えば「完全な演奏」とか「Maxの緊張」とかを云々する人がいるけれど、成り立たないよ。だいたいは自分では何もしない人たちの絵空事で、こういうおしゃべりに付き合うのは時間のムダというものだ。音現象にしても、いつまでも停滞して変化しない雑音にはいらいらさせられる。

 ひとつのヒット曲や代表作にしか反応しない聴き手の心理がわからない。そんなら、そういうヒット曲や代表作を10回続けて聴いてもらったらどうか。それでも飽きないで11回目や30回目を期待するかしら。おみやげに「Maxの音量」で聴いていただいたらどうだろうか。

 すでによく知られている曲を、あらかじめ常識で決まった演奏のやりかたしかしないのは、@そうしかできない。Aそうしないと誰も聴かない。というようなことだろうが、実際には、原曲の輪郭をなぞりながら、新鮮な演奏をするのは、そうほいほいとできることではない。

 いっそのこと曲の輪郭そのものを作り替えたらどうか、という実験行為なら、すでに山ほど作例がある。でも輪郭はスコアに沿いながら面白い演奏というのは、そう多くない。古典曲の場合は、「様式に忠実に」と言えば聞こえはいいが、要するに古いものはさっさと片付けてしまうということだ。

 「理想の演奏」を目指すのはご自由だが、実を言うと、それは実際には存在しない。当たり前のことを言うようだが、書かれた楽譜と、それをもとにした演奏は、同じではない。にもかかわらず、みんなが「様式に忠実に」ひとつの紋切型に向かって音楽の制作をしているのなら、その世界は見た目はきれいだが、何のことはない、成り立っていないのだ。

 そこにあるAという曲は、Bという曲ではない。じつはそのAは、「Aではないもの」に対して成り立っている。なんか茫漠とした切れ目のない視野からBを排除してAがある、というのが20世紀以降の記号学の考え方で、そもそも完結したAがあるというものの見方では、現代のぼくたちの「楽しい記号」(鶴見俊輔)の世界は語れない。

 だからぼくたちが体験するAという音楽や文化記号は、「A以外があること」を同時に差し出している。こういう種類の「境界」とか「差」がない世界は、単なるホワイトノイズに過ぎない。やっぱ、それじゃ困るんじゃない? 

[2018年11月23日(金)−29日(木)/続きは後日]

319.
「邪気について」

 ピアノ演奏を終えたあとでも、楽譜を書いたあとでも、その演奏なり楽譜なりが、弾いたり書いたりしていた自分をいきなり抛り出す。もちろん演奏は記録が残り、楽譜は目の前にあるけれど、「ぼくがこれを弾いた」「ぼくがこれを書いた」という実感や充足があるというより、気がつくと演奏や作品がそこにあり、作業をしたはずの自分はその前に突っ立っているという感じなのだ。

 文学作品は読者によってかなりの程度まで作り替えられると、エルネスト・サバトが言っている。そうだとすれば、その文学の読者の数だけ作品があることになる。音楽作品を聴き手に使わせなさいと、グスタフ・レオンハルトが言っている。文学の場合と同じことだろう。

 そのレオンハルトのチェンバロ演奏の実演に接したとき、感動とか何とか言うより、終演後、くたくたになっている自分に気がついた。音が小さく繊細なチェンバロにもかかわらず、レオンハルトの演奏には「迫力」があった、という粗っぽい説明はもちろんできる。でももっと複雑微妙な作用が自分に働いた、または、ぼくレオンハルトの演奏複雑微妙な注意を及ぼした、とでも言うような気持の動きを体験したのだと思う。

 同種の体験を文学に求めると、カミュの『ペスト』とか、井伏鱒二の『黒い雨』なんかは、とてもじゃないが簡単に読みこなせる小説ではなく、『ペスト』のほうは3度目の挑戦でやっと読破できた。自分は小説家ではないから小説の作り方がわからない、だからこういった諸作品の一体なにが「難解」なのか、自分でもよくわからんというわけなのだ。にもかかわらず、カミュの作品は好きだから付き合っているうちにアタマがこんがらかってしまったと、国語の恩師に手紙を書いたら、J.M.クッツェーを読んでくださいませんかと、ぼくが知らなかった作家を紹介してもらった。思わず「餅は餅屋」だな、と思った。

 とにかく、こうした芸術や芸能とその受け手との関係のかなめのところにあるのは、作品とその演者、あるいは観客との「かみ合わせ」がうまくいくかどうか、なのだろう。舞台上の演者の側から言えば、それは観客の心理への「滑り込み」の良さで、このことのために役者は毎日稽古をしているんだと、先代の観世銕之丞(静雪)が本に書いている。そういうものなのか、というのは、この人間国宝の芸能に1度だけ接して、たしかに、観客の自分が舞台で演じているかのような錯覚を持った体験から言っているんです。出し物は『俊寛』だった。こうした、ちょっと信じにくいことが芸能の世界では実際に起きる。

 その先代の観世銕之丞が、自分がやっている能という芸能の世界は「夢」、つまりウソですよと、この日本古来の芸能のからくりを打ち明けている。そもそも木でできた面を掛けるということが絶対にウソだし、内股で歩く、なんて不自然な習慣が日常生活の中にあるわけがないでしょう、と舞台の裏側から話している。

 ソシュール記号学の世界で「価値は意義ではない」と言っている。価値というのはある文化記号、例えばひとつの音楽作品の成り立ちの有機性といったもので、一方、意義というのは、作品の側にあるんじゃなくて、その価値がある文脈の中に置かれたときに発生する共時的な意味作用のことで、要するに偶然成り立っている双方向のコミュニケーションのありようだと理解してますが、違ってたらご指摘ください。ともかくそこにある文学なり音楽なりの意味というものの半分は、受け手の主体性が賦与しているもんなんだ。だから、受け手が受動的になったら文学も音楽も演劇も消えてしまう、という話になる。

