目次

江村夏樹が作曲や演奏で実践していること
(何を考えてやっているか)
そのXVII

江村夏樹


385.
「年が改まりました」

 やっとコロナが収束したようですね。引き続きできることをできるところまで続けてまいりましょう。ぼくはモノを作るのが好きなので、「作る」とここに書いておきます。

 もうしばらくネットラジオも続けますので、お立ち寄りください。



[2024年元旦(月)/続きは後日]

386.
「近況報告」

 1月中になんかコメントをアップするつもりだったんですが、作曲を始めたら、そっちばかりやってました。今日は1月30日。日本は元日から、祈るしかない現実に見舞われ、そのせいかどうか、1月は時間の流れがとてもゆっくりしていました。ネットラジオ続けてますので応援してください。

 作曲で疲れたから、こっちで息抜きがてら雑談します。誰かが言っているように、音楽は苦しみながら作るものではない。基本的にぼくはこれに賛成です。それに、ぼくは音楽で政治をするつもりはない。ひとつの音楽は、何かメッセージを伝える媒介であればいいので、プロパガンダやスローガンというような「社会を動かす名目で制作された音楽」は、ぼくには興味がない。それは媒介ではなくてメッセージそのものだとすると、音楽表現としてはずいぶん変なものになると思う。誰かを操って自分の意のままにしようとする音楽は、感じのいいものではない。

 近所のスーパーの夜勤のM嬢とは顔なじみで、2度ほど、せがまれて駄菓子を買ってあげたことがあるが、ぼくにはスーパーの女店員を言葉巧みにかどわかし、いけないことを企てるつもりはまったくない。美女たちに金銭をばらまいてハーレムみたいにいいことをする気も全然ない。これは責任逃れでもなくてですね、江村はまじめな人間だということが信じてもらえないから、大きな声で広告しているんですよ。わかりましたか。じゃんじょん!

 お正月明けからの毎日の過ごし方を白状すれば、昨日書いた楽譜の響きが、今日は違って聴こえるという日々で、細部を修正しているうちに形が変わり、そのうちに、何がやりたいのかがわからなくなってきて、休憩を入れたり、飯を食ったりしている。書こうとしているのはピアノ曲で、ある内声をオブリガートとして任意の木管楽器で吹いてもいい。これを背景にして、ダンサーが舞う。そういう曲なんですが、まだできてないけれど、漠然と全体はある。書いてみれば何かの音は書ける。楽譜を書くときにピアノは使わない。その日書いたことをピアノで弾いてみると、勘で楽譜に書いた音程と、少しずれている。ずれているのはいやだから手直しをする。この繰り返しで、やっと自分が何をしているのかがわかってきたか。馬鹿野郎わかってきたか(いきり立たなくてもいいじゃない)。

 自分の趣味にこだわるのは音楽でも何でも、あんまり芸のないことで、こだわってたらそこで止まってしまうじゃないか。そういうマニエリスムを自慢しているのは、格好が悪いぐらいならいいけど、じきに馬鹿扱いされますから、マスカラをあまり自慢すると、馬鹿にされますから、と際限なく続いていく。

 曲作って、「駄作」という題をつけて平然としているのも面白いかなどと、考えては薄ら笑いを浮かべたりなんかしたら、ぼくは気持が悪い人かもしれない。ピアノ曲『駄作』とか。チラシに載せたら、どんな反応だろうか。誰も聴きに来ないかな。 

 YouTube 動画を見ていると、「何でも弾けるピアニスト」がいるようだが、どの曲も同じような演奏にならないか。何でも弾きますというパフォーマンスは飽きますよ。それともこの人は、有名曲を全部弾いて技術を鍛えたあと、内容を考えようというつもりなんですかね。そうもいかないはずなんだが。まあ、好きにおやりください。ぼくは超絶技巧は持ってない。弾きたい曲を弾く、必要な技術はある、でいいと思うんだ。

 ヨーロッパの調性音楽では3度音程が調性感を決めることが多いから、それ以外の音程を持ち込んで不協和を作る。2度とか4度とか7度なんかを多用する手法が、調性システムを使わない音楽の常套手段のようになったということを、昨日リゲティの曲を聴いていて、いまさらのように確認した。それで、ぼくがいまやっている自分の作曲だってその傾向はあるが、調性と無調を対立させないで、両方の音程感が出てきてもいいことにしたらどうかとやってみたら、事態は好転しだした。どうも、調性と無調を対立としてとらえるのではなくて、でも折衷というのでもなくて、となれば、並置、並行か。こういうことの研究をしたわけではないのでよくわかんないが、そういうふうにやってみている。付け加えますが、日ごろは変な研究をしているのでもないんですよ。

 コロナの最中、特に後半から、街の通行人とか、ときどき会う友達とかが「なんか足りない」。文句を言っているんじゃなくて、なにか欠如です。みなさんどうですか。最近、この欠如感は、どさくさにまぎれて後退しつつありますが、隣同士で変な距離感ができているのは、生命体の何かの防御だろうか。欠如に気づきながら日々すごしているうちに、巷に何かできてくることがあるのかなと、近所を観察しながら、自分のことをやっています。

[2024年1月31日(火)/続きは後日]

387.
「コミュニケーション」

 ぼくはシェーンベルクのピアノ曲を弾く場合、12音作品じゃなくて無調作品のほうが性にあっている。それで、以前弾いたものはほとんど全部、彼の12音作品より前の無調音楽で、『6つのピアノ小品』が回数は一番多い。6年前に作品23を弾いたときは、いろんな事情で、バランスを欠いた気に入らない演奏になって、自己評価は低いが、オンラインでこのときの演奏を評価してくれる人が多いのは、どうしてだろうか。

 1月に励んでいた作曲が終わったとき、抛り出されたようで、ぼくが曲を抛り出したんじゃなくて、曲に抛り出されたようで、ひまになった。休息も必要かと思って怠け、怠けながら次のコンサートの「型」とか「形」を考えて、と思っていたら、2月にもう1曲書くことになった。ゆっくりな曲で、書くこと自体はシンプルだが、これでも作曲だ。ぼくは以前から、作曲とピアノの練習と、二束のわらじが履けないたちで、作曲だってそんなにぱっぱと片付かないから、あたまが混乱しないように、作曲の期間中はやさしいピアノ曲ばかり弾いている。そのやさしい曲がじつはくせものだったりなんかして、サボるつもりで手を焼いている。

 元日から地震で、正月がなかったような今年は、ぼくには2月になっても、なんかけじめがないような気分だ。気持のまとまりが悪いから、気をつけてゆっくり進めなければならず、不自由な感覚がついて回る。

 それでもコロナは見たところ下火になったらしい。3年間のパンデミックのあいだ、あたまがコロナの話題でかき乱され、今ごろ、態勢を立て直すのが厄介だとぼやきながら、自分の持ち場でゆとりをとりもどす工事のようなことをやっている。日常の見た目の損害はないが、3年も気骨が折れたあとでは、コロナ禍だぞという、もうないはずの以前の危機感が、まだ残っているんですか。

 どうもいろんな決断がにぶいのは、春が来るからでもあるが、環境に対する遠慮からだと思う。3年にわたるコロナが終わったら、外食屋さんはともかく、ぼくたちのような新しいアートの作り手は、外回り=場は作れても、出し物で挑戦しようという意気込みがどうしても愚図る。コロナが終わってきた時期にこれだ。場を作り出し物を作る側としては、何かをやってみるとわかることがあるんだけど、それをやる気力は生活環境からもらってます。コロナ禍でも限られたミュージシャンたちは活動を続けました。そして今です。少数の理解者を当てにして、何ができるかを決めるのは、なんか、「ぬれた海水パンツを脱ぐような」(安部公房氏による)もどかしさがある。まあ、そこまで大げさなものかどうかは別として、何を作るかが、大変見えにくい。

 でも、「迷う」ということは、時間が許せばやったほうがよさそうです。ゆとりというのはそういう収集選択のための時間と空間なのだろう。やみくもにてあたり次第、片っ端からやってみたほうがいい場合もあるが、一刻を争うときに、それはできない。その日の天気が晴れだったら、しごとで迷ったとき、抛り投げて、しばらく外に出てみたらどうか。

 25年前に弾いた曲を、今さらいなおすと、以前の記憶をなぞっていても弾けない。時間が経って、そうではなく、こうである、という像が現れる。だから演奏は「再現芸術」じゃないと、改めて思う。毎回の演奏が、それぞれ別の企画に立脚している。ぼくは昨晩早く眼が覚めてしまい、朝少しピアノを弾いたあと、1時間寝て、起きて昼食をとり、少し弾いてまた30分寝て、起きたとき、いま練習している曲の、以前とは別の全体像に気づいた。だからそれを試してみる。「体で覚える」と言うように、曲を受け入れるプロセスが必要だ。ピアノから離れているときにいいアイデアを思いつくこともある。

 いつも思うんだけど、世界に同じ時計は2つとないのに、50人のオーケストラはひとりの指揮者を基準にしてあわせている。厳密に言えば合わないはずですよね。「理論的には」楽譜上のタイミングは合わせて書いてあるが、そもそも合わない時間=時計を、どうしてあわせるのか。日本の筝曲の合奏は、指揮者はいなくてもどうにか合っている。これは理論じゃない世界のお話だとすれば、なんのお話だろうか。要するに問題は指揮者のいる・いないではないということで、いなくたって合うのなら、なんのための指揮者だろう。

 ネットラジオ続けてますので応援してください。

[2024年2月28日(水)/続きは後日]

388.
「所有欲の問題」

 展覧会に出かけて、気に入った作品があると所有欲をくすぐられるときがある。うちへ持って帰って毎日眺めてすごしたい。馬鹿を言え、犯罪だぞ、と言われるのは、実際に持って帰っちゃった場合の話で、ざーませんわ夫人などは持って帰らず、傑作(あるいは駄作)を目の当たりにして「!」と絶句しました。その絵を描いた画伯と直談判した上でなら、持って帰ってもいい。もともとひとが描いた絵に値段は、作者の言い値とか相場はあるかもしれないが、材料費と手間賃と生活費なのですか。オークションなんかではずいぶん高いですね。

 ぼくは小学生のころ、田舎で学校から、美術の時間に描いた水彩画をぶら下げて持ち帰宅中、道沿いの農家のおばあさんに、「ばーかいい絵描いたねか」とほめられたが、これなんかねえ、ざーませんわ夫人の「ドラクロワも悪くざーませんわ」とは真逆の、掛け値なしの賛辞だろうと、ぼくはいまでもありがたく記憶にとどめてある。

 音楽の場合、たぶん絵の場合とは違う。音楽は物ではない。しかしミュージシャンがいなければ演奏が聴けないからといって、ギタリストや歌手をリヤカーに乗せて持ち帰るひとはあまりいないだろう。マルセル・デュシャンなら、コンサート会場に空き缶を持ってきて蓋をして「日本武道館の空気」とかいう題の作品にするかどうかは知らないけれども、著作権団体のことは措いといて、コンサートとかCDというように、メディアに対して値段がつく。音楽学校の先生たちは、そんなことも知らない。ピアニストに飯を食わせれば音楽をやってくれるから、せいぜい食わせてしこたま弾かせようぜ、なんて馬鹿なことを平気で言ってますよ。飯を食わせれば、いくらでも弾いてくれるのね、とかなんとか「需要と供給の関係」を生徒に刷り込むのが音楽教師という職種らしいぞ。音楽アカデミーの教育は大体そんなものです。だから新しい音楽の世界は変なことになっている。

 コロナのコの字も報道に見られなくなったし、戦争中なのに日本の都市は一見平穏だが、いまは、見えないけれども復興の途上で、その地道な行為や行動が癒しにもなってくるのか。こころのなかのあらぶるトラブルを、パンツをすすぐようにすがすがしく、らくな感じに洗い落としてくれるケアとは、どんなものだろうか。これについて注意したいことは、子供のまま大人になることを拒否して生きている人には、癒しはないと思われること。その人は停止しており、癒しは必要もないし、機会も訪れない。それでいいとも、悪いとも思わない。本人だけは自分は普通だと思っている。ウソのような話だが、ぼくはそういう人を知っている。

 ポストコロナ、戦争中、震災で、音楽で技術的に根性がいるのは、中ぐらいの速度の音の動きを作り出すことではないか。中腰で踏ん張ってブレーキをかけながらアクセルも踏んで、音を動かしながら手前で引き止めている作品の選びと演奏技術が要る。騒がないで、かといって停滞もしないで、ある程度までの動きを促すこと。

 想像上の美というのは実在しないから、それに対する所有欲なんてものは直接、充たすことができない。人間にできるのは、それを表現すること・表現された「実在のモノ」を見聞することで、その表現は、もとの想像上の美とは別ものだということになる。じゃあその表現とはなんですか。でもそれを見たり聴いたりして興奮・感動するのは、なんかあたりまえでない何事かに実際に接したということだから、美というものが存在することは確かなんですが、私が求めた美が体験できるのは、それとつながる実在のモノを介して体験できるので、美そのものがどっかから降ってくるなんて、あるわけがない。

 その「実在のモノ」を所有するのが美的体験ですか?体験というからには、時間とともに移ろうもので、留まっていない。ソシュールを参照したいところですが、忘れていることも多い。やぶからぼうですが、いまお読みになっているこの拙稿を所有できますか。音楽も、ある空気の振動を録音機で記録した物を持つことはできるが、だからといって音楽を所有したことにはならないよ。まして「信仰を持つ」なんてどうですか。奈良東大寺の大仏を持ち上げたところで、それは信仰を持ったのではない。大仏を持っただけのことだ。どうも信仰というのはこれとは全然別の話のようですね。シェーンベルクの『モーゼとアーロン』は、この取り違いを皮肉ったオペラではないか。

 物を大切に扱うということは、それを馬鹿にしないということで、なにかを所有したいのは、大切に扱いたいということだろう。ふつうの判断なら、ゴミみたいなのを大事に守る義理はなく、どうでもいいものは欲しいとも思わないだろう。ああ所有欲。

 ネットラジオ続けてますので応援してください。

[2024年3月31日(日)/続きは後日]

389.
  「ひま考」

 4月6日、土曜日。このへんではやっと桜が咲き、お花見ができる季節が来たが、ここしばらく、ずっと小雨交じりの曇り空だ。それでも街は行楽客で賑わっている。その雑踏が、なんだか現実離れして見えるのは、自分は何を見ているんだろうかと不思議に思っていたが、ふと思い出した。そうだ、コロナ禍のころは街にはひとがいなかった。その記憶が、花見で賑わういまの街とオーヴァーラップして見える。どうやらそういうことらしい。

 4月7日、日曜日、昨日の雨がウソのように、気持よく晴れ、お花見スポットの公園に出かけてみたら、ひとが多すぎて足の踏み場もな い。別に怒ってませんよ(笑)こんなことはコロナ禍では考えられなかった。あのときは誰もいなかった。いま人ごみだからと言って、どさくさにまぎれてコロナ禍の「社会的な打撃」を、まさかみなさん忘れたわけではないだろう。

 ぼくは電車の中で美人さんを見かけると、人目に悟られぬよう心の中でわーとよろこんで、近くに立ったり、隣に座ったりするが、怪しいストーカーとも痴漢ともセクハラとも思われてない証拠は、そういう犯罪者ははたのひとは雰囲気ですぐわかるから、美人さんがたは逃げたりしますが、ぼくは逃げられないようですよ。いや別にのろけてんじゃない、その証拠に、逆にぼくが座席に座っていると、美人であってもなくても、平気で隣にお座りになるから、ぼくは差別や区別はされていないようだ。わたしなんか、変なひとが隣や後ろにいると、キモチ悪いから逃げている。

 スーパーに行って無人レジで精算をしていると、自動音声で「処理中です」と機械が言ってから、おつりを出す仕掛けだが、この「処理中です」という言葉がぼくには「ソリチュード(solitude 孤独)」に聴こえて仕方がない。これを聞いた誰かがあわてて、「無人島で生産する漂流客は孤独なのだろう」なんて言ってました。

 ヨーロッパのオーケストラに興味はないと言っている先輩作曲家がいるが、ぼくはコロナ以後、うちではオーケストラ音楽を聴く生活習慣をなくしてしまった。外出自粛期間には、コンサートやライヴはなかったわけだし、作曲し、ピアノを弾いたら、音楽はそれで充分で、ほかの時間は音楽以外のことがやりたかった。オーケストラだけでなくほかのジャンルの音楽もほとんど聴かなかった。あえて聴くとしたらエレクトロニカが多かったかな。以前はひまができるとやっていたことを、ぜんぜんやらなくなり、「外出自粛でひまも奪われた」、わかりますか、この感覚が。うちでできることをやっている間は全部、作業時間になった、ということなのです。その習慣が、まだ残っている。

 そのまだ残っている習慣が、そのままひま時間になったようなのが余っていると、最近感じるようになった。わりあい最近のことで、大いに結構ですよと喜びたいところだが、まだ喜んでいいのかどうかよくわからない、「からっぽな」時間と言うにふさわしい。なんですかこれは。そこへなんか用事を詰め込むのもおかしい気がするから、空き時間のままにしてある。誰かが言っていた「必要無駄」かもしれない。

 どういう時間を「ひま」というのか、ずっと考えていた。床掃除のバイトをやっていたときは、昼飯のあと30分ぐらいだったか、テレビを見たり昼寝したりの時間があって、これがひまと言えばひまだった。作業の出来栄えや作業中の態度を批評する気持が、ひまなときにはない、無責任でだらしがない、とでも区別しておきましょうか。

 いったい何が言いたいのかわからないという批判はご容赦ください。「ひま」を検証する適当な言葉が見つからないんです。そのうち実態の把握ができるようになるんでしょうか。ネットラジオ続けてますので応援してください。

[2024年4月30日(火)/続きは後日]

390.
「言語」

 当年とって30いくつの女友達は、川端康成を知らなかった。代表作を読みたいから紹介してくれといわれ、『雪国』を推した。日本人ならノーベル賞作家ぐらい知っておきなさいと喉まで出かかったが言わなかった。今ぼくが知っている同世代の国内作家は数人で、一世代下の新人作家も数人だ。ぼくが好きな遠藤周作が亡くなってから30年近く経ちます。今年に入って氏の『海と毒薬』を読んだ。かなり以前、途中まで読んで、抛り出したままだった。ちゃんとできた作品なのに、傑作『深い河』とか『ぐうたらシリーズ』とくらべ、なぜか感動があまりなかった。そういう作品なのか、ぼくが読み飛ばしたからか。

 時間や空間そのものは切ったり貼ったり、色を塗ったりはできない。小説なら言葉を使って、音楽なら音を使って、時間軸の上に、あるいは空間のどこかにイヴェントを配置する、それでもって形のないものに性質を与えるといったことだろう。朝起きて学校に行き、最初の授業は国語で、次が社会、というふうに時間の各時点に属性を与える。空間なら、壁1枚立てて、右側が道路で左側が脱衣所、というように。これだって、時間や空間に属性を貼り付けるわけではない。そうではなくて時間や空間がかくかくの属性を持つようになる。

 高校時代の現代国語の恩師はもう亡くなったが、「音楽と詩の関係について、しきりに考えています」と、生前いただいた年賀状に記されていた。正直言って、ぼくもわからないです。歌を書いて誰かの詩を使ったり、朗読したりということはやっているが、どうしてやっているのかと訊かれても、根拠なんかない。歌を書くとき、誰の詩を使うかは、毎回迷った末、これで行こうとなるが、節をつけるのも同様に迷った挙句ということが多い。そのときそれがいいと思ったからやってみる、ということなんです。

 ぼくは街を歩きながら、この雑踏の全体を把握したいといつも思うけれど、「主体が知覚する現実」がわかるだけで、見えていない・聞こえていない現実だってある。ソシュールによればそうなる。街中には人それぞれの物語があり、知らない人同士が同じ場にいることで、それが交錯する。皆さんファッショナブルで美男美女と言いたいところだが、どうもなあ…ひとのことは言えないか(笑)最近ぼくは、道行く「人」に興味が向いてきた。

 人に興味が向いてきたということには若干理由がある。例のコロナ以後、「男」と「女」の区別が(ぼくには、ですよ)希薄に思われる。コロナ騒ぎのあいだは男女ともに人類愛のようなもので支えあってしのいだ、そのなごりなのか、「性差」というとニュアンスが違うが、どうも色気が感じられにくい感覚で日々すごしています。だから、ちょっと意識的に人を見てみる。あまりじろじろ見たら悪いから、わき目でとか、伏目がちにとか。女性のお化粧や服飾は、見て見て根性(なんて言葉はないかな)の表れだということに、やっと気づいたような心地がして、「人を見ることは悪いことではないのだ。我もまた見られている」ということに、いまさら思い至るこの頃、みんな元気でやってますか。

 ぼくは詩も小説も書けないから、ひとの作品を読んで喜んでます。自分の人生以外に、誰かの物語が必要だということを、現今のいわゆるポストコロナの日常で感じている。音楽だっていろんな性質の音が変化するひとつながりの時間を体験するというところは、文学と共通している。音楽の「論理性」ということはあまり言われないが、論理という言葉がふさわしくないなら成り立ちでもいい。これに対し渡辺智英夫というえらい?先生が「感性」ということを強調してますが、こんなことは好事家にしか言えない。「感性」だけでアートが成り立つわけないじゃないか。

 言語が、いろんな原因で損なわれているように思えるが、みなさんどうですか。

 ネットラジオ続けてますので聴いてください。

[2024年5月31日(金)/続きは後日]

391.
「ソーメンやラーメン」

 ソーメンの涼味はラーメンにはない。涼味どころか、熱い。それはいいが、なんだかこってりしたラーメンのほうが、頼りなさそうなソーメンを圧倒して勝利しているようなイメージがある。なんちゃって、そもそも比較にならないので、ソーメンがラーメンに劣るということにはなりません。

 「声の大きい奴だけが/勝って得する世の中さ」(『残侠子守唄』美空ひばり)。この図式、まだ地球上にはびこってます。そんなことを言うなら江村、お前ごときに何ができる、やってみろ、と脅すのが世間様のしきたりのようだが、悪いけどぼくは逃げますよ。問題は、武力で威嚇することなんかではなく、その場から逃げること。それだけの力がありますか?

 ソーメンには栄養がなく、ラーメンには栄養がある?較べるもんじゃないでしょう。街に出てラーメン屋に入り、ソーメンがないといって店主に文句を言う人はいない。「ソーメンが食べたいなら、ソーメン屋に入りやがれ」なんて、誰も言ってないけど、大体そういうことになってます。でもそれでソーメン注文したらカレーが出てきたりして、そんなの困るじゃありませんか。

 タッタカタッタカ(駆けつける足音)、えー話はぜんぜん違うんですけど、かかりつけの病院で、憧れの薬剤師のお姉さんといいお話ができたんだよ、お友達になれた、わー、きゃーどうしよう、なんて調子でしばらく文章を続けていいでしょうか。ドラえもんのポケットに「友達の輪」という道具が入っている。その「輪」を地面に置いて、メス猫ちゃんとドラえもんが一緒に輪の中に入れば、必ず二匹は友達になれるという、そういう「場」ができる。ほんわかムードになれたらいいけど、ぼくなどは感涙に打ち震え(馬鹿か)、相手の薬剤師のお姉さんに対して、礼を失し、紳士的に行動できないでくのボーか木石に成り下がり、なんてシナリオはやなんだけど、そのへんのさじ加減が、いい年をしてまだわからないか(思いついたこと書いてるだけだよ)。爺さんになったら少しは悟るんですかね。 

 今日は朝から雨降りで眠くてさー。もうすぐ夏なのに、ぜんぜん夏の感じしませんね。梅雨の感じもないみたい。ちょっと文章をいじっては寝、ピアノを触っては寝、昼飯を食べてやっと景気がつくか、というところです。

 ひとはみな、なんか憂さ晴らしに一騒ぎしたい。あばれたくなるわね、というわけである。人によってはあばれたくならない、のではない。群れたがる人だって孤独な人だって、質や量の差こそあれ、みんな「それ」を持っているから、それを表現して、ひとに受け入れてもらいたい。ああそうか、「それ」の行動というものもあるのか。

 べつにビフテキでなくてもいい。ソーメンだってかまわない。そういうことなんだろうと思います。ソーメンの涼味がひとつの楽しみだってことも、認めるところからはじめませんか。居丈高ばかりが力じゃないことを、わかってあげませんか。くすくす(なにがくすくすだ)。

 ネットラジオ続けてますので聴いてください。

[2024年6月30日(日)/続きは後日]

392.
「ゲシュタルト崩壊にまつわるいくつかの話」

 こないだのコンサートで、「元日の大地震や戦争、物価高騰にもかかわらず、激しい曲調の曲も喜んでもらえた」ということに、半月たったいま、やっと気づいた。人によっては、めちゃくちゃ面白いと言ってくれた。それはありがたいけれど、コンサートが面白すぎてげらげら笑いが止まらないとしたら、どんなもんだろうか。そういうことでしたら、お笑い芸人さんにおまかせしたほうがいいと思う。音楽家が提供、提案できる笑いや喜びは、お笑い芸人さんのそれとは全然別のものだ。

 ぼくはオーケストラ音楽は好きだが、日常、特に必要ではない。替えが利く。替えがきくにしては、フル・オーケストラは高価な音楽団体だ。50人も100人も人がいなくても、それだけの量感のある音楽は作れる。量というのはある程度は必要で、ちまちまやってたらせこい、ということにもなるだろう。でも、大音量はオーケストラかというと、それはどうですかね。ぼくは日ごろ編成をとっかえひっかえ3-4人の室内楽を書いていて、その音量にしても、室内楽の規模で充分じゃないだろうかと思う。

 ピアノの場合、なんでロマン派の超絶技巧曲が流行るのか、理由はわからないが、25年前にフィラデルフィアのホテルに泊まったら、同じホテルの客だった女の子に、ロビーにある古いピアノでショパンの『幻想即興曲』を弾いてよと頼まれた。どこの国でもクラシック名曲の世界はそんな感じなんですね。今ならその女の子の気持はわかる。ぼくはほかのを弾いたんだが(!)こういうリクエストを受けたら、『幻想即興曲』じゃなきゃだめなんですよ。その女の子のハートを射止めようと思ったらね(馬鹿こけ)。でもぼくたちは、現在は2000年で、1800年代に生きているんじゃない、ということを忘れないほうがいいと思う。

 さっきまでぼくは、これまで自分が制作したコンサートのなかで一番嫌いなコンサートの録画を見ていた。現代音楽のプロのゲスト演奏家を迎えて開いた、見事にゲシュタルト崩壊しちゃった演奏を含むこの会、何年たっても慙愧の念に耐えない。でも、もういいじゃないか、自分を責めるのはよしましょう。第一、ゲシュタルト崩壊したのは俺のせいじゃない、共演者に不心得者がいたからだと、抗議はしないがここに書いておく。ノマドという有名アンサンブル団体の佐藤なにがしというコントラバス奏者は、ろくに弾けてなかったくせに、「ヨーロッパでも名前が知られている」作曲家F氏のリハーサルがあとから入ってきた、だから先約のおまえ(江村のこと。まあぼくはF氏と違って単なる凡人ですがね)のリハーサルはあとまわしにしますだの、駐車場を使って練習スタジオには電話で言っておいたから使用料を払えだの、ひとをばかにした行動だらけだったなあ、あのときは。これが、ぼくが彼にギャラを渡していない理由である。YouTubeに出してありますがろくに弾けてないですよ。音楽の世界でも、腐敗政治は横行しているということですかね。...とかなんとか思いながら録画を見ていたが、その「ゲシュタルト崩壊」とやらが、観客には別の面白さで受け取ってもらえたのかも云々。

 昨日の夜、ピアニストの故・中村紘子氏がコンサートで弾いたムソルグスキーの『展覧会の絵』を聴いた。これに聴かれる「ゲシュタルト崩壊」は演奏として大成功で、こういうことが生演奏では逆にウルトラ面白く響く場合もあるんだなと思った。はっきり意図してそう弾いた演奏だ。ぼくはとくに中村氏の支持者ではない。でもこういう技は曲を知悉していないとできないし、それを実行するだけの気構えとか覚悟って言うんですか、そういうものがピアニストになければならない。しくじって面白い、ということがどこまで許容範囲なのか。

 ぼくは以前、コンサートでシェーンベルクの作品23を弾いて、自分ではうまくいかなかったと思う。でもひとの意見では、ほかより好評なのはどうしてか。努力賞?冗談言ってんじゃねえよ(笑)楽しいというひとは、まさかぼくをバカにしているわけではなかろうと思うものの、江村さんはピアニストで、作曲なんかやらなきゃいいときめつけられたら、このかたは自分のえこひいきをほめているだけなのだから、「この、すっとこどっこい」(回し蹴り)だったのだ。あっち行け、しっし。

 さしあたり、ロマンティックな超絶技巧が大流行の今、「どこまで弾ければいいのか」を見定めようと思う。弾けてればいいってもんでもないよー。音が面白くなきゃしょうがないでしょう。それに、超絶技巧が流行るのはまだいいとしても、すでにゲシュタルト崩壊している有名ピアニストのパフォーマンスもある。ピアノが壊れるよ。壊すんだったらあらかじめ自覚して壊さなきゃね。

 猛暑で戸外の写真撮ってないんですよ。オンラインの拾いで我慢してください。ぼくが大好きなタンギーの「風のアルファべット」(1944)。いま上野でキリコの展覧会やってて見に行きました。ほかと較べるとタンギーは地味かもですが、いまなら話題性も充分な作家さんだと思う。やってくださいませんか。この絵はゲシュタルト崩壊どころか、画面のものが古典的に配置されているように見えます。

 ネットラジオ続けてますので聴いてください。

[2024年7月31日(水)/続きは後日]

393.
「こしらえる話」

 ぼくは、会社や組織に所属していないから、外から回ってきた作業をこなすわけではなく、自分が必要なことをやる生活のスタイルで毎日過ごしてそろそろ30年が経つ。そのあいだにリーマンショック、千年に一度の大震災や、コロナ・パンデミックなんかがあるとは夢にも思わなかった。こうしたことで国内や海外の文化の動きが大きく変わり、自分の日常も変化しただけでなく、自分の行動を変える必要が生じるとも予想していなかった。だから、ウィズコロナの社会といわれる現在、思いついたことは何でも試してみる、ということが音楽の制作でも必要になっている。

 世界の音楽がテクノロジーを使うようになって半世紀以上過ぎたわけですが、17世紀ぐらいからのヨーロッパで人力で作っていた音楽の場を理論的に延長するのにテクノロジーは使えないことはない、という程度に考えたほうがいいのではないか。両者はイコールではないことぐらい、ちょっと考えればわかる。理論では音楽は制作できませんよ。問題はこれだろう。しかし、理論は言語で考えるもので、人間は言語を使い、音楽は人間のすることだから、言語と音楽は関係がないということにはならない。少し乱暴な物言いですが、あたりまえじゃないか。楽譜を書くとき、音そのものは言語ではないが、頭で考えている段階では言語でものを考えるだろう。そこは小説家だけでなく音楽家も同じではないか。

 亡くなった永六輔さんが、今のテレビ番組は、作ってはいるがこしらえていないと批判していた。音楽のこしらえ方というものを作曲と呼んでもいい。それは理論ではない。じゃあ何なんだということになるが、ぼくには自分の創作領域がどうなっているか説明なんかできないと思う。もっとわかりやすい例を挙げれば、粘土細工がそうだ。あれをトポロジーかなんかで理論的に跡づけることはできるのかもしれないが、なんでできたのかといったって、その心理動機から全部説明しようと思ってもできないんじゃないですか。

 毎年8月の初めに、ぼくが生まれ育った新潟県長岡市で大花火大会がある。夏の風物だが、最近は全席有料だ。有名になるとこうしなければならないのですかねえ。信濃川の川岸に市民が集まって、のどかに花火見物など、昔の話になってしまった。花火だけではない。きのこや山菜は、ぼくたちの世代は親に連れられて山に行き、好きに採ってその場で味噌汁を作って食べたよ。その際、全部採らずに、来年の発芽のために株を少し残しておくという山のマナーがあった。コゴミなんか野草の中では格が低く、平気でうちの庭に生えていた。おひたしにして食べたが、いずれも、いまは勝手に採っちゃいけない。フキノトウだって早春になると、民家のとなりにある田んぼのあぜ道に平気で生えているのを摘んできて食べていたが、いまは全部住宅地になって、田んぼなど、埋め立てて舗装してしまい、地面が見えない。

 英語の「ネイティヴ」と、日本ではよく言われるが、アメリカならアメリカに定住している人たちの生活言語のことだろう。ぼくも、それがもっと聞ければ楽しいかなと思うが、いまだ発展途上です。でも語学は、下手をすると没個性な人間が増えそうで、イエスマンにはならないほうがいいのだから、聞けたら何とか反応できると思って、低く励んでいる。それよりむしろ、自分の国、日本について日本語での理解を深めていないと、英語のネイティヴはできても自分がどこの国の人なのか、英語を話す前提が怪しい、なんてことになるんじゃないのっ。 

 8月17日。少し長いうたをひとつ書いたが、調性システムが少し壊れたものになり、こんなのでいいかどうか、とりあえず今日で作業は締めて、あとで細部の変更があったらそのとき直すことにしようか。なんて考えてます。和声の課題じゃないんだから転調の有機性なんか無視してもいいとわかっていても、ちくちくこだわる気持が一部にあり、きっぱり「おわり」と言えないのはなぜだろう。

 などと思いながら、何日か前にうちで使えるようになったWiFiの接続でYouTubeのコンサートライヴ動画を見ていたら、ぼくはその曲の和声のシステムなんか大して聴いていない。少なくとも意識的には聴いていない。生活言語と同じように、耳を通り過ぎれば聴けたことになるのだろうか。いま聴いている音を媒介にして、もっと、なんか塊のようなものとつきあっている。さて、この塊は何かなあ、とは思いますが話がややこしくなりそうなので、あまり突っ込まないでおく。

 最近、「平和で幸福で、なにが悪い」と、怒るというよりぼけっと思うことがあるが、悩みがないのが悩みなんでございますよとおっしゃるおばあさんもいる。人間は困難を必要とすると言ったのは、確かユングだった。まあそうかもしれないが、ぼくは、自分の部屋が散らかっているのがどうにかなんないかが困難の中ではわりあい大きい(笑)昨日、メガネを作り換えに眼鏡屋さんに行ったら、案内してくれた男の店員さんは高価な新製品のフレームをぼくに勧めてくるように見えた。「じつは、あまりお金持ちではないもので」と素直に白状しました(実話だよ)。その店員さんは親切な人で、ご案内までですみたいなことを言って引き下がったが、セールスの「圧」がはっきり感じ取れた、なーんて言ったら悪いかな。ご商売ご苦労様です。眼鏡屋で戦う気はないから、無用に神経を使いたくもない。しかしこんなことが「困難」なのかねえ。

 次のコンサートのために選曲していると、地球上の、いわゆる芸術音楽がこれまでどれだけ欧米に感化されていたかが丸出しになる。欧米に依存していないアジアの新しい音楽がなかなか見つからない。これは仕方がないのかもしれない。自作をなかなか公表しない作曲家もいるから、ぼくが見落としているだけかもしれないが、「自分の頭で自分の感覚を使って」考えたメロディなり曲の構成なりが、欧米に依存しているのではなくアジアや日本に独自のものであるというのは、簡単にできることではない。音楽の分野は特にそうだろう。

 台風10号とやらで、また雨。夕ご飯を買いに2分ほど歩いてスーパーへ。食品売り場なんて、人間の生活にいちばん密着しているのに、なんだか「生理的なもの」が欠落したような、あの空虚な空気感はなんだろう。コロナ禍の半ばからずっとある、この気配は、まさかぼくだけが感じているわけでもないだろう。まあさしあたり無難な空気だから、いいことにしてるけれどね。

 そうか、獄暑で写真撮ってないんだー。話題になったキリコ展見ました。ネット上に落ちてる宣伝画像を拾って、ぺたり。『オデュッセウスの帰還』です。なんかかわいい絵である。ネットラジオ続けてますので聴いてください。

[2024年8月14日(木)−31日(土)/続きは後日]

394.
「四角くない」

 いまさらトイレ掃除をしますといったって、うちのトイレは以前から基本のところでは衛生的になっている。見た目を少しきれいにしたいだけだが、頑固な汚れがある。洋式便器が黄ばんだのを落とすべく、ホームセンターで1000円を投じて溶剤を求め、すきま時間に作業。しかしやってみたら溶剤でもすぐには溶けない汚れがあり、同じ掃除を何回か繰り返し、へらでこそげ落とすなどして、やっときれいになっていく。

 コロナから4年、インターネットラジオでピアノ小品を録音して配信を毎日やっていたら、1000曲ものコピー楽譜が部屋の真ん中を占拠することになった。その堆積した山を切り崩し、室内を広くしよう。一気に捨ててしまえばいいようなものだが、点検してからでないと、要るものも処分しそうで危ない。

 亡父は「ものは四角く積み重ねなさい」が口癖だった。人柄もそのとおり四角く、中は空洞のような性格だった。本人がいないからこんなことも言える。ぼくは子供のころから部屋の整頓が不器用で、いつもとっ散らかっていた。でも、コロナ騒ぎのせいで荒れてしまったいまの住居を片付けて「機能的にする」ことにあこがれ、半分実現しかかってみると、機能的ということと「ものは四角く積み重」なっていることとは、別に関係がないし、作業のためには、少し散らかっている程度のほうがいいんじゃないか。

 ちゃぶ台で仕事をする小説家の方もいるそうだから、台所テーブルで作業しているぼくは別におかしいことをやっているわけではない。ただ作り中の楽譜がテーブルの面積の半分を占めている現状では、作業がやりづらい。当面の生活費用も一緒に載っており、まとめて整理すると現金がどこかに行ってしまいそうで、無用の混乱を避けているからなかなか片付かない。などと書き付けたあと、思い立ってテーブルの上を片付けたところ、14年前に賞味期限が切れた顆粒のチキンスープの壜が出てきた。当時はわかめスープに凝ってたんでしたっけ。

 本棚とか整理戸棚がないのは、そういうところにしまい込むと必要なものが見えなくなるから、当面必要なアイテムは身の回りに転がしておくんです。楽譜とコンサートの記録映像・録音は別で、まとめて置いておく押入れや段ボール箱がある。だから近日必要なものは眼が届くところにあって不便がない。部屋がゴミ屋敷になりそうなほど散らかったのをコロナのせいにするのはおかしいという意見もあると思いますが、日常の諸活動がいつもと違ったり、普段よりせせこましいとモノもゴミも増え、片付ける気持のゆとりが持ちにくかったんじゃないか。それで散らかしているのをどうにかしたいとちらちら気にしているから、あたまの中で、余裕が必要な作業を行うときの邪魔になっていたのは確かだと思う。

 長年、ほぼ半世紀やせぎすだったが、本当にちょっとずつ増えて、今年になってようやく標準体重になった。なってみたら、こんなことも不慣れというものがあり、中年太りではないかなどと無用の心配をして、1キロ痩せようと思い立ち、低カロリー高たんぱくの食事でダイエットのまねをしてみたり。結果、まず1キロ痩せ、その後はわからん程度にちょとずつ落ちているのかな。ダイエットと称してフードサディズムだったりもいやなので、適当にやっている。

 ぼくが好きなフランチェスコ・マンチーニのリコーダー・ソナタ全集のCDは2枚組で、好きなのにコロナの間もその後もずっと聴かなかった。いま数曲聴いて、曲はいいんだけど、録音や音作りが人工的で、聴き手が作品に触れるのを妨げていると思う。もう少しアナログ的な音作りのほうがいいような気がする。それに、いまはオンラインで、この全集CDも全部聴けちゃうし、ライヴ映像があればそっちのほうが美人さんなんかが出てて楽しい。CDというメディアはなくなるんじゃないか。

 固定観念の払拭。音楽に感動するのはいいことだが、ああいい曲だなあと思い、自分で演奏したい作品に限って、その第1印象そのものが頑固な「固定観念」を作り、我々の眼前に立ちふさがって想像力の自由な行動の邪魔をするものなんです。10年前に初めて弾いたピアノ曲は、10年後には違う響き・違うリズムになっている。これに気づくには、その作品をかなり本腰を入れて練習しなければならない。ただ聴くだけでわかることとは違うようです。それで練習して、さんざん間違えた末、固定観念は演奏できないという事実に突き当たり、その日はくたびれて寝ることになる。おやすみなさい。クラシック音楽ではみんなふたことめには「再現芸術」と言ってますが、国が違い、演奏者が違えば作品へのアプローチの仕方も違うのが当然なのに、皆さんがそれをやっているようには見えない。なぜかねