目次

江村夏樹が作曲や演奏で実践していること
(何を考えてやっているか)
そのXVI

江村夏樹


345.
「2021年になりました」

 年が改まりました。疫病の終息を祈ります。今年は分散参拝とかで、元日は近所の神社に行きました。





 ではまたちかぢか。

[2021年1月3日(日)/続きは後日]

346.
「疲れないようにネットラジオの配信を続けるための覚書」

 ウィズコロナとみんなが言い始めたころから、ぼくはネットのラジオの配信をしばらく続けてみようと思いました。そもそもオンラインでピアノ演奏の配信を始めたのは、もちろん、このたびのコロナで生演奏の場が持てなくなったという現実はあるが、同時に、こういう状況では「自分の文化」を失いかねないと思ったから、自宅でピアノを弾いて、誰か不特定多数にシェアするという形式で、橋のようなもの、蝶つがいのようなものを作っておこうという目論見だった。自分のための需要もあったということです。半年たって、まだコロナ渦です。

 それで半年たった。続けようと思えば続くものだと思ったけれど、同時に、いわゆる大衆名曲は、はじから順番にピアノで弾いていくと数に限りがあること、それから大衆名曲ばかり作ったり、聴いたりしている音楽の世界には、飽きが来ることもあるということ、この2つのことに気付いた。世の中の名曲と言われているものを全部弾くわけにもいかない。

 映画音楽や各国の民謡の編曲、ポピュラー音楽も全部含めると、ぼくがピアノで弾ける曲はまだかなりあることになるが、まず、その曲は自分に合っていて弾ける曲かどうか。そういう曲を選んで、ストックを常時数曲は持っていたほうがいい。その選定のための手間は、この半年やってみて、まあちょっとした努力は必要ですが、気苦労や重圧というほどではなくて、向こう半年ぐらいなら続きそうだ。(もしピアノ・ソロが尽きたら、合奏でもいい。)

 技巧曲で有名曲という種類のものがあって、そういうものを弾く人は多いから、べつにぼくが弾かなくてもいいか、というような気分で、何曲か、まだ出していない。

 どんなに簡単で初見で弾ける楽譜でも、「自分との交点」を見つけるプロセスに最低30分はかかる。まあいちおう弾くにも2時間ぐらいはこの作業に費やすと思っていたほうがよい。指の技術そのものはそう難しくなくても、自分らしく弾けるまでに手間取ることは珍しくない。こん畜生と思っても、これは事実です。

 アレンジ物の場合、自分で編曲すればいいようなもんですが、書く手間が面倒で、ひとが作った市販の譜面を使うことが多い。ときには、メロディだけうろ覚えの曲に即興で伴奏をつけて弾いていることもある。これは作品創作のような本格的な手順で作っていないピアノ演奏で、練習の途中で出しているような感じです、すみません(笑)

 2時間で弾けるなんてすごい!という人がいると思うけれど、じつは曲の難易度をだいぶ落として選んでいるんです。現実的に考えて、てこずる難曲ばかりでは続かない、のです。毎日難曲の録音を続けているわけにはいかないよ(笑)暗譜して覚えている曲で、まだ弾いていないものがあるが、大規模なソナタなど、録音にてこずるたぐいのもので、今月は作曲をやっていて、まとまった練習時間が取れないから保留している。それに、自分のなりわいと言ったって、意欲がわかない日もあるのが正直なところです。

 5分の楽譜を弾きこなすのに3日もかかる場合もある。コンサートで弾くことになったら、30分とか2時間とかじゃなくて、半月なり1ヵ月なり、演奏を創るまとまった日数が必要だろう。いつも素晴らしく弾きたいところだが、録音というのは、ちょうど、肖像写真を撮るときに普段のくつろいだ、だらしのないマナーをちょっと正すのと同じようなことで、やってみるとかなり特殊な作業なんですよ。生演奏の場合はミスも許容してパフォーマンスとして面白いかどうかがすべてだが、録音の場合は即興性みたいなものははじかれてしまい、数ある録音結果のうち、出来がいいものを採用することに、どうしてもなる。その他の膨大な量の気に食わない録音結果を捨てている。思うに、レコーディングは生演奏らしく作られたある種の「作為」の産物なのではなかろうか。

 スマホの配信アプリで「自撮り」というものを公開している人は多い。ぼくもその一人だが、音楽の収録は、いわゆるプロの現場では自撮りということは、まったくないことはないが少ない。プロデューサーやエンジニアがいると、その人たちとのコミュニケーションの輪の中で相談しながら録音セッションを行なうが、自撮りの場合は全部自分ひとりで、これにはメリットもあるがデメリットもあることは忘れないほうがいいと思う。

 コンビニのコピー機でピアノピースが買える時代です。確かに便利になった、が、いい楽譜を見つけたほうがいい。難しいクラシック名曲をやさしく編曲した楽譜もあるが、こういうものにも出来の良し悪しがある。質は落とさないほうがいいと思う。

 記憶の底に沈んですっかり忘れていた曲を、なんかのきっかけで不意に思い出すこともある。ともかくそうこうしているうちに、ピアノの周りや作業部屋は楽譜が散乱して、機能性が悪くなってきたから、新年明けて、ちょっとずつ整頓しています。

 いわゆる大衆名曲で、自分に合ったものを順番にピアノで弾き、その後、参考まで、ひとの演奏を聴くことがある。それで怪訝に思うのは「遅すぎるテンポ設定」だ。例えばシューベルトの歌曲『セレナーデ』のピアノ版は、速くても4分以上、6分もかけている演奏があるが、原曲は、例えばフィッシャー=ディースカウは3分半、ヘルマン・プライは3分10秒ほど、ヴァイオリン用編曲版も、イツァーク・パールマンによれば3分20秒未満だ。それを、ロマンティックなピアノ用だからというような理由によるのだろうが、アダージョみたいに引き延ばす神経が、ぼくにはよくわからない。もっとわからないのは、当然ゆっくり弾くはずの曲をサッサと片付けてしまう学習者やプロがいる。