 価値というのは可能態で、受け手によるいろんな読み替えや組み換えができるような「たがの緩さ」をいくらか含んでいるほうがよいと、言いたい気分です。そうじゃなきゃ見物していて息が詰まる。あるいは最初から共感しない。さっきの観世銕之丞も、自分はこういう次第でこういうつもりで演じているという役者の一方的な解釈は成り立たない、という意味のことを述べている。つまり「価値は意義ではない」わけですよ。

 アーティストが何を作ろうが当人の勝手だし、受け手がどう思おうが受け手の自由だが、その「箍の緩さ」をしっかり作る技術もあるようだ。ぼくは、いわゆる芸術全般がまじめすぎやしないか、ちょっと考えているのです。たいていの現代アーティストはぼくなんかよりアタマがいいらしく、のっけから「遊び」ということを売り出しているが、ぼくなどにはその「遊び」なるものがおとなびたくそまじめなものにしか映りませんが、そんなことやってていいんですか。

 宇野千代の「あまりに生き生きしてゐて」という短いエッセイがある。知人に絵がとても上手な夫人がいるのだが、少女の人形を描いたその夫人の新作は、よく描けているどころか、生き生きしすぎていて人形が画面から飛び出して来そうである。それは少女の人形のかわいらしさの表現にはふさわしくないのではないか。宇野は、これがこの絵の欠点である、と批評した。ぼくたちは表現全般において遊んだり、ふざけたりする場合、この宇野の批評にある視座を見過ごしていないか、考え直したほうがよくはないだろうか。

 「邪気」について何かしゃべるつもりで、しかしその周りをぐるぐる回ってばかりおりました。「邪気」それ自体についてなにも論じていませんが、まあその周りについていくらかしゃべったので、これでいいことにしておいてください。この主題はいずれまたアタマをもたげてくると思います。そのタイミングを待ち受けたほうがいいようです。異常気象の1年、平成最後の年の瀬、皆さん、どうぞよいお年を。

[2018年12月20日(木)/続きは後日]

320.
「謹賀新年2019」

年が改まりました。あんま頑張んないで、出来ることをやれるだけやりましょう。
引き続きよろしくお引き回しください。

[2019年1月2日(水)/続きは後日]

321.
「単純さについて」

 コンサートホールは、拡大された「部屋」だろう。集客500人や1000人の大きな空間では、小さい音の微妙な表現は観客席まで伝わらない場合がある。「部屋」を、もう少し小さく設定したほうがよいのではないかと、いつも思う。ぼく自身がピアニストとして演奏した「大きな」空間は、せいぜい数百席だが、万事を大げさに弾くほうが空間特性にかなう場合が多かった。それもいいのだろうが、観客としてひとの演奏を体験する限り、ピアノ独奏でもオーケストラでも、会場が大きければいいというわけではない。

 歴史的に見れば、この「部屋」はヨーロッパ芸術音楽の表現の発達と、例外はあるが商業化に伴って拡大された。だからふつうに考えて、ほかの文化圏には、この拡大された「部屋」にはなじみにくい音楽もある。20世紀以降の新しい音楽が多くの聴き手を獲得しにくいひとつの理由だと思う。19世紀までのヨーロッパ音楽とは「空間」の性格が違う。これは言ってもいいことだと思うよ。

   でも、小さすぎるのも考えものだ。席数30というようなサロンでは、演奏者と観客の距離が近すぎると思う。ライヴハウスも同じだ。300年前はどうだったか知らないが、現代の音楽パフォーマンスの音量を考えると、100ぐらいはあったほうがいい。音楽のコミュニケーションは、演者と観客が音コミュニケーションをするのではなく、音を通じて演者と観客が接近する。両方が近すぎると、いっそのことパフォーマンスなんかやらないで、演者と観客が座談会をやったほうがいいという場合だってあるだろう。

 音さえあればいいというような単なる集会やイヴェントをやっている人もいるが、だからどうしましたか。マンモスコンサートの場合も、どうも儀式化、定式化している演奏がある。これは会場の大きさと無関係ではないはずで、規模を拡大すれば、演奏も効果を派手に重視したものになりやすいのではないか。単なる慰安にしても、こういう演奏が世界の主流になっている現状はいかがなものかと思う。

 先日、ミシェル・ダルベルトというピアニストの、去年の来日コンサートをテレビで見て、久しぶりに感動した。てらわない、もたれかからない、吠えない。細かいニュアンスをていねいに扱っていた。生演奏にはつきものの技術ミスにもこだわっていないように見えた。こういう人もいるんだね。プログラムも構成的に考えられていて、ドビュッシー以前と以後で音楽のあり方を分け、ドビュッシー以前の代表としてフランクを弾いていた。

 いま、そのダルベルト氏の師匠のヴラド・ペルルミューテルが1986年に来日したときのリサイタルの録画を見ている(老ピアニストは84才)。音が直接的なのだ。普通に言えば「音が美しい」ということになるだろうが、よけいな意匠がない。様式などというものにもとらわれていない。こうでなければ観客席との「対話」は成り立たない。そういうことが、今のコンサートホールには欠落している。

* * *

 ぼく自身は自分の楽譜はだんだん単純に書くようになったと思っているが、周りの人たちはそう見てない。逆比例して、複雑だ、むつかしいという声も聞こえる。もちろんそういう意見や感想だけではないにしても。

 毎日の楽譜制作では、自分の理解を超えることはやっていない。あたりまえのようでいて、そうでもないらしい。コンサートを聴きに来てくれた人が言うには、あなたの音楽は単純ではないとのこと。

 ピアノの演奏でも、本番を終えていつも反省するのは、なかなか思う通りにはいかないという基本的なことで、やれるだけはやったが不完全だという思いが強い。しかしそんなことは周りの人には聴こえていないらしい。生演奏で造形が乱れたのを野次る向きもたまにあるが、この作文の論旨の都合で、そういう人は引っこんでいてもらうことにします。ミスが聴こえないのはありがたいが、今宵はこの逆比例について、ちと考えております。

 ひとことで言えば、聴き手になにが伝わっているのかという問題だ。それは演者のぼくが自分で確認したのとは違う何かである可能性がある。体験する音楽の《意味》はなにか、と書けばめんどくさい話になるが、そのたぐいのことです。と、日本語で書いてわかるのは、この問題は単純ではなく、バカげてもいない(笑)ということだが、繰り返しますが、ぼくがやっているのは、書けるように楽譜を書き、弾けるようにピアノを弾くということで、ほかのことは企てていない。

 表現内容が複雑だが一見単純に見える、という音楽なら知っている。たぶんそれは単純に見えるだけで、実際は外観も複雑なのだろう。

 版画家の故・池田満寿夫さんが、テレビのクイズ番組に回答者として出演したときのことをいつも思う。そのころのテレビはブラウン管があったが、モノクロのテレビの画面に3本の黒い平行線が横に延びている、その中心に磁石を近づけると、この平行線がどのように曲がるか、という出題で、3人ほどの回答者が油性マジックでおのおののパネルに、螺旋とか同心円とかを描いた。池田さんが描いたのは、平行に上下する波線だったが、客席から驚きのどよめきが聞こえた。それは魔法のような波線で、観る人の興味をひきこまずにはおかなかった。どこが違うのか。単なる波線と、池田さんが描いた魔法のような波線はどう違うのか。(ちなみにクイズの正解は「同心円を描く」。)

 それは描線の持つ「tension(緊張)」ですよと、いちおう答えは出せるでしょうが、そんじゃあ、その「tension」の具体的な性質を述べよということになると、さあ、どこまで説明できるもんなんだか。池田満寿夫さんは、テレビのクイズの回答だから、たぶん気楽に波線を引っ張ったのだろうと思う。でもそれを観るほうは、単なる波線には見えない。あるシンボルになっていて、それが無類に面白いのである。

 果たして新しい音楽の世界には、どういうシンボルが聴かれるだろうか。などと、ぼやーっと考えながら落書きをしてここまで来たが、音の性質の問題だろうから、ことは単純ではないに違いない。ここらへんで茶でも飲んで、続きは次回にいたしましょう。なお、この1月の関東の風景をスライドショーにしました。ごゆっくりお楽しみください。

[2019年1月28日(月)/続きは後日]

322.
「邪気とデッサン」

 詩人の田村隆一は「ボディ(body)というのは、過去だよ」と言った。ならば、人であれものであれ、そこに形があれば、それは過去だということになる。これがぼくたちが日常に見ることができる「伝統」のいちばんシンプルな形です。フォートリエという画家は、小さなカンヴァスに箱をひとつ描く、ということをやったが、日常の中の過去とのつながりを、何の変哲もない箱に見たのだろうか。箱がどうだって言うんですか、と言いたくなるような、さりげない絵なのだ。それから、先日、近所の美術館で辰野登恵子という人の抽象画を見たが、この画家は原稿用紙とか煉瓦塀、横断歩道みたいな規則正しい図形の配列を見るのが大好きで、自作にそういう抽象図形を採り入れ、ここになにか、例えばインクのシミがひとつ落ちると、ドラマが始まるとのことです。これだって、ぼくたちの日常一般にありふれた文化記号のヴァリエーションで、ただ本職の画家が拡大して描いてみせた、そういう世界である。

 絵や写真でデッサン力が大事ということをよく言うが、音楽の演奏でもデッサン力は問われる。その演奏家の「ヴァージョン」があるわけだが、「ヴァージョン」というのは、つまりデッサンのことで、あなたならあなたのデッサンを演奏すればいいということになる。特異なピアノ演奏で知られるアファナシエフやフェルツマンがやっているのはこのたぐいのことだろう。その人がとらえたバッハやベートーヴェンでいいわけだ。

 いまほども小1時間、好天に誘われて街をぶらついてきた。散歩のたびに街角の写真を撮る。それで何をしようという気はない。コンテストに出そうとも思っていない。でも気になったモティーフだったら、ちょっと工夫して撮る程度のことはする。中心になっているモティーフはだいたいひとつだが、当然その周辺に別のものもあるから、それも写すことになる。ここが絵と違うところで、絵だったら要らないモティーフは省略できるが、写真はそうはいかない。

 そこに形があるということは、その形は、その周囲を通りかかる人たちにとって具体的だということで、どなたか特定個人の観念だけとか妄想だけで形が現れるのではない。音楽だって音の造形で、眼には見えないが現実の音でできているひとつの形だ。ならば、その作り手は当然、音のデッサン力を問われることになる。

 愛とは想像力だと、瀬戸内寂聴の本に書いてあった。ひとの心を思いやる想像力が愛なのだそうです。想像力が過剰とは、普通言わない。想像力が「豊か」と言うじゃありませんか。それで、その想像力を形にしたものが言葉であり、音楽であり、絵であり写真である。いったいに表現全般の性質がそうなので、そんなら、ひとをあやめる気持は表現の本来の性質ではないということになる。もっとも、表現というものがすべて善意から発しているとは限らない。ひとには「邪気」というものがあり、これが表現や造形を面白くする場合がある。去年の暮れ、この「邪気」についてこのページで軽く触れました。邪気は善意とは限らない。むしろ悪意は歓迎される可能性がある。

 まあ手近な例を思いつかないからものの本に頼るが、鶴見俊輔が言う「凡人芸術」には、壁の落書きが含まれる。壁の落書きは不心得者のいたずらで、善意の産物ではないだろう。でもそれを文化記号としてとらえる視座がある。コンクリート塀の壁面を線分で句切れば、それは造形なのだ。ある日、不良か暴走族かがカラースプレーでそういうことをやったのは、別に芸術を作る気はなかった。だからアートとは言わないだろうが、結果から見て表現行為だというくくり方をしたのが「凡人芸術」というカテゴリーである。

 ソシュール記号学で、一般人の日常での発語行為を「パロール」と言う。これが鶴見俊輔の「凡人芸術」の中に入るんじゃないか。社会共同体の中でこの「パロール」が言行為として了解されれば、それは少なくとも個人の表現のひとつの形式だという見方ができそうな気がするが、どうか。

