目次

江村夏樹が作曲や演奏で実践していること
(何を考えてやっているか)
そのXVI

江村夏樹


345.
「2021年になりました」

 年が改まりました。疫病の終息を祈ります。今年は分散参拝とかで、元日は近所の神社に行きました。





 ではまたちかぢか。

[2021年1月3日(日)/続きは後日]

346.
「疲れないようにネットラジオの配信を続けるための覚書」

 ウィズコロナとみんなが言い始めたころから、ぼくはネットのラジオの配信をしばらく続けてみようと思いました。そもそもオンラインでピアノ演奏の配信を始めたのは、もちろん、このたびのコロナで生演奏の場が持てなくなったという現実はあるが、同時に、こういう状況では「自分の文化」を失いかねないと思ったから、自宅でピアノを弾いて、誰か不特定多数にシェアするという形式で、橋のようなもの、蝶つがいのようなものを作っておこうという目論見だった。自分のための需要もあったということです。半年たって、まだコロナ渦です。

 それで半年たった。続けようと思えば続くものだと思ったけれど、同時に、いわゆる大衆名曲は、はじから順番にピアノで弾いていくと数に限りがあること、それから大衆名曲ばかり作ったり、聴いたりしている音楽の世界には、飽きが来ることもあるということ、この2つのことに気付いた。世の中の名曲と言われているものを全部弾くわけにもいかない。

 映画音楽や各国の民謡の編曲、ポピュラー音楽も全部含めると、ぼくがピアノで弾ける曲はまだかなりあることになるが、まず、その曲は自分に合っていて弾ける曲かどうか。そういう曲を選んで、ストックを常時数曲は持っていたほうがいい。その選定のための手間は、この半年やってみて、まあちょっとした努力は必要ですが、気苦労や重圧というほどではなくて、向こう半年ぐらいなら続きそうだ。(もしピアノ・ソロが尽きたら、合奏でもいい。)

 技巧曲で有名曲という種類のものがあって、そういうものを弾く人は多いから、べつにぼくが弾かなくてもいいか、というような気分で、何曲か、まだ出していない。

 どんなに簡単で初見で弾ける楽譜でも、「自分との交点」を見つけるプロセスに最低30分はかかる。まあいちおう弾くにも2時間ぐらいはこの作業に費やすと思っていたほうがよい。指の技術そのものはそう難しくなくても、自分らしく弾けるまでに手間取ることは珍しくない。こん畜生と思っても、これは事実です。

 アレンジ物の場合、自分で編曲すればいいようなもんですが、書く手間が面倒で、ひとが作った市販の譜面を使うことが多い。ときには、メロディだけうろ覚えの曲に即興で伴奏をつけて弾いていることもある。これは作品創作のような本格的な手順で作っていないピアノ演奏で、練習の途中で出しているような感じです、すみません(笑)

 2時間で弾けるなんてすごい!という人がいると思うけれど、じつは曲の難易度をだいぶ落として選んでいるんです。現実的に考えて、てこずる難曲ばかりでは続かない、のです。毎日難曲の録音を続けているわけにはいかないよ(笑)暗譜して覚えている曲で、まだ弾いていないものがあるが、大規模なソナタなど、録音にてこずるたぐいのもので、今月は作曲をやっていて、まとまった練習時間が取れないから保留している。それに、自分のなりわいと言ったって、意欲がわかない日もあるのが正直なところです。

 5分の楽譜を弾きこなすのに3日もかかる場合もある。コンサートで弾くことになったら、30分とか2時間とかじゃなくて、半月なり1ヵ月なり、演奏を創るまとまった日数が必要だろう。いつも素晴らしく弾きたいところだが、録音というのは、ちょうど、肖像写真を撮るときに普段のくつろいだ、だらしのないマナーをちょっと正すのと同じようなことで、やってみるとかなり特殊な作業なんですよ。生演奏の場合はミスも許容してパフォーマンスとして面白いかどうかがすべてだが、録音の場合は即興性みたいなものははじかれてしまい、数ある録音結果のうち、出来がいいものを採用することに、どうしてもなる。その他の膨大な量の気に食わない録音結果を捨てている。思うに、レコーディングは生演奏らしく作られたある種の「作為」の産物なのではなかろうか。

 スマホの配信アプリで「自撮り」というものを公開している人は多い。ぼくもその一人だが、音楽の収録は、いわゆるプロの現場では自撮りということは、まったくないことはないが少ない。プロデューサーやエンジニアがいると、その人たちとのコミュニケーションの輪の中で相談しながら録音セッションを行なうが、自撮りの場合は全部自分ひとりで、これにはメリットもあるがデメリットもあることは忘れないほうがいいと思う。

 コンビニのコピー機でピアノピースが買える時代です。確かに便利になった、が、いい楽譜を見つけたほうがいい。難しいクラシック名曲をやさしく編曲した楽譜もあるが、こういうものにも出来の良し悪しがある。質は落とさないほうがいいと思う。

 記憶の底に沈んですっかり忘れていた曲を、なんかのきっかけで不意に思い出すこともある。ともかくそうこうしているうちに、ピアノの周りや作業部屋は楽譜が散乱して、機能性が悪くなってきたから、新年明けて、ちょっとずつ整頓しています。

 いわゆる大衆名曲で、自分に合ったものを順番にピアノで弾き、その後、参考まで、ひとの演奏を聴くことがある。それで怪訝に思うのは「遅すぎるテンポ設定」だ。例えばシューベルトの歌曲『セレナーデ』のピアノ版は、速くても4分以上、6分もかけている演奏があるが、原曲は、例えばフィッシャー=ディースカウは3分半、ヘルマン・プライは3分10秒ほど、ヴァイオリン用編曲版も、イツァーク・パールマンによれば3分20秒未満だ。それを、ロマンティックなピアノ用だからというような理由によるのだろうが、アダージョみたいに引き延ばす神経が、ぼくにはよくわからない。もっとわからないのは、当然ゆっくり弾くはずの曲をサッサと片付けてしまう学習者やプロがいる。

 わりあい古い曲で、多楽章の曲の中のひとつの楽章だけが有名になって、全体は知られていないものがある。ヘンデルの『ラルゴ』や『サラバンド』『調子のよい鍛冶屋』、ダカンの『かっこう』、ほかにもたくさんある。これらの部分だけポピュラーになった“わけ”はなんかあるんでしょうが、ふつうはそこまで突っ込まず、たまたま歴史の偶然でそうなった、ぐらいに思われている。

 自分の近況。作曲をやっているときは、ピアノの練習のためのまとまった時間がとりにくいが、作曲という作業は「空けておく時間」も必要なので、1日に1ページ書いたら、残りの時間はヒマにしているというように、だらだら、どうでもいい時間を過ごしている。ヒマだからと言って、ピアノのおさらいをやったりすると、どうやら耳うるさくて不快らしい。音楽とは全く関係のないアーカイヴを眺めてひまな時間を過ごすのも、バカげた時間の使い方ではないようですよ。

[2021年1月29日(金)/続きは後日]

347.
「コロナ災禍での音楽家の社会性」

 音楽家の公務は音楽をやることなんですが、今回のコロナ騒ぎが起きたら、その公務をやる機会や場がなくなってしまった。まったく想像もしていなかったことで、音楽家の社会的な活動ができない、という問題を、どうにかせにゃならんというわけです。

 それでネットラジオ配信をやることにしたんだけど、自分で録音機を操作して録音物を作る、いわゆる「自録り(じどり)」は少々問題ではないか、と思うときがある。自録りは自問自答の世界で、それはまあいいけれど、自宅にいて自録りでピアノ演奏を録音するときは「いい子」になり、ミスタッチを目の敵にするあまり、神経質になってしまう。あれやこれや、自分の問題と格闘し、なんとかアーカイヴができたらそれでよしという制作そのものが、閉塞をしていなければいいがと、ときどき思う。

 ひとの曲を弾くとき、自分の想像力が曲の創造性と衝突することがよくある。楽譜から脱線する理由のひとつは、しばしばこの衝突のようだ。これは単なる技術ミスではなく、怠慢や練習不足とは違って、練習の途上で起きるアイデアの発見と関連しているものです。だからむしろ自分の中に取り込んだほうがいい。自分をよく観察していないと、どういうことが起きているのかがよく見えない。

 録音技師がいれば、この人とのコミュニケーションができて、もうちょっとおおらかにやれるはずだし、録音の結果の客観的な評価もできる。自分ひとりだと、独りよがりになる危険がある。だれでも気に入った録音を残したいと思うだろうが、実際の作業は、単に、ミスが少なくてきれいに弾けた演奏を選んでいるだけのことで、必ずしも、いい演奏かどうかが評価基準になっているわけではない。YouTube で出会った曲は自分で弾いてみることにしていますが、朝起きて、寝ぼけたアタマで、昨日出会ってせいぜい1時間譜読みをした程度の曲を、録音機を回しながら練習して、それが技巧曲ならば、10回でも20回でも録音しなおして出している。モノによっては1回弾いてそれでいい場合もある。きれいに弾ければそこで作業は終わりだが、なんだか、まぐれ当たりのように思われてくる。録音機が回っているから、録音機の監督が気になって、やり直しの必要が出る。なんだか徒労感がある。これが生演奏なら、ミスの頻度がかえって減るというのが経験的な事実なんですが、どういうわけだろうか。

 映画と芝居が別物であるのと同じく、レコーディングと生演奏は別物だと思う。どっちがいいかを言うのではなく、メディアの性質の違いです。しきりに思い出すのは、小津安二郎の映画に出演した笠智衆が延々とNGを出し続けたこと。たぶんレコーディングの場合も似たことがあるんだと思う。

 ひとのピアノ曲を弾く場合、自分の資質を動員してスコアを参照しながら、ある造形をやっていることになる。それを「即興」ということもあるだろうし「遊び」とも言うだろう。自録りの録音セッションはそうしたものなんだけど、1回だけ素晴らしいテイクを創ることを夢見ても、実際はそうはできなくて、何回もやり直しをする。少々ぶざまな光景だ。生演奏の場合は、練習と準備の期間にいろんな造形の可能性を試しておき、実際の演奏は準備段階とはまた別の造形になるというようなことなのだろう。ぼくはそんなふうにやっている。音で遊ぶこと、つまり即興性ですが、これができるようになるまでには思いのほか時間がかかり、遊びの余地がなければ演奏にならない。つるっと音だけ弾くわけにはいかないのだ。

 ぼくは1年の大半が在宅勤務で、音楽の作業を1日にせいぜい3時間やったら、ほかの時間は空けておくことにしたら、その空いている時間をどう過ごすか、平たくなって寝ているのもなんだから、まあ上半身は起こしていることにした。

 会社員のように所属を持っている人は、その会社が本人の社会性をいちおう保証してくれる、いちおうだけどね。ぼくのようなフリーランスの人間は、活動や生産じたいが社会性を持っている、あるいは持つ必要があるということになるが、このたびのコロナで、その活動ができない状況が現れ、どうしたらいいのか、いやでも考えなければならなくなりました。「Music is upside down.」とピアニストのホロヴィッツが言っている。かつ、具体的なものだとなれば、現実・日常に、ひっくり返ったものが置いてあるということだ。そのことをめぐって「社会性」が問われている。だいたいこういうあらすじで、社会の中でアートというものをやる態度を考えようと思いました。

 かつては、うちにいては、ごろごろ寝ていた。コロナが蔓延して自粛が多い現在、まあ5割か6割ぐらいは起きていてみよう。「くつろぐ」。まあ、寝ていてもいいんだけど、座っていてラクな姿勢のとりかたもあるだろう。どうも、社会や日常の中での自分の音楽の位置づけと、ごくふつうにラクな姿勢で起きていることとは、関係があるなと思った。自分の発言は、どうせ誰もまともに受けてくれないという悲観的な気分が自分を圧倒し、その圧迫感がうざくて、寝てしまえということだったかなあ(笑)

 寝転がりながら YouTube を見ていると、コロナによる社会の混乱の映像がどんどん流れてくる。こういうときだからこそ、文化によるカタルシスが必要なんだと思う。思いっきり泣いて浄化する、そのための知的財産が、いまの社会には少ない。コロナ騒ぎで舞台芸術のための場が作れないとなれば、インターネットや読書で補うことになるが、やっぱ、うちに引きこもるのはどんなもんかと思う。

 つまるところ、無駄な時間を過ごすのが音楽家の公務だという話になる。ふつうは「ゆとり」と言われているものだが、いくらかの緩みを許してそこにある時空間を、変にせわしなくしない、という描画をしてみる。必要無駄という言葉を最近聞いた。その必要無駄が日常だという生活も、やってみてもいいんじゃないか。こう書いて来て、読み直してみると、いまぼくたちが世界中で遭遇しているのは、ゆとりのなさだよ。だから文化はゆとりを供給すれば、さしあたりいいお役目だということなんじゃないか。

[2021年2月28日(日)/続きは後日]

348.
「なんだか生活様式の変化」

 もうコロナのことなんか気にかけていらんない、という勢いで飲み屋街は混雑してるそうです。まあ、それもいいでしょうが、ぼくのように、必要以外はひとに会わない生活をしている自由業者が考えていることはナンセンスなのかしら笑 まあ書いて出しておきますよ。

 おととい、ファミリーマートで買って食べたカレーは296円だった。安物買いがいいとかいうのではない。この程度の値段だと、なんだか気がラクです。タイのバンコクで食べた昼飯のヌードルスープが150円程度で、日本の基準で考えると、こんなに安くていいのかと思うが、女学生がちょっと立ち寄ってランチ、という感じです。

 2度目のコロナ自粛が解除され、繁華街に出る用事があったから、街の様子を見ていたら、オムライスの店があって、640円でデミオムライスを提供してるんで、今日の昼ごはんに食べてきた。これがSサイズで、そのうえにM、Lがあって、100円ずつ高くなるが、ショーケースに並んでる見本の蝋細工の値段は640円。「コロナ自粛が明けたんだぞ!!」という意気込みが半分、外食のためのいいきっかけだという打算が半分で、入ってみたら、落ち着いた客席と、エプロン姿が似合うウェイトレスさんの応接で好印象。大衆飲食店で1000円という価格帯は見直したほうがいいと思う。かなり客の気分が違いますよ。

コロナ騒ぎで「密」の状態を避けるようになったら、東京の渋谷のような異常な密は、なくなってくるんじゃないだろうか。地球規模で、これだけ人々が困っている。あんまり密じゃないほうがいい。

 欧米化、ということをずっとやってきたぼくたちが、生活の型の見直しをする、少なくとも一種のマンネリズムから抜け出すキッカケにはなるかもね。決して誇張ではなく、個人の住宅の設計まで変わってくるとみて、新しい住宅の提案に乗り出した建設会社が現にある。今後、この建設会社のヴィジョン通りに日常が変わるかどうかは、また別の話だけれど、その変化にもちょっと目を留めてみたらどうだろうか。

 緊急事態宣言は解除されたが、第4波が来ましたなんて言っている。もううんざりですが、自分はコロナにはかかっていないということが、日常生活のメリハリになっている事実は無視できない。ぼくは午前中はノリが悪く、以前は昼前はごろごろしていたけれど、コロナにかかったわけでもないからゆるゆる起きていることにした。軽いお掃除とか皿洗いとかやって過ごしてみよう。

 コロナは2019年の暮れから始まったとネット辞典にある。ぼくは時間の流れがこのコロナ騒ぎのあいだ、それ以前とは違うようだ。カンボジア旅行から帰ってきたのが2019年9月だが、1年後、2020年9月に、さっき帰ってきたような気がした。現在、2021年3月、時の流れは速いとも遅いとも、どちらとも思わず、ふつうに過ごしているが、元旦からいままでの2カ月の時間が、停滞したまま平行移動しているような気がする。年明け早々緊急事態宣言が出て2カ月続経って、気分的にすっきりしないということか。

 過密な都市空間は、ゆっくり過ごしたいとか、ほっと一息つきたいとかいう気持のためには不向きな環境だ。そういう環境の全面的な見直しが、コロナを機に、たぶん行われるのだろう、と書いてニュースを見たら、さっき書いたように都市の飲み屋街は結構な人出だそうで、「見直し」なんかありそうにないようだけど、まあ続けますわ(笑)「密」も、高速化も、近代ヨーロッパ文明の特徴で、多量の情報を効率よく処理する方法が考えられ、その是非にかかわらず、ぼくたちは欧米化の恩恵にあずかってきた。スマートフォンだってこの近代の所産で、ぼくたちは誰でも便利に使っているわけだから、近代を一概に否定できるものでもない。その良い面は採り入れたほうがいい。でも、なぜだか「無駄」とか「無為」とかいうことが置き去りにされてきた。アートというのはそういう遊びみたいな、余白みたいな「べつに用はないようなこと」を提供するものだったが、この領域も含めたあるモードが流れていたところにコロナが襲ってきて、モードの全体が失われてしまった、ということが起きている可能性がある。日常生活や経済をもとにもどすより、新しいありかたを作っていくほうを選ぶ根拠は、たぶんこのあたりに求められる。

 だから、大きく言って生活のスタイルがわかった人は、この時期、しのいでいきやすいということになるが、現実には社会と孤絶するわけにもいかないし、簡単にスタイルは見えてこないようです。そんなにやすやすと「新しい生活様式」が見えてくるもんでもないだろう。でも現実には、コロナ・パンデミックのなかで、おのおのが動きかたを見つけなければならない。

 経済など都市機能の立て直しに、例えば3年かかるという試算は、庶民の生活スタイルをコロナ以前に引き戻すことではありえない。1995年のオウム教地下鉄サリン事件以後、首都圏では公園などにゴミ箱を置かなくなったでしょう。とにかく生活習慣や都市機能をみんなが変えようとしている。精神文化だってオンラインが圧倒的に増えるでしょう。どうしたら人が集まれるか、というところから考え直す必要がある。マス・コミュニケーションという言葉はいつのまにかあまり聞かれなくなっている。Mass が作りにくくなっているのかなあ。

 ぼくなどがかかわっている音楽の世界も、オンラインであれリアルであれ、「場」がなきゃしょうがないし、「それは無駄でもよい」というような社会の許容度が必要で、パフォーマンスじたいが切羽詰まってるんでは、「場」もなにも、表現行為自体が成り立たない。商業音楽が成り立つために再現芸術をみんながやっている、モノとしての音楽を売りさばくビジネスが成り立たなければ、再現芸術とやらも消え去ることでしょうというような意地の悪い物言いをすれば、「偉い先生」から長芋でアタマをぽこっと叩かれそうだが、現在ただ今、実際にそういう状況だという自覚は持ったほうがよろしいかと思われます。とりあえず、お金にならなくても精神文化はぜひ必要だし、音楽もその一環だということは、ぼくが言わなくてもわかりきったことでしょう。

 スマートフォンで YouTube 動画を見ていると、ヨーロッパのロマン派音楽も流れてくるのだが、日本では無名か、名前ぐらいしか知られていないヨーロッパやロシアの作曲家の音楽が、一時期、じゃんじゃん流れてきた。面白いものもあるが、いわゆるロマン主義的な意匠というものは、コロナでひっかきまわされている時節に聴くと、たいそう大言壮語的なんですよ。だから大言壮語的な意匠は無くなってくるんじゃないのかな。ちがいますか。

 東日本大震災の直後、スーパーでは菓子パンやポテトチップスなどジャンクフードがすぐに売り切れた。現在、コロナの環境でジャンクフードのような精神文化がもてはやされているとしたら、こっちの方面でも一貫性のある文化形態を考えてみたほうがいいと思う。

[2021年3月27日(土)/続きは後日]

349.
「できることをやれるだけやり、あとはだらけている生活」

 某月某日、ぼくはネットラジオ配信のために、バッハのメヌエットをピアノで弾いて録音していた。小学生かピアノ入門者が弾くと思われているバッハのメヌエットを、音をはずさないように、ガリガリ神経質になって録音作業をやっていて、ふと、こんな恐い顔をして弾く曲だろうか、楽しい曲じゃないの?と自己反省した。

 こういうことはたまにある。子供が弾くような曲を、人生半ば過ぎのおっさんがむきになって弾いている。でも、「やさしいことの難しさ」というものがある。易しい曲を弾くときにはある配慮が必要なのは確かだ。そのうえで子供になる、童心に帰る、初心者を思い出すのなら問題ない。ノスタルジーに浸っていると、非日常の変な世界ができてしまう。アタマから水をかぶって出直して来い、気を確かに持てと回し蹴りくらわす必要も、こういう場合にはある。

 今日は2021年の4月12日、月曜日です。きのう、だらけながらスマホを見ていたら、リクエストしたわけでもないのに、突如、温泉ユーチューバーさんを名乗る女の子たちの入浴シーンが流れてきた。この女性たちは全国の温泉を旅行して取材して、YouTube にその動画を載せている。取材しただけで帰ってきたんじゃなくて、温泉に入ってきたことは言うまでもない。いまはコロナ第4波が懸念され、温泉旅行に行けないから、せめてオンラインで自分たちの入浴美女を楽しんでくださいという趣向らしい。温泉だけではない。きわどい下着姿の美女ピアニストがピアノを弾く動画もある。ノーブラで街を歩けるか試す動画もある。女性器の解剖学(?)まであるぞ。人間、この種のお色気をみて悪い気はしないのはあたりまえで、近頃はみんな在宅生活が増えてエロだってほしくなる、その心理は拙者も同じだが、同じ程度にしょーもないくだらなさも同居し、ややこしい思いです。いままでエレクトロニカや『小沢昭一的心』『薔薇色の日曜日』が流入していたのに、ある日を境にポルノにガラッと変わるとは、なんだこりゃ。まあ硬い話ばかりでは、女の脚を見ただけで鼻血ブーになるから、こんなのもあり?

 湯浴みの女というのは古来から美術の題材で、美しいものとされてきましたが、入浴自体は別にエロでも何でもありませんで、爺さんばあさんをはじめ、おっさんだって風呂に入るし、猫だってノミ取りシャンプーで洗ってあげないと大変なことになる。それに、若い女一般が美しいというのはとんでもない謬見で、非現実的と言わなければならない。ファッションモデルやヌードモデルになるには、審査やオーディションに合格する必要がある。容姿相貌が劣る女性を差別しているのではない。楽しく遊べる女の子はどれだけいるかなあ。

 ぼくは、いわゆるクラシック音楽のピアニストとしては、そう高い技術点はもらえないと思っていたが、ごく最近、あることに気付いた。すなわち、「プロのピアニスト」のほとんどは、楽譜を器用にこなすが、楽譜がなければ動きが取れない、何もできない。だから技術が上手なのはあたりまえなんだ。昔のピアニストはゲシュタルト崩壊しても音楽は持っていた、というのとは真逆の状況が現代にはあることになる。砕いて言いましょう、楽譜通りに弾く能力はずば抜けているけれど、音楽がないわけです。えー?!