 わりあい古い曲で、多楽章の曲の中のひとつの楽章だけが有名になって、全体は知られていないものがある。ヘンデルの『ラルゴ』や『サラバンド』『調子のよい鍛冶屋』、ダカンの『かっこう』、ほかにもたくさんある。これらの部分だけポピュラーになった“わけ”はなんかあるんでしょうが、ふつうはそこまで突っ込まず、たまたま歴史の偶然でそうなった、ぐらいに思われている。

 自分の近況。作曲をやっているときは、ピアノの練習のためのまとまった時間がとりにくいが、作曲という作業は「空けておく時間」も必要なので、1日に1ページ書いたら、残りの時間はヒマにしているというように、だらだら、どうでもいい時間を過ごしている。ヒマだからと言って、ピアノのおさらいをやったりすると、どうやら耳うるさくて不快らしい。音楽とは全く関係のないアーカイヴを眺めてひまな時間を過ごすのも、バカげた時間の使い方ではないようですよ。

[2021年1月29日(金)/続きは後日]

347.
「コロナ災禍での音楽家の社会性」

 音楽家の公務は音楽をやることなんですが、今回のコロナ騒ぎが起きたら、その公務をやる機会や場がなくなってしまった。まったく想像もしていなかったことで、音楽家の社会的な活動ができない、という問題を、どうにかせにゃならんというわけです。

 それでネットラジオ配信をやることにしたんだけど、自分で録音機を操作して録音物を作る、いわゆる「自録り(じどり)」は少々問題ではないか、と思うときがある。自録りは自問自答の世界で、それはまあいいけれど、自宅にいて自録りでピアノ演奏を録音するときは「いい子」になり、ミスタッチを目の敵にするあまり、神経質になってしまう。あれやこれや、自分の問題と格闘し、なんとかアーカイヴができたらそれでよしという制作そのものが、閉塞をしていなければいいがと、ときどき思う。

 ひとの曲を弾くとき、自分の想像力が曲の創造性と衝突することがよくある。楽譜から脱線する理由のひとつは、しばしばこの衝突のようだ。これは単なる技術ミスではなく、怠慢や練習不足とは違って、練習の途上で起きるアイデアの発見と関連しているものです。だからむしろ自分の中に取り込んだほうがいい。自分をよく観察していないと、どういうことが起きているのかがよく見えない。

 録音技師がいれば、この人とのコミュニケーションができて、もうちょっとおおらかにやれるはずだし、録音の結果の客観的な評価もできる。自分ひとりだと、独りよがりになる危険がある。だれでも気に入った録音を残したいと思うだろうが、実際の作業は、単に、ミスが少なくてきれいに弾けた演奏を選んでいるだけのことで、必ずしも、いい演奏かどうかが評価基準になっているわけではない。YouTube で出会った曲は自分で弾いてみることにしていますが、朝起きて、寝ぼけたアタマで、昨日出会ってせいぜい1時間譜読みをした程度の曲を、録音機を回しながら練習して、それが技巧曲ならば、10回でも20回でも録音しなおして出している。モノによっては1回弾いてそれでいい場合もある。きれいに弾ければそこで作業は終わりだが、なんだか、まぐれ当たりのように思われてくる。録音機が回っているから、録音機の監督が気になって、やり直しの必要が出る。なんだか徒労感がある。これが生演奏なら、ミスの頻度がかえって減るというのが経験的な事実なんですが、どういうわけだろうか。

 映画と芝居が別物であるのと同じく、レコーディングと生演奏は別物だと思う。どっちがいいかを言うのではなく、メディアの性質の違いです。しきりに思い出すのは、小津安二郎の映画に出演した笠智衆が延々とNGを出し続けたこと。たぶんレコーディングの場合も似たことがあるんだと思う。

 ひとのピアノ曲を弾く場合、自分の資質を動員してスコアを参照しながら、ある造形をやっていることになる。それを「即興」ということもあるだろうし「遊び」とも言うだろう。自録りの録音セッションはそうしたものなんだけど、1回だけ素晴らしいテイクを創ることを夢見ても、実際はそうはできなくて、何回もやり直しをする。少々ぶざまな光景だ。生演奏の場合は、練習と準備の期間にいろんな造形の可能性を試しておき、実際の演奏は準備段階とはまた別の造形になるというようなことなのだろう。ぼくはそんなふうにやっている。音で遊ぶこと、つまり即興性ですが、これができるようになるまでには思いのほか時間がかかり、遊びの余地がなければ演奏にならない。つるっと音だけ弾くわけにはいかないのだ。

 ぼくは1年の大半が在宅勤務で、音楽の作業を1日にせいぜい3時間やったら、ほかの時間は空けておくことにしたら、その空いている時間をどう過ごすか、平たくなって寝ているのもなんだから、まあ上半身は起こしていることにした。

 会社員のように所属を持っている人は、その会社が本人の社会性をいちおう保証してくれる、いちおうだけどね。ぼくのようなフリーランスの人間は、活動や生産じたいが社会性を持っている、あるいは持つ必要があるということになるが、このたびのコロナで、その活動ができない状況が現れ、どうしたらいいのか、いやでも考えなければならなくなりました。「Music is upside down.」とピアニストのホロヴィッツが言っている。かつ、具体的なものだとなれば、現実・日常に、ひっくり返ったものが置いてあるということだ。そのことをめぐって「社会性」が問われている。だいたいこういうあらすじで、社会の中でアートというものをやる態度を考えようと思いました。

 かつては、うちにいては、ごろごろ寝ていた。コロナが蔓延して自粛が多い現在、まあ5割か6割ぐらいは起きていてみよう。「くつろぐ」。まあ、寝ていてもいいんだけど、座っていてラクな姿勢のとりかたもあるだろう。どうも、社会や日常の中での自分の音楽の位置づけと、ごくふつうにラクな姿勢で起きていることとは、関係があるなと思った。自分の発言は、どうせ誰もまともに受けてくれないという悲観的な気分が自分を圧倒し、その圧迫感がうざくて、寝てしまえということだったかなあ(笑)

 寝転がりながら YouTube を見ていると、コロナによる社会の混乱の映像がどんどん流れてくる。こういうときだからこそ、文化によるカタルシスが必要なんだと思う。思いっきり泣いて浄化する、そのための知的財産が、いまの社会には少ない。コロナ騒ぎで舞台芸術のための場が作れないとなれば、インターネットや読書で補うことになるが、やっぱ、うちに引きこもるのはどんなもんかと思う。