 だから、21世紀の現在ただ今、例えば音響詩というものをやる人たちがいる。ぼくはそういう動きを別に否定しないけれど、個人のパロールとか、パロール的言行為だったら誰でもやっていることで、その専門職というのは成り立つのかどうか、技術的な見地から興味もあるし疑問もある。

 なんて書いていたら、20世紀から今世紀にかけての芸術は美術でも音楽でも、この個人のパロールと同種の表現がはなはだ多いというわかりきった歴史的事実が心に浮かんだ。思いつくままに、よく知られた例をあげれば、デュシャンのレディ・メイド・オブジェはそうした性質をすくいあげた表現だろう。音楽も、「個人の表現」と言えば18世紀のベートーヴェンも、20世紀のジョン・ケージも同じだが、その表現の無記名性とでも言うか、音楽家しか使うことができないたぐいの表現手段に依存しない音楽表現が、20世紀以降どんどん増えている。ケージの『4′33″』はふつうコンセプチュアル・アートと言われ、前衛音楽独自のカテゴリーに属すると思われているが、あんな思いつきでいいなら、前衛音楽ってのはやったもの勝ちの世界さ、というたぐいの謬見は、個人の作家のありようが19世紀までとは違ってきたという歴史を考えていない物言いである。デュシャンの『泉』だって同じだ。そこに働く作家の造形能力は、見た目とは裏腹に古典的でさえある。古典的でさえあるから前衛芸術として残ってるんですよ。

 「凡人芸術」には専門の芸術家の場合のようなデッサンというものはないんでしょうが、少なくともそこに形がある以上、どなたかが作ったもので、こんどはそれを見る側の人間の視線のあり方が問われている、そういう時代に変わってきているのかもね。たぶん造形する芸術家とか一般人の、自作に対する視線が変化している。伝統の継承を云々する場合、この変化の性質を考えない手はない。さっき登場したピアニストのフェルツマン氏は、実際にバッハの作品をかなり大胆にリメイクして演奏することがある。例えばソプラノ声部とバス声部をきれいに入れ替え、曲を倒立させてしまう。バロック音楽の即興性と、教会オルガンのレジスターの効果を考えれば、変な作り替えでないことは確かである。こういう意識的な手段をとるほうが、なんだか安っぽく価値を省略するグローバリズムよりもいいような気がするんですけどねえ。

 もっとも、画用紙に醤油とタバスコをぶっかけて天井からタコ糸で吊るしたのをアクション・ペインティングだとは、ぼくは言わない。アンディ・ウォーホールの伝記映画を観ていたら、ウォーホールが自作にまたがって放尿していたが、ぼくはそこまでやらない。美術家はこういう発想は平気らしく、ダリは自分の恥毛をオブジェに貼り付けたし、デュシャンは“血”を含ませたガーゼを自作にコラージュした(やだなあ)。ぼくは、そこまではやんないよ。

[2019年2月26日(火)/続きは後日]

323.
「ピアノ・コンクールの上位入賞者がワンパターンを作りだしていないだろうか」

 テンポ設定、音色、リズムの取り方、みんな似てくる。フレージングやルバートのかけ方が違うのは、違う人が弾いているのだから細かい違いはある。そういうことではなく、アプローチの方向がみんな似てきている。いまはYouTubeでひとつの曲のいろんなピアニストによる演奏が聴けるから、ここしばらくの名ピアニストの演奏を比較してみるといいですよ。ぼくはレトロ趣味で「昔は良かった」などと、最近のクラシック・ピアノ界を皮肉っているのではない。事実を言ってるんです。現状を見ると、これでは飽きられる。

 ホロヴィッツは、誰もやってないアプローチをした。なにか「標準」を求める耳にとってちょっと変わって聴こえる演奏をするピアニストはほかにも大勢いた。そういう際立った特徴が、いまのピアノ界には見られない。スター・ピアニストでなければだれも聴かない。YouTubeで地味だが超実力派というタイプのピアニストを探してみるといい。そういうピアニストは今も活動しているが、誰もアクセスしていない。現在ただ今ピアノ演奏の「標準」が確立したというのはまちがいで、かなり変則の演奏マナーも抱き込みながら続いてきたピアノ音楽の世界に、「標準」という定規を当てるようになったのだ。

 こういう世界のあり方はいまのぼくたちの時代の流行だといって片付けることができるように見えて、そうでもない。コンクール入賞に求められるのは精密なテクニックと強いインパクト、もうひとつ加えれば趣味の良さで、そういう傾向はこの半世紀ぐらい続いているように見える。

 ぼく自身は専門のピアニストではなく、ピアノの技巧家でもない。ミスのある演奏をするから、バカ扱いされるにきまっているが、「バカ」と言う前に、ぼくの話を聞いてくれませんか。作曲をやるための必要で、参照点としてピアノを弾いてみた体験から、そして、純粋なリスナーとしての意見を述べたい。世界的といわれる専門のピアニストの方々の技術の切れ味をうらやましいと思い、脱帽する反面、演奏家が違ってもスタイルが似たり寄ったりでは、つまらないだろう。

 コンクールではミスが少ないことが尊ばれるようですが、コンクールの外に出ると、生演奏でのいくらかの、あるいはおびただしいミスは逆に面白いものなんだよね。さっきのホロヴィッツだって、ホワイトハウスに招かれたときにノーミスの演奏なんかしなかった。そもそも音楽の表情というのは恣意的なもので、固定像がないのだから、生演奏の環境やピアニストのコンディション次第で、かなりの振幅で変化するはずのものだ。それを、その表情の恣意性はおおいに歓迎しながら、ミスが全然ないなんて、そんなうまい話があるだろうか。

 典型と形容される模範的な名演奏があるのは知っている。でも、それはヨーロッパ音楽の伝統のありかたとは別の話だと思う。

 レコーディング・テクノロジーの発達のおかげで、古今のヴィルトゥオーゾ・ピアニストの演奏を聴くことができるが、ほぼ例外なく、技巧派と言われるピアニストはミスが多い。意外な事実だが、そのミスに特有の味があるのも否定できない。一般的にはこう弾かれる、というマナーがあちこちで破られているのもおもしろい。