 大阪でコロナ感染者が1日1000人を超え、現在、こちらさいたま市でもまん延防止対策が始まり、4月17日の池袋でのリハーサルは見送ることにした。

 こういう世の中だから、癒し系の音楽に人気が集まるのは気持はわかるが、「悲しみのアダージョ」ばかりでなく、ゆるやかな動きのあるピアノ曲を取り込んでみることにした。アンダンテとか、モデラートぐらいでいいような気がする。いちじプロコフィエフのトッカータとか、『ラ・カンパネラ』『熊蜂の飛行』『幻想即興曲』のような技巧曲がネット上で流行ったが、そういう名人芸というより、「停滞しない程度の動き」でいいんじゃないかという気がする。

 とは申せ、曲探しにはこれでけっこう骨を折っている。必要な練習が1時間程度で、独立した音楽作品で、3分とか5分とかまとまった長さを持つもの。探せばけっこうあるが、ネット上で楽譜がどこにあるかわからないことも多々ある。日本の曲がなく、自分のはどうかと思って、2015年に書いた任意の楽器のための『3つの旋律』をピアノで弾こうと思ったが、むつかしすぎで、今日はやめた。ムリにピアノで弾かなくてもいい曲だから、まとまった練習ができてからにしよう。

 ネコは、ふつうは水を嫌うが、お風呂が大好きな猫がいるようで、好きになったら気持がいいからずっと浸っていたいようだ。こういう、自分が好きな感覚を拒否しないネコに、ぼくなどは学ぶところがある。好きだけど世間に憚られるから隠しておこうなどと、自分の好みを公告しない、隠遁者のような態度は、できれば持たないほうがいいようです。

 ぼくはある時期、音楽の「物騒な不協和音」の挑発を喜んでいたし、音楽が人間の心に「爪を立てる」ものである以上、その種のアプローチも受け入れて育ってきた。その基本のところは今も変わらないが、異常な音響との区別ぐらいつくというものだ。いま聴いているものがなんであれ、いい体験のほうがいいんであって、好き好んで悪い体験を選ばんほうがいいでしょうよ。コロナ災禍でそういうことがわかったら、ちょっと「いいもの」を見つけて歩いてみよう。

 それにしても…一昨年カンボジアに行ったら、欧米の音楽は普及していないし、美術館もない、伝統音楽はあるが新しい音楽の世界はないという状況で驚いたものだが、今日日、日本人が作った大衆器楽曲というようなジャンルはまだない。ひとの国のことを言わなくても、自分の国だってあまり変わりがなかった。日本も、外来文化だけでなく自分の国の音楽を持ってもいいよね。

 そうこうするうちに、今日は4月30日金曜日。この文章を書き始めてから半月経ったか。4都道府県で3度目の緊急事態宣言が出て、ゴールデンウィークが始まった。一応街は動いているが、さすがにこのたびは「いい子にしてれて」で、しょーがなくおとなしく過ごしています。

[2021年4月30日(金)/続きは後日]

350.
「超絶技巧の皆さん、あのさあ…」

 ぼくは舞台でのピアノ演奏は、ほとんど全部、自分の計画より30秒ぐらい速い。「標準的な」「再現芸術」より少し短い。とくにロマンティックな曲の演奏でこの傾向が著しい。アカデミックなピアノ教育で、「ゆっくり弾く」ことが流行しています。あえて「流行」と言ったのは、どなたもその演奏マナーをとる根拠が説明できていないからです。速く弾くように書いてある曲を、あえて遅く弾いたりする。ぼくは、これに同意できないから、見習わなかった、それはいいとしても、ステージでは計画通りのテンポで弾いたつもりが、録音を聴くと30秒ぐらい速い。あがっててすっ飛ばしたわけではない。なのになぜ?と自問していた。こういう場合、速く弾くのが自分の「欠点」だとみて、「自責の念に駆られる」というわけでした。でも、どうも「欠点」でもないらしい。

 バッハの『来たれ、異教徒の救い主よ』を、ぼくは長くても4分で弾き終えるが、通常この曲は、ピアノ用編曲版では5分かそれ以上かけるのがマナーのようになっている。そこで、原曲のオルガン版をはじめ、いろんな編曲でこの曲を聴き比べると、べつに5分の演奏がスタンダードという決まりはない。3分半でもいい。どうも、「ピアノだから」、ロマンティックにやっていると長くなるらしいんです。ピアニストは、べつに音楽家でなくてもいい。つまり、ピアニストが弾いているのは、べつに音楽でなくてもいい。

 クラシック音楽は再現芸術だと言っている人が多いけれど、これはつまり、再現芸術でないものは音楽ではないという命題と同値である。こんなふうにして、音楽とそうでないものを選り分けるわけですよ。音楽かそうでないかの正誤表が理論的にあるような物言いだが、そんなこと、わからない。わからない以上、この曲とあの曲の価値だの意義だのを比較する必要もない。

 ヨーロッパに由来する調性システムというのは、今で言えばアプリケーションであり、音楽制作のツールですよ。平凡な言い方をすれば技術だということになる。これが「再現芸術だ」、つまり再現可能だという理論から、現代のMIDIシーケンサーのようなものが作られたらしいのだ。これ、おかしいんでないかい?いいですか、ひとつの音楽作品は、ほかの音楽作品と同じではない。このことと、ひとつの音楽作品は再現可能であるということは、同じですか。違うでしょう。言っていることの意味が違うでしょう。種類が違う2つの論議を混同しているんですよ。

 まあ、ピアノの有名な技巧曲をみんながこぞって弾いている現実を、ぼろくそに否定する気はない、弾いてたっていいけれど、さっきのMIDIシーケンサーの理論と、基本的に同じ路線だということは、ここに書いておいてもいいと思う。指を速く動かす必要があるときに動いてくれれば、それでいいんじゃない?

 これは趣味高尚な論議のように見えるが、じつはたいへん基本的なことで、思いっきり下種なたとえを出しましょう。食事中の方には悪いんですが、夕ご飯ですと言ってお皿に事務用クリップか、いっそ大便でも盛って、小便をぶっかけて出されたら、あたまおかしいんじゃないの、と誰でも思うだろうが、きたないなあ。大便が食えるか食えないかの論議ではない。音楽が「再現芸術」かそうでないかの論議で求められる判断力は、じつはこのきたない例えと同じ程度、同じ種類のことですよ。さあ、音楽は「再現芸術」ですか?旦那さんやお子さん、お客さんに喜ばれるためには、ちゃんとご飯を盛って出しましょう。このポイントを押さえているかどうかが、音楽の場合も、同様に求められる。わかりますか。

 クリエイティヴな仕事をしている人はみんな、今回のコロナ騒ぎで困っている。寄席が経営困難とか、お金の話ももちろん困るが、それ以上に、演者と観客のあいだの、演芸を通じたコミュニケーションがいちど途切れてしまうと、えらいことになる。この「えらいこと」に対する理解が、ただいま、不足している。食事がない、というのとは違って、音楽や落語がなくてもいちおうは生きていけるが、じつは、ないととても困るものなのだ。ぼくはコロナ騒ぎが始まってから1年以上、コンサートに出かけていなくて、正直な話、こういう「必要無駄」の世界がない社会は、息がつまる。居づらくてたまらない。やだやだ生活している感じになってくる。いづらくてたまらないなら、伊豆に行けば楽天です(いず・らく)などと、相変わらず馬鹿なことを書いているのは、だれかなあ。

 外出自粛でコンサートやイヴェントもないとなれば、精神文化という生活の潤滑油はオンラインで補うしかないような現実になっている。トランジスタ・ラジオが進化してスマートフォンになったようで、ともかくオンラインで音楽もニュースも見たり聴いたりしている。 

 オンラインで流れてくるピアノ曲やいろんな鍵盤音楽で、自分に合ったもの、かつ、それほど難しくない曲を少し練習して録音し、ネットラジオで配信を続けて、そろそろ1年。短いものは1分、長くて15分程度、300曲ほどやった。アメリカでも19世紀から鍵盤音楽作品はあるが、日本では第二次大戦後、1945年以降で、その方面の歴史はいいところ75年なんだ。この史実を受け入れ、かつ、「日本の鍵盤作品」を探して演目に加えるようにしているけれど、歴史が短い分、曲数も少ない。自分が書いているじゃないかと、ときどき言われる。ハタチから数えて、自分の創作体験は35年です。ともかく戦前の日本には、演奏にたえるピアノ曲がほとんどない。この条件を受け入れ、日本の芸能の歴史を引き継ぐ、自分の態度を考えたほうが賢いと思う。欧米化は否定できないことだから、自分に繰り込んでいく、そのやり方とか度合いを少し考える。

 景色にも音にも、質感、ざらつきがある。こういうものにいちいち過敏になってるのは生活しづらいから、ルーズでいい場合は手抜きをして、だらけたいと最近思う。

[2021年5月27日(木)/続きは後日]

351.
「新しい生活様式」

 ゆっとくけどさー、ネットラジオ毎日更新してるんですよ。応援してくださいー。

 作曲でも演奏でも、続けていないと衰える。ウクレレを、どんなに体調が悪くても毎日3分弾いてくださいと、高木ブーさんが教えていた。毎日机の前に座りなさい、詩も小説もなにも書けなくても、座ることだけはやり、手だけは動かしなさいと言っているのは、吉本隆明さん。坂田明さんが「毎日練習する」のは、ジャズサックス奏者だからどういう練習をするんだろう、とは思うけれど、坂田さんの言葉。

 ピアノを弾くとき、その曲と「じかに対話する」わけではない。曲を通じて原作者の世界を見る。なまの舞台では、観客が演奏者による音響、目に見える演奏者の身振りや会場の様子などを統合し、めいめいがそれを「使って」ものを思うという、言えば簡単なことですが、ほかならぬ演者が、そういう性質の演戯を観客に差し出すのは、思いのほか大変だし、準備もいる。 

 自分がいま見たい・聞きたい・体験したいものがやれると、胸がすく。もやもやした気持が晴れて、すっと、らくになる。好きな絵を見るとき、すっきりした容貌や声質の人に会うとき、天気がいいとき、などなど。これが、自分が演じる側、創る側にまわると、ことはそう簡単に運ばない。音楽は日常の一部だとジョン・ケージが言ったが、日常の中の音楽の位置づけは、すっと、すぐにできるというものではないようだ。少なくともぼくはそうです。いまのところ、そんなにスムーズに行ってない。いつまでもぐずぐず音楽やってないで時間で切り上げ、日常のほかの部分にも目を向けたほうがいい。

 幼稚園や小学生の頃は、大人が作った音楽を好きで聴いていた。40年かそれ以上経って、自分が作る側にまわってみると、どうできているかは一応わかる。ですがアートというのは、絵も音楽も文学も映画も、原因と結果がすぐにつながらないから面白い、というところは、説明がつかない。アートの制作の本質は小児性なのだそうで、制作は、その欲求を満たす行為だということになる。

 ここまで書いて、思いついて寺山修司が作った『草迷宮』を見てみた。45分ほどの短編映画で、確か1983年に六本木の俳優座のレイトショーで初めて見た。あれは追悼上映だったのかな。その後リバイバル上映を3回ぐらい見ている。さっき見たら、これは映像による詩なのだ。言語で作り、活字で広められる詩を、映像と音楽にまで拡大した。

 ネットラジオのピアノ配信はいわば成り行きで、コロナ騒ぎがなければ思いつかなかった。この6月から営業を再開した映画館の経営者が、娯楽もなければ庶民の心がすさんでくる、というようなことをネットのニュースで話していた。ぼくのネットラジオも、曲数をかせいで大文化を築こうなどと構えているわけではない。むしろ逆だろう。上昇志向だけでは長続きしない。ネットラジオばかりやっているわけでもないから、作曲をやっていた5月などは、作曲の邪魔にならないように「2分の曲」を選んで弾いたりしていた。でも、同じコンセプトでシリーズをやっていてもネタが尽きてくるから、テーマを変えながら、自分の興味が持つようなやり方で、まだやめる気はない。

 100年に一度のパンデミックで日常をひっかきまわされるということがあるのか、もともと部屋の整頓がだらしない癖が、輪をかけてだらしなくなり、はっきし言って荒れている。ネットラジオ配信のために、いろんなピアノ曲の楽譜を検索・ダウンロード・印刷した。1曲ごとにクリップで止めてあるが、山積みになって崩れかかっている。どうにかしたほうがいい。この1年で弾いた300曲をどうするか。ラモーの小品など、弾いてすぐ忘れている。忘れずに書いておきますが、ああいうのを弾くのは易しくないんです。それを2時間で録音しましたなんて、インチキではないかと自分に難癖をつけそうになるが、自分で自分をいじめすぎてるんでよしましょう。いつか舞台で弾くときはさらいなおします、でいいでしょう。300曲全部を一晩で演奏する機会などなかろう。暗譜はできるほうだが、300曲全部は覚えていないし、いつでも300曲弾けるような何でも屋にはたぶん、なれないんじゃないか。楽譜を全部持ち歩くにはかさばりすぎる。最近は画像ファイルにしてコンピュータに入れておくのかな。

 いつかも書いたと思うが、ネットラジオ用の曲はあんまり難しくないピアノ曲を選んでいるんですが、それでもサクサク要領よく弾くというわけにはいかない。世の中には楽譜を見ただけですぐ弾ける初見の能力を持つ人が大勢いるようですが、ぼくも譜読みは速いほうだが、とても彼らのようにはいかない。ロマンティックな超絶技巧というのは、調性機能にもとづく分散和音や音階をとても速く弾く技術が大半で、ぼくはそういう技術を多用するピアノ曲はあまり弾いていない。でも、見た目シンプルな曲に取りかかると、自分の演奏マナーを見つけるのに案外苦労する。うまい話はないですね。癒しのアダージョばかり弾いているわけにもいかないし…笑

 「新しい生活様式」と誰かが言っているが、つまるところ、ふつうの感じ、日常性だろう。コロナで、それが見えなくなった。だから改めて意識するようになったと言えるかもしれない。日常は一気に回復するものではなく、回復させるものとも違う。部屋掃除だって、ちょっとずつやっていけば、いずれきれいになる。

 うちにいて机やピアノに向かっている時間が長かったが、コロナでコンサートのステージ回数が減ったら、質も量も、なんだか、やればいいというものではないような時節です。量のほうはともかく、「質」、表現内容にもこうした社会の変化はかかわってくるとは、思っていなかった。

 6月に予定していたコンサートを11月に延ばし、1ヵ月半ぶりのリハーサルを数日前やってきた。全曲通ったが、本番は11月の下旬です。コンサートを20年やってきて、自分のライフワークになったが、コロナで音楽パフォーマンスの場がなくなると、準備や練習に打ち込むだけでは充足ができない自分がいることに気がついた。おかしな言い方だが、音楽をやらない必要、とでもいうのかな。音楽で月給をもらってる生活ではないから、絶対やらなきゃなんないものではない、やらなくていいんですよ、でもね、ということだろう。その「でもね」を満たすことを考え始めた。

 ぼくは衣食住が足りて、コロナで失業したわけではないが、「何をしている人間ですか?」という問いに直面したような現実に置かれているらしい。「らしい」とは煮え切らない言い方だが、このたびは音楽を創る場合の話をしています。たまたま、ぼくはもとから所属を持たずに過ごしてきて、音楽というものをやっている、というのが回答にはなる。ただ、実際のコンサート制作や、作曲とかピアノの内容と技術に踏み込むと、この時節に、本当に、何をしたら適当なのか、かなり迷う。そもそも、音楽の制作は、表現内容を具体的に詰める作業で、当然迷うわけだけれど、このたびはもっとどーんと迷う状況のようで、その日常の中での音楽の位置づけが問題になっているんだろう。

 コロナ騒ぎは仕方がないが、せめて我々は、わざわいを転じて福となす、といきたい。そうすれば着るものも食べるものもある。「災いを転じて服と茄子」。はっはっは。

[2021年6月29日(火)/続きは後日]

352.
「夏の交差点」

 一芸には秀でているが、ほかは全然ダメというのはよくない。何でもかんでもプロに任せて、自分も「何かのプロ」になれば、自分の分野では大きな顔ができるような社会機構があったら、それはちょっと考えものだ。思わず、そういいたくなりませんか。

 数年前、日本のある作家さんの詩を歌にしようと思ってご本人の事務所に連絡を取ったら、JASRAC (日本音楽著作権協会)に連絡を取ってくださいと言われたので、JASRAC に連絡したら、詩の利用に当たっては作家本人の承諾が必要ですと言われ、変なたらいまわしにされて噴飯ものの気分を味わったことがある。その作家さんの詩は確かに素晴らしい。でも、当事者同士の連絡もできないのでは、困ったことではないか。日本の有名人、えらい先生たちは、往々にしてこうなのだ。序列社会の内情はこんなことで、ぼくはそういう人たちのファンをやめることがある。えらい先生かもしれないが、尊敬したくなくなるというわけだ。

 音楽の先輩たちの仕事と、ぼくたち後輩のしごとのあいだには、性質の違いがよくある。本来両者はぶつからないはずだが、個人の主張が強いとぶつかってしまう。前の世代の音楽家とは考え方の前提が違うことがあり、お互いの主張を交換し合えたら素敵だろうなと思うが、現実はなかなかそうもいかない。

 どうも、ポストコロナの時代に入って、人類の全部のことではないにせよ、かなりいろんなジャンルにおいて、それまでとはやっぱり何かが違ってきていると思う。思うものの、どう違うのか言葉で示せと言われたら、まだはっきりつかめてはいない。でも作曲やピアノやコンサートをやったら、今までとは違うものになる。だからやってみる。そうやる以外、動きようがないでしょう。それを、新時代の来るべき形をこうだと決めて活動を始める人がいるらしいが、そんなのは「ウソ」だからやらないほうがいい。

 クリエイションは「楽しい」ことだと誰でも言う一時期があった。それは、楽しいに越したことはないけれど、この流行現象を疑問視したひとりに小椋佳さんがいる。小椋さんは、うたを作るとき、まことに七転八倒するそうです。そうやって何かができたときの喜びも大きいでしょうが、あるメロディを作る、歌わせる、歌う、ということは、見かけほど簡単ではない。そんなにホイホイと意のままに歌が作れるほうがおかしいのだろう。 

 オリンピックが始まり、コロナの「爆発的感染」が現実に起き、新聞の第1面はオリンピックのかがやかしさなんて全然伝えておらず、紙面も社会も混乱を極めている。いまの日本は分裂状況だと、はっきり確認したほうがいい。分裂状況では、一般市民の「良識」が成り立たない。これでは気分がいいわけがない。

 この稿はもっとはやくアップロードするつもりだったが、オリンピックとコロナの動向が毎日ころころ変わるのでは、文章がまとまらず、書き足したり削ったり、そうこうしているうちにまた緊急事態宣言が出ることになった。明日から8月だ。いくらフリーランスの職種と言ったって、ミュージシャンもずいぶん状況に翻弄されて困ってますよ。ぐだぐだ書かずにここらで出しましょう。

[2021年7月31日(土)/続きは後日]

353.
「ばらけ方について」
 

 音楽で言う調性の時代、機能和声、ヨーロッパの調性機能の時代は終わったなんてことは、20世紀よりも前から言われていたそうです。歴史上ではそうだった。その時点から和声の機能性が変質したことは、世界の音楽を聴けばわかるし、ヨーロッパを中心とした芸術音楽の世界では、こんな理解は常識になっている。

 それで、このたびコロナ災禍が起きて、人間の文化の見直しが行われており、それがいちばん顕著なのが食文化で、外出自粛で好きなように外で飲み食いできなくて、飲食のスタイルが変わるというように、日常生活そのものが変化してきている。舞台芸術だって自粛や時短や規模縮小の対象になっており、いきおい、その内容も変わってくる。受け取り方と形式は、今後、変わるでしょうね。

 どうでもいいような映画とか絵や音楽も含め、その見物はいくらかはヒマつぶしだったり、無駄遣いだったりしたわけですが、その「ヒマ」とか「無駄」というものが日常から消えてしまったら、そこらに転がっているはずのヒマや無駄を、骨を折って意識化しなければならない。これは、いつもなら画家や戯曲作家やミュージシャンがやることで、たいへん特殊な作業であって、普通一般に、こんなことはやらないし、できない。このたびの路上飲みや、コロナのある種のマンネリ化に原因する危機感の乏しさは、「ヒマ」や「無駄」を想像して過ごす気持が持てない人たちが必然的に選ぶ行動なんでしょう。

 ぼくは路上飲みをやるほどの呑兵衛ではないし、コロナ感染の急増で危機感は持つけど、在宅作業なので三密は避けられる。でも、世の中の報道がコロナとオリンピックと台風の3つの方向に分裂して、わけのわからない情勢では、どうも落ち着かなくて困る。この夏はそんな風に過ぎていき、今年いっぱいはまだコロナのことを言っているだろう。希望的観測では、1年後にはパンデミックは終わっているが、いまはまだオリンピックが終わったばかりで、この夏の見通しがはっきりしない。

(というようなことをお盆休み前に書いていたら、ちょうどお盆に重なって感染爆発が起きてしまった。この続きを8月のいつ書き加えたか、いちいち覚えていませんが、現在感染爆発期間中です。8月28日記す。)

 イヴェント自粛でコンサートの回数が減り、ネットラジオの配信をするようになったが、例えばヴィラロボスのピアノ曲『嘆きのワルツ』なんかは、曲の良し悪しがどうこうより、現在のコロナ災禍に鑑みて、弾こうとしても、ついばかばかしくなってくる。みなさんが嘆いているときに、なにが嘆きのワルツだ、という気分になりがちで、ヤル気が減衰してしまう。シューベルトの『軍隊行進曲』も、時節柄、どうかなあと立ち止まってしまった。

 いま社会で問題になっている「たらい回し」を、「ダライ・ラマ氏」と間違えないほうが賢い(何を言っているのだろうね)。

 少なくとも音楽の世界では、調性機能の階層構造は、以前よりもさらに崩れていくのじゃなかろうかという気がします。ぼくには欧米の名曲崇拝がこれからも変わらず継続はしないような気がする。ぼくは音楽学のほうは全然知りません。どう変わるかなんて、論証できないけれど、音楽のプロと少数のファンを除いて、世界の現実は、無調音楽をあまり理解せず、調性音楽ばかりを理解してきた。この現実が変わるんじゃないですかね。

 一例として、ピアノで、多量の音を短い時間のうちにさばく作業効率を求めれば、どの音も均一になり、やせていく。そういうことが近代ヨーロッパの音楽技術のある一面だった可能性があり、そうでなければ実現できない、傑作を含む名曲が大量に書かれ、世界中に伝播した、という歴史的事実は、いまさら否定してみようもない既成事実になっちゃっている。

 経験則に従えば、音質のばらつきを排除しないで、むしろ繰り込んだほうが楽器がよく鳴り、音楽も面白くなる。どうもそうみたい。後世のぼくたちは、近代を否定するのではなく、その遺産は受け入れながら、いままで行われていなかったことを試してみる、それだけの発想法が持てるか持てないか。あるいは一歩進んで、ばらつきを含んだ演奏技術が持てるかどうか。