 つまるところ、無駄な時間を過ごすのが音楽家の公務だという話になる。ふつうは「ゆとり」と言われているものだが、いくらかの緩みを許してそこにある時空間を、変にせわしなくしない、という描画をしてみる。必要無駄という言葉を最近聞いた。その必要無駄が日常だという生活も、やってみてもいいんじゃないか。こう書いて来て、読み直してみると、いまぼくたちが世界中で遭遇しているのは、ゆとりのなさだよ。だから文化はゆとりを供給すれば、さしあたりいいお役目だということなんじゃないか。

[2021年2月28日(日)/続きは後日]

348.
「なんだか生活様式の変化」

 もうコロナのことなんか気にかけていらんない、という勢いで飲み屋街は混雑してるそうです。まあ、それもいいでしょうが、ぼくのように、必要以外はひとに会わない生活をしている自由業者が考えていることはナンセンスなのかしら笑 まあ書いて出しておきますよ。

 おととい、ファミリーマートで買って食べたカレーは296円だった。安物買いがいいとかいうのではない。この程度の値段だと、なんだか気がラクです。タイのバンコクで食べた昼飯のヌードルスープが150円程度で、日本の基準で考えると、こんなに安くていいのかと思うが、女学生がちょっと立ち寄ってランチ、という感じです。

 2度目のコロナ自粛が解除され、繁華街に出る用事があったから、街の様子を見ていたら、オムライスの店があって、640円でデミオムライスを提供してるんで、今日の昼ごはんに食べてきた。これがSサイズで、そのうえにM、Lがあって、100円ずつ高くなるが、ショーケースに並んでる見本の蝋細工の値段は640円。「コロナ自粛が明けたんだぞ!!」という意気込みが半分、外食のためのいいきっかけだという打算が半分で、入ってみたら、落ち着いた客席と、エプロン姿が似合うウェイトレスさんの応接で好印象。大衆飲食店で1000円という価格帯は見直したほうがいいと思う。かなり客の気分が違いますよ。

コロナ騒ぎで「密」の状態を避けるようになったら、東京の渋谷のような異常な密は、なくなってくるんじゃないだろうか。地球規模で、これだけ人々が困っている。あんまり密じゃないほうがいい。

 欧米化、ということをずっとやってきたぼくたちが、生活の型の見直しをする、少なくとも一種のマンネリズムから抜け出すキッカケにはなるかもね。決して誇張ではなく、個人の住宅の設計まで変わってくるとみて、新しい住宅の提案に乗り出した建設会社が現にある。今後、この建設会社のヴィジョン通りに日常が変わるかどうかは、また別の話だけれど、その変化にもちょっと目を留めてみたらどうだろうか。

 緊急事態宣言は解除されたが、第4波が来ましたなんて言っている。もううんざりですが、自分はコロナにはかかっていないということが、日常生活のメリハリになっている事実は無視できない。ぼくは午前中はノリが悪く、以前は昼前はごろごろしていたけれど、コロナにかかったわけでもないからゆるゆる起きていることにした。軽いお掃除とか皿洗いとかやって過ごしてみよう。

 コロナは2019年の暮れから始まったとネット辞典にある。ぼくは時間の流れがこのコロナ騒ぎのあいだ、それ以前とは違うようだ。カンボジア旅行から帰ってきたのが2019年9月だが、1年後、2020年9月に、さっき帰ってきたような気がした。現在、2021年3月、時の流れは速いとも遅いとも、どちらとも思わず、ふつうに過ごしているが、元旦からいままでの2カ月の時間が、停滞したまま平行移動しているような気がする。年明け早々緊急事態宣言が出て2カ月続経って、気分的にすっきりしないということか。

 過密な都市空間は、ゆっくり過ごしたいとか、ほっと一息つきたいとかいう気持のためには不向きな環境だ。そういう環境の全面的な見直しが、コロナを機に、たぶん行われるのだろう、と書いてニュースを見たら、さっき書いたように都市の飲み屋街は結構な人出だそうで、「見直し」なんかありそうにないようだけど、まあ続けますわ(笑)「密」も、高速化も、近代ヨーロッパ文明の特徴で、多量の情報を効率よく処理する方法が考えられ、その是非にかかわらず、ぼくたちは欧米化の恩恵にあずかってきた。スマートフォンだってこの近代の所産で、ぼくたちは誰でも便利に使っているわけだから、近代を一概に否定できるものでもない。その良い面は採り入れたほうがいい。でも、なぜだか「無駄」とか「無為」とかいうことが置き去りにされてきた。アートというのはそういう遊びみたいな、余白みたいな「べつに用はないようなこと」を提供するものだったが、この領域も含めたあるモードが流れていたところにコロナが襲ってきて、モードの全体が失われてしまった、ということが起きている可能性がある。日常生活や経済をもとにもどすより、新しいありかたを作っていくほうを選ぶ根拠は、たぶんこのあたりに求められる。

 だから、大きく言って生活のスタイルがわかった人は、この時期、しのいでいきやすいということになるが、現実には社会と孤絶するわけにもいかないし、簡単にスタイルは見えてこないようです。そんなにやすやすと「新しい生活様式」が見えてくるもんでもないだろう。でも現実には、コロナ・パンデミックのなかで、おのおのが動きかたを見つけなければならない。

 経済など都市機能の立て直しに、例えば3年かかるという試算は、庶民の生活スタイルをコロナ以前に引き戻すことではありえない。1995年のオウム教地下鉄サリン事件以後、首都圏では公園などにゴミ箱を置かなくなったでしょう。とにかく生活習慣や都市機能をみんなが変えようとしている。精神文化だってオンラインが圧倒的に増えるでしょう。どうしたら人が集まれるか、というところから考え直す必要がある。マス・コミュニケーションという言葉はいつのまにかあまり聞かれなくなっている。Mass が作りにくくなっているのかなあ。