 国際コンクールで優勝してのち、10年か20年かはバリバリの技巧で弾いていたピアニストが、おもしろくもなんともない、いちおう弾いているだけのようなピアニストになってしまう場合がある。これをその人のスランプと言えば好意的な物言いで、今後どのように展開するか、暖かく見守りましょうということになるが、こういう見方の力点は、このピアニストが演奏でもって「言いたいこと」を持ち合わせているかどうか、だろう。ミスがあるかないか、なんてことではない。いま弾いている曲とそのピアニストのあいだに「対応点」があれば、そのピアニストの表現や実現意図は聴く者に伝わるし、それでいいじゃないか。

 現在の演奏からミスを取り除けばよりいい演奏になる、という考えも間違いだと思う。これは音楽の価値よりも、音楽市場での流通の効率を優先した粗雑な鑑賞眼による、論点のすり替えなのだ。その根柢には、ヨーロッパ由来の商業音楽イコール世界の共通の言語という基本的な誤解がある。チャールズ・ローゼンも言うように、音楽は言語ではない。音楽の論理的な性格で、これを忘れた音楽市場の美学は強迫観念に近い。音楽の信憑性は、飛行機や電車、あるいは食品の精密な安全性とは性質の違う事柄だ。もちろん、正常な音楽と異常な音楽の区別はあるけれど、音楽は異常なものも表現しうる世界で、問題は、それを面白いと思うか思わないか、だろう。

 コンサートやレコーディングの聴き手は、いま目の前にあるピアノ演奏からミスを差し引いて美点だけ鑑賞しているのではない。ミスも含めてそのピアニストの造形であり、表現なのだ。そうあるべきとか言うことではなく、それがピアノ演奏という現実の性質であり全体である。まさか世界中のピアニストがこのことを忘れかけている、なんてことはないでしょうね? 

[2019年3月20日(水)/続きは後日]

324.
「ヒマを過ごす」

 衣食住にはいちおうこと足りている、毎日の仕事もある、趣味の楽しみもある。これ以外の「なんか」を探すのはぜいたくじゃないか、と内向的になり自責の念にかられ、心の隅をごそごそ探し「有効なヒマの使い方」などを作りだして、結局ヒマを失くしてしまう。空けておく時間、なんにもありません、という時間があってもいいだろう。

 ある意味それは、バカになる時間で、以前は映画館までテレビのアイドルグループのかわいこちゃんが出ている凡作映画なんか観に行ってバカになってたもんでした。木村了さんという俳優さんが映画館にあいさつに来たときは木村さんと握手もした。別に木村さんがバカだと言っているのではないよ。映画がええがー、なんちゃって。いま、世の中は賢く生きることを奨励しているから、自ら進んでバカになるなんて、あんたバカじゃない?と言われるかな。でも人がバカになる必要については、ヘッセだって遠藤周作だって森毅だって書いている。これをバカンスという(言わないかも)。

 インターネットのチャットは、SNS以外は主としてアダルト・チャットになっちゃっと(よしなさいってのに)。エキサイトもインフォシークもチャット・サーヴィスは終了しちゃっと(またー)。いま思えばあれは格好のヒマつぶし文化だったが、どうも最近はネット上よりリアルのおしゃべりがかしましいように見えます。けっこうですが、30分も変化のない人間の声は聞いていて愉快なものではない。あれも意味なんかどうだっていいヒマつぶしだろうか。

 一生涯何もしなかった人が、晩年に至り後悔先に立たずという場合もある。ヒマというのはもっと生産的というか、積極的ヒマというか、ゆとりのあるヒマというか、ともかくなにはなくてもヒマだけはあるという状態と、ぼんやり何もしない、というのはどっかニュアンスが違うが、何書いてんだかよくわからん。

 確かに、何かつまらない世の中だそうです。しかし、それを面白い生産で満たしたら面白くなるかというと、そうは短絡できないようだ。これは「有効なヒマの使い方」と同じで、面白くするために何かをやる、という発想ではだめらしいのよ。世の中が面白くてもつまらなくても、ヒマな時間というものは同等に存在する。それを何で満たすか、などという発想のほうが問題だ。ヒマを空けておき、ひま〜、ではいけないのか。

 進んで世の中をつまらなくする法はないが、空いた時間を仏頂面して耐え忍んでいることもない。愉快とまで行かなくても、ごまかしでもいいから、ヒマつぶしの種に、柿の種みたいなもんもあったほうが重宝かも知れない。そういうわけで、ベビースターラーメンのファンになり、夜な夜な、風呂上りに食ったりしていたが、毎晩食ってるのもなんか芸がねえような気がして、と書いてはみたが、たかが菓子を食うのに芸なんかいるだろうか。

 その「ごまかし」なることがやりにくくなっている社会のような気がする。みなさんヒマつぶしはスマホいじりらしく、テトリスをやったり、今夜の風俗嬢を探したり、ああいうことでくだらない時間をやり過ごす処世術があるように見える。申し合わせたように、みなさんスマホのディスプレイに向かって、周囲との抵触を断っているらしいんですが、別に個室にたてこもっているわけでもない。通勤電車内なんか毎日そんな感じでしょう。

 世には奇特な人がいて、くっだらないことが好きなのだそうです。具体的に何が「くっだらないこと」なのかは聞いていないが、おやぢギャグなんかは「くっだらないこと」に分類され、分別ゴミのように唾棄されてしまう。いったいだれがおやぢギャグをきいて「うう、寒い」なんて反応を返したのか。

 どうも、いったんいそがしくなり始めると、空き時間がかったるくて腹が立つ、なんてことになる場合もありそうで、つまり退屈な時間には腹を立てていると書けば、そんなことに腹を立てるのがいかに無益か、わかりそうなもんだが、短気でない人も、遅々として進まない地域振興プロジェクトにじれったい思いをする。自分ひとりで腹を立てている分には勝手だが、てきとうにしないと、こういうのはちまたにのさばると近所迷惑になる。自分が退屈だから周囲に当たり散らすなどは愚の骨頂だろう。説明の必要もない。