 ぼくは自分の経験に従って、ばらつきをピアノ演奏に繰り入れると、ミスタッチやテンポの揺れが出る場合があることを知っています。自分がそういう「不完全な」演奏をやったことがあるんだけど、それは音楽のコミュニケーションのキズにはならない、というのも、経験の教えるところです。ぼくたちは間違った演奏を目指すのではない。あるヴィジョンを求めてパフォーマンスをやるけれど、100パーセント成功というのはない。それで、仕損じたところを「あちゃー」とも思うわけですよ。そういう現実の性格がある。

 現実には、そんな均一などなく、楽器の演奏だって、各音の「粒をそろえて」弾くピアノ演奏法は、たいへん人工的な訓練の産物だ。楽器の性能の発達や平均律の考案というように、その人工的な訓練がなめらかに歌う演奏法を志向するようになったが、こんどはその「歌」じたいのほうが均一化からそれてくる。これはいわゆるテンポ・ルバートとして定着したが、もうちょっと別な発想をすると、均一化しないということは、リズムが楽譜通りにはならず、右手と左手も別々に揺らぎ、同じ8分音符の長さを持つ各音のそれぞれが、実際の演奏では違う長さを持つということに他ならない。それで、あくまでシステマティックな発想の中で、変化音や、微分音、変拍子まで繰り込むようになり、以後すでに半世紀以上経過している。

 だから問題はばらつきの許容度ということになる。それは、まあこの程度の精度で充分だろうというような、なんだか、言葉にすればのんべんだらりと、締まりなく自己や他己の不正確を「許す」、寛大になるというのは、ある意味だらしのない、それでよければかまわないじゃないかというような、だから用事が足りればさしあたりいいんだけど、こういう、ふだんはだらしなくやり過ごしていることを、いまは意識化しなければならない。めんどうなことになったもんですね。

 コロナ感染爆発のいま、日常の様子がいつもと違うのは、おそらく「欠如」ということが前面に出てきていることだろう。イヴェントはできないし、三密を避け、企業は成り立たず、あるいは悲鳴を上げ、というように、いつもはあたりまえの日常の要素がぽろぽろ欠けた街々を往来していると、ぼんやりした空疎な感覚が無視できない、というあたりに、ぼくたちはいるようだ。その欠如を何かで埋める心のしごとは、「芸術のプロ」がいくらがなり立ててもたぶん効果がないだろう。もっと個のいしづえに訴えるものがあったほうがいい。

[2021年8月28日(土)/続きは後日]

354.
「ばらけ方について(2)」

 ピアノの練習の必要がある限り、毎日一定時間、ピアノを弾いている。インターネットラジオではわりあいやさしいピアノ曲を選んで、練習段階で音の揺らぎを繰り込んで、不均一さを取り入れた演奏マナーで弾いてみようと思い、3分か5分の古典曲で試してみている。現代曲は、この揺らぎはあらかじめ楽譜に書いてある場合があり、共感しやすいが、でも不均一な演奏をやろうと思ったら、古典曲と変わらない。(コロナのおうち時間に聴いてもらう番組として始めた配信、なにも、無理に続けるために続けるつもりもないが、習い性になって、1年は過ぎたが、まあもうちょっと続けるか、という気でいる。ぼくに合っていないピアノ曲は、従って弾いていない。)

 それで、この揺らぎには幅があって、ある範囲で揺らいでいるようにすれば面白いんだけど、「遊ぶのは難しい」(高橋源一郎氏)。揺らぎは、遊びなんですが、そうやすやすと遊べないんですよ。けん玉やヨーヨーが難しいのと似ているところがある。

 揺らぎの幅を心得て、楽譜から脱線しない範囲で揺らぐということを試してみている。これは「下手」とは違うが、ぼくには、たとえばバッハの長い組曲や変奏曲のようなものは、まだ弾きとおせないようです。アバウトな感覚がわかればいいのだけれど、なかなかそういきません。もっとも、気にしているのは本人だけ、という客観的事実もあるようです。

 でもやはり、独りよがりになる危険性はある。思春期に、ピアノは「粒をそろえて」弾くものだと教師はピアノ言うが、それではどうしても弾きこなせなかった何曲かは、40年たったいまでも未解決のままで、どうにかしたい。永年それを保留にしてきたのは、不ぞろいに弾くにも技術が必要で、それだけの技術が身につかなかったことと、不ぞろいに弾けば当然見かけは下手に聴こえるから、遠慮していた。それを、自分なりにどうにかこなしてみようかと、きばっているが、さっきも書いたとおり、いきなり大曲に取り組むのは避けて、小さいものから試している。

 寝転んでスマホばかり見ていたが、本でも読もうかという気分になった。今年は夏になる前に、ぼくと同世代の作家さんの小説をよく読んだが、6月ぐらいから、コロナの緊急事態と感染爆発ですっかり引っ掻き回され、本なんか読んでる気分ではなかった。8月半ばを過ぎてワクチン接種を2回やり、日ごとに感染者数が減ってきて、まだ終わってないんだよぇと思いつつも、めんどくささを引きずりながら徐々に活動再開し始めています。今後なんか動きがあったらそのとき考えよう。

 ちょうど感染爆発のころ、ピアノ曲を作曲して、ウェブ上で公開した。なんだか、シンプルに書くつもりがやたら跳躍の多い多声法音楽になり、曲調がなんかへんてこな感じなんだが、どうだろうかと、女友達に聴いてもらったら、「しっとりしていていい」のだそうです。そういうもんなのかね。

 秋の三連休最終日、久しぶりによく晴れたから、好物のキーマカレー弁当を食べに近所のモール街へ行き、戸外のベンチでランチしたら、ばてたらしい。翌日の今日、涼しい部屋に避難して、やれることを控えめに片付けている。ひとつのピアノ曲の「意味」というのは、それを弾くピアニストとのあいだに成り立っている何かである。ひとことで言えばそうなるが、この「意味」について先輩がたから学んだのは、30才を過ぎてからで、具体的な技術を考え始めたのは45才ぐらいのときだ。コミュニケーションの中に「意味」がある。

 コロナで世界の経済は大打撃を受け、立ち直るのに時間がかかるといわれている。ぼくたちのように音楽をやっている人間から見ると、精神文化の停滞や喪失が目立つ。これはぼくの場合なのだけれど、どうも「遊び方」の形式・マナーの確認をやったほうがよさそうだという方向が徐々に見えてきた。たぶんこの方向でいいような気がするが、やみくもに乱痴気騒ぎをやればいいものでもなく、遊びひとつをとっても、いちいち考え込むような日常だ。今までとまったく違った文化形態でなくても、社会の構成員としての動き方があるはずで、それは、なんか、徐々に見えてくる、という気がする。

 …なんて書いていたけれど、実際にぼくたちがやることは、たとえば、シンプルに街を歩くことだったりする。今までの経緯から推して、外出の頻度は落ちるにしても、行動の型そのものが変わるというのではない。環境も経済も変わりました、その風景の中を歩く、ということだろう。コロナ、コロナで1年半以上も落ち着かない日常を送って、8月に感染爆発が起きたあと、ワクチン接種などで感染拡大が、その後の1ヶ月でパタッと減り、という変化の中で、向こうから訴えてくるのがあったら、そっちへなびいてみる。動きを作るというより、ある流れに乗ってみる。

 次のコンサートでやる曲を抱えたまま、正月から待っている。そのうちに共感が薄れてマンネリ化したり、企画じたいが消えたりしないかと、ひやひやする日もあった。6月に予定していた本番を11月末に延期して、本番そのものはやることにして準備中です。これで政府がロックダウンをやろうといい始めたら、そのとき考えます。

[2021年9月28日(火)/続きは後日]

355.
「日にち薬」

 コロナで延期になった今年6月のコンサートは、まだ終わっていない。感染爆発の夏からしばらく、先の見通しが立たないから、どの程度準備すればいいのか、練習量がわからなくなった。まあこの程度やればよいだろうと思うところにしたがって準備している。ほかにもやることがあるから、このコンサートだけ考えているわけにもいかず、ややこしい思いだった。もてあます時間のすきまができて、なんとなくコロナを気にしているような、所在無い時間が多かった。夏以降、感染が激減したらしたで、どういう時間のすごし方をしたらいいのかがわからず、まあこれならという自分のリズムで過ごしてみることにした。

 今日のリハーサルは夜までかかったので、久しぶりに夜汽車に乗って帰ってきた。1年半余に及ぶコロナの自粛生活は、人間の生活とは言えないようなものだった。まだコロナは続いていて、第6波を懸念する声があるが、ともかく次の現実を迎え入れなければならない。久しぶりに夜汽車に乗って、車内の人やものが、ごく普通のことなのに、なにかとてもいいものに思われた。そういう日常は、ひとの力で取り戻すというより、戻ってくるものだという気がする。

 ぼくは日常生活の中でのピアノ演奏の、過剰に肥大しない位置づけを求めていたけれど、ピアノの技術的には、言うだけならいちおう簡単で、何のことはない、軽く弾くことだと気づいた。しかし、言うは易しで、その軽く弾くということは、じつは確実な技術に裏打ちされたものなんですが、音に深刻な意味を求めて、思わず鍵盤をぶっ叩くということが、相当の上級者でも、ままある。そんなことをしたら指もピアノも壊れるが、音楽への情熱というものを、鍵盤をぶっ叩くことだと取り違えやすい。そうではなくて、耳と指の勘のトレーニングが大事なのです。

 ネットラジオの配信を続けて、毎日1曲、短いもので2分、長い曲は12分ぐらいのアーカイブを録音する作業が日課になったけれど、ぼくは何でも屋さんになるつもりはないから、自分では弾かない曲のほうが多い。自作自演専科になる気はないし、ソナタや組曲の抜粋だったらいくらでもあるが、ぼくはやらない。それと、特に西ヨーロッパの伝統音楽だけではなく、南半球の、知られていなかった曲も含めて、選択基準が以前と変わってきているようだ。確かにぼくたちは、西ヨーロッパの音楽伝統から多くのものを受け継いだ。それは受け入れ、認めながら、自分たちの音楽をやる段階だろう。

 ともかくコロナ騒ぎでごたごたしたあとだから、状況を整理してわかりやすくしたいという気持が強い。でも、自分で状況を整理しようと思ってもそうもいかず、宙に舞ったホコリが徐々に収まるように、状況がだんだん鎮まるまで、ある程度は時間の問題らしい。ぼくたちは「あたりまえの日常」を過ごしたいのに、そのあたりまえの日常のヴィジョンが描けず、したがって、行動の型がわからず、探しているのではないか。

 その行動の型を、こうだと決めてそのとおりに動いてみるより、ちょっとじたばたあがくのは仕方がないが、いくつか手を試しているうちに、ある型に沿って動けるようになってくるらしい。おうち生活と言われれば、日光を浴びるのも遠慮しがちだった。ともかくなにかに気兼ねして行動を制限するのは、ちょっとずつやめる頃合だろう。妙な言い方だが、コロナが収まってきて、ちょっとひまになった。ひまはひまで空けておく、ということも、やってみたほうがいいような気がしている。

 なにか生産的な営みのあととは違って、コロナがいちおう去ったあと、あれはなんだったんだという虚無感があるのはしょうがないだろう。ぼくたちが2年近く相手取っているのは、世界規模の病気なのだ。そういうものは、日にち薬で癒えて来るように、まあしばらく待ってみるのも手かもしれない。それにしても疲れる現実だねと、小さい声で付け足しておきます。

 そうそう、コンサートの宣伝ページはこちらです。
 ネットラジオもよろしく!

[2021年10月31日(日)/続きは後日]

356.
「ポストコロナのコンサート」

 コロナのせいで6月から延期したコンサートを終えたら、1年も続いた練習の必要がなくなり、なんだかスカスカする。周知のとおり、夏に感染爆発だったコロナの陽性者数が秋にはいきなり減り始め、東京都では、多かったときで1日5000人を数えた新規感染者が10月には二桁になり、イヴェント自粛も、飲食店の時短も解除になったが、予想外の唐突な展開に、世の中の空気が読めないまま迎えたコンサートだった。だからかなり神経質になって本番に臨んだんですが、甲斐あったか、しっかり通りました。

 ぼくは自分がコロナ騒動に振り回されているとは思わないが、どうも世の中がおかしいと、自分の気持がちぐはぐになる。たぶんそのせいで、技術ミスは1ヵ所あった。聴いててわからん程度だし、どんな環境でも演奏ミスは出るものですが、そんなこと言ったって、世の中の動向を無視して音楽だけ技術で通そうと思ったって、通らないよ。

 ミスについて、ひとこと言いたい。そのミスで社会に甚大な被害が出たという場合は別として、なにか小さな間違いをやらかしたとき、ぼくは「照れ」を禁じえないのです。「照れ笑い」ですらある。あれを不真面目だとか、ふざけているとか言って、厳しく戒める教育があるが、よくないですよ。「笑ってんじゃねえよ」という声がそこかしこから聞こえるようだ。言われたほうはいじけて、言った人に敵意を抱くようになる。座が硬直するだけだ。もう少しましな対処法はありませんか。

 逆もある。ほめられたときの照れ笑いとか、「嬉し恥ずかし」とか。これも「堂々と喜びなさい」なんて言う人がいるが、まあ…。ぼくは自分では、そういう栄誉をすなおに受け入れたいと思うのは山々ながら、ほとんどの場合、なにかニヤニヤして、穴あらば入りたく、照れくさく、人がいないところに行ってきゃーと騒いだり、誰もいじめないから公然ときゃーしなさい、それも許されるとは思うのですが、たいてい、こんなことでいいのだろうか、なんて思いますね。

 あたりまえのような演奏風景が写っている記録映像が残った。演者のぼくは、もうパンデミックにはうんざりだと思っていたし、それは観客席の皆さんもたぶん同じだったろう。前向きな活気よりは、コンサートが戻ってきたという安心感のほうが強かったような気がするが、ちがいますか。

 コンサートのための毎日の練習は、必要以上やらないようにした。日常を超える量や質の音楽なんかない。国内ではいちおうコロナは収まってきたから、来年からコンサートはいつもどおりできるだろう。その第1弾は先日、成功しました、盛況だったよと、思っていていいんだろう。だからそう思っていいことにして、ただいまは疲れ休めでだらだらすごしています。

 オミクロン株の話で、また騒然としているが、基本的に、もう、おうち生活の時期ではないわけで、少なくとも国内ではお外生活を志向して、外に出てみる。考えようによっては、今のポストコロナの社会は、外に出る程度をわきまえる、いいきっかけじゃないのか、いっそ状況を利用してやろうかと思う。それ以上のことはわからない。個人の手に負える問題ではなく、それぞれができることをやっているうちに、なんとかなるんじゃないのか。

 ネットラジオもよろしくご声援ください。

[2021年11月30日(火)/続きは後日]

357.
「ウィズコロナの日常、素描」

 時間が空いて部屋でごろごろしているときがある。寝転んでいると、ふと、近所の交差点の周りに警察官が3人ばかり立って警備している情景が見えてくる。あるいは、右側から誰かの手が伸びて、ぼくの目の前で水仕事をしている。そのうちに、カクンと体の関節がはずれたような、階段を一段滑り落ちるような感覚を覚え、ぶひっと自分のいびきが聞こえ、今まで見ていた情景は忘れている。たぶん夢を見ている。レム睡眠なのだろう。

 ここしばらく、日本は寒波だそうです。空が曇ると、アタマのパフォーマンスが落ちる。ぼくはこの、晴れでもないが雨が降らないというような、中間の天気が大嫌いなだけでなく、心身が活発でなくなって、はなはだ能率が悪い。これが、気温が低くても天気がいいと、愚図っていた気持が眼に見えて上向いてくる。

 こないだ、表参道の岡本太郎記念館に出かけたら、こんなところにも人がたくさんいたが、着く途中の舗道に行列ができていた。演劇公演かね、と思ってよく見たら、銕仙会(てっせんかい、観世流の能楽堂)の前だった。毎週土曜の午後2時には、いつも能楽ファンのかたがたが行列を作るのかもしれないが、能舞台だってコロナ騒動で公演を自粛していたはずだ。うちの近所(さいたま市)で毎年5月にやる大宮薪能は、去年も今年も中止だった。

 こういう催し物にでかけるゆとりも、催し物そのものもほぼ2年、なかったあと、コロナ自粛が一応終わった今は、みんなイヴェントに押しかけるのも無理はない。なにかの形でカタルシスは必要なんであって、おうち生活を強いられて、おそとでそういうことをやる空間が奪われ、やっと「もとに戻った」のではなく、演者も観客も、次の現実を歩き始めたということなんだろう。

 このたびは世界中で起きた流行病だから、どこへ逃げてみようもないし、現実逃避ができない。マスメディアは酒の飲みすぎを注意警告してましたが、文化に現実逃避っていう逃げ方もあるが、イヴェント開催の自粛なんて現実があったんでは、それもできなかったですよ。おうち生活でボケないために、手指を動かしなさい、ペーパークラフトなんかいいですよと言われ、ぼくもうちにいてはペーパークラフトやったんだけど、おうち生活は一応終わった、さあお外ですとなると、つくりかけのペーパークラフトの続きをおうちでやるのは、なんだか辛気くさくて、面倒でもあり、ここしばらくほったらかしてある。

 と書いて、ちょっと手をつけてみた。11月下旬のコンサートの前後は、こういう凝った趣味は、意識的に遠ざけていた。1本の柱を切り出して取り付けるのに1時間弱かかる、というたぐいの、難易度が高いドイツの製品で、どこから組み立てるかは自分でしばらく考えるという、一種の立体パズルです。やるんだったら、まとまった時間と手間ひまかける気持のゆとりが必要なんだ。それで、これには〆切なんぞはないが、気をつけてないと紙を裁断するカッターで手を切らないとも限らず、酔っ払ってるときにはやらないほうがいい。それと、少なくとも座って、机に向かう趣味です。寝転んでいてはできない。案外こういうことが心身にはいい刺激になる可能性はありそうだ。

 スマホは週刊誌代わりと思って眺めていたが、飽きてきた。ネタ切れということがあるのか、YouTube は同じ音楽ばかり繰り返しているし、料理も猫も2年も見ていれば、目新しくなくなってくる。ジグソーパズルのゲームをちょっとやってみた。150ピースぐらいでも2時間かかる。暇つぶしにはいいけれど、画面を触っている指を酷使して痛める可能性がある。

 22年稼動していた作業部屋のエアコンがおかしくなり、パワーを最強にして温度を29度に設定しても、18畳の空間を充分暖めてくれないので、毛布をかぶっていたが、しごとにならないからつけかえた。幸い、寒波襲来より早かった。

 しかし、テレビしかり、アートしかり、飽きられてしまってはどうしようもない。そうかといってアイデア創作や一発ネタ、やったもん勝ちなんて、だめですよ。わたくすはうすのろだから(笑 何を言う?)、世の中の流行についていけませんし、流行を作る才覚もない。自分のやっていることがみんなの共振を呼ぶようなものだったら面白いな、ぐらいに考えているけれど、ぼくの作曲も演奏も、大勢を納得させるうまい飯のようなものかどうかは、わからない。ただ、アートでのコミュニケーションの性質を調べたい、という1本柱で、この10年ほどはやってきたらしい。

 感染爆発以後、なんか世の中の流れに変化があるように見える。それは漠然とした皮膚感覚で、ひとくちにはいえない。コロナのせいで「普通の日常」が混乱したのは事実なんですが、これを念頭において、生活環境を見つめなおすと言っても、戸惑うのが当たり前だろう。本当は、社会でもアートでも、作るというより「成る」もので、ひとの意識はその準備をする。このたびは、「新しい生活様式」と言って、いつもの順番を逆にして、意識的に日常を作る努力をするなんて、こーんな、必要があるにしても、ちょっとうざいね。なにをするにも、いちいちすっと通らない。でも「復興」というのは、そういう気の重さを引き受けることなのか。

 一応のところ、自分の日常、自分の生活、自分の仕事を作ればいいということにはなるよ。でも、こんなインスタントな要約どおり現実が運ぶわけではないだろう。心構えとして、こういうことはどっちかというと気楽に、気長にやるもんだと教わりました。あんまり深刻に毎日過ごしたくないし(笑)、遊ぶゆとりぐらいとっておく、と書いておこう。

 年末に、もっと景気のいいことを書きたいところですが、ともかくコロナは国内では終息傾向にあるから、現状維持で来年も続きを営んでまいりましょう。ネットラジオもよろしくご声援ください。

[2021年12月28日(火)/続きは後日]

358.
「2022年になりました」

 迎春。今年もよろしくお引き回しください。皆様のご健勝をお祈りします。

 この写真はさいたま市氷川神社の裏手にある大宮公園の、元日の午前中の風景です。例年元日の午前中は人出が少ないので、三密が避けられると思って出かけてみました。氷川神社もこの時間(午前10時30分ごろ)は待たずに参拝ができる程度の人出でした。ぼちぼち動いてまいりましょう。

[2022年1月1日(土)/続きは後日]

359.
「そろりそろりと」

 部屋が散らかっているんで、少し整理している。ネットラジオで弾く曲のほとんどはネット上からダウンロードしてプリントした楽譜を使っているが、プリントしたけど使わなかった曲があり、床に散乱して邪魔である。紙の無駄使いですが、一度も使わなかったのは捨てることにした。

 作曲は、そこに一極集中することをやめ、書けなかったら机から離れ、ほかのことをやり、ほとぼりが冷めたころ机に戻る。そのうち1ページ埋まっている。ピアノもできればそうしたい。とりあえず、ぼくはロマン派の超絶技巧曲のような、練習を毎日何時間もやる必要のある曲は、ここしばらく弾いていない。それでも日に2時間はピアノを弾いている。どんなに単純に見える曲でも、練習しないというわけには行かない。

 なにか簡潔によくまとまっているものを見る・音を聴く、すると、胸のつかえがさっと下りて、気が晴れる。スマホで毎日のニュースを拾っているが、なんだか、コロナ・パンデミックが続く中、ごたごたよくわからない情報源のゴミ溜めになっちゃってるんじゃないんですか。

 かれこれ10年ほど前、作曲やピアノを一生懸命やれば、音楽が自分の日常になると思って励んでたんだけど、ははは、そういうもんでもなさそうだね。これは、それじゃあ手を抜きなさいということではない。ふざけながら音楽の制作はできないが、音楽が成り立つために日常のほかの活動を排斥してて、いいことはないというところを強調したい。逆だよ、いらないこともいるんですよ。

 たまたまぼくは、この自分の日常の覚醒と、コロナ・パンデミックが重なって、自分のことも社会のことも、生活のスタイルを考えることになった。自分の生活について言えば、たとえばピアノの練習は従来みたいに長時間やらなくていいというような、変化を受け入れる。そうすると、なんだか膨大なひまができた。