 ぼくなどがかかわっている音楽の世界も、オンラインであれリアルであれ、「場」がなきゃしょうがないし、「それは無駄でもよい」というような社会の許容度が必要で、パフォーマンスじたいが切羽詰まってるんでは、「場」もなにも、表現行為自体が成り立たない。商業音楽が成り立つために再現芸術をみんながやっている、モノとしての音楽を売りさばくビジネスが成り立たなければ、再現芸術とやらも消え去ることでしょうというような意地の悪い物言いをすれば、「偉い先生」から長芋でアタマをぽこっと叩かれそうだが、現在ただ今、実際にそういう状況だという自覚は持ったほうがよろしいかと思われます。とりあえず、お金にならなくても精神文化はぜひ必要だし、音楽もその一環だということは、ぼくが言わなくてもわかりきったことでしょう。

 スマートフォンで YouTube 動画を見ていると、ヨーロッパのロマン派音楽も流れてくるのだが、日本では無名か、名前ぐらいしか知られていないヨーロッパやロシアの作曲家の音楽が、一時期、じゃんじゃん流れてきた。面白いものもあるが、いわゆるロマン主義的な意匠というものは、コロナでひっかきまわされている時節に聴くと、たいそう大言壮語的なんですよ。だから大言壮語的な意匠は無くなってくるんじゃないのかな。ちがいますか。

 東日本大震災の直後、スーパーでは菓子パンやポテトチップスなどジャンクフードがすぐに売り切れた。現在、コロナの環境でジャンクフードのような精神文化がもてはやされているとしたら、こっちの方面でも一貫性のある文化形態を考えてみたほうがいいと思う。

[2021年3月27日(土)/続きは後日]

349.
「できることをやれるだけやり、あとはだらけている生活」

 某月某日、ぼくはネットラジオ配信のために、バッハのメヌエットをピアノで弾いて録音していた。小学生かピアノ入門者が弾くと思われているバッハのメヌエットを、音をはずさないように、ガリガリ神経質になって録音作業をやっていて、ふと、こんな恐い顔をして弾く曲だろうか、楽しい曲じゃないの?と自己反省した。

 こういうことはたまにある。子供が弾くような曲を、人生半ば過ぎのおっさんがむきになって弾いている。でも、「やさしいことの難しさ」というものがある。易しい曲を弾くときにはある配慮が必要なのは確かだ。そのうえで子供になる、童心に帰る、初心者を思い出すのなら問題ない。ノスタルジーに浸っていると、非日常の変な世界ができてしまう。アタマから水をかぶって出直して来い、気を確かに持てと回し蹴りくらわす必要も、こういう場合にはある。

 今日は2021年の4月12日、月曜日です。きのう、だらけながらスマホを見ていたら、リクエストしたわけでもないのに、突如、温泉ユーチューバーさんを名乗る女の子たちの入浴シーンが流れてきた。この女性たちは全国の温泉を旅行して取材して、YouTube にその動画を載せている。取材しただけで帰ってきたんじゃなくて、温泉に入ってきたことは言うまでもない。いまはコロナ第4波が懸念され、温泉旅行に行けないから、せめてオンラインで自分たちの入浴美女を楽しんでくださいという趣向らしい。温泉だけではない。きわどい下着姿の美女ピアニストがピアノを弾く動画もある。ノーブラで街を歩けるか試す動画もある。女性器の解剖学(?)まであるぞ。人間、この種のお色気をみて悪い気はしないのはあたりまえで、近頃はみんな在宅生活が増えてエロだってほしくなる、その心理は拙者も同じだが、同じ程度にしょーもないくだらなさも同居し、ややこしい思いです。いままでエレクトロニカや『小沢昭一的心』『薔薇色の日曜日』が流入していたのに、ある日を境にポルノにガラッと変わるとは、なんだこりゃ。まあ硬い話ばかりでは、女の脚を見ただけで鼻血ブーになるから、こんなのもあり?

 湯浴みの女というのは古来から美術の題材で、美しいものとされてきましたが、入浴自体は別にエロでも何でもありませんで、爺さんばあさんをはじめ、おっさんだって風呂に入るし、猫だってノミ取りシャンプーで洗ってあげないと大変なことになる。それに、若い女一般が美しいというのはとんでもない謬見で、非現実的と言わなければならない。ファッションモデルやヌードモデルになるには、審査やオーディションに合格する必要がある。容姿相貌が劣る女性を差別しているのではない。楽しく遊べる女の子はどれだけいるかなあ。

 ぼくは、いわゆるクラシック音楽のピアニストとしては、そう高い技術点はもらえないと思っていたが、ごく最近、あることに気付いた。すなわち、「プロのピアニスト」のほとんどは、楽譜を器用にこなすが、楽譜がなければ動きが取れない、何もできない。だから技術が上手なのはあたりまえなんだ。昔のピアニストはゲシュタルト崩壊しても音楽は持っていた、というのとは真逆の状況が現代にはあることになる。砕いて言いましょう、楽譜通りに弾く能力はずば抜けているけれど、音楽がないわけです。えー?!

 大阪でコロナ感染者が1日1000人を超え、現在、こちらさいたま市でもまん延防止対策が始まり、4月17日の池袋でのリハーサルは見送ることにした。

 こういう世の中だから、癒し系の音楽に人気が集まるのは気持はわかるが、「悲しみのアダージョ」ばかりでなく、ゆるやかな動きのあるピアノ曲を取り込んでみることにした。アンダンテとか、モデラートぐらいでいいような気がする。いちじプロコフィエフのトッカータとか、『ラ・カンパネラ』『熊蜂の飛行』『幻想即興曲』のような技巧曲がネット上で流行ったが、そういう名人芸というより、「停滞しない程度の動き」でいいんじゃないかという気がする。

 とは申せ、曲探しにはこれでけっこう骨を折っている。必要な練習が1時間程度で、独立した音楽作品で、3分とか5分とかまとまった長さを持つもの。探せばけっこうあるが、ネット上で楽譜がどこにあるかわからないことも多々ある。日本の曲がなく、自分のはどうかと思って、2015年に書いた任意の楽器のための『3つの旋律』をピアノで弾こうと思ったが、むつかしすぎで、今日はやめた。ムリにピアノで弾かなくてもいい曲だから、まとまった練習ができてからにしよう。