 ストレス解消のために仕事をするのではやりきれない。仕事でストレスを感じたら、とりあえずその仕事の手を休めてみる、というほうが自然だ。仕事が遊びなら理想的だが、そううまい話もないだろう。

 この雑文も時間つぶしのために適当に書いている。もう30分もしたら外に出る、それまでやることがないから、というより、なにかに手をつけてもムダの骨折りに終わるという気がしたから、その時間は無為に過ごすことにして、やることがないことについて書いたらどうなるか、やってみております。

 「待つ楽しみ」というものがあるようだ。ロシア人はボルシチを作るのにまる1日かけるという。ボルシチならまかしち!ロシア人はどうか知らないが、日本人は、鍋が煮えるまで、まだかまだかと何遍も様子を見に行くだろう。ぼくはボルシチは作ったことはないが、タラのアラを半日煮たことはある。骨までぐずぐずに柔らかくなり、ダシも浸みてけっこうな料理でした。

 平成最後の晩春、つれづれなるままに、こういう、どうしようもない雑考をしたためながら明日を占いつつ寝る。多難だった平成、令和になったらみんな少しヒマになるだろうか。

 平成最後のお花見は、ぼくの居住地のさいたま市では、桜が18日間という異例に長い期間咲いていてくれました。

[2019年4月27日(土)/続きは後日]

325.
「巾の問題」

 青年期までに、生きる「型」とか芸の「型」、ありものの「型」を親や先生、先輩から教えてもらわなければならない都合もあるでしょうよ。義務教育というのはおおむねそのためにあるんだし、高校や大学だってそうだ。そういう教育があったから社会に出られた、なければ出られなかった、多数の人はそうだろう。

 順序としては、ありものの「型」を身につけたあとでないと、「型破り」ができない。「破り方」がわからん、というわけなのだ。そういう意味では、ありものの「型」を身につけるという手順を踏んだほうが、進路がわかりやすい。

 ありものの「型」でも、それじたい特徴や個性があるだろう。目に見え、耳に聞こえる「型」というのは、人間のいろんな営みの結果であって、これこれしかじかをマスターすればプロになれます的な「模範」とは別物だと思う。マニュアル化社会はこの「模範」を教え込むことを目的にしていませんか。そういうのを押しつけられた側は、それは実体のない抽象だということに気付いたほうがいい。

 ヒトには生まれつき「型の素」(「味の素」じゃないけれど)があって、それを頼りに周囲の影響を受けて成長し、最終的に自分の「型」というものができてくるとのことですが、これには50年以上かかるという見方も多い。人間形成とか自己実現とか、言葉はいろいろあるが、要はその人なりのものごとができるようになり、それが実社会で通るようになる。

 往々勘違いされているのは、ありものの「型」イコール「ものごとの基礎」では必ずしもないという点だ。事実は、ありものの「型」を利用して「ものごとの基礎」を見つけるのではないか。だから「型破り」というのは、実は「型破り」ではなく「型」の本来的な性質なのだ。

 「型」をなぞっているうちに個性が出てくるんで、なぞっていて個性が出ないというのはおかしい。なぞる「型」がないのに個性だけはじめからあるというのもおかしい。それは、成り立たないはずだ。少なくともぼくは高校時代、作曲をやっていてこの「成り立たない」という体験をした。仕掛けの作り方がわからなかった。

 その「型破り」の結果、ある変な特性が出てくることがあるようで、ぼくたちの日常にもこの変なものはよく見られるようになったし、一般庶民も、ひと昔前と違って、わりあい変態志向を隠さない世の中になった、ぐらいのところまで、すそ野を広げてもいいんじゃないか。小説も美術も音楽も演劇も、その変なものを表現しだしました。

 子供のころ興味を持った対象は、みんな不思議な魅力があった。その不思議力は、少し大人になってものごとの成り立ちがわかってきたいまでも、おおもとは変わらない。以前は、自分では不思議なものを作ることなどできなかったし、第一、それをどなたがいかにして制作するのか、実像がわからなかった。今は、自分でものを作ったら成り立つようになった、その点が違ってきている。いわば、舞台装置を作る段取りを裏側から見るようになった。

 生きるためのモデルとして、自分以外の大人を見習うというより、そういう大人がいる環境のなかで、無意識に身につくものがある、というほうが現実に即しているだろう。これは「育ちの良さ」とは全然関係がないですよ。「型破り」はこの環境の中でも行われ、適応できなくなったら捨てて去ることもあれば、断られて去ることもあり、そうしてほかの環境に引っ越して成長を続ける人もいる。最終的には、この道程はその人だけの1本になるのだそうで、1本になっても「型破り」を続けるのは稀な少数だということらしい。それに伴う危険もあり、ヨコからとんでもないのが飛び込んできて話がおじゃんになることだってある。

 でも、「型破り」が続けられるということは、そのルーツである「型」を受け継ぎながら、その人本来の基礎部分を探る行為で、型を破ったから道がずれているというもんでもない。瞬間瞬間に飛び込んでくる刺激や思いつきが、はじめは唐突すぎて受け入れに時間がかかる場合もあるが、どうも基本的に、気づいたことは拒否せず、受け入れるのが正解らしい。

 ただいま取り組んでいる対象を毎日なぞっていると、マンネリ化するようでいて、実は違う。同じ対象でも、昨日のなぞり方と今日のなぞり方は同じでない。その「差」は、対象をかなりしつこく、ときに数カ月にわたってなぞらないと見えてこない。なぞっているうちに、元の対象の形が変わってくる。企てて変形するのではなく、「自と他の差」が見えてくる。これをどうしたものか。

 ありものの「型」を意図して壊す行為ではないが、結果として、その「型」を踏み越えてしまう。自然にそうなるのではないか。それは「脱線」に一見似ている。だからよくない結果として排除し、元の「型」に収まるように修正したくなる。しかしそうではない。「型」からの踏み越えは、「型」を踏まえているから起きることで、「型」がないところには起きないのだ。

 昨日と今日は違う、そんなことは当たり前だろうという人がいるかもしれない。でも、ものを作る場合、その過程で、以前と今の「差」を意識化するという過程はどうしても必要だ。あるときその「差」が、AだったものをBにするというはたらきをもたらすこともある。同じ「型」に基づきながら、そのAとBの差の巾を受け入れることもできるようになる、というものなのだろう。

 「創造性」という言葉は全然出てきませんでしたが、どうも創造には「型破り」はつきもので、ときにそれは取り押さえることができない「差」を訴えてくる。言葉硬いけどそういうことなんでしょう。ここらでアップロードします。

[2019年5月30日(木)/続きは後日]

326.
「想像力について」

 ステージ・パフォーマンスは不完全なものなので、演者は自分の演戯や演奏のアラをぐじゃぐじゃ気に病んでいる。よほどの楽天家でもなければ、大多数はそうでしょう。事実は、本人が気に病んでいるよりはやれているもんなんですよ。「うまくやれた!完璧!」なんて本人が思っている場合は、たいてい駄目である。

 この論法で行くと、現代社会で流通している「品質保証済みの」音楽や絵はたいていだめだという話になる。世の中があまりに貧しく見えて残念ですが、どうもそのへんが現実らしい。

 思いついたから試してみた、まずその「試してみる」という発想じたいがない舞台芸術が多いように見えるけれど、違いますか。人間はいくつになっても挑戦しなくちゃ、って、言う人は言っている。その挑戦の結果というのは、だいたいある程度の水準はクリアするようで、まったくダメということにはならないらしい。その「試してみる」ということができない人がいる。ちょっと考えにくいことだ。

 芸術の場合でなくても、そこに人がいるという存在の空気感がある。テクノロジーはこの空気感をとらえるには不向きで、写真とか映像、録音は、便利だから使っているに過ぎない。その便利さも、編集でいくらでも作り替えがきく代用メディアだとなれば、しらけてしまい、使う気にならない。

 テレビや映画やCDのアーティストは、市場経済の原則に背くような傷ものを提供しないようになる。それじたいは結構なことですが、演戯や演奏までパターンナイズされ、どれもこれも似たような顔つきになってしまう。そうやって加工されたものの姿かたちが、すなわち「伝統」のあるべき姿だと信じて疑わない人もいるけれど、アタマ大丈夫?

 まわり中すべてが崇高な芸術ばかりだったら、それも息苦しい環境だろうけれど、娯楽や慰安、ヒマつぶしにせよ、なんか視聴者の心に引っかかるものがなければ、退屈もまぎれない。ぼくたちの日常の文化記号はそのあたりに場所を占めるのだから、とりあえず、人々の心理的引き金になる要素がないようなものを作ってもらったって、始まらない。

 一般市民の日常の想像力はどうか。自分を操るということはその人の想像力の産物のはずだが、ここで仮説の世界に飛んでみよう。想像力なんか、いっそないほうが、うまく自分を操ることができる。自分を操るうまさに徹することができるという話なのだが、ここでストップをかけて考え込まない人はどうかしている。そんな馬鹿なことがあるかと、ふつうは思うだろう。逆に言えば、想像力があるとそう簡単に「うまく」自分を操ることなどできない。芸術で言うところの演戯もこれと同じで、自分の役回りに関する想像力がたくましいのはいいことなのだが、それは往々、その役を巧みに演じようとする場合、妨げになる。実は主体Aに想像力Bが対峙しており、両者の間に壁があって、同一ではない、ということなのだが、これはなかなか意識化しにくい。

 現在は過去の上にあるから、自分を知るために過去を参照する必要も出てくる。これは具体的には過去の引用で、音楽作品の演奏の場合だって、なにかの「再現」には当たらないはずだ。自分が生まれる以前の事実や心的現実を知らないから、いくらかは想像で補っている。だから実際の過去そのものではないという話ですよ。

 ぼくは、それでもいいんだと思う。それは「再現」には当たらないよ、歴史上にはそういうことがあったという想像が働かなければ、自分より過去の話は一切できないことになる。自分が体験していないものを、どうやって「再現」できるわけですか。

 歴史上の史実のひとつを「再現」できるかどうか、具体例を出せばわかります。邪馬台国の女王卑弥呼が亡くなったとき、100人の奴隷が生き埋めになったそうです。この史実を「再現」しようと思えば、現代ではどうしても舞台空間を利用する必要がある。舞台でやっているのは創作です。metaphysics(形而上学)の産物です。加えて言えば、それが妄想でないのは、過去の実際そのものでも、ただいまの現実でもないからだ。どうしてこれが「再現」なのか、どなたか教えてくださいませんか。

[2019年6月29日(金)/続きは後日]

327.
「恥ずかしさについて」

 ひとこと言うとき、あるいは一歩踏み出すときの「勇気」と言えばカッコいいが、どうしようもない「恥ずかしさ」がその勇気の後ろに隠れていることがある。ぱっと見たところ、「勇気」と「恥ずかしさ」はすぐにはつながらない。その感覚は、老齢になっても、多感な思春期のものだと言っても的外れではないと思う。仕事でヌードモデルをやっている人たちは、脱ぐのは構わないのだそうですが、衆人環視の環境で服を脱げと言われれば、少なくともぼくは困る。そういう感覚に通じるのかもしれない。

 高校時代の現代国語の恩師、吉岡又司先生、マタさんはもう9年も前に故人である。今年7月は梅雨空がいつになっても晴れなくて鬱陶しく、そんな時間をやり過ごすため、マタさんの詩集『野叟独語(やそう・どくご)』をあてがっている。先生みずからお送り下さった本が手元にあるが、その難解さゆえ、どう読んだらいいのかわからずにしばらくほったらかしてあった。先生は嗤うでしょうが、正直なところ、長年この詩集とのつきあい方がわからなかった。のっけから、本書のタイトルの「野叟」という難語にまずつまづいた。「やそう」と読み、「自然爺」の意だそうです。爺の独り言、というタイトルの詩集なのだ。

 ぼくが好きな『山桜は散り急いで』は演歌のように6つの節からなっている。どの節も「山桜は散り急いでいるのである(あろう)」で始まり、一連の変奏曲のような趣向がある。その最後、6節。原典は縦書き、[ ]は原典にあるルビ。


 山桜は散り急いでいるのである(あろう)
 スープの配合に腐心しているラーメン店の試行錯誤に敬
  意を表しつつ
 コート ステッキ サングラスではなく
 鉈 投網 鉤竿を携えて
 杉花粉となって街へ向かう
 くもれるこころ くもり空
 ふつふつと腹立たしい生田萬[いくたよろず]のはずが
 なにやら知らないうちに籠絡されて
 一杯のコーヒーに 縄暖簾の酒に
 和んでいるタコでいいのか



 ここでこの詩は終わっており、何だろう、何だろうと読んでいくと藪から棒に「和んでいるタコでいいのか」。分かるような、分からんような、です。造語のように見える難語も、大部分はちゃんと辞書に載っている。一見、統合失調症患者の言語創作ではないかと間違えそうな日本語の連なりが読める、と言えば、少し過激に言い過ぎのようだが、先生はその種の病理に対してかなり意識的だったように見える。ぼくは先生の詩を全部理解してものを言っているのではない。逆です、大半の部分はちんぷんかんぷんなのだ。しかし、吉岡先生の詩はもちろんでたらめではないし、散文詩の形をとっていても、非文のたぐいでもない。

 駄洒落もふんだんにあるが、ジョークである、とばかりも言えず、しばらく、書いてある日本語の音のリズムを追ってみた。そのリズムがなぜか哄笑を誘う場合が少なくない。ときに思想らしいものも書いてあるが、多くは意味がよくわからない。 

 最近のインターネット上のアダルトチャットやSNSの書き込みを眺め、自分もまれに参加しているうちに、こういう言語活動は又司先生のこの『野叟独語』とどこか似ている、と思った。こじつけかもしれないが、言語の運用のリズムに共通の要素があるような気がするのです。 「だらしのなさ」だろうか。『野叟独語』をだらしがない詩集だと言っているのではないが、なにか、りっぱそうな、偉大な詩作とやらの幼稚なフェティシズムを皮肉って、わざわざ落書きめいたもの、不注意に見ると落書きのように見えるものを掲載しているように読めなくもない。そのセンスが、ぼくには多年にわたり呑み込めなかった、という事情らしい。いや、今だって別に「読めるようになった」とか、すべて理解したとかいうのではなく、さっきも書いたがちんぷんかんぷんなのだ。さらに加えれば、生前の又司先生とお会いして居酒屋で一杯やりながら、「詩はわからなくて」と実情を白状したら、先生から元気に「わからないからいいんです」と一撃食らいました。

 確かに、酒飲み爺さんのおしゃべりはなんだかよくわからない場合があるが、それを意識的にやって、詩集一冊全編そんなもの(失礼)が並んでいるというのは、考えてみればあまり巷の本屋にはない。小説の世界では、遠藤周作という作家が「ぐうたらシリーズ」で狐狸庵先生を名乗って、くそまじめな文化人を徹底的に皮肉った「ぐうたら話」をどっさり書き残している。しかし、年若いぼくたちは、こういう詩人や作家のテクニックに乗せられるな、騙されてはいけないという人もいる(嵐山光三郎氏など)。現にぼくは20代の半ばごろ、又司先生からわざわざ詩集『冬の手紙』の中で説教を食らいました。曰く「若い声をそんなに押し殺してはいけません」(『粥の煮えるまで ナツキ・エムラくんへ』)。

 いちど先生のお宅に伺って、詩作法を尋ねてみたことがある。骨組みを作って、テキストをはめ込むらしい。別の詩を書くときは、骨組みは同じで、テキストを入れ替える、ということもやるそうです。

 又司先生は1980年に『雪下流水抄』という詩集を弥生書房から上梓している。先生40代半ばの詩集で、「ある依怙地さをもって実験のまねごとをおのれに課した」とあとがきにある。晦渋な漢字ばかりが並んでいる詩集だが、ぼくの興味は、どういう心づもりで「ある依怙地さをもって実験のまねごとをおのれに課した」のか、です。先生は、この段階を踏まなければ、『野叟独語』は書けなかったのだろうと思う。詩の門外漢のぼくにはその心的現実ははっきりとは、おそらくわからないが、高校生のとき、同じ学校の国語教師が出版した詩集だから興味を持ったものの、いまに至るまで何なのか分かったとは言えないから、改めて又司先生の足跡を訪ねてみようという気持になった。

 「野叟の引きずる襤褸のような散漫な作品ばかりで冷汗一斗の思いでございますが、お読み捨てくださるようお願い申します。又拝」生前の先生を存じている後輩としては、たぶんこれは遠慮でも謙譲でもなく、ご自分の作品を公開するのが恥ずかしかったんじゃないか、と推察する。「冷汗一斗」というのは、正直な吐露ではなかったか。フェイクやジェスチャーばかりではなさそうだが。

 追記
 今年の夏は歌をいくつか書くつもりで、いろんな詩をまとめて読んでいるが、今もってぼくは、詩とは何かがわからない。散文を行分けしただけじゃないかとか、この行は次の行とどういう関係があるのかとか、不明な点がいっぱいだが、本職の詩人も「詩とは何か」を繰り返し自問自答するようだ。又司先生の作品にも、詩が無力であるとか、「下卑た詩句など探し当てたりしないほうがまっとうな暮らしというものでしょうが」(『冬の手紙II』)というように、詩が何なのか自問する箇所がいくつもある。懐疑のジェスチャーに過ぎないというのは、外野からの無責任な野次のようなもので、詩に限らず創作・創造にはこの「何か」という問題はついてまわるでしょうね。

[2019年6月29日(月)/続きは後日]

328.






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