 昼間からだらしなく遊んでていいんですか、という良心の咎めもあって、昼間は作曲とピアノがメインの生活が長かったのが、生活のリズムが変わってきた。その日の作業が終わったら、あとは趣味でも息抜きでも好きにしていいことにしてみよう。ひまにするのに、挑まなくたっていいじゃないか、ということになる。

 コロナ第6波と関係があることかどうかはわからないが、うちの近所はやけに静かだ。別に文句をつけるには当たらないから、この静けさを受け入れてみようという気持になっている。いまのところ、静かになったのは近所の環境なのか、ぼくの頭がすっきりまとまってきたのか、ちょっと区別がつかない。自他共に、がなりたてているものは見当たらないから、不必要に悩まないようにすごして、コロナはうっとうしいなあと思うが、これはもうしょうがなくてさあ。

 去年はコロナでイヴェント自粛でも、作曲と、ピアノの稽古は続けていた。感染爆発の夏にピアノ曲をひとつ書いて、ネットラジオで放送初演した(『夜のしじまに』)。もう1曲、合奏曲を書いたが、成り立っているかどうか、さすがに時勢の混乱の中で判断がわからなかったから、手元に置いておいた。それをここ数日出してきて、見直して、使えるようだから手を入れている。脚も入れている(こら!)。

 ペーパークラフトが趣味です。1992年にケルン大聖堂の紙模型を作ったときは、確か3ヶ月ほどかかった。爾来30年、いまこれを書いているぼくのすぐ脇に置いてあります。紙だからちょっとずつ傷んでくるが、なんなら接着剤を吹き付けて補強すれば、保存は大丈夫なんじゃないか。ただいま施工中のモデルも、去年の11月に買って、たぶん完成は2月ごろだと思う。

 スマホで YouTube を見てたら、「理想の彼女を合成しませんか?」という、そういうゲームか何かのコマーシャルが流れてきた。それで、音楽にもこの種の発想はあって、至高の美が欲しいような、理想像に対する憧れはぼくにもあります。でも昨日今日、2分ほどの、スペインの曲をピアノで弾くのに合計4時間もすったもんだの挙句、結局その理想像というのは現実には存在しない、ということがわかったというわけです。そっちを目指して苦労してどうにか成り立ったと思えば、ほかで落っこちるんです。どうもそうらしいや。この種の発想は小説の世界なら形而上学だから(ぼくは小説を書いたことがないから、高橋源一郎氏や三島由紀夫氏、エルネスト・サバト氏に倣えば)それを表現することは可能ですが、芝居や音楽のように人間のパフォーマンスの場合は、観念的にはありえても、技術的には成立しない。現実の物理はそうなっているということだろう。

   今日は1月19日水曜日です。コロナ感染者が激増している最中だから、いろんな判断を保留して、「待ち」の状態です。なんだか状況から置いてけぼりを食らったようで、正直あまり面白くない。このウィズコロナの初期の状況は、道に迷ったときによく似ている。行動の型ができてないから、「濡れた海水パンツを脱ぐような」(安部公房による)もどかしさがべたべたついて回っている。ウィズコロナと言うとおり、コロナを避ける選択はもうないから、少々かったるい現実だが、その日常を過ごすスタイルをつくる必要がある。やれることをやっておきましょう。ネットラジオも引き続きよろしくご声援ください。

[2022年1月19日(水)/続きは後日]

360.
「見ている時間」

 ほぼ書き終えた曲のタイトルを考えるつもりでごろんと横になり、ぐーすーぴーと居眠りを30分。ひとつの曲の形が、その曲を作った人の心を表しているとすれば、人の心がある以上、音楽の創作は続く、これはいま思いついたことですが、わりあいわかりやすい理解のしかただと思うから書いておく。ただしそのときどきの流行、トレンドがあるから、音楽の形は時代ごとに変わる。

 去年夏のコロナ感染爆発以降、ときどき書いて取っておいたメモが7ページになったので、これを室内楽編成に編曲した。打楽器を入れたいが、楽器の種類と、どういうリズムで叩くか、決めかねて、ちょっと待っている。編曲の作業じたいは終わって、やることがないと手持ち無沙汰に思えるが、指でもくわえるように趣味をぼちぼちいじりながら、待っている。

 「のぞきもねえ」「バーもねえ」「車もそれほど走ってねえ」、『おら東京さ行くだ』ではないが、コロナ・パンデミックでイヴェント自粛で「文化がねえ」は現実になってしまった。それでその、あるとき気づいたが、「つっかえ棒」(文化の比喩です)のようなものがあると、ずいぶん気が晴れる。それはできればオンラインではなくてライヴのものがいい。少なくとも形があるものがいい。だから「心のよりどころとしての道具」(久世健二)は、ないとひどく不便である。

 そういうものにかまけている時間が無駄に見えてきたら、その無駄を気持の中に繰り入れてみようかな。

 ある一定時間、絵なら絵を見ている時間がある。それは何もしていないのではなく、何かはやっているんですが、たとえばその絵が砂糖でできている菓子か、本物のステーキで、食べてしまえばなくなるものなら、文化一般は消費財だということになるが、こんな定義が粗雑過ぎ、ばかげていることは、中学生でもわかるはずだ。少なくともぼくは中学の社会科で「財」と「サーヴィス」と2種類あることを教わりましたよ。凡人芸術の定義に従えば、文化記号は壁の落書きまでを含む。個人的な言語行為もここに入れていい(ソシュールが言う「パロール」は、たぶんこれだろう)。文化というのはそのへんに転がっている石ころまで含めて言っていることで、どっかの先生が思っているようなご立派な芸術だけではない。コロナ・パンデミックで、このあたりを検討したり、再確認したりする必要ができたように思いますが、どうですか。

 コロナ第6波がおさまってきて、なんだかもう連日の報道には飽きたし、おうち生活もいい加減にして先へ進みたい。でもみんな言っているように、2年間で受けたダメージの恢復にはかなり時間もかかるし、庶民の生活のスタイルも、コロナ以前とは変わってくるだろう。海の向こうでプロパガンダをやっている人たちは、人類有史以来の文化の蓄積をみくびらないほうがいいですよ。

 人間誰しも毎日行う耳掃除や鼻掃除で、特に鼻掃除で、ちりがみで洟を丹念に引き出すと、鼻腔の奥に長くつながる一筋の鼻水を見出したときの喜びは、えもいわれぬものがある。鼻水をちり紙でそーっと、ずるずる引き出す爽快感は、なものにも代えがたい。

 ひまだからいつも何かして空き時間に詰め込んでいるってこともないだろう。いったん、その「ひま」を有効活用なんかして、ぼーっとする時間をなくすと、いつもがちゃがちゃ何かをしていることに慣れてしまう。「貧乏性」と言うのだそうな。また、いま現在に眼を向けず、なんだか知らないが明日の朝のことで悩んでいるのを「短気は損気」と言い、こういうのを「備えあれば憂いなし」とは言わないらしい。明日の朝のために、今晩から朝食を備えろというわけだろうか。

 人間形成とは、人間は京成線に乗るということです。たまには成田空港に行くでしょう。

 音楽は言語ではない。しかし、聴き手を含め、音楽の担い手はちゃんとした言語感覚が必要だ。それがないと、音楽を聴いたあとの感動の軸がずれる。ここは問題をしっかり見てください。「非言語コミュニケーション」の能力を持とうと思ったら、非言語コミュニケーションをやってみたほうがいいという、表向きは当たり前の話だけど、当節、コミュニケーションの問題は大事だから、ここでも確認しておきましょう。

 韓国・ソウルのミョンドン界隈にはぼくも行ったことがあるが、あそこがゴーストタウンになったらしい。日本にいてそのへんの繁華街を歩くと、なんだか空虚な雰囲気なのは、たぶん韓国と同じ事情なんだろうと思う。こういうのは、誰かの努力で立て直せるもんじゃないだろうけれど、社会の構成員の一人ひとりが「気を取り直して」やれることをやっていけば、いずれ何とかなるような種類の問題なんだろうと、ここに書いてみる。声をかけていれば、その声は人の暗在系に働きかけるはず。そう信じてみませんか。

 ネットラジオも引き続きよろしくご声援ください。

[2022年2月28日(月)/続きは後日]

361.
「コロナと音楽と戦争と」

 うちの近所が戦争の攻撃に遭っているわけではないが、今はいろんなことを企てるには環境が悪い。戦争と聞いたとき、ぼくはとっさに「外に出よう」と思った。もちろん根拠はない。なぜかそう思いました。街のいちおうの静けさ、人々の見た目のあわただしさは、コロナ第6波の終息で「おさまった」おだやかさのようでいて、どこか活気がない。行動しようと思うたびに、いちいち気持がまとまりにくく、どうしてか知らないが、自分がどうしたいか、考えをまとめるのにやたらに時間を食う。それはたぶん、「戦争だというのに、こんなことをしていていいのだろうか」という、気兼ねのようなものがかなり判断を邪魔しているのだろう。でも、そんなことを言ったって、どうしてみようもない。

 世の中がまとまらないんだから、自分ひとりだけまとめようと思うのは無理で、気持がまとまらないなりに過ごしている。それでどうにかなっているから、たぶんこれでいいんだろう。そのうちまとまってくるんだろう。衣食住が足りて、趣味の時間やヒマもあるし、身の危険がないなら、こんな幸福はない、何を気に病んでいるのか、感謝しなさいと思ってみる。小説ぐらい読もうかという気分になった。

 コロナ自粛の2年のあいだ、ネット上でいろんな作曲家、いろんなピアノ曲と出会った。興味を持ったものは楽譜を探して自分で弾いている。それでほぼ毎日のように、ネットラジオのための自宅録音をやってますが、ひとつの録音結果が一貫して「均一に」なんかなるわけがないんだ。そういうものがもしあったとしたら、不自然というもので、ぼくはそういうのはいやなんですよ。

 それで、ピアノ演奏は音の長さや音質がそもそもはじめから「不均一」なものなんじゃないかと思って、簡単な曲を弾いて試していた。一例として、スカルラッティのソナタを出してみる。いわゆる近代ピアノ奏法でスカルラッティのソナタをピアノで弾いて、まず気づくのは、ピアノの音色がやかましいという問題だ。それは極論すれば楽器が鳴ってないのにムリに弾いてるんで、必然的に筋肉の強化訓練みたいなことを要求してくる、そしてそういう機械的な練習が近代ピアノ奏法の一面だったんだけど、これどっかおかしくない?楽器が自然に鳴るような奏法を採用すると、音価や音色の「均一化」は起きない、ということらしいです。近代ピアノ奏法でこの問題に取り組むと、非常に特殊なある演奏マナーを採ることになる。音の質のムラをなくし、かつ音色が多彩になんて、出来ないんだよ。多彩にすれば多少はムラになるもんですよ。

 意外な事実がある。初めて読む楽譜をあたまのなかでイメージするとき、「自分のステロタイプ」に当てはめやすく、とりあえずそこから「逃げる」必要があること。ですがこの話は、方向がちょっと違うから、別の機会に話しましょう。

 楽器がよく鳴るようにピアノを弾くということは、力で、つまり暴力で打鍵せず、指を鍵盤に落とす演奏法で弾けば、自然にそうなってくれる。この演奏技術が、ヨーロッパ近代芸術音楽の商業化の中で、例外になってしまった。ロマン主義が機械的だとはいいません。そのよさもある。が、少なくとも技術的に見ると、ともかく一度「均一化」していることは確かで、つまり人間性を取り戻すのに非人間的なトレーニングをやってんですという見方は、ぼくが調べた範囲でも世界中に見えている。

 なんだか、いまの社会状況でコンサートをやろうと思えば、成り立つものをやる、がんばって成り立たせない、ということになりそうです。つまり従来の型が成り立たない場合は、それを固守するのは賢明ではなさそうだ。

 従来の型が成り立たないなんてことあるんですかという人がいると思うけれど、例えば舞台やテレビでは圧倒的に「笑い」が減ってるでしょう。音楽でも、日本のオーケストラは、ロシア音楽のあるものは演奏できないようだ。それに、気持のいいクライマックスなんてことが白々しく聴こえる場合はある。聴く人がどう思うか以前に、演者側の気持がすっとまとまらないことはあると思う。

 自分で思ってればいい話かもしれないが、このたびの戦争が長期化するにつれ、言っていいことかどうか迷うが、報道がマンネリ化して、なんだか何かが自分の中で終わったような気がする。コロナも戦争も自分の人生とじかに交わってることで、次第に収まっていく突風のように、やがてはおだやかになるのでしょうが、コロナも戦争も、まだ続いている。

 こういう、神経にこたえる時節をやり過ごすのに、自分の趣味を通じて想像力を楽しむ手はある。夜8時以降の外出自粛なんかも、長く続いたら習慣になってしまったが、あれこれが収まってくれば、ぶらぶら歩くのに遠慮も要らなくなるだろう。繰り返しになるが、そうやって出来ることから手をつけて過ごしているうちに、話がまとまってくるのだろう。

 ネットラジオも引き続きよろしくご声援ください。それにしても、コロナ自粛で、ピアノの超絶技巧曲が流行ったが、なんでだろうね。指を速く動かさなくても難曲はいくらでもあるのに。

[2022年3月31日(木)/続きは後日]

362.
「大型連休初日です」

   レコーディングでは、なぜ完璧主義になりやすいんだろうね。ひとつのミスタッチも出さずに1曲を弾きとおすのは不可能だし、ひとつやふたつのミスがあったって、いや、ミスだらけでも、演奏としていいものは、ミスが傷にならないものです。でもなんで、ともすると完璧主義になりやすいんでしょうか。

 よく言われるのは、録音は生演奏と違ってあとあと残るから、いい結果を出しておきたいためミュージシャンは神経質になるということですが、一般論過ぎて現実に即していないようだ。ミスがある録音物なんてごろごろしてますよ。現代のテクノロジーを使えば、一音ずつ録ってつなげて合成テイクを作ることだって出来るでしょうが、生楽器の場合、それを誰もやらないのは、やっぱり人間はそこまでいんちきをするのは、はばかられますという判断なのか。

 全体的に音楽は音の遊戯ですが、単なるお遊びなら、一生続ける甲斐もない。がんばって音楽やってたら、がんばっただけでしたという変な結果が出ては仕方がない。作曲やピアノを1日8時間「がんばって」、会社員と同じ日課で過ごすということは出来ない。だから、必要でヒマにしている時間もあり、そういうときはごくくだらない時間を過ごすこともある。

 何でこんなことを書いてるかというと、コロナ・パンデミックで、自分のなりわいの意味を再確認したほうがいいと、あるとき思ったからです。そういう人はほかにもいることを知っている。バカでかい災難のために、人間の営みが全部ばかばかしくなりゃしないかというのが、この確認作業にこめられた問いであり、意味である。普段はこんなことしない。このたびは例外的な非常時のわけです。

 遊びが職業なら楽しいんだろうけれど、うまい話はない。衣食住が足りて、時節柄、こんな幸福はないことは知っているが、時間が余ると、ぼーっと風に吹かれて漂っているとか、夕日を眺めてうっとりするとか、家財道具もないような「疎な」部屋の空間を面白がるとか、そういう無駄な時間をすごすことを忘れており、なんだかんだと用事を詰め込みたがる。機能性というのは、ものを欲張ってため込んだから整頓が必要になったということですか。

 ぼくは「しごと」という日本語になじめない。音楽家の友達が「仕事」といっているのを聞くと、決まって、収入のために働くことを意味している。収入が伴わない作業は「しごと」ではない、という差別感情があるようでいやなので、ぼくは必要がない限り自分の職業を「仕事」とは言わないことにしている。お金にはならないけれど実質のある作業があるではないか。でも社会的にはそれは「しごと」とはみなされないようだから、ムリに仕事と言うこともないか、と思って、自分は作曲してます、ピアノ弾いてますと言うことが多い。そして、超絶技巧のピアニストでも、ヒット曲の作曲家でもないから、凡人ですよといっている。そうだよ、この世の中でカネにならないことやってるのは仕事人ではないよ。

   作品や録音を売って、それだけで暮らしが出来るのはけっこうなことだが、誤解を招きそうな言い方になるが、二束のわらじは履けない。食品でも服飾でも、庶民のコンセンサスが得られたところに成り立つものなら、売り物の質がちょくちょく変わったら商売にならないということになる。音楽の録音も制作も、商業化したら似たことではないだろうか。なんだかコロナ禍で食いつなぐためにアイデアを連発しているミュージシャンがいるようですが、かわいい女の子だからウケてるだけでしょう。

 レコーディング・テクノロジーの「美的エクスタシー」とか、かのグレン・グールドが言っていたが、正否や賛否よりも、グールド自身のエクスタシーなんか、一般のリスナーにはどうでもいい。この人のレコーディングには確かに面白いものがかなりある。でもグールドのエクスタシーと、演奏のよさは原因結果の関係ではつなげられない。まあ…フランシス・ベーコンの絵を見て、この画家はゲイではないかと直観する人はいるようです。でも音楽の場合は、絵の場合ほど露骨に性的嗜好が表れるというもんではない気がするんだが。

 雨で、今年の桜は「散っちゃった」と言おうと思うと、なぜかあたまに「今年の桜はちっちゅっちー」なる言い回しが現れ、困っちゅっちー。わたしのあたまはおかしいのではないか。

 録音コンテンツを作る作業は、絵の制作に似ている気がする。気に入る結果がでるまでやり直しをしていると、マティスが1枚のタブローをときに半年にわたって描きなおした工程を思い出す。それでなにかの結果は出るというところが重要なので、やり直しているうちに熱意がしぼんでしまい、なにも残らないことだってあるんですよ。音楽のスタジオ収録というのは、結果にこだわる作業になりがちですが、結果さえでれば、過程はどうでもいいということにはならない。ぼくはそう思う。結果だけを問題に出来るかどうか。できないような気がしますけどねえ。

 なにかものを作るとき、完成品のイメージだけがあって、そこに至るプロセスはぜんぜん面白くない、というのはどうかと思うんですよ。プロセスが面白い作業というものがある。それで、結果も面白く出ればなおよい、となればいいけれど、ぼくはプロセスを面白がるのに、あと何十年かかるんだか(笑)

 ネットラジオも引き続きよろしくご声援ください。 

[2022年5月1日(日)/続きは後日]

363.
「デジタルコピーをやめる−非組織について」

 社会と音楽は相互関連があると思うから、この稿を書いています。みんなが困ってる社会状況があるけれど、以下、つかの間お付き合いください。

 ヨーロッパ芸術音楽の世界で「音の三要素」という、作曲家の間ではよく知られた、近代・現代ヨーロッパ音楽の概念がある。音高・音価・音色という3つの「パラメーター」に分けてひとつの音を捉える記述法で、教科書的には、シェーンベルクの12音技法から発達した総音列技法の時代、1950年代にこのやり方で全部音を「組織」しちゃった。だが、モノがヨーロッパ芸術音楽でなければ、この概念は、ない。たとえば日本の民謡なんかは、この考え方ではつかまえない。近代や現代のヨーロッパ芸術音楽にだけ、この考え方があったことを忘れてはいけない。

 近代ヨーロッパ音楽の、ピアノという楽器は、ひとつひとつの鍵盤は打楽器で、88個横に並べて、それをメロディアスに歌わせるための演奏技術が考えられた。だからピアノの鍵盤は、無思慮に弾くと各音がばらばらになる。が、ピアニストの心の中で音楽がつながっていれば、鍵盤上で音をつなげなくても、ちゃんとフレーズが聞こえてくる。この「心」のありようが大事な問題ですね。それは「組織的」なものなんですか。

 ちょっとずつ考えましょう。パラメーターという考え方はすぐ現代のMIDIシーケンサーなんかにつながるんだけど、こっちのほうにくるのはデジタルコピーの考え方で、音楽の演奏の基本姿勢から外れちゃうというのが、今ぼくが思っていることです。それが、なんでこっちに発達してきたか。文字通り「再現芸術」ですよ。聞こえはいいが、コピー文化と同じ意味です。人間は要らなくなってしまう。

 そうならないために、各音の質の不均一を受け入れてあげる。これは記譜がそうなっているのではなくて、ピアニストの感覚がもともと不均一だということです。それでも、取り組んでいる曲はバラバラにはならないんですよ。不均一を受け入れてかまわないんです。何で歴史はそれを排斥したのか。考えていいことですよ、これは。

 なんか、歴史が好んで画一化を志向したような、まことに変な、不自然な方向づけです。あらかじめステージの上に「演奏された作品」があるのではない。ピアニストがこれから演奏をするんですよ。わかりきったことのようだが、実は誰もぜんぜんわかりきっていない。みんな、これから舞台に現れるのは期待通りの名曲・名演奏だと頭から信じている。「再現芸術」というのはそういう世界です。

 これは「組織化」をした結果そうなったんだと、考えてみると、組織化=均一化という図式が出来上がることになる。でも、そうでしょうかねえ。じゃあ、今後われわれが進む道は、均一化を退けて、つまり「非組織化」だという話はできるが、そもそも「組織化」じたい、おかしくないですか。別に決まりを作らなくても、集団にはある程度の秩序があるが、これは「組織化」ですか?