 ネコは、ふつうは水を嫌うが、お風呂が大好きな猫がいるようで、好きになったら気持がいいからずっと浸っていたいようだ。こういう、自分が好きな感覚を拒否しないネコに、ぼくなどは学ぶところがある。好きだけど世間に憚られるから隠しておこうなどと、自分の好みを公告しない、隠遁者のような態度は、できれば持たないほうがいいようです。

 ぼくはある時期、音楽の「物騒な不協和音」の挑発を喜んでいたし、音楽が人間の心に「爪を立てる」ものである以上、その種のアプローチも受け入れて育ってきた。その基本のところは今も変わらないが、異常な音響との区別ぐらいつくというものだ。いま聴いているものがなんであれ、いい体験のほうがいいんであって、好き好んで悪い体験を選ばんほうがいいでしょうよ。コロナ災禍でそういうことがわかったら、ちょっと「いいもの」を見つけて歩いてみよう。

 それにしても…一昨年カンボジアに行ったら、欧米の音楽は普及していないし、美術館もない、伝統音楽はあるが新しい音楽の世界はないという状況で驚いたものだが、今日日、日本人が作った大衆器楽曲というようなジャンルはまだない。ひとの国のことを言わなくても、自分の国だってあまり変わりがなかった。日本も、外来文化だけでなく自分の国の音楽を持ってもいいよね。

 そうこうするうちに、今日は4月30日金曜日。この文章を書き始めてから半月経ったか。4都道府県で3度目の緊急事態宣言が出て、ゴールデンウィークが始まった。一応街は動いているが、さすがにこのたびは「いい子にしてれて」で、しょーがなくおとなしく過ごしています。

[2021年4月30日(金)/続きは後日]

350.
「超絶技巧の皆さん、あのさあ…」

 ぼくは舞台でのピアノ演奏は、ほとんど全部、自分の計画より30秒ぐらい速い。「標準的な」「再現芸術」より少し短い。とくにロマンティックな曲の演奏でこの傾向が著しい。アカデミックなピアノ教育で、「ゆっくり弾く」ことが流行しています。あえて「流行」と言ったのは、どなたもその演奏マナーをとる根拠が説明できていないからです。速く弾くように書いてある曲を、あえて遅く弾いたりする。ぼくは、これに同意できないから、見習わなかった、それはいいとしても、ステージでは計画通りのテンポで弾いたつもりが、録音を聴くと30秒ぐらい速い。あがっててすっ飛ばしたわけではない。なのになぜ?と自問していた。こういう場合、速く弾くのが自分の「欠点」だとみて、「自責の念に駆られる」というわけでした。でも、どうも「欠点」でもないらしい。

 バッハの『来たれ、異教徒の救い主よ』を、ぼくは長くても4分で弾き終えるが、通常この曲は、ピアノ用編曲版では5分かそれ以上かけるのがマナーのようになっている。そこで、原曲のオルガン版をはじめ、いろんな編曲でこの曲を聴き比べると、べつに5分の演奏がスタンダードという決まりはない。3分半でもいい。どうも、「ピアノだから」、ロマンティックにやっていると長くなるらしいんです。ピアニストは、べつに音楽家でなくてもいい。つまり、ピアニストが弾いているのは、べつに音楽でなくてもいい。

 クラシック音楽は再現芸術だと言っている人が多いけれど、これはつまり、再現芸術でないものは音楽ではないという命題と同値である。こんなふうにして、音楽とそうでないものを選り分けるわけですよ。音楽かそうでないかの正誤表が理論的にあるような物言いだが、そんなこと、わからない。わからない以上、この曲とあの曲の価値だの意義だのを比較する必要もない。

 ヨーロッパに由来する調性システムというのは、今で言えばアプリケーションであり、音楽制作のツールですよ。平凡な言い方をすれば技術だということになる。これが「再現芸術だ」、つまり再現可能だという理論から、現代のMIDIシーケンサーのようなものが作られたらしいのだ。これ、おかしいんでないかい?いいですか、ひとつの音楽作品は、ほかの音楽作品と同じではない。このことと、ひとつの音楽作品は再現可能であるということは、同じですか。違うでしょう。言っていることの意味が違うでしょう。種類が違う2つの論議を混同しているんですよ。

 まあ、ピアノの有名な技巧曲をみんながこぞって弾いている現実を、ぼろくそに否定する気はない、弾いてたっていいけれど、さっきのMIDIシーケンサーの理論と、基本的に同じ路線だということは、ここに書いておいてもいいと思う。指を速く動かす必要があるときに動いてくれれば、それでいいんじゃない?

 これは趣味高尚な論議のように見えるが、じつはたいへん基本的なことで、思いっきり下種なたとえを出しましょう。食事中の方には悪いんですが、夕ご飯ですと言ってお皿に事務用クリップか、いっそ大便でも盛って、小便をぶっかけて出されたら、あたまおかしいんじゃないの、と誰でも思うだろうが、きたないなあ。大便が食えるか食えないかの論議ではない。音楽が「再現芸術」かそうでないかの論議で求められる判断力は、じつはこのきたない例えと同じ程度、同じ種類のことですよ。さあ、音楽は「再現芸術」ですか?旦那さんやお子さん、お客さんに喜ばれるためには、ちゃんとご飯を盛って出しましょう。このポイントを押さえているかどうかが、音楽の場合も、同様に求められる。わかりますか。

 クリエイティヴな仕事をしている人はみんな、今回のコロナ騒ぎで困っている。寄席が経営困難とか、お金の話ももちろん困るが、それ以上に、演者と観客のあいだの、演芸を通じたコミュニケーションがいちど途切れてしまうと、えらいことになる。この「えらいこと」に対する理解が、ただいま、不足している。食事がない、というのとは違って、音楽や落語がなくてもいちおうは生きていけるが、じつは、ないととても困るものなのだ。ぼくはコロナ騒ぎが始まってから1年以上、コンサートに出かけていなくて、正直な話、こういう「必要無駄」の世界がない社会は、息がつまる。居づらくてたまらない。やだやだ生活している感じになってくる。いづらくてたまらないなら、伊豆に行けば楽天です(いず・らく)などと、相変わらず馬鹿なことを書いているのは、だれかなあ。

 外出自粛でコンサートやイヴェントもないとなれば、精神文化という生活の潤滑油はオンラインで補うしかないような現実になっている。トランジスタ・ラジオが進化してスマートフォンになったようで、ともかくオンラインで音楽もニュースも見たり聴いたりしている。 

 オンラインで流れてくるピアノ曲やいろんな鍵盤音楽で、自分に合ったもの、かつ、それほど難しくない曲を少し練習して録音し、ネットラジオで配信を続けて、そろそろ1年。短いものは1分、長くて15分程度、300曲ほどやった。アメリカでも19世紀から鍵盤音楽作品はあるが、日本では第二次大戦後、1945年以降で、その方面の歴史はいいところ75年なんだ。この史実を受け入れ、かつ、「日本の鍵盤作品」を探して演目に加えるようにしているけれど、歴史が短い分、曲数も少ない。自分が書いているじゃないかと、ときどき言われる。ハタチから数えて、自分の創作体験は35年です。ともかく戦前の日本には、演奏にたえるピアノ曲がほとんどない。この条件を受け入れ、日本の芸能の歴史を引き継ぐ、自分の態度を考えたほうが賢いと思う。欧米化は否定できないことだから、自分に繰り込んでいく、そのやり方とか度合いを少し考える。

 景色にも音にも、質感、ざらつきがある。こういうものにいちいち過敏になってるのは生活しづらいから、ルーズでいい場合は手抜きをして、だらけたいと最近思う。

[2021年5月27日(木)/続きは後日]

351.
「新しい生活様式」

 ゆっとくけどさー、ネットラジオ毎日更新してるんですよ。応援してくださいー。

 作曲でも演奏でも、続けていないと衰える。ウクレレを、どんなに体調が悪くても毎日3分弾いてくださいと、高木ブーさんが教えていた。毎日机の前に座りなさい、詩も小説もなにも書けなくても、座ることだけはやり、手だけは動かしなさいと言っているのは、吉本隆明さん。坂田明さんが「毎日練習する」のは、ジャズサックス奏者だからどういう練習をするんだろう、とは思うけれど、坂田さんの言葉。

 ピアノを弾くとき、その曲と「じかに対話する」わけではない。曲を通じて原作者の世界を見る。なまの舞台では、観客が演奏者による音響、目に見える演奏者の身振りや会場の様子などを統合し、めいめいがそれを「使って」ものを思うという、言えば簡単なことですが、ほかならぬ演者が、そういう性質の演戯を観客に差し出すのは、思いのほか大変だし、準備もいる。 

 自分がいま見たい・聞きたい・体験したいものがやれると、胸がすく。もやもやした気持が晴れて、すっと、らくになる。好きな絵を見るとき、すっきりした容貌や声質の人に会うとき、天気がいいとき、などなど。これが、自分が演じる側、創る側にまわると、ことはそう簡単に運ばない。音楽は日常の一部だとジョン・ケージが言ったが、日常の中の音楽の位置づけは、すっと、すぐにできるというものではないようだ。少なくともぼくはそうです。いまのところ、そんなにスムーズに行ってない。いつまでもぐずぐず音楽やってないで時間で切り上げ、日常のほかの部分にも目を向けたほうがいい。

 幼稚園や小学生の頃は、大人が作った音楽を好きで聴いていた。40年かそれ以上経って、自分が作る側にまわってみると、どうできているかは一応わかる。ですがアートというのは、絵も音楽も文学も映画も、原因と結果がすぐにつながらないから面白い、というところは、説明がつかない。アートの制作の本質は小児性なのだそうで、制作は、その欲求を満たす行為だということになる。

 ここまで書いて、思いついて寺山修司が作った『草迷宮』を見てみた。45分ほどの短編映画で、確か1983年に六本木の俳優座のレイトショーで初めて見た。あれは追悼上映だったのかな。その後リバイバル上映を3回ぐらい見ている。さっき見たら、これは映像による詩なのだ。言語で作り、活字で広められる詩を、映像と音楽にまで拡大した。

 ネットラジオのピアノ配信はいわば成り行きで、コロナ騒ぎがなければ思いつかなかった。この6月から営業を再開した映画館の経営者が、娯楽もなければ庶民の心がすさんでくる、というようなことをネットのニュースで話していた。ぼくのネットラジオも、曲数をかせいで大文化を築こうなどと構えているわけではない。むしろ逆だろう。上昇志向だけでは長続きしない。ネットラジオばかりやっているわけでもないから、作曲をやっていた5月などは、作曲の邪魔にならないように「2分の曲」を選んで弾いたりしていた。でも、同じコンセプトでシリーズをやっていてもネタが尽きてくるから、テーマを変えながら、自分の興味が持つようなやり方で、まだやめる気はない。

 100年に一度のパンデミックで日常をひっかきまわされるということがあるのか、もともと部屋の整頓がだらしない癖が、輪をかけてだらしなくなり、はっきし言って荒れている。ネットラジオ配信のために、いろんなピアノ曲の楽譜を検索・ダウンロード・印刷した。1曲ごとにクリップで止めてあるが、山積みになって崩れかかっている。どうにかしたほうがいい。この1年で弾いた300曲をどうするか。ラモーの小品など、弾いてすぐ忘れている。忘れずに書いておきますが、ああいうのを弾くのは易しくないんです。それを2時間で録音しましたなんて、インチキではないかと自分に難癖をつけそうになるが、自分で自分をいじめすぎてるんでよしましょう。いつか舞台で弾くときはさらいなおします、でいいでしょう。300曲全部を一晩で演奏する機会などなかろう。暗譜はできるほうだが、300曲全部は覚えていないし、いつでも300曲弾けるような何でも屋にはたぶん、なれないんじゃないか。楽譜を全部持ち歩くにはかさばりすぎる。最近は画像ファイルにしてコンピュータに入れておくのかな。

 いつかも書いたと思うが、ネットラジオ用の曲はあんまり難しくないピアノ曲を選んでいるんですが、それでもサクサク要領よく弾くというわけにはいかない。世の中には楽譜を見ただけですぐ弾ける初見の能力を持つ人が大勢いるようですが、ぼくも譜読みは速いほうだが、とても彼らのようにはいかない。ロマンティックな超絶技巧というのは、調性機能にもとづく分散和音や音階をとても速く弾く技術が大半で、ぼくはそういう技術を多用するピアノ曲はあまり弾いていない。でも、見た目シンプルな曲に取りかかると、自分の演奏マナーを見つけるのに案外苦労する。うまい話はないですね。癒しのアダージョばかり弾いているわけにもいかないし…笑