 音律が違えば色合いも変わる。本来ひとつの音の音色(ねいろ)というのは、音の長さや高さというほかの属性と切り離せないものなのに、そういうあたりまえのことが、音楽の技術の発達や、テクノロジーや、デジタルコピーのせいで失われ、わざわざあとから脚色したり、付け足したりしなければならない。フルートの音が高さだけしかないということがありますか。

*  *  *

 ちょっと関係ないことをはさみますが、コロナ、ウクライナ問題、そのほかの不幸な社会状況で、社会も混乱しましたが、ぼくの部屋も同様に混乱しました。不潔な環境は嫌いだから衛生的に問題はないようにしているが、床に紙くずが散乱して歩行の邪魔になる。べつに危険物は落ちてないし片付けてますが、あとからまた散らかってね。とうとう、社会のせいにしちゃおれんと奮起して、水回りの掃除から始めましたよ。

 野菜が高くて、「簡単な自炊」といっても、キャベツとベーコンの水煮、簡単シュークルート、簡単ラタトゥイユ、和風チンジャオロースー、15分で作れるスパイスキーマカレーぐらいを順番に作って、ラタトゥイユは盛んに食べたから飽きて、レパートリーがなさ過ぎる。そもそもポタージュが作りたくて、コーンポタージュは自信があるけれど、冬場はとうもろこしがない。ヴィシソワーズの製法研究も、あれは時の運というか、すばらしくジャガイモの味がよく出るときがあるが、なんか、偶然性みたいなものに思われると、これもだんだん適当になってきた。

 おうち生活って、おうちの中でもやることを探して毎日やってたから、その探す習慣が身についてしまい、なんかやることを探していないと気が済まないようで、ゆっくり過ごす住空間を見失っている。ひまにする、しごとも勉強も抛り出して無為に遊ぶ、それだけでいいのに、なんだか秩序を求めるようなことを言って、心の中をむやみに忙しくして、それがいい生活態度のように思ってなかったか。

*  *  *

 上司から休暇をとるように言い渡されたから休むじゃ、面白くない。「非組織」なるものを、組織の中で考えてどうするのさという袋小路は、いやなものよね、という結びになります。それはどうやら、いちど作った組織を破壊するという組織化らしい。ばかげていませんか。そうじゃなく、ある程度の秩序に従い、どうも、その中でルーズに過ごしたほうがいいような気がしますが、どうですか。

 ネットラジオも引き続きよろしくご声援ください。 

[2022年5月23日(月)/続きは後日]

364.
「ゆるみの感覚」

 新しい生活様式という言葉は、ここしばらくあまり聞かないが、ひとりひとりがウィズコロナの新しい生活のスタイルを考えなければならないということで、ずいぶん面倒な時節になっちゃったね。しかたがないですよ、自分の生活をカスタマイズしなおす必要ができた。それはもちろん機能的な生活だろうけれど、想像力も不可欠だと思う。

 ぼくは、音楽をなりわいにして、日常の中の音楽の位置づけはそんなに簡単にはわからないことだけは、わかっていた。このたびのコロナ騒ぎで、また音楽の位置づけを見直しているが、順序としては、まず日常があり、次に音楽の需要があって、音楽を作るばやいには、日常の中に音楽をぶっこんでみる。なんか乱暴な感じはするけれど、結局これがいちばん現実的というか、そうやってみるしかなさそうな気がしてくる。

 そんなにきれいに音楽の需要が定義できるもんじゃないと思うけれど、音楽家ではない一般のご商売の方が「みんな音楽を待ってるんです」というのを聞くと、多くの人たちは音楽というものを自分は作れないという現実が見える。ほとんどの人は、ひとがつくったものを聴いて楽しんでいる。

 料理だったら何とかできるが、楽器の演奏や作曲はとてもできないと、やっぱり、ふつうは思うようだ。ぼくは趣味でポタージュを作る生活が定着したら、一食200円ぐらいでスーパーで売ってるポタージュが、まことにお粗末に見える。以前は喜んで食べていたが、こんなもの食ってたんですか、というわけです。自作すると、簡単なことだし、同じ200円で3人前作れる。スーパーで売っているポタージュは、買って食べる必要もなく、自分で作ったほうが断然うまいとなれば、何の用で食品産業があるんですかね。

 いわゆるプロの音楽も、同じことが言えそうな気がする。ものが音楽だから、質の評価は食文化の場合よりめんどうだろうが、なんだかおなじ問題のような気がしますよ。「新しい生活様式」というなら、プロのミュージシャンがどういうことをやっているかとか、巷の音楽ファンは何を求めているかが問題になるはずだが、こういうソフトのほうの問題は、言葉にならない要素が重大で、そのせいで「これは、いい音楽である」というたぐいのコンセンサスは、全然見えてこないように見える。いまさら言わなくても、以前からそうだった。でもたぶん、これからは、外的な価値基準はないと思ったほうがよさそうだ。

 疲れた心は悲観的になりやすい。いま世界中がそんな状況だが、思い切って「ふさぎの虫」を退治り(河盛好蔵氏による。読みは「たいじり」)、明日の自分を明るい環境に出して想像してもいいはずだ。この半年、なんだかうんざりする環境だったが、そうそう悪いことばかりは続かないと心得て、明るいことを考えて明日を迎えることだってできるんじゃないか。

 ゆるむ時間も、休息も、はめをはずすことも大事と、みんなが言うので、つとめてだらしなく、だらだらと時間を過ごすこともある。この「ゆるみ」の感覚が、なんか疲れるようで好きではなかったが、試しに、「ゆるみ」の中に浸ってみようかという気分に現在、なっている。ひまで、やることがなければ、そういう時間も持ちたいと思うが、「ゆるみ」の感覚が身についていないとか、今まで知らなかったとか。昼間のうちにやることはだいたい済んでいるので、夜でなければできないような作業は、特にない。

 考えてみれば、映画館でもコンサートでも、退屈が嫌いだった。これは美徳のように見えて、実は、べつに自慢にならない。現実に退屈な時間はいっぱいある。旅行で移動時間なんかを退屈だと言って取り除いたら、旅行はできない。そのふやけた時間がいいと思えなければ、旅なんかできたものではない。退屈は、ひまだから退屈で、ひまというのは、心の中が立て込んでなくて、つまり密でなくて疎な状態、がらがら空いている気分ということになる。現代の都市空間とは真逆ですね。

 ぼくたち新人類世代は、かつて上野にあったポルノ映画館の雰囲気を知っている。セックスが見たいからときどき出かけてましたが、腹が立つくらい退屈な画面にも出くわした。その映画館ポルノが、いまはAVになって、レンタルDVDの店に行けば、いやになるほどたくさん置いてあるし、もうAVなんて旧弊で、ネットのライヴチャットでエロをする人口も多いらしい。まあ技術的に可能なら、それもけっこうですけどね。

 現今、ネットでダウンロードしたポルノで興奮して鼻血が出ますとかいうのならともかく、ほんとうにエロティックなヌード映像なんか100本に1本あればいいほうなんじゃないか。小学生のころ、同級の男子たちは密輸入(?)した雑誌のハダカ写真に夢中だったが、ぼくは大竹省二や立木義浩のポルノグラフのほうがよかった。これは趣味の問題なんでしょうけど、アングルやルノワールの油彩の裸体画と同じように見ていた。そういう趣味から申し上げると、巷にあふれている性的表現はだいたいくだらない。しかしあえて、そういうものを退屈しのぎにあてがうこともある。

 ひと頃、ピアノのおさらいを1日3時間以上もやっていたが、これだとピアノ以外の時間がなくなってしまう。ほかの事を犠牲にしすぎるから、そんなに長時間弾いていないことにした。ただし、コンサートの前などは、どんちゃん騒ぎもできないから、あくまで軽作業で、部屋の片付け程度のことをやって、あとはおとなしくしている。しかしながら、「目先の欲」を全部撤廃して、なにもないのも、いかにも退屈で困っていることを白状しなければ、不公平でしょうね。

 コロナでグローバリゼーションが終わったという意見がある。よく知らないが、今までとは違う美学やアプローチの方向がありそうだ。それを少し試してみる段取りなのだろう。ネットラジオを始めて2年がたちます。8月でアーカイブが730曲になる。ぼちぼち続けますので、お引き回しください。

[2022年6月24日(金)/続きは後日]

365.
「静かな時間」

 バルトークの『ミクロコスモス』のなかに「ユニゾン」という曲があって、ネットラジオ用にさっき弾いて録音した。右手左手の単なるオクターヴ重複のどこが面白いのか、と思ったのはかなり前の話ですが、このたび採りあげてみて、その単なるオクターヴ重複の旋律がとても面白い。へえ、と思った次第。

 白状すると、ぼくは自分が音楽をやる人間で、アートの鑑賞は音楽以外の美術や演劇のほうが多い。音楽鑑賞って、コンサートの自粛の期間があって、最近また感染拡大してて、生演奏というのは2020年以降の2年半に、1回しか聴いていない。うちではスマホアプリでたまに聴くが、CDはめっきり聴かなくなった。

 一般庶民が求めているのは芸術音楽なんかじゃないんじゃないか。とりあえず休息や慰安、静かな時間で、ケバいアートは邪魔でしかないとの意見もあるだろう。静かというのは、物音ひとつしない、というのとはちょっと違って、以前だったら夜になると静かに晩酌をするとか、読書でもするとか、無為にテレビを見るとか、パーティーやコンサート、イヴェントはもちろん、なんか、あるスタイルですごすことができたはずだ。それが変な世の中になって、静かな夜がねえんだよ。日が暮れれば夜にはなります。でも、日没とともに“静かな”夜が来てくれないのだ。

 別に、今までの自分の音楽観を全部捨てて変えなければならない理由も必要もない。収益にならなくても10人とか30人とか人が集まればコンサートにはなるよ。ただし、あんまり大規模な曲はできないようだ。いま、暮れにやる曲書いてるんですが、書けないのではなく、書いた曲を今の世の中でどうすんですか、ということで気持がもめやすい。ぼくの職業は、確かな耳さえ持っていればできるんだけど、この際、書いておく。この世の中ではねえ。

 きのう日比谷で、3000万円もするベヒシュタインのピアノを試奏してきて、こういう道具を使いこなすための技術練習や、伝統にのっとった名曲という概念自体が、たいへん贅沢なものだと思った。ベートーヴェンに始まる「プロの音楽」は、お金を積めば精度が上がり、超絶技巧もやりやすくなるということになるらしい。少なくとも近代以降の芸術音楽にはそういう通念があった。普通に考えて、楽器が悪ければショパンやプロコフィエフの技巧曲なんて弾けたものではない。あるいは別の考え方をして、ひたすら機械的に指が動くようにトレーニングしてれば、弾けないことはないが、そんなことでいいんですか。

 近代ヨーロッパの芸術音楽の、楽器の技術練習では、各音の均一化がよく言われるが、音楽の制作は、時間軸の上に互いに異なる質を持つ音を順番に並べる作業です。そうでなければ音楽は変化を拒むものになる。凸凹の野山をどうやって渡るか、攻略法を考える遊びに譬えてもいい。

 今日の午後は、ちょっと作曲のメモを取ったあと、グルックの『妖精の踊り』のピアノ版とずっと付き合っていた。有名な編曲が少なくとも4種類ある。ぼくが弾いているのはジロティの編曲で、原曲の弦楽合奏の伴奏形を採用していない。ぼくは、なんだか強迫行為ではないかと思うほど、この曲の修練にこだわっていたけど、以前よほど感動したことでもあったのか。うちにバルワーザーというフルーティストが吹いたこの曲のレコードがあり、さんざん聴いたし、確かある時期 NHK の天気予報の BGM じゃなかったか。でも、この曲が好きとかいう主観とはだいぶ違うようで、自分のどこと連絡しているのか、よくわからない。いずれにせよ、あまり練習しすぎても効果はない。飽きてくるし腕も疲労するしでね。どうもそういう結論になりそうだ。

    あくる日。ぼくは、ひとのピアノ曲を自分のアイデンティティの「闇」にぶっこんで、泥だらけになって遊ぶようなことをやりながら、自分の感覚のフィルターをいちど通している、ということに気づいた。その場で、「自」と「他」を区別し、「差」を設け、眼の目の楽譜に戻り、なぞってみる。この繰り返しで形ができてくるようだ。そういうマニュアルやセオリーを参照したんじゃなくて、かれこれ40年ほどそうやってます。

 19世紀ヨーロッパで、ピアノの脚を布で覆って、エロティックに見えないようにしたというのは実話らしいが、音楽と性の関係って、いちおう語るに足ることです。音楽の体験は「身体的な」ものだと、有識者はみんな言っている。ならばそこにセックスがかかわってこないほうが変なんで、seductive な音楽の性質について自覚的でないと、その音楽家の人間だけでなく、音楽そのものを歪める原因になる。ぼくは seduction 一般に弱いということは白状しますが、全然 seductive でない音楽なんか、あるのかねえ。

 「遊ぶ」ということが、ある場合大変なのはなぜかを考えてみる。ぼくは剣玉もヨーヨーも、縄跳びもギターも練習してみたが、どれもだめでした。将棋やリバーシも勝ったことがない。ある程度適性や向き不向きはあり、小中学校の野郎たちが飛び上がって喜ぶ野球などは、ぼくはまるでできなかった。もともと興味がなかったし、集団の中で上下関係ができるのもいやだった。自分がやりたい遊びは別にあったが、普通に考えてプラモデルを5分以内に作らなければならないなんて、誰も言わないよね。

 それは、なんか欠如の感覚で、何が足りないのか、自分でもわかりかねた。何か気のきいたピアノ曲をひとつ弾いたらおさまるかと思ったが、どの曲をあてがっても気に食わないし、しっくりこない。そうやって1時間も「なにか」を探した挙句、食べて、飲んで、休むことにしてしまった。それはある生理的な感覚なのだと思うけれど、ほぼ確実に、対症療法は効かない。仮に10人の女と交わったって、埋まらないなんかだと思ったから、いっそ排斥せずに受け入れてしまえと思いながら、規定量以下で飲んでたら、ぽわっといい感じになったから、今夜はこのまま寝るのがいいのだろう。・・・ぼくはまじめすぎ、難しすぎるとの批評が多くあるのは知っていたから、けっきょく今宵はね、コルトーが編曲したショパンの『ラルゴ』を初見で弾いて、やり直したりして録音したわ。ほろ酔いだと、できるのはこれくらい。そもそも酔ってたら狙いが外れてばかりで、たいした曲弾けないですー。

ネットラジオを始めて2年がたちます。8月でアーカイブが730曲になる。ぼちぼち続けますので、お引き回しください。

[2022年7月27日(水)/続きは後日]

366.
「ロマンスについて」

 ルイ・クープランの『シャコンヌ』を弾いていて、この和音の羅列は、当時の演奏習慣による即興がなければ面白くないと思った。でも現代のぼくたちはその「当時」を知らず、さかのぼってみるわけにはいかない。よく行われている装飾音を入れて、すこし「面白く」してみる。この種の曲は、成り立ちを図式化すれば、和声の箱のようなもので、その輪郭がある幅で揺らぐ。ヨーロッパの鍵盤作品の派手な技術は、近代、19世紀まではこの図式にのっとっている。

 しかし、楽器でもなんでも、道具というものは、安定した性能を求めて発達したのだろうから、古い道具は新しい道具に較べて性能が不安定で、作業効率が悪かったんだろう。古い時代の音楽や人間の感情は、その不安定さを包括するものだった、というのは言いすぎですかねえ。

 ぼくは、一時期フリー・ミュージックが大流行して、なんかって言うと「インプロやろうよ」とみんな言うのが好きになれずなかった。現代のピアノ曲で即興の余地のある楽譜の場合はわりあい首尾よく即興演奏をしていたが、バロック音楽では、それほど自由も利かず、トリルなんかを即興的に入れる、一種の遊びはぼくの得意ではない。以前からそうでしたが、これは曲を面白くするための装飾であり遊びだということなら、自分の苦手をわかったうえで、ちょっとつきあってみようという気になった。

 たそがれどき、うちの近所で太鼓の音が聞こえたので、見に出かけたら、公園で町内の子供クラブが「武州太鼓」というものをやっていた。「好奇心」。何才まで自分の定命(じょうみょう)があるのかわからないが、「好奇心」があれば何とかしのげるような気がする。どうやら最近のぼくは、以前は傍観していた町の習俗をちょっとずつ受け入れ始めたらしく、そのひとつの例は、心身ともに、自分に不快な町のノイズの処理を覚えたようだ。姉ちゃんたちを見ても犯罪的な気分にならない。え?以前はなってたってか?妄想したってよくね?

 ポストコロナ時代になって、近代ヨーロッパの歴史は消えないが、少なくとも見直しは必要だろう。音楽の場合、ぼくは、その基礎部分にある機能和声の性質を確かめておきたい気がする。超絶技巧も、器用に指を回して複雑に聴こえるが、意外にシンプルな和声構造を、分散和音やスケールで縁取ってできている場合が多い。そういう装飾はロマンはピアノ音楽の特徴だったが、これが少なくて、なお何かが残っている曲を、うちで選んで弾いてみています。

 ひとつの曲を理解しようと取っ組み合いしているうちは、曲の全体が見えづらいことが多い。音の遊びというのは指先で作るものではないが、疲れてくると、なんとしても遊ばせようなどと計略しだすからいけない。そういうのは、今は放り出して一晩寝て、翌朝には昨日より理解が進んでいる。記憶というのはそういうものなのか。

 ぼくたちの日常で、19世紀ヨーロッパの絵や文学、音楽にみられるロマンティシズムと共通の「ロマンティックな」行為を思い浮かべようとしても、ないんじゃないんですか、とでも言いたくなり、人間感情というものをただちにロマンティシズムと結び付けようという気分じゃないですよ。その辺から人間感情を見直してみようか、という気持になってきそうだ。

 よくわかんないけれど、折々、小さなピアノ曲を弾いてみているうちに、要はなんによらず「均一」ということはいいことではないという結論になるようだ。ひとの心は均一ではない。そういう心で弾けば、自然にピアノの音は遊ぶようになるが、これは、すぐにはできないもんなんです。やっているうちにそうなってくる。なんだかピアノをうまく弾くことは、音色を均一にそろえることだと取り違えられている節がある。そういう訓練を毎日3時間もやっているのはいかがなものでしょうかね。

 アラン・ホヴァネスの東洋情緒の曲を2つほど弾いてみて、「均一ではない感覚」を受け入れ、カンタービレではない演奏法を試してみる。指は鍵盤を文字通り「叩く」ようになるが、心はそうではない。日本のお筝なんかの演奏はこれに近いんじゃないですかね。ちょっとこの非ヨーロッパ的な奏法を試してみたい。いわゆるピアニスティックな名人芸は音色をある程度均一にそろえないとできない。その世界はロマンスとなんか関係があるんですか、と最近思う。

 追記
 今年の夏も花火大会はなく、だらだら迎えた夏休み、怠けてやり過ごすか。映画館にでも行きたいが、第7波では出渋る。猛暑で台風だから出歩かない。お盆休暇だし、疲れ休めですかねえ。

 追記2
 ネットラジオを始めて2年が経ちました。はじめるときに決めた選曲の前提がいくつかある。1.どんなに短くても、独立したひとつの作品であること。2.ソナタや組曲は原則、全曲を収録する。部分がポピュラーになっている場合は、それを1曲としてもいいが、抜粋はやらない。3.あまり難曲はやらない。そういうわけで、まだ続けますので応援してください。

[2022年8月27日(土)/続きは後日]

367.
「動き方の一例」

 コロナでおうち生活の人が多かったから、そういう人たちを対象にネットラジオの配信をはじめ、2年経った。現在、みんなが動き始めたら、聴く人は減ったが、配信のための録音を続ける習い性が残って、毎日何かは録音している。ただ、一般に作曲でもピアノでも、ある意義だとか価値だとかじたいを生産しているわけではない。ここは大事で、いわゆる名曲崇拝はこのポイントを見落としている。ぼくもずっと以前にそうだった。自分の生産の質がいいか悪いか、価値があるかないかなんて、自分はわからないんじゃないのか。

 ピアノは練習しなければ弾けないが、調性音楽の演奏技術は、ロマンティックで seductive な感情表現の演出のためにあるんですか、といいたくなる。そういう曲を選ばないようになってきた。もういいかげん「癒しのカンタービレ」でもないだろうが、人はまだ終わらないコロナや社会情勢の悪化で疲れていて、そんなときに前衛音楽やってる場合か、との懸念がちらつくこともある。でも、ネットラジオには、ケージやクセナキスをはじめ、先の大戦後の実験音楽はかなり出したし、そういうものもいわゆるクラシック名曲と同等に、聴く人がいる。

 ぼくは自分は忙しくない、ひまな人間だと思うが、この社会状況との相関で毎日、何かやることがあるのは、ひまではない。世界中でこれだけの危機を体験した後では、音楽の質も変わり、いちいち立ち止まってその変化とつきあう態度を確認する必要がある。ヒトの意識はゆっくりしているから、社会の変化に対応しきれない場合だってあるでしょうよ。だからぼくは相変わらずのろのろやってます。

 たまたま自分はクリエイターの端くれだからといって、音楽が好きな人たちに過剰なサーヴィスをするのはおかしいですよ。それに、ネットラジオ配信は、もともと、コロナの行動制限の期間に何かしていないと自分が変になるから、一義に自分のために始めた。毎日なにかを見つけて弾くわけだから、練習に手間取る曲は避け、なるべく自分の身の丈に合うように選曲しているんだけど、準備に取り掛かってみると、その「自分」がどうしたいかで迷うことがしょっちゅうある。もちろん、一発ですっといく曲もなかにはあるが、見かけのシンプルさよりずっと込み入ったコンセプトのある曲が多い。

 ここで宣伝。ネットラジオにご声援ください。

 そういうわけで、オンラインで選曲がてら鍵盤音楽や古い室内楽をかなり聴いたが、CDをさっぱり聴かなくなった。コロナの2年半で、買ったCDはたった1枚だ。オンラインで音楽を聴く場合も、スマホで寝転びながら、というスタイルが増えている。災害でライフラインが停止するように、少なくともぼくはコロナで生活習慣が麻痺したらしい。みんなどうなんだろう。

 それにしても、自分がやりたい音楽の方向を決めるにも、その方向で施工するにも、いちいちじたばたして思うにまかせないこの現状を、どないしまひょ、じゃないや、この現状で、ぼくの職業は音楽家ですなどと言えたものだろうか。コロナ以降ずっとこのことを考えている。陶芸家が大量に茶碗を焼いて、窯(かま)いっぱいの茶碗がしくじると、全部割って捨てるでしょう。これとおなじで、ミュージシャンの場合も準備段階でエラーに悶々としている。それも制作のうちなんだから、腹をくくりなさいということか。「楽しんで」制作ができればいいが、それはもう達人の境地で、ぼくはまだ作者一生懸命のクチです。

 表現することがないのではなく、「どのように」表現するか、そんなことは前からそうだったんだけど、今の問題は、それがしっかり核をついているかどうか、よく観察してみるのだが、なんだかわけがわからないというようなことで、有効な技術のあり方に焦点が当たるような気がする。

 なにか、今まで、自分も含めてプロといわれるひとが担ってきた「アート」とか「芸術」とかいうカテゴリーが、うまく言えないが、「アートでなくてもよい」「芸術でなくてもよい」というように変化してくるんじゃないか。うまく言えないんですけどね。音楽の「プロ」という社会的な枠組みをはずしてみよう。今までとどう変わるだろうか。

 具体的な例をひとつ挙げよう。ピアノの初歩で、ハ長調の音階を「ムラなく」「均一に」弾くように指導されるが、たとえ楽譜はそう書いてあっても、これに対応するピアニストの感覚がムラなく均一だってことはないよ。教師がこの両方の両立を言えば、生徒は混乱します。たとえばこういうこと、ポストコロナで音楽のあり方がわからなくなったら、いちばん最初になにをどうしたかを、思い出してみようと思います。

[2022年9月30日(金)/続きは後日]

368.
「笑いかた」

 くすぐったい気持や、こそばゆい気持。むずむず。悪くないですよ、ふざけているのではない。にやにや、おかしいのをこらえている。まじめの対極にはこういう気持がある。こういうことを「笑ってる場合じゃねえよ」と怒鳴りつけてまじめぶっているそこのお方、あはは。

 コロナがやんできて、ひまな時間ができてくると、なんだか手持ち無沙汰です。そういうとき、どこかしらにやにやと、こそばゆい気持になってみるのもいいんじゃないだろうか。ちょっとずつ受け入れてみませんか。しかつめらしくまじめくさっていることもないだろう。そうすぐには気持の切り替えはできないにしても、ちょっとずつ、ひざを崩して心の中に笑いを入れてみよう。街街のあの混乱と喧騒は、見た目は消えているようだが、どうなっているんだろう。

 緊急事態というものが日常の表面から消えて、いちおう静かに、間が抜けているような生活空間。同調して自分も間抜けになってみようかな。くすぐったさやこそばゆさをちょっと意識的に想像してみる。なんだかむず痒くなってくる。ムリに笑ったりしないほうがいいらしく、刷毛でさっと気持の表面をなでるようなことでいいらしい。

 集団の倫理とでもいうのか、人が集まると「そろえる」ということをやるが、音楽ではこれは必ずしも推奨されない。みんながひとつの基準に従ったら、ひとりひとりのよさが消えてしまいがちになる。そうではなく、ひとりひとりのよさがあるから、集団を作ってもどうにかまとまる、というほうがいい。ひとりだけナギナタを振り回して踊り「弁慶がナ、ギナタをなっ」なんてわめいていたら、さすがに困るけれどね。

 17年前に弾いたプロコフィエフの戦争ソナタの録音を聴く。「楽譜どおりに」間違えないことを優先して練習すれば、今でもこのくらいの精度で弾けるだろう。確かにミスは少ないが、ひとの曲の演奏でも、もうちょっとものが言えていたほうがいい。いま戦争中だからといって、これだけの大曲に対する需要が現在どのくらいあるんだろうか。そもそもぼくは作曲がやりたかったし、順番も作曲のほうが先だった。30才以降しばらく、ひとのピアノ曲を弾くコンサートもやり、難曲や大曲をいくつか弾き、その方面でビジネスをやろうと思えばできたかなあ。

 プロコフィエフの曲は、『束の間の幻影』の中の何曲かは中学のとき弾いた。この曲集は難曲というより難解で、思春期にはイメージができない世界もある。最近ちょっとずつ弾いてみて、40年前のリベンジをしながら、へんな劣等意識を消している。プロコフィエフの曲のいくつかは超絶技巧曲だと思われているようですが、1.コンセプトを理解し、2.自分が弾ける演奏マナーや速度で弾く、でいいんじゃないか。

 ピアノばかり弾いていないで、作曲がやりたかった。たぶんそれで方向は合っていたと思う。こういうことも、コロナでわけのわからない世界情勢になったせいで、先の予定を立てるのが不必要にめんどくさくなってしまったが、どうやらコロナは減衰しているようだから、少し先の計画を考えてもいい気がする。

 そろえることでくそまじめになるのか。バラけることで不真面目になるということか。とらわれない、ということ。なぜそろえると「四角四面」になるのだろう。そろえることは、四角い気持になることなのか。ひとの気持は四角いのか。なぜ四角くなければならないか。「そろえる」ために四角くしたのかな。それは、もういいじゃないか。そろえないほうが面白いのはわかっているが、態度が悪い、なんていわれそうだから、かしこまって四角くなっている。ちょっとふざけてみませんか。

 ピアノという楽器は、18世紀以降のヨーロッパのオーケストラの代用楽器でもある。それでネットラジオのために、話題性も多少は狙って、面白いが知られていない曲を探して弾いていたが、ヨーロッパの楽器だから当然ヨーロッパの曲が多く、それも端から弾いていけば少なくなってくる。2年以上続けて、今後は自分の音楽の展望を考え始めたほうがいいようだ。

 自分の将来はそういう想像をしてみるが、それがそのまま世界の音楽のひとつのモデルを提供するなんて、大それたことまでは思い及ばない。在来の音楽が古くなったから取り替えるもんなんですか。古くさいものは捨てろといっている人もいるけれど、ぼくは賛成しない。ただ音楽のスタイルが以前と変わるような変節を経験したことがないから、新しい音楽といっても、イメージがわかない。だから仮説を立て、「もしも世の中が〜だったら」という世界を考え、その中に音楽を置いてみよう。

 コロナや戦争で世界は大打撃を受けたという史実と、アートのスタイルの変化と、実際にイヴェント自粛はあったが、表現内容に立ち入ってなんか関係があるかどうかまでは、ぼくにはまだわからない。でも現実的に、創作をやるにあたり、いましばらく何が必要なのだろうか。いちばん基本的なことを確かめてみようと思い、ただいま渾身準備中です。

 引き続きネットラジオにご声援ください。

[2022年10月30日(日)/続きは後日]

369.
「散歩」

 写真はこの30年の趣味だが、7月以降しばらく枚数が少なかった。秋になって、その写真を再開した。何がきっかけだったかはよく覚えていない。今年は夏以降、残念な社会事情が重なって気分が重かったし、危険な暑さで外で写真なんか撮っていられなかった。前にも書いたが、絵を描く画材をそろえるのが面倒だから写真で代用しております。

 ときどきコロナのこの3年の写真を見直してみることがある。行動制限が出ていた時期は、繁華街にも住宅街にも、誰もいない。それだけじゃなくて、街の雰囲気が冷たい。動きがない。30年写真を撮っていて初めて出くわした光景だ。なんでそんなことが写真に写るんだろうか。そして改めて思うのは、撮影者はほかでもない、自分であり、誰もいない街に歩きに出ていたという、動かぬ証拠が残った。

 最初の緊急事態宣言が明けたころ、2020年の6月だったかな、簡単な昼ごはんを食べに外出したりはあったが、コロナが長引いて、嫌気が差してしまい、食事は自宅でとるようになった。やっと最近街に人が出始め、空気も温まってきて、ぶらぶら散歩していると、ありきたりの近所の住宅地の「普通」がありがたい。

 それで最近、街頭の写真を撮りはじめると、たとえば街頭や住宅地には「曲線」が少ないことに気づいた。ほとんどないですよ。斜めの直線はある。道がカ−ヴしていることもたまにある。でも垂直方向に、上に伸びている壁面も柱も、曲がっていることは少ない。

 写真や散歩とは関係ないことのようだが、今どんな音楽がふさわしいのか。あんまり場違いなファンファーレや行進曲は漫画だよねと、先日会った友達が話していた。グローバリゼーションは終わりましたという論議がある。ぼくは論じるほうは得意ではない。音楽をやっていると、論にならないで、体感に近いような感覚が入ってくることがある。社会の空気の変化は感じるもので、論じようと思ってもうまくいかないのは、ちょっともどかしい。相互に関連があることなのに、思うように言葉にならない。どうも「激しい音楽」をぶっぱなそうという気分にならんのです。

 コロナ前のグローバリゼーションとは別の世界の動きが始まっているというなら、当然、音楽の表現内容も手段も変わります。さてどう変化しているか。この変化について、自分の話をすると、どうも規則的な速めの伴奏を伴うピアノ曲は弾く気にならなくて保留にしてある。ハイドンが発明し、モーツァルトやベートーヴェンが多用したドソミソという伴奏形とか、近いところではプロコフィエフのトッカータ風の曲とか。

 (えー、話の途中ですが、本日は2022年11月8日火曜日です。午後6時ごろから、皆既月食と天王星食で、ただいま酔っ払いながら鑑賞中です。)

 音楽の「色」について、どのように把握したらよろしいのか。たとえば、人の声にはそれぞれの声色(こわいろ)があって、社会がマニュアル化すると、その個人個人の声色の「差」がなくなってくる。楽器だって、それぞれにくせがある。くせがなくなって、標準的なところを基準にして、だいたいみんな同じスタイルと思うところを「伝統」ですとか「様式」ですとか信じている、実はそのあたりが真相のようですが、ぼくはなんだかそういうことには、もう関心がない気分になってきました。

 日常に「色」も「形」もある。音楽が「色」や「形」を思わせる場合もある。ともかく街に出て「色」や「形」を体験してみようというのがきっかけで、趣味の写真を再開した。ちょっと戸外へ出てみるきっかけになったわけです。なにぶん冬なので日が短くて、ごたごたうちで作業をしていると日が暮れてしまうが、ここしばらく晴天が多い。

 再開してみて、街には、以前と違って人の動きがある。それでこれだけ雰囲気が違うのかと思う。その違いを表現する言語ならある。でも「色」や「形」そのものは言葉ではない。あれこれ思い巡らせているうちに、要は「人間が作ること」というところに力点があり、その周りに曲線や色の感覚が浮上しているらしい。お散歩だって、人が使うためにいろんな人が作った街をぶらついている。

 まだコロナ禍か。危機感も切迫感も薄れ、惰性やマンネリズムでだれていて、次のコマに移るにはヤル気をなくしそうなけだるさ、と言ったところでしょうか。なんだかいまの社会は意味がわからないと友達に言ったら、同感だそうな。ならば自分の周りだけでも整頓したらいいじゃないかと思うけれど、こういうのは、あまりがんばらない。このたびは、どうも「レトリカルな」不明瞭さではないか、ならばコロナ禍にあって地球の多くの人がノイローゼ気味だとしても無理もない。もちろん急を要する対応はしなければならないが、やみくもに頑張ったって、疲れるだけではないのか。

 こういう現実の中では、どこかに「結構」を心得て充足するのも大事なのだろう。今日のように終日雨の日もあり、戸外は暗く写真も撮れない夕刻、だらだら過ごす醍醐味はあるが、ゴミは出したほうがいいし(うー、さぶ)、バンコクかシェムリアップにいなましものを。(なんで古語なんだよー。)

 引き続きネットラジオにご声援ください。

 追記
 コロナに関連して日本の医療体制に関する発言が多い。ぼくは医療の技術はずぶの素人だから意見は言えない。ぼくはコロナではなく持病の治療体験から、医療行政での医師の責任の所在をはっきりさせたほうがいいと思います。さいたま市に智心会という医療法人があって、そこの現理事長を知ってますが、この人の基礎学力を疑う。日本語の能力なんて、高校受験生のほうがましですよ。責任能力の有無が問われる問題のはずで、しかし一部の崇拝者さんたちによってうやむやにもみ消されている。けっこうですね。

[2022年11月29日(火)/続きは後日]

370.
「癒しについて」

 長い間ぼくは、コンサートの観客はなにをしているのだろうか、を考えていた。最近、ああ、音楽会の観客はその音楽を、漠然とでも「なぞっている」んだなと思った。コンサートじたいは、たとえ観客10人でも成り立つものだ。会場が崩れ屋やつぶれ屋、ゴミ屋敷、風呂やトイレじゃなくて、床も垂直や斜めでなくて、場所がしっかりしていればいい。

 音楽を「作る」ということは、会社員がノルマを達成するとか、いやな作業を引き受けるとかして、その見返りにサラリーを受け取るという意味での「おしごと」とは性質が違う。ぼくたちがものを作ったって収入にならんことのほうが多いです。んじゃむだの骨折りだね、と言われれば、そうかもしれませんよ。収入に結びつく生産を心がけなさい、そういうことが「プロのおしごと」だと、さいたま市の医療法人、智心会の理事長殿は言っているようですが、これは正論というより常識論で、つまり何も言ってない。ことばは、自分の言いたいことを相手に伝えるものなんじゃないんですか。こんなざるみたいな「論」で癒しもへちまもあるものか。

 ヨーロッパ音楽について、ふつう「伝統」という場合、継承する型が決まっていて、それを演じるだけなら、確かに「再現芸術」ということになる。でもそうかなあ。それで再現してどうすんですか。音楽を演じたら、それを使う人がいるという次の段階がなければ、別にわざわざ演じなくたっていいじゃないか。

 日本政府のどっかの管轄が、レジャーや旅行は「非日常」だと言ってました。単に表現がまずいだけかもしれないが、「非日常」かなあ。と書こうと思ったんだけれど、数日前、女の友達に会ってこのことを言ったら、いつもうちにいて3食自炊の主婦さんとかにとっては、外食ってうれしい非日常なのよと笑顔で(別にバカにせずに)切り返され、ぼくは非日常否定論が書けなくなってしまいました。それでも「非日常」ってなんですかと、心のどっかでいぶかってるんです。

 小さいころのぼくには、面白い音楽は魔法のように不思議な感じがした。夢を見ているような。フルトヴェングラーや作家のエルネスト・サバトが創作には「直感」が必要だといっているのを知ったのは、わりあい最近だ。自分で音楽を作り始めたら、芸術音楽は魔法ではなく、非日常だと思ったこともない。

 ピアノの練習ひとつをとっても、以前は弾きすぎていたから、最近はそうならないように注意することにした。練習しすぎると、音楽が日常とは別のなにか特殊な領域みたいで、質量ともにかたよった比重になってしまう。ぶらぶら街をほっつき歩いて写真を撮ったり、うちにいては趣味のペーパークラフトをやったり、適当に気を抜いている。たしかに、なまはんかな情熱や、いわんや夢とか想念なんかでは音楽の制作はできないが、どうしてそれが非日常ってことになるの。

 今年のように社会が不安定だと、写真もペーパークラフトもやる気がなくなってしまった。特に7月以降はそんな感じで、冬を迎えるころから気を取り直し、暮れのコンサートを終えたところです。周りの人が口々に、年末気分がないと言っているから、その気分はぼくだけではないらしい。自分たちが所属している現実が不穏だから、冗談も言えないような空気になっている。

 なんかさー、「日常」で、かつ面白くて不思議なものがいいって、ムリな注文なんですかね。火のないところに煙は立たない。ぼくたちは、さまざまな面白いものごとを体験してきたのではなかったか。

 ものを作ることは癒しだそうで、心理学の箱庭療法などもその中に入れていい。こう筋道をたどってくると、どうも「創る」ということじたいが、そもそも不思議力を持っているということですか。そうかねえ。紙にペンで書いてるだけですよ。なんか立派なものを創らなきゃ創作ではないと思われがちですが、そうでもない。大事なのは想像力とか好奇心とか、そういうのは人間の知性なんだと思う。

 確かに作曲したり小説を書いたりする能力がなければ、創作じたいはできない。でも聴いたり読んだりという行為は、そこにある作品を「なぞる」という行為なのだな、と最近思うんですよ。だから、音楽鑑賞で「何をしているの?」という問いには、「曲をなぞっているの」って、なんだか楽しそうなどと自分ひとりでうひゃうひゃほくそ笑んでますが、よさげらねか、どうですか。

 引き続きネットラジオにご声援ください。

[2022年12月29日(木)/続きは後日]

371.
「2023年になりました」

 あけましておめでとうございます。令和5年です。初詣に出かけたら、参道の片側にだけお店が並んでいました。

[2023年1月1日(日)/続きは後日]

372.
「日常のこと」

 改めて、あけましておめでとうございます。

 きのう寝転がりながらスマホを見ていたら、「部屋掃除をしなさい!散らかったものが低い波動を出しているんだ!」という動画の声が聞こえてきた。まるでぼくの部屋に向かって言っているようだから、さっきちょっと紙くずを拾ったりしましたが、そんなことも含め、ぼくの日常は、この新春、なんだか穴だらけで、「ムリにまとめない」は自分が半ば意識的にそんなふうに生活してみようと思うからそうなっているけれど、やや散漫です。よく言えば、風通しがいいということになるんだろうか。

 何日かメモを取っていた作曲を、まとめて書き出し、ちょっと書いて、ちょっと待っている。そのうちに、いつの間にかひとまとまりのページが書けている。

 ここら辺は今日は晴れているが、午前中は2℃ぐらいからちょっとずつ気温が上がってきた程度で、趣味の写真を撮りに出るには寒い。寒いからうちにいるのはいいとしても、ぐうたら生活でも心身の「動き」が停滞するのが心地悪いことがあったり。

 毎年、年が明けると作曲し、終わったら初夏のコンサートの企画を立て、ピアノを練習するという順になっているが、コロナや戦争で、この時系列のあちこちが自分の管理不行き届きになり、度忘れなんかが出やすいから用心していると、必要な情報を拾うペースが遅くなって、なんだかぐずぐずやりづらくなっていた。こういうことで不必要に時間が延び延びになるらしい。今年はどうだろうか。

 どうやら情報過多だったらしいと、去年の暮れごろ気づいた。コロナです、戦争です、自粛です、不況です、フラストレーションですとやっているうちに、相互のつながりや意味がわからないまま、全部拾えずぼろぼろこぼして暮らしている、という状態だった可能性がある。人間はこういう場合、心の健康を保つための情報の収集選択を無意識のうちにするものなのか。

 ヨーロッパ渡来の調性システムじゃないもので音楽を作ろうとすれば、当然、使う楽器の演奏法も変わる。これをどう受け入れるかの問題は、楽器の演奏技術というのは身体的なものだから、メロディやパッセージのクセを体が覚えこんじゃったあとでは、そのクセをとろうと思ってもうまくいかないこともあるだろう。でも去年ホヴァネスの曲を弾いてみたら、この人の作曲のやり方・使っている演奏法は、技巧的だがロマンティックではない。打鍵の力学をたくみに切り替えている。

 おうち生活の期間中は、自宅にこもっているとむさ苦しくて、読書とか音楽鑑賞とかいう気分になれず、遠ざかっているうちに、趣味の読書や音楽とは、変な距離ができた。考えようによっては、あらゆる文化を享受する態度を見直すにはいい機会ということにもなるのか。ただし、いちいち吟味検討して位置づけるなんて面倒でやだから、現れるいろんなイヴェントを受け流しているうちになんかできてくる環境があるんだろう。

 今日は1月14日、土曜日、年が明けてはじめて雨天。天気が悪くなると、心身のパフォーマンスが落ち、眠かったり、怠けているようなすごし方になる。思いついて、久々にCDを聴いた。1年ぶりぐらいじゃなかろうか。ショスタコーヴィッチの交響曲第11番、指揮はバルシャイ。自分は聴いてればいい。こういうものがこの3年、足りなかったのではなかったか。ごく表面的に言っても、ひとの曲を聴くと、自己中心的にならない。

 ポストコロナでオンラインで音楽鑑賞というスタイルが広まったら、ポピュラーでもクラシックでも、短めの曲が主流になって、大形式のアートは作れるのか、内心懸念していた。これはぼくが作曲する人間だから思いついた、音楽の構成の技術的な問題でしょうが、聴く人もそれなりにひまでなきゃ、1時間の交響曲を作っても聴く人がいない、ということにもなってくる。やっとそういう懸念に対して、自分の提案やアプローチの方向が見えるようになってきただろうか。ものを作る人間がこうむった、コロナによる打撃はメディアに載らないから、ぼくはこちらで報告しておきます。ネットラジオもやってますので聴いてください。

[2023年1月8日(日)−18日(水)/続きは後日]

373.
「中途半端な実情」

 ここしばらくネットラジオ用には、コロナだから癒し系カンタービレの曲を出していたが、人も街も動き出したら、癒し系用ばっかしだと飽きるような情勢になってきた。でも、ほかの人はどうだか知らないけれど、ぼくはまだ陽気なアレグロや超絶技巧の曲を弾こうという気分にはまだなれない。自分が落ち込んでいるというより、なんだか場違いですよ。だから、まだしばらく中ぐらいのリズムや曲調を続けると思う。

 癒し系ばかりでもなく、かがやかしいアレグロでもなく、いたわりを表現し…なんて考えてると、適当な曲がなくてばたばた探している。一般に、単なる癒し系ではなくて、ちょっと変わったものがいいらしいんだが、これは不思議なことだ。

 やっとコロナが遠ざかってきた。人間は嬉しいと、喜びのあまり笑顔になったり、ジャンプしたりするようだ。まあそういう自然な感情が、3年も続いた疫病のあとでは、すっと揃わない。あたりまえだよね。ぼくも友人も会食は控えている。

 だいぶ前、エレキベースを弾く男友達が、シュトックハウゼンの曲は「どれも同じに聴こえ」ると言っていた。だからブーレーズの曲のほうがいいそうです。ぼくはシュトックハウゼンのほうが好きですが、まあそれはいいや。テレビでやってる平成歌謡曲はよく知らない。べつにバカにしているわけではない。ただ「どれも同じに聴こえ」、面白くないのです。この分野はいまの若年層が遠慮なく聴いたり歌ったりできる曲があって、いいと思います。ただ、ぼくは自分のまわりにいる、親子ほど年が離れた女友達と話をしていて、歌謡曲の話題はめったに出てこない。みんな役者を目指したり、クラシック音楽が趣味だったりしている。そういうことが高級だなどという気はない。でも、表現の巾が歌謡曲より広いとは思う。

   コンサートの曲だって、どこかで戦争をやっているからといって、プロコフィエフの『戦争ソナタ』なんかは、聴くのも弾くのもちょっと重いような気がする。1年前にプロコフィエフの『フルートソナタ』をやったし。

 ピアノを練習していると、ほかのピアニストはどうだか知りませんが、どうしても「不均一」な感覚や演奏法を繰り入れる必要が出てくるんです。ムリして均一にやろうと思うと腕を痛めたりする。事実だからしょうがない。それで目下、コンサートでもネットラジオでも、ぼくでも弾ける、という種類の曲を選んでいる。かつ、自分の気分に合うような、なんてやってれば、そんな都合のいい曲はめったにない。でも探してれば行き当たることもある。えり好みするなといったって、自分に合わない曲のほうが多い。

 ピアノの超絶技巧曲は19世紀ヨーロッパが発明したもので、そのヨーロッパ音楽の影響を受けたというぼくたちの事実は受け入れ、かつヨーロッパ音楽の単なる模倣ではない作曲や演奏の技術を持つこと、か。方向は、どうもそのあたりらしい。

 ネットラジオも引き続きご声援ください。

[2023年1月31日(火)/続きは後日]

374.
「新しい生活様式、素描」

 外食は月に2度。2度とも近所に用事で出て、昼ごはんに730円のとんこつラーメン。それ以外は基本、自炊かスーパーのお惣菜。お惣菜は夕方5時半を過ぎると半額になってたりする。月1回ぐらい友達のイヴェントを見に行くが、食事もお茶もしない。ポストコロナの外食は高すぎる。困ったね。行動制限がなくても、なんか自由にならない。ぼくはまだ、街をぶらついたり外食したりは、コロナ前とははっきり違って、制約を伴う活動ですが、しょうがないよ。 

 ピアニストは名人芸だけじゃなくて、より内容的な充実を目指したほうがいいだろうし、作曲家は「基準のない世界」にいるわけだから、自分の言いたいことが言えるスタイルで作曲したほうがいい。作曲にも拠りどころが必要で、あるスタイルにのっとることは、何かの形で必要になる。たいていその拠りどころはどっかにあったもんですが、このたびは自分で探せとやられているらしい。

 あるピアノ曲を練習していて、録音してみようと思って1回弾き、聴いてみたら1箇所録音のムラで音飛びがあった。癪だからもう1回同じ曲を録ったらまた音飛びがある。「馬鹿もん」と録音機を叱りつけ、また弾いた。きれいに弾いて自分で聴いて悦に入るためです、な〜んちゃって、あのですね、曲の途中にほとんど単旋律が続くところがあり、超絶難しいとも思えないが、なんか落っこちやすいのはなぜか。2時間ぐらいこれをやってました。こういうのは、ほとんど全部といっていいほど、「均一」な演奏法が邪魔になっている。不均一に弾くのは邪道じゃないか、と言われそうだが、「均一」に弾いたら音が遊ばないんですと申し上げます。音の遊びを「不均一」と言おうが、どういう言葉で形容しようが、どうでもいい。機械的な均一さではないことが必要です。