 「新しい生活様式」と誰かが言っているが、つまるところ、ふつうの感じ、日常性だろう。コロナで、それが見えなくなった。だから改めて意識するようになったと言えるかもしれない。日常は一気に回復するものではなく、回復させるものとも違う。部屋掃除だって、ちょっとずつやっていけば、いずれきれいになる。

 うちにいて机やピアノに向かっている時間が長かったが、コロナでコンサートのステージ回数が減ったら、質も量も、なんだか、やればいいというものではないような時節です。量のほうはともかく、「質」、表現内容にもこうした社会の変化はかかわってくるとは、思っていなかった。

 6月に予定していたコンサートを11月に延ばし、1ヵ月半ぶりのリハーサルを数日前やってきた。全曲通ったが、本番は11月の下旬です。コンサートを20年やってきて、自分のライフワークになったが、コロナで音楽パフォーマンスの場がなくなると、準備や練習に打ち込むだけでは充足ができない自分がいることに気がついた。おかしな言い方だが、音楽をやらない必要、とでもいうのかな。音楽で月給をもらってる生活ではないから、絶対やらなきゃなんないものではない、やらなくていいんですよ、でもね、ということだろう。その「でもね」を満たすことを考え始めた。

 ぼくは衣食住が足りて、コロナで失業したわけではないが、「何をしている人間ですか?」という問いに直面したような現実に置かれているらしい。「らしい」とは煮え切らない言い方だが、このたびは音楽を創る場合の話をしています。たまたま、ぼくはもとから所属を持たずに過ごしてきて、音楽というものをやっている、というのが回答にはなる。ただ、実際のコンサート制作や、作曲とかピアノの内容と技術に踏み込むと、この時節に、本当に、何をしたら適当なのか、かなり迷う。そもそも、音楽の制作は、表現内容を具体的に詰める作業で、当然迷うわけだけれど、このたびはもっとどーんと迷う状況のようで、その日常の中での音楽の位置づけが問題になっているんだろう。

 コロナ騒ぎは仕方がないが、せめて我々は、わざわいを転じて福となす、といきたい。そうすれば着るものも食べるものもある。「災いを転じて服と茄子」。はっはっは。

[2021年6月29日(火)/続きは後日]

352.
「夏の交差点」

 一芸には秀でているが、ほかは全然ダメというのはよくない。何でもかんでもプロに任せて、自分も「何かのプロ」になれば、自分の分野では大きな顔ができるような社会機構があったら、それはちょっと考えものだ。思わず、そういいたくなりませんか。

 数年前、日本のある作家さんの詩を歌にしようと思ってご本人の事務所に連絡を取ったら、JASRAC (日本音楽著作権協会)に連絡を取ってくださいと言われたので、JASRAC に連絡したら、詩の利用に当たっては作家本人の承諾が必要ですと言われ、変なたらいまわしにされて噴飯ものの気分を味わったことがある。その作家さんの詩は確かに素晴らしい。でも、当事者同士の連絡もできないのでは、困ったことではないか。日本の有名人、えらい先生たちは、往々にしてこうなのだ。序列社会の内情はこんなことで、ぼくはそういう人たちのファンをやめることがある。えらい先生かもしれないが、尊敬したくなくなるというわけだ。

 音楽の先輩たちの仕事と、ぼくたち後輩のしごとのあいだには、性質の違いがよくある。本来両者はぶつからないはずだが、個人の主張が強いとぶつかってしまう。前の世代の音楽家とは考え方の前提が違うことがあり、お互いの主張を交換し合えたら素敵だろうなと思うが、現実はなかなかそうもいかない。

 どうも、ポストコロナの時代に入って、人類の全部のことではないにせよ、かなりいろんなジャンルにおいて、それまでとはやっぱり何かが違ってきていると思う。思うものの、どう違うのか言葉で示せと言われたら、まだはっきりつかめてはいない。でも作曲やピアノやコンサートをやったら、今までとは違うものになる。だからやってみる。そうやる以外、動きようがないでしょう。それを、新時代の来るべき形をこうだと決めて活動を始める人がいるらしいが、そんなのは「ウソ」だからやらないほうがいい。

 クリエイションは「楽しい」ことだと誰でも言う一時期があった。それは、楽しいに越したことはないけれど、この流行現象を疑問視したひとりに小椋佳さんがいる。小椋さんは、うたを作るとき、まことに七転八倒するそうです。そうやって何かができたときの喜びも大きいでしょうが、あるメロディを作る、歌わせる、歌う、ということは、見かけほど簡単ではない。そんなにホイホイと意のままに歌が作れるほうがおかしいのだろう。 

 オリンピックが始まり、コロナの「爆発的感染」が現実に起き、新聞の第1面はオリンピックのかがやかしさなんて全然伝えておらず、紙面も社会も混乱を極めている。いまの日本は分裂状況だと、はっきり確認したほうがいい。分裂状況では、一般市民の「良識」が成り立たない。これでは気分がいいわけがない。

 この稿はもっとはやくアップロードするつもりだったが、オリンピックとコロナの動向が毎日ころころ変わるのでは、文章がまとまらず、書き足したり削ったり、そうこうしているうちにまた緊急事態宣言が出ることになった。明日から8月だ。いくらフリーランスの職種と言ったって、ミュージシャンもずいぶん状況に翻弄されて困ってますよ。ぐだぐだ書かずにここらで出しましょう。

[2021年7月31日(土)/続きは後日]

353.
「ばらけ方について」
 

 音楽で言う調性の時代、機能和声、ヨーロッパの調性機能の時代は終わったなんてことは、20世紀よりも前から言われていたそうです。歴史上ではそうだった。その時点から和声の機能性が変質したことは、世界の音楽を聴けばわかるし、ヨーロッパを中心とした芸術音楽の世界では、こんな理解は常識になっている。

 それで、このたびコロナ災禍が起きて、人間の文化の見直しが行われており、それがいちばん顕著なのが食文化で、外出自粛で好きなように外で飲み食いできなくて、飲食のスタイルが変わるというように、日常生活そのものが変化してきている。舞台芸術だって自粛や時短や規模縮小の対象になっており、いきおい、その内容も変わってくる。受け取り方と形式は、今後、変わるでしょうね。

 どうでもいいような映画とか絵や音楽も含め、その見物はいくらかはヒマつぶしだったり、無駄遣いだったりしたわけですが、その「ヒマ」とか「無駄」というものが日常から消えてしまったら、そこらに転がっているはずのヒマや無駄を、骨を折って意識化しなければならない。これは、いつもなら画家や戯曲作家やミュージシャンがやることで、たいへん特殊な作業であって、普通一般に、こんなことはやらないし、できない。このたびの路上飲みや、コロナのある種のマンネリ化に原因する危機感の乏しさは、「ヒマ」や「無駄」を想像して過ごす気持が持てない人たちが必然的に選ぶ行動なんでしょう。

 ぼくは路上飲みをやるほどの呑兵衛ではないし、コロナ感染の急増で危機感は持つけど、在宅作業なので三密は避けられる。でも、世の中の報道がコロナとオリンピックと台風の3つの方向に分裂して、わけのわからない情勢では、どうも落ち着かなくて困る。この夏はそんな風に過ぎていき、今年いっぱいはまだコロナのことを言っているだろう。希望的観測では、1年後にはパンデミックは終わっているが、いまはまだオリンピックが終わったばかりで、この夏の見通しがはっきりしない。

(というようなことをお盆休み前に書いていたら、ちょうどお盆に重なって感染爆発が起きてしまった。この続きを8月のいつ書き加えたか、いちいち覚えていませんが、現在感染爆発期間中です。8月28日記す。)

 イヴェント自粛でコンサートの回数が減り、ネットラジオの配信をするようになったが、例えばヴィラロボスのピアノ曲『嘆きのワルツ』なんかは、曲の良し悪しがどうこうより、現在のコロナ災禍に鑑みて、弾こうとしても、ついばかばかしくなってくる。みなさんが嘆いているときに、なにが嘆きのワルツだ、という気分になりがちで、ヤル気が減衰してしまう。シューベルトの『軍隊行進曲』も、時節柄、どうかなあと立ち止まってしまった。

 いま社会で問題になっている「たらい回し」を、「ダライ・ラマ氏」と間違えないほうが賢い(何を言っているのだろうね)。

 少なくとも音楽の世界では、調性機能の階層構造は、以前よりもさらに崩れていくのじゃなかろうかという気がします。ぼくには欧米の名曲崇拝がこれからも変わらず継続はしないような気がする。ぼくは音楽学のほうは全然知りません。どう変わるかなんて、論証できないけれど、音楽のプロと少数のファンを除いて、世界の現実は、無調音楽をあまり理解せず、調性音楽ばかりを理解してきた。この現実が変わるんじゃないですかね。

 一例として、ピアノで、多量の音を短い時間のうちにさばく作業効率を求めれば、どの音も均一になり、やせていく。そういうことが近代ヨーロッパの音楽技術のある一面だった可能性があり、そうでなければ実現できない、傑作を含む名曲が大量に書かれ、世界中に伝播した、という歴史的事実は、いまさら否定してみようもない既成事実になっちゃっている。

 経験則に従えば、音質のばらつきを排除しないで、むしろ繰り込んだほうが楽器がよく鳴り、音楽も面白くなる。どうもそうみたい。後世のぼくたちは、近代を否定するのではなく、その遺産は受け入れながら、いままで行われていなかったことを試してみる、それだけの発想法が持てるか持てないか。あるいは一歩進んで、ばらつきを含んだ演奏技術が持てるかどうか。

 ぼくは自分の経験に従って、ばらつきをピアノ演奏に繰り入れると、ミスタッチやテンポの揺れが出る場合があることを知っています。自分がそういう「不完全な」演奏をやったことがあるんだけど、それは音楽のコミュニケーションのキズにはならない、というのも、経験の教えるところです。ぼくたちは間違った演奏を目指すのではない。あるヴィジョンを求めてパフォーマンスをやるけれど、100パーセント成功というのはない。それで、仕損じたところを「あちゃー」とも思うわけですよ。そういう現実の性格がある。

 現実には、そんな均一などなく、楽器の演奏だって、各音の「粒をそろえて」弾くピアノ演奏法は、たいへん人工的な訓練の産物だ。楽器の性能の発達や平均律の考案というように、その人工的な訓練がなめらかに歌う演奏法を志向するようになったが、こんどはその「歌」じたいのほうが均一化からそれてくる。これはいわゆるテンポ・ルバートとして定着したが、もうちょっと別な発想をすると、均一化しないということは、リズムが楽譜通りにはならず、右手と左手も別々に揺らぎ、同じ8分音符の長さを持つ各音のそれぞれが、実際の演奏では違う長さを持つということに他ならない。それで、あくまでシステマティックな発想の中で、変化音や、微分音、変拍子まで繰り込むようになり、以後すでに半世紀以上経過している。

 だから問題はばらつきの許容度ということになる。それは、まあこの程度の精度で充分だろうというような、なんだか、言葉にすればのんべんだらりと、締まりなく自己や他己の不正確を「許す」、寛大になるというのは、ある意味だらしのない、それでよければかまわないじゃないかというような、だから用事が足りればさしあたりいいんだけど、こういう、ふだんはだらしなくやり過ごしていることを、いまは意識化しなければならない。めんどうなことになったもんですね。

 コロナ感染爆発のいま、日常の様子がいつもと違うのは、おそらく「欠如」ということが前面に出てきていることだろう。イヴェントはできないし、三密を避け、企業は成り立たず、あるいは悲鳴を上げ、というように、いつもはあたりまえの日常の要素がぽろぽろ欠けた街々を往来していると、ぼんやりした空疎な感覚が無視できない、というあたりに、ぼくたちはいるようだ。その欠如を何かで埋める心のしごとは、「芸術のプロ」がいくらがなり立ててもたぶん効果がないだろう。もっと個のいしづえに訴えるものがあったほうがいい。

[2021年8月28日(土)/続きは後日]

354.






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