 コンサートで、ポピュラーな名人芸の曲をひとつ弾こうかどうしようか、ぐだぐだ考えているうちに、たそがれどきになってしまう日がある。自分以外の日本人の曲も1曲入れたいが、いいのが見つからないとか、ぐだぐだ、ぐだぐだ。

 コロナ前のコンサートの映像記録をときどき見ている。ミスだとか下手上手なんかより、画面が元気です。ぼくは技巧派ピアニストではないが、かなり本腰入れて速いパッセージを弾きこなしている。いまが元気がないのではないが、さすがに去年は、あたりまえだが選曲も演奏も慎重になって、元気をあおるような曲は避けた。やむをえない疫病とは申せ、アートの表現の自由を奪われっぱなしで、承知するわけがないだろう。陰気な社会が1年続いたら、その社会でのアプローチの仕方があることに、だんだん気づいてきた。

 ものごとをまとめるとき、おのおの一人ずつ、ひとつずつの違いを無視して、つるつる均一にしたらまとめやすく、きれいでいいとか、その種の発想は、ぼくはいやですよ。逆である。人やものが均一になって、いいわけがない。

 カンヴァスの上に平行線を2本引けばいいだけなのに、画家はしばしば、作業を抛りだして2週間も寝転んでいると、ヘッセがどっかで言ってました。この画家は、そういうムダみたいな時間も創作に必要だと思わずに、気が狂ったようになってしまう云々。そうかー、必要な時間なのか。ぼくは一応必要なことはやってるけど、ぼーっとしている時間は、まことにぼーっとしています。しかし本日は、用向きがあってピアノを弾きすぎた。腕痛めそうでやばいですね。次回コンサート曲目はこれでいいかどうか、試していたら繰り返し弾くことになったんです。まあ弾き過ぎと言っても時間にしたら3時間ぐらいだろうから、専業ピアニストの人は別に驚かないと思います。

 なんだか自然な日常の流れがぶった切れたらしいから、ぼちぼち自然にやってみる。音楽も含めて日常を普通に動いてみる。そのうち、あるマナーが身についてくるだろう、程度に考えておこう。

 ネットラジオも引き続きご声援ください。

[2023年2月28日(火)/続きは後日]

375.
「むだ時間」

 3月になって春めいてきたら、寒波も去った。社会の空気はどう動き出すのか、ちょっと外に出てみようという気分で、昼食をとりに公園に行ったりパン屋に行ったりしながら、近所の写真を撮って歩いた。出先でランチは財布と相談の上、500円ぐらいまで。ぼくは去年の後半、昼飯はうちで乾麺、そばとかラーメンとかばかり食って安く済ませているうちに、飽きた。

 街をぶらつくなど、一連の行動が「むだ」だとかいう罪悪感が頭の片隅にあったりすると、そもそもその「むだ」がやりたいのに、「むだ」を有効活用しようとして余計な《役に立つ》作業を入れ、またいっぱいになってしまうから、いっぱいにしないでだらだらしている「むだ」をぶっ壊さないように、「むだ」に過ごすには、コツがあるようだ。むだに過ごせば少しはだらけて弛むもんでしょう。その倦怠をうっとうしいと言いはじめたら、本末転倒というものだが、うっとうしいと思わず言いたくなる。

 音楽の作業は時間制やシフト制ではない。コロナ騒ぎが終わってきて、毎日の作業は持っているが、今年に入ってコロナが下火になってきました、というこの時節に、作業の「区切り」が、どこか吹っ切れない。いまは社会の混乱がまだ続き、自分の気持もどこか浮ついている。でも毎日の作業のためには、いろんな自分のことを決めてから体が動くわけでしょう。それが、いちいちどこかあいまいな気がしたり、なにか足りないような気がしたりで、つかみどころが見つけにくい。この、抛り出されたような変な開放感(?)をどうするんですか。

 変な欠如感。夕飯のあと、飢えているわけでもないのに「なんかが足りない」、それはめしの話じゃなくて空気感とか気配、雰囲気、すきまみたいなものらしい。いっそどうでもいい居間のけだるさのようなものだったら気楽でいいのに、だらしなく余ったような半端な気分があって、こういうのはどうやって充たすんだろう。試しに煎餅をぼりぼりかじる、ということを何日かやったら3キロばかり太った。ぼくはもともと痩せ型で、同世代のお姉さん方より体重がない人だったから、やっと標準体型になった。それはいいけど、太りすぎはいやだから、夕食後の煎餅はやめた。 

 としをとると太る人もいるそうで、ぼくはまだじじいではないが、煎餅で増えた3キロを燃焼すべく有酸素運動といって、コロナ以前の生活習慣だった散歩をすれば、相対的に音楽の作業時間が減る。怠けているようで、でも次のコンサートのプログラムを2回弾くと1時間半ぐらい、午前と午後それぞれ1回ずつ。ほかにネットラジオのためのアーカイブを録音する時間があって、なんだかんだ、「むだ」の時間を設けた前後は、どうみても「ひま」とは言えない。

 今度のコロナで、時間はともかく「空間」が損なわれた。つまり心の広さも街の広さも、行動制限で「狭くなった」ことに、最近気づいた。国内にいたら、外国がないような生活が3年続き、この期間中、公園でランチなんてまったくやらなかった。3年ぶりにカレーランチをやって、おもわず、なつかしいなあと思った。こういうところから、個人も社会も恢復してくるだろうと見当をつけて、小刻みに外に出てみる。

 コロナとは関係があるのかないのか、ぼくの日常はここしばらくスカスカ簡単な感じになってきて、やることをやる労力さえ惜しまなければ、ひとつひとつの項目はまあどうにかつとまりそうな気がしている。心理学のセルフ・コンフィデンスの考え方を借りれば「ぼくは、ほかでもない、ぼくでいい」ということが徐々にわかる過程なのか。何でか知らないがコロナで「生き方」が問われるようになったらしく、メディアでもこの手の取材が多い。

 この、なんとなく自己肯定感のようなものは、おれは馬鹿ではないかと思うほど単純な感覚で、これでいいんですか。なんて、ひとに訊かなくてもわかるだろう、おまえは最初から馬鹿だよ、とは言わせないが笑、普通の日常は、こんなにだらしのないような、静かで「むだ時間」だったかなと、コロナ前の記憶と比べてみようとする。3年前どうしていたか、うろ覚えで、必要なのは当時の生活習慣ではない、いま現在どうしているでしょうというライヴな感覚のようだ。そのライヴ感が「むだ」と連動しているらしく、なんか変だがそんなようなことらしい。

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[2023年3月31日(金)/続きは後日]

376.
「音楽表現の変化」

 ポストコロナの今、大変な被害をこうむった世界経済のなかで、音楽だって商品として扱われているんだから、アーティストの表現の質が変わるだろう、それはどう変わるのか、という関心がある。これは誰かが意識的に変えるのではなく、時間の推移とともに変わってくるものだと思う。

 ほかの人はどうかわからないが、ぼくは、自分の中でヨーロッパ音楽のロマンスや機能的な技術に対する興味が薄れてきたのではないかと思う。仮に、ぼくのような人が大勢いれば、音楽のロマンスや機能性は主流ではなくなる。好みをいえば、別に嫌いな音楽ではないし、そういうロマンスや機能もあっていい。その影響を受けて音楽をやってきて、ポストコロナでは用事がないから捨てる、ということにもならないだろう。ロマン主義の危機とか行き過ぎなんて19世紀末からすでに言われていた、いまさらなに言ってんですか、という声もあるでしょうが、パンデミックによる世界の変化は、それとは少し性質が違うのではないか。

 なんによらずロマン派のピアノ曲は、ピアニストがそれらに特化しないと弾けない。ぼくはそのためのトレーニングに不熱心なんですが、近代ピアノ奏法の、全部の音の粒をそろえる均一な演奏がぼくの指になじまないから、しょうがない。その必要があるときは、特殊な訓練で音の質をそろえるが、ムリをすると腕を痛める。技巧曲って、べつにロマン派名曲じゃなくてもいろいろあるから、自分に合ったものを弾いていればいいんじゃないか。

 音楽家の行動って、音楽をやることでしょう。その音楽の行動の質の変化が、ポストコロナ、ウィズコロナの今、起きているんだと思う。だから、そんなに難しくない作業をやっているはずが、厄介なものに見えてくるんだろう。別におかしいことをしているわけではないのだ。 

 音楽より日常のほうが大きいのが現実のはずだから、作曲やピアノの練習が日常を超えて肥大するはずはない。いくら超難曲を制作しようが、日常より大きいわけがない。いっけんそう見えても、である。

 コロナでオンラインでいろんな音楽を知ったし、音楽以外の情報も得た。音楽についていえば、コロナ前の自分の音楽の好みが、割合狭かったと思った。よく言えば自分の音楽の世界が拡がった。ぼくは名曲崇拝はないつもりだったが、それでも西洋クラシック音楽にこだわっていたなと思う。そのこだわりは取れたかわりに、自分の音楽鑑賞のスタイルが、現在をあえて説明してみると、こうだとわかりやすく把握できない茫洋とした好みに変わってきているような気がしないでもない(なんだかあいまいな表現ですみません)。もともとなんでも聴くほうだったが、いまは、その音楽の意味作用みたいなのがやや拡散傾向で、なんでもいいやといえば捨て鉢だが、ゲーしそうなものでなければ許す。でも、どうもコロナ前の音楽鑑賞のスタイルに戻る気になれず、事実、戻っていない。

 アートは世俗から出発して、世俗を拒否する、でも世俗を否定するアートは世俗に堕ちる、そんなことを誰かが言っていた。アートが「わからない」「むつかしい」と言われることがあるのもそのためだが、どう言われようが、アートの側では、日常茶飯との交点・接点はなければなんないでしょう。それは、アートを日常化するというようなことではないなんて、ぼくがわざわざ言うまでもないだろう。

 それにしても、パンデミックで街の機能やアーティストの行動が停滞したら、こんなに世の中が硬化するものなのか。しょうがないですよ。日常のさりげないコミュニケーションも馬鹿にならない。気遣いよろしく過ごしてまいりましょう。

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[2023年4月30日(日)/続きは後日]

377.
「あほらしい話」

 ウェブサイトを手作りする人はまだいるだろうか。タグ打ちでHTMLを書くのは、スマホやSNSの現代では原始人がやることか、いまは中学生もコンピュータの授業を受けているから、HTMLなんて、わざわざ話題にすることもないようなものか、いずれにしても多くの現代人にはピンと来ない話題じゃなかろうか。

 自分が旧弊なじじいだといいたいのではない。20年ほど前、近所のゲームセンターにエキサイト・チャットができるコンピュータがおいてあり、面白いからやりに行った。それをうちでもやりたくてIBMのパソコンを買ったんだけど、「メール」というのはそのころみんながやり始めた。『3日でできるホームページ制作入門』とかいうムック本に従って、HTMLの基本を学習し、爾来、おおむねそのとき学んだ程度の、つまり中級までいかないスキルで、今でもこのウェブサイトをやってます。スタイルシートとかジャヴァスクリプトとか、あんまり知らない。必要ならどっかからタグをコピペする。その知らないことに難癖をつけてあほ呼ばわりする人もいるようですが、このさいそういう人はどうぞ穏便に。

 コロナ太りやコロナ鬱は聞くけれど、コロナ呆けはあまり聞かない。しかしぼくは、そのコロナ呆けなのか、世の中にはなぜ男と女がいるのかとか、なぜひとは服を着るのかとかいう疑問がよぎり「ああん?」という気持がある。ひとの体は、服を着ていてもプロポーションが見えます。ミニスカートだってあるし。まあ、パンツは見えないし、人がいるというだけだが、視姦ではないか、なぜわいせつに該当しないのか、というわけだ。そういうことの合目的性ってなにさとか理屈をつけ、どうも意識が絡みがちな今日この頃です。おしゃれもエロティシズムもあっていいんじゃない?われながらあほかと思うが、最近のネット動画も、恋愛物語やセックス講座のような男女のコミュニケーションを扱ったアーカイブが増えているから、ぼくとおなじく、コロナ呆けの、あほに近くなってしまった人もたくさんいるのかもしれない(これは根拠がないから読み飛ばしてくださいよ)。

 ファッションとかおしゃれとか、わざわざ凝るのはひとにいい印象を与えたいからでしょう。ぼくも人に見られる技能は持ってますが、見られたいと思ったことなど全然ない。出たがり屋だと思うけれど、見せたがり屋ではないようだ。これはアートにとっては案外肝心なことで、表現というのは自己吐露じゃないですよ。出さなきゃいけないが、見せびらかすもんじゃない。まあ、ほめられたら嬉しいけどさあ。

 しかし、人騒がせなコロナがどっかへ行ったら、表面的にはもう記憶が薄れ、見た目は街が動いて、マスクの習慣だけが残った。3年もなにしてたんだろう。パンデミック騒ぎは落ち着いてきたが、いま・ここでという日常の現実感が快復しきっていない。茫漠としている。こういうのは、ムリに修復しないほうがいいらしい。これは精神医学の記憶喪失の話だが、忘れていることはムリに思い出さないで、抛っておくのがいいそうだ。その説では、ムリに思い出させると脳じたいが壊れる、とあった。

 だからポストコロナの日常は、コロナ以前の日常を単に取り戻すことではない、とするほうがいいと思う。そうかと言って、まったく新しい現実を作るわけにもいかないから、以前あった生活や文化のスタイルを応用して、少なくとも作り変えるくらいのことは求められていると思う。

 単なるぼくの好みかもしれないが、音楽に限らずヨーロッパのロマンスの気取りが、とれていくんじゃないですか。それと、規則的な4拍子や3拍子の威勢のいい曲を聴いていると、なんか今の時代の空気と食い違って聴こえるんだけど、ぼくだけですか。

 さっきおもてを歩いていて、ふとあたまに浮かんだ「自動口利き機」という言葉。そんな機械あるわけないだろっと笑ったが、もしあるとしたらどういう機械だろうか。でもあったって、「ぽぺーうんじゃらきゅっちょんそんばーれ」とか言ってもらったって、ぜんぜん役に立たん。「自動口ききき」って、なんですか。そういうオブジェを創ってる人がいたりして。しゃべるモヤイ像とか。あほですねえ笑

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[2023年5月31日(水)/続きは後日]

378.
「不確かな手触り」

 以下、段落ごとに主題が違います。お含みください。

 面白さとはなんだろうか、というような、七面倒なことを持ち出すと「あちゃー」という気持になるから、書かないよ。ジャンジョン!しかしながら、先日友達のコンサートで久しぶりに現代音楽の近作を聴いて、「あちゃー(だめだ、の意)」と思ったことをここに白状する。ヒッチコックではないが「I confess」だ。作曲やるんなら、もっと普通に書かんかい。そしてしっかり書かんかい。

 去年の、社会のあまりの暗さに、料理なんかする気がなくなっていたが、最近、ぼちぼち再開している。ゴーヤのスムージーだけは毎日作って飲んでました、だからばてなかったのかな。再開したのは、まずそのゴーヤのスムージーと、取ったわたを使った簡単おつまみ、とうもろこしが出始めたから、コーンポタージュ。つぎはラタトゥイユかなあ。

 毎日、すったもんだなにをして過ごしているのかと思っていたら、「その日の制作」とでも言えばしっくりくるような気がした。前の日とは質が違うなにごとかが作れればよい。図式化すれば毎日おんなじなんだけど、その日課の内側は、毎日みな違う。アートでなくても、これはどの職種でも同じだろう。少し意識的になってみると、その「差」に気づく。毎日小さな絵を1枚描くことにしても、同じ絵は2度と描けない。この、どうやったって質が揃わない、だから、揃うわけがない質の違いは、「均一に」なんかならない。

 パンデミックの3年はおうち文化が必要だ、というわけでオンライン配信も盛んになった。いま、騒ぎが収まってきて、ぼくはあの時期おうち文化がたいそう繁盛していたかのような、変なノスタルジーに釣り込まれそうになることがある。相変わらずオンラインの文化は盛んで、それはいいけれど、同時に、あのとき必要だったことが消え、現在必要なことが問われというふたつのことを考えてなきゃならず、じつにめんどくさくて、ぼくはやらなくていいことは抛ってある。まあ、パンデミック期間は毎日1曲ずつネットラジオ配信をし、作曲も続けていたから、いまになって空虚な気持でなく済んでるんだろう。

 ヨーロッパのメジャーなクラシック音楽界はいまどうしているんだろうと、ネットでちょっと見てみたら、コロナ前と変わらないようだ。西欧人がクラシック音楽をやるのは、自分たちの伝統芸術だから、別に変なことではないが、それなら日本の能楽や雅楽も、欧米化などといわずに、同等に大事ですよ。ピアノもヴァイオリンも国籍を超えた楽器になり、日本の尺八や筝も同様に世界の楽器になった。だから、それぞれの国や地域が伝統芸術や伝統芸能を持って、その上で新しい創作をすればいいという、いちおうあたりまえの、ひとつの関係があることになる。でも、これは言うだけならみんな言うが、実際はいつだってそうはならずに、欧米文化優勢で不平等な文化のあり方だった。コロナで西洋近代やグローバリゼーションの終息を言う人はいるが、この問題が、まだ解決していなかったのはなぜだったか。

   ひとの行動や興味の「型」というのは目に見えないし、記述の方法もなさそうですが、そのひとの収集選択の傾向を通して推察したり、鑑賞したりすることはできる。それとわかる特徴は、目に見える形とは限らない。この点、音というのは、出処がわからなくても聴こえてきて、聴いた人になにかを思わせる。それが「型」なんですというのは強引過ぎますが、音や音楽の「型」というのは、音が聴こえて来たというところから始まってんじゃないですかねえ。違いますか。あいまいな思索なんかから音楽は出てこない。ぼくたちは普段は意識もせずに通り過ぎているのだけれど、音楽の素材には、こんなさりげない音もあり、誰かがそれに着目するところから、音楽の制作が始まる。

 ぼくは、今年6月の自分のコンサートでは選曲も演奏も、むつかしさを少し避け、控えめにしようと思った。コロナが一応過ぎたばかりで、どこぞではまだ戦争をやっている。そういうときに大掛かりな音楽は似合わないと思った。しかし稽古しているうちに、その「控えめ」にも難しさがあることに気づいた。控えめなら控えめなりの「気の遣いかた」があり、やっぱり行き届いたトレーニングは必要だ。残念ながらラクはできず、あーあーあー。特定の音楽伝統がないような場所で、どういう型に則ればいいかがわかるために、3ヵ月も準備していた。コンサートを作るには2ヶ月程度必要だといったのはスヴャトスラフ・リヒテルだが、やっぱりその程度の時間はかけて創るものなのだろう。

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[2023年6月30日(木)/続きは後日]

379.
  「呆れる語呂合わせ付き暑中見舞」

 序。爺さんもすなるおやじギャグといふものを、若僧もしてみむとてするなり。

 えー暑中お見舞申し上げます。この暑さでは散歩もできない。いや、ちょっと涼しい夜に歩きに出ることはできるかもしれないが、めんどうで寝てしまう。少しずつ作曲のメモを取って、まだ本格的には書かず、先月6月のコンサートの疲れを癒している。次の作品は、ばかばかしいような色彩照明で演奏家をぴかっと照らしてやろう、これがホントの『人間の証明[しょうめい]』(ウスバカゲロウみたいだね。薄馬鹿下郎)などと、どうしようもない思いつきに思わずニヤニヤして、周りの人は気味が悪いだろうか。

 この半年は、社会状況の悪さを気にして、念を入れてピアノの稽古ばかり馬鹿丁寧にやり(語呂合わせですか)、ほかのことに気が回らなかった。なんだか、近所は雰囲気が明るくも暗くもない、つかみどころがないような状況だ。ピアノの稽古ばかりというのは良し悪しだと思ったが、まあしかたがないと観念してやっていた。これを「生暖かい生活環境」とは言わないかな(なんだかあほみたい)。

 それでコンサートを終え、休みながら、中断していた小説の読書の続きを始めた。ちょっと読んでは離れ、雑用をやってまた戻り、という具合で、興味があるから抛り出さずに続いている。生活の役に立たない。この「役に立たない」というところが肝心[かんじん]で、本のなかには漢字[かんじ]があり、読めると感心[かんしん]だ(語呂合わせですか)。「うー、さぶ」ですか。確かに寒心[かんしん]だよね。

 でもアレですね、アートが日常の「役に立たない」にもかかわらず必要で、ないととても困る、と今回のコロナでよくわかったが、「役に立たない」ということはあらかじめ定義できず、こうだろうと狙いを定めて、弓道のように、えいっと矢を放って運よく中る、そのえいっと放つセンスはなかなか習得しにくい。えいっと放ったつもりが、へたをすると的から外れて「あちゃー」ということになりかねない。えいっと気合を入れて、えいっと放つ技術も必要らしい。そのえいっと放つトレーニングを楽器の演奏の場合もやりますが、外れる確率はゼロにはならない。外れると、役に立ってしまう。いくらえいっと気合を入れても、人間に完全ということはないので、だらしがないようですが不完全を受け入れてみることにした。このほうが正直ではないか。そのうえで、えいっと、なるべく間違えないようする。どうだろうか、これで「えいっと」が8回で eight(わーい…)。

 白状しますが、音楽では、なんで楽譜どおりに演奏するのか、あたりまえのことがわからなくなるときがある。もちろん楽譜をなぞって弾きますが、ほかに演奏マナーがなさそうだから、そうするための努力を払っている。無茶苦茶や出鱈目を弾くつもりがないから、自分やひとが書いた楽譜を弾いている。

 障子[しょうじ]を開け、未知の音楽を招じ[しょうじ]入れる(語呂合わせですか)。廊下[ろうか]を歩いてきたのは老化[ろうか]をものともせぬ東海林庄二郎か[しょうじ・しょうじろうか](語呂合わせですか)。ジャンジョン!

 「下手に書く」「下手に弾く」。いい先輩ほど、「上手」を退け「下手」であることを強調する。実際にやってみると、「下手」であろうとして一生懸命やっていると上手になってしまうことがある。それは、元来不均一な人の感情をヤスリでごしごししごいて摩擦を減らすような行為に似ている気がする。必殺しごき人の、骨折り損のくたびれもうけだが、なおさら厄介なのは、「下手になるにも、ある程度練習を継続する必要がある」ということで、そんなようなことをあれこれ考えた挙句、ぼくは「不均一」という実際の質感とか概念を受け入れようと思った。そのほうが、感情の自然な萌芽[ほうが](語呂合わせですか)。 

 身も蓋もない言い方になるが、ヨーロッパ音楽の教養を強要されて共用しているうちに(語呂合わせですか)秋が来て飽きがきて(へー)退屈だったり苦痛だったりしてたんじゃないのか。それは、ほかの地域の目新しい音楽に感化されるのがいいっていうわけでもないが、でもそういう体験はいけませんという音楽教師だって現実にいるし、天才はモーツァルト一人だけですなーんて言ってる人だっています。自分の周りだけなら反論もできるけど、地球の文明都市ではおおかたみんなそうなんだから、うかうかものも言えなかった。20世紀音楽はわけがわからないから、古典派やロマン派を聴けばいい、ロックやテクノは低俗な音楽、聴くべきは高級な音楽なんだって。ぼくは学童期にこういうことを、作曲やピアノの教師から実際に言われたんですよ。馬の耳に念仏というものだ(意味がわからないっ)。

 石楠花[しゃくなげ]の花を使って、ぱっと、その石楠花が宙に消える手品。あまりに鮮やか過ぎて観客は腹を立てた。これがホントの癪な芸[しゃくなげい]。はい、おわり。今日は終わり。

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[2023年7月30日(日)/続きは後日]

380.
「ポストコロナで変わること」

 音楽を全部あたまのなかで作ってしまってから楽譜を書くこと、と言ったのはシューマンだが、人間にそんなことができるのですかね。作曲家のあたまの中には、出来上がった音楽作品が、聴こえていると思っている人は多いらしいけれど、一般的に言えば、それはウソですよ。音楽家ではないが、例えば作家の芥川龍之介は、全部アタマのなかで作ってしまい、あとは書くだけだったと、谷崎潤一郎が言っていた。しかし、こういう人は何パーセントぐらいいるんだろうか。

 似たようなことだが、音楽作品の感情や感覚の表現は、人間のなまの感覚や感情の表現とは違う。感情の乖離作用があるから、悲しみを楽しむことができるとチャールズ・ローゼンは言っている。それを音大の作曲の先生が「義理で音楽をやっている」なんて批判しないでくださいよ(笑)そんなことでは、そもそも音楽なんかできないんだ。

 ぼく自身のいまの率直な感覚は、機能和声(functional harmony)に対して共感がだんだんなくなっているということ。ここは正直になりたいところで、たいした共感がないんだったら、それはついでにつきあう程度でいいことになる。機能和声のトニックの和音を中央に持ってきて「力」だと言ったのはベートーヴェンという人だが、どうもそのたぐいの美学が成り立たないような気持がする。いまさらこんなことを持ち出さなくても、じつは、はるか以前に機能和声はシステムであることをやめた。そうでなければ、19世紀後半以降の調性音楽の極端な変質はなかったはずだと思う。このこととコロナとどう関係があるのかは知らないよ。なんだか知らないがコロナ騒動は終息してきたが、音楽の問題であってもなくても、コミュニケーションを考え直す機運がいろんな場所で高まっているように見えますが、どうですか。

 心理学でいう「ゲシュタルト」という用語について詳しくないが、「全体」というような意味だと理解しています。コロナ騒ぎでみんなのゲシュタルトが得にくくなっている、という気がする。なんだか知らないがまとまりを欠くという気持の状態ではないか。コロナが5類に引き下げられたら、国内の老若男女がこぞってマッチングアプリをつかって異性交遊がブームになっているそうですね。これだってコミュニケーションの復活や快復を図る方便にみんなが走っている、ひとつの動きだろう。

 ピアノ教育では、バッハの『平均律』を毎日のパンとして勉強せよ、これもシューマンの言葉だが、ぼくには『平均律』は高踏的すぎるから、長期計画で『インヴェンションとシンフォニア』をさらいなおしている。中学生のころのレッスンでやらなかった曲があり、それは間違いなく、当時の教師が自分も弾けなかったから誤魔化して採り上げなかったとか、そういう事情でもあったんだろう。ともかく、40年経ってみると、バッハについていろいろ当時とは違うものが見えるから、さらいなおしは無駄ではないと、自分を禿げ増す(「励ます」だよね。ぼくは禿げてない)意味で書いておく。と言うのも、「不均一」などと言い出したまではカッコいいが、「不均一」な弾き方がうまくいかず、器用に弾けなくて自己嫌悪がつのる現実があるからだ(苦笑)。これはたいていの曲でそうなので、楽譜やひとの演奏にだまさて、「自分の音の質」が最初は見えてこない。少し弾いているうちに、自分の感覚の質のようなものがわかってくる、楽譜というのはその発見のためのツールなのだが、リズムも音色も、最初はどうしても、楽譜どおりに「均一に」とろうとする。

 ヨーロッパの和声を採用しないのなら、作曲家は自分の耳だけに頼って楽譜を書くことになる。でも、この8月に1曲書いて、仕上げの段階で、必要もないのになぜか「中心音」にこだわった。理由はわからないが、コロナ前は自分が思っているよりはヨーロッパを意識していた、そのなごりなのか。もしそうだとしても、ポストコロナとグローバリゼーションの衰退の関係がわからない。

 なにか時代や社会の変化で、ゲシュタルト崩壊のようなことが起きたとき、ひとは、それまで禁忌だったなにごとかを受け入れて許して、採り入れるという知性を働かせるらしいんですよ。これは主体と対象の関係で、どうも、それを率先して行うのがアートの領域のようだが、デュシャンの便器や、ピカソのキュビスムみたいに極端な形で出てくると、おもしろいが、戸惑いもある。作り手の側は、ピカソのような天才でも、分析的キュビスムの時期にはほとんど作品を発表しなかった。これはしかたがないことなのですか。

 アートを受け取る場合、どんなアートがあるのか選択肢が見えていなければ選びようがないのに、言うほどの選択肢がないのか、そんなはずはないだろう、数が多すぎるのか、先ほども必要で本屋に行ったが、なにを読もうか、アタマがまとまらない。いま必要な1冊を注文して帰ってきた。どうもコロナ騒ぎの余波は、まだしばらく続くらしい。

 ネットラジオも引き続きご声援ください。

[2023年8月31日(木)/続きは後日]

381.
  「ばらつきの問題」

 標準的なピアノ教育では、ピアノの88の鍵盤を「均一」に弾くように躾けられるが、これだと、練習を重ねるほど音の質が揃ってくる。要するにマンネリ化なので、ふつうはほめられない「不ぞろい」を忘れないようにして、またやってみる。ピアノ自体が、各音の質をそろえるように設備された楽器なら、まったくむだな努力をしていることになるが、均一は面白くない。いろんな場面で、楽器と奏者の組み合わせによって、とても面白い演奏の不均一を聴くことができる。

 ヨーロッパの音楽伝統に属しておらず、でも調性を使っている曲は、あからさまに「不均一」が楽譜に書いてあり、その凸凹をなぞって弾くと、各音ごとの質のばらつきに戸惑うことがある。そしてその同じ感覚で、たとえばバッハは弾けますかどうか。ぼくはこれをちょっとずつ試してみている。

 それは、些細なことにはこだわらない、という寛容さが大事なはずなんですけどね、生演奏だったらごまかせるものが、録音ということになると枝葉のアラにやたらにこだわって、やれあの1音をかすった、それペダルで和音がにごったとけちをつける。メディアに音を定着するのは、絵を描くようなもので、それが生演奏と違うのだと今は思うが、NGの連続で1時間も弾きなおした挙句、なぜこうも微力なのかと天を仰ぐ毎日でしたが、最近ちょっと気持が変わってきた。ピアノの練習の過程を制作の過程と捉えることができるようになった。徒労でも馬鹿でもないと思うようになった。

 1日、あちこちに手をつけてまとまらず、なにをしてるんだかよくわからない日がある。ただいま、コンサートのための選曲中なんですが、何が作りたいのか。自分でつかみかねてもどかしい。友達は、ぼくより頭がいいらしく、この種のもどかしさをあらかじめ避ける人もいる。そうじゃなく、これならだいたい手に負えるだろうと見当をつけて選んだ曲を弾いてみたら、ありゃー、手こずることのほうが多い。

 毎日1曲ずつ、短い曲を選んでおいて、ネットラジオ用に録音する。業務用のスタジオ収録だったら、ざっと全体を弾き、間違えた箇所をデジタル編集で差し替える。ぼくは、録音が1回で済めばさぞせいせいすることだろうと思うが、なんで1発録り修正なしOKの先生大勝利みたいな幻想に自分がしつこくこだわっているのか、自分でもわからない。なんだか、審判みたいなのが腹のあたりにどんと居座って、おれが納得するまでやり直せ、と言わんばかりだ。囚われの身になった、ということですかね。こうしてここにわざわざ楽屋話を書いているのは、その囚われの身が癪だが事実は事実だから、せいぜい悔い改め、精進しろ、この馬鹿もん、という、自戒の念といえば聞こえはいいものの、マゾ調教ではないか。見せしめを自分から志願してる作文です。

 そんなような試行で、別に音楽の世界を変えようと思っているわけではない。自分がやりたいようにやってみたいだけです。その結果が「新たなアカデミズムに過ぎず」(エルネスト・サバト)だったら困るから、ちょっとずつ考えて先を作っている。

 もしも、音楽ビジネスが音質の不ぞろいを受け入れたら、音楽の売り買いも含めてシステムの総見直しが必要なんじゃなかろうか。いや、一般的に言う前に、ぼくはピアノの音楽教育で躾けられる音の粒の均一という、概念・技術のありようを受け入れかねている。勝手に受け入れかねていればよい、で済むでしょうか。名曲崇拝や超絶技巧は、どうなるんですか。ジョン・ケージは音の質の不ぞろいということは言わなかったけれど、プリペアド・ピアノとか、チャンス・オペレーションとか、晩年のタイム・ブラケットとかいう音楽の作り方は、均一な楽器の演奏法からは出てこない。

 ご馳走だって毎日食べていると飽きる。アートのような精神文化も、高級品があればいいってもんでもない。また書くけどマンネリ化がまずいので、音楽のように、受動的に聴き流してもいいものは、量産して質が落ちるとやばいことになりますぜ(と書いてみたかった)。聴いていて情けなくなるような曲は、好き好んで聴かなくてもいい。そうかといって高級料理ばかり食べていれば、全員が北大路魯山人になるかもしれず、それでなんなんでしょうかねえ。

 ネットラジオも引き続きご声援ください。

[2023年9月30日(土)/続きは後日]

382.
「こんばんは」(こういう題でもいいだろう)

 今は、社会の全体を見渡す、という時期なのか。まず自分たちの身の回りから見直し、次に友達と会ってコミュニケーションをとり、というような順序があるらしい。

 物価が全体的に上がって、300円のコーヒーや700円のラーメンは高いと思う。そういう吝嗇な経済感覚が身についてしまったけれど、いまは、たまには、あえて喫茶店や食堂に入り、つかのま、ゆっくりしてみる。それでゆっくりできなきゃ、ムリにやらなくてもいいが、ここしばらく試してみたら、幸い面倒なことを考えずに済んでいる。土曜日の夕方には飲み屋さんが賑わう。ぼくは本式の酒飲みではないから、夕方5時から酒を飲む習慣はない。親友たちはなぜか、申し合わせたように飲まない人ばかりだ。

 芝居見物とかコンサート鑑賞とかは、高級娯楽だと思われていた時代もあったようですが、どうやらそういうのは古い考えになってきた。だけどこの方面は、内容が難しすぎると、演じる側の努力が空回りして、観客に付き合ってもらえないようなこともおきるだろう。ぼくは今のところ、職場やコミュニティに所属しないまま、小規模なコンサートを主催し、作曲も出演もしている。メジャー路線ではないから目立たずすみません。

 秋は日光が心地いいから公園までお散歩して、写真を撮って、缶コーヒー飲んで景色を楽しんで、とやっていたら、虫が飛んできた。見たれば、え、アシナガバチ!こちらに歩いてきて、ぼくのジャンパーを登ってくる!留まる気配がない。友達だと思ってくれているのかも知れんが、これ危険な状況じゃないのっと思ったから、パーンと払いのけ、急いでその場から直ちに逃げたよ。

 これから日本は冬に向かう。今はまだ暖かい日がある。4時を過ぎれば日が暮れるんで、部屋での作業を打ち切って、日光を浴びに行く。そこらの写真を撮って遊んでいる。本日は午前中は曇り空でいやな感じだったが、午後から晴れて、今さっき公園でコーヒー飲んでました。

 規則正しい生活をしましょう、健康づくりにはよくこれが言われる。でも午前中は寝ている人もいる。当然、起きている人もいる。ぼくは朝寝坊のクチだったが、ある日を境に朝起きれるようになったが、先日数年ぶりに寝坊し、午前10時に起きた。

 数あるピアノ曲の中には、几帳面に拍をとらない弾き方をするほうが面白いものもある。どうも「緩める」技術というのがあるらしい。逆に拍をきちんとそろえたほうがいいものもある。なんでだろう面白いなどと、公園でコーヒーを飲みながら思いついて、まあゆっくり考えましょう。

 コロナの3年のあいだに録音したピアノ演奏の中には、話にならない出来とは言わなくても、なんだか奇矯な判断の産物だなと思わせるものがたまにある。全部とは言わない。2020年にネットラジオを始めたころは、とにかく覚えている曲はひととおり弾こうと意気込んだが、多楽章のソナタなんかは、ふつう一発録りなんかやらないから、傷はあるけど通ったよというようなものもいくらかある。そういうのは当時の状況にかんがみて、大目に見ることにした。だって、しょうがないでしょうよ。

 ほかに書くことがあったような気がするが、今日はここらでアップロードします。ネットラジオも引き続きご声援ください。

[2023年10月31日(火)/続きは後日]

383.
「遊び、いまと昔」

 無垢な子供時代がよかった、それに較べて今はなんじゃこりゃ、というような爺婆談義や自伝は書かないよ。幼稚園かそれ以前の時代については、あやふやな記憶しかない。一番最初の記憶は、両親と3人で風呂に入っている光景だが、本当に自分の記憶なのかは疑わしい。その時代によく見たテレビのアニメーション『妖怪人間ベム』の復刻版が、最近、 YouTubeで見られるようになり、喜ばしい。でもぼくはこのアニメを白黒テレビで見たか、カラーテレビで見たか、よく覚えていない。いま見て、この作品の堅牢な創りに驚く。面白いということです。

 幼稚園時代のちょっとエロい思い出をひとつ。夏場、男女の園児たちを女の先生方が、水遊び場のようなプールに入れるのだが、全員をパンツ1枚にさせて、水着じゃなくパンツのまま入れるんですよ。それで遊びまわったあと、先生方は男女の園児を一人ずつ裸にさせ、パンツを洗って水気を絞る。そのあいだ園児は素裸のまま待っており、つい、体が反応しちゃった子もいた。

 最近のぼくはパソコンを床において、テレビにつないで這い這いの格好で作業をしているが、まるで赤ん坊ではないか。それで悪いということはないが、このパソコンとピアノと机を、同じ部屋の中で交互に使って、なにしてんだか文書のようなもの、楽譜みたいなもの、演奏らしいものをでかしているさまは、どう見ても「仕事」はしてないかのようだ。

 じゃあ、どういうことを「仕事」と言うのだろうか。以前もちょっと書いたけれど、労働の対価として金銭を受け取ることが「仕事」だという定義をしている人が、ぼくにはどうも苦手です。音楽家ではあるが収入を音楽活動以外から得ている人が、その音楽活動以外の働きを「仕事」という口調は、いくらか高圧的で、ぼくには不快だ。

 最近、レトルトカレーにまつわる思い出がしきりに心に浮かぶ。昼飯がレトルトカレーが多いからだが、以前は「ヒートパック」といったこれらのカレー、昭和40年代には、大塚のボンカレーと、ハウスのククレカレーの2種類しかなかった。ボンカレーのほうが味がいいという(ほんとうかどうかはわからない)噂もあった。ぼくはボンカレーのほうでした。クリスマスには、近所の肉屋さんで白いブロイラーを揚げてもらい、新聞紙に包み、輪ゴムでくくった熱いのを抱きかかえて、幸せ満面で帰宅しました。いま近所のスーパーには、ボンカレーだけで10種類もある。骨なしフライドチキンもある。

 ぼくが通っていた田舎の高等学校では、カラオケ、ボーリング、教師に隠れて喫茶店でインベーダーゲームなどが「遊び」だったらしいが、ぼくはそのどれもやらなかった。なんか集団で隠れて群れている同級生たちがいたようだが、その世界は知らなかった。「あるモード」を共有していなければ、そのグループに入れないなんて、せこいじゃないか。ぼくは、「遊び」というカテゴリーをわざわざ作らなかった。中学生のときは美術部で油絵を描いていた。こういうのは「遊び」のはずで、まさか「学問」ではないが、そのどちらかだとも思わなかった。

 新人類の世代は、敗戦のあとの社会の復興、高度経済成長といわれた一連の変化を体験した。ピアノだってこの頃一般家庭に普及しだした。電化製品ではテレビ。電子レンジとか、冷蔵庫とか、洗濯機とか、いちじ餅つき機なども人気だった。一般家庭用のカセットテープレコーダー第1号機がうちにありました。ソニーの製品を、どなたかからいただいたらしい。

 旧い記憶、例えば戦争の惨状を切に訴える大人がいるが、もっともだと同情しながら、体験していない者は実感が沸かない。いまだって戦争中で、有害無益なプロパガンダはやめてくれと怒鳴りたい心境だが、それをそこらじゅうにわめき散らしたりしない。

 パンデミック騒ぎがいちおう収まって、大勢が集まれる日常が戻ったから、先日、友達が小さな舞踏パーティーを主催してくれて、20人ほどが集まり、軽飲食などしながら自由参加で簡単なダンスをした。じつに4年ぶりにこういう催し物に出かけたことになる。面白かったし、きれいなお姉ちゃんもいた。ここで「きれいなお姉ちゃん」をわざわざ強調するのは、助兵衛根性でもなんでもなく、美人さんがいると楽しいよということが言いたいのです。ああ美人さん。

 遊びの話だから、ほかにも話題があるだろうが、今日はここらでアップロードします。写真は、かがやかしい夕日に照り映えた絢爛豪華な7階建てマンションです。ネットラジオも引き続きご声援ください。

[2023年11月30日(木)/続きは後日]

384.
「歳末の風景」

 ひとりぽつねんと、「ないもの」のまえで手持ち無沙汰にしている。なにが欲しいんだろうと、しばらく様子を見ていたら、どうもそれは「立体的なもの」らしい。目の前に「立体」がないので、物足りないような、ひまそうな気持なのだ。空虚とはちょっと違う。人でも物でもいい、対話の相手がいたら(あったら)いいのに、ここしばらくは、ない。しばらく忙しかったが、用事が済んでひまー。

 読みかけの小説があるから、読書でもしようと思うが、数日前までの忙しさのほとぼりが冷めてから、だろうか。小説の舞台と人物を想像の中で組み立てて面白がる、というようなことがやりたいのだが、まだなんだかめんどくさい。今年の夏、作曲していて、朗読用のテキストを探す途上で買い求めた掌編小説集。いまさっき、ちょっと読んでみた。文学テキストを読むと、想像力が立体的になるのかな。そうだったら面白いな。

 ひとは、対象をあてがわれると、それに向けて反応する。アプローチする。そんな対象を求めて日々過ごしている。その反応は、フレッシュなほうがいい。なに書いてんですか、「新鮮なほうがいい」でいいところをわざとフレッシュなんて英語で行くのは、もう時代遅れではないかなどと、爺むさい独り言を書いて薄ら笑いを浮かべる、そんな気味の悪い歳末ではないほうがいいかもしれませんね。

 こう書くと、ぼくは気味が悪いことが好きだと間違われそうだが、それは間違ってますよ。以前ぼくがよくピアノの連弾をさせてもらったピアニストのB子さんは、酒豪で、薄暗い部屋が好きだそうです。本人が言ってるんだから間違いない。彼女の名誉のために言っとくけど、この人はアル中ではない。薄暗い部屋といっても、カーテンを閉め切って、酒を飲みながら鏡の前でニヤニヤとしなを作っているわけでもないだろう。むしろ人柄は豪胆で、男勝りの部分もあるんだ(性格がですよ)。

 立体というと思い浮かぶのは、建築だ。でも立体は四角いとは限らない。「四角いに決まっている」というような初歩的な固定観念に気がつかず、家屋の床が斜めになっていたらまともに歩けないことも知らず、豆腐は四角いと信じて疑いもしないのが、ほかでもない、ぼくでしたよ、はっはっは。円い豆腐だってあるじゃないか。「なにゆゑに室は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まわす」(前川佐美雄)

 ひとの想像力・創造性はどんな形をしているのか、知りたいものだ。音楽の場合、もしそういう対象が形にできたら、面白いだろうなと思うけれど、それは間接的に、媒体を通じてしか表せない。想像力や創造性は、目に、見えまひぇん(つまらんところでくすぐってすみません)。媒体そのものは、どうやら立体の骨組みみたいなもののようで、それが鑑賞者のある感情を喚起する。でも、なぜおもしろいかと問うてみたところで、なんでったって、わかんないんでしょうかねえ。 

 だからアートにおける「表現」というのは、見る人聴く人の前にある対象そのものではない。その対象をあらわす媒体を作る人、その媒体そのもの、その媒介を受け取り体験する鑑賞者、この3者がそろって初めて成り立つものです(さいたま市智心会理事長の渡辺智英夫氏は、「おいしいもの」を鑑賞者に食べさせろ、サービスしろ、なんて言っていたが、精神年齢いくつですか。その鑑賞者とやらはどうやら理事長ご自身だったらしい。馬鹿を晒すと近所迷惑だ、なんて言っても医療行政は平然としているだろうね)。

 「楽しいことの、なにが悪い」と最近、ときどき思う。それは、現実のいろんな場面の主役や主催者は、準備も施工もなにかと気を遣うし、大変なものだ、が、そのことを承知の上で、楽しみのなにが悪い。(なにが)÷い。平和で楽しいに越したことはないじゃないか。そんな声なき声が聞こえてくる瞬間がありました。憤怒の竜のごとくどっかがいきり立ち、「楽しいことの、なにが悪い」(別にいきり立たないか)。

 それにしても、楽しいイヴェントやコンサートは非日常かなあ。ひと月ちょっと前、友達の美人ダンサーさんが主催したパーティーに行って、なんだか男女4人で輪になって踊ってきたが、こういうのは非日常ですか。日常がちょっと盛り上がるんじゃなくて?ぼくはこっちで行きたいです。非日常と言われてもピンとこない。日常だったらつまらんということですか。普通に考えて、日常、夢見ることは面白いが、日常が夢だったら、変な日常になるんじゃないか。

 平和も度が過ぎると、刺激も苦労もなさすぎて頭がボケるようですが、生活苦ばかりでもなんですから、創造性たくましく生き、明るいことを考えて日々過ごしましょう。ネットラジオも引き続きご声援ください。

[2023年12月29日(金)/続きは後日]

385.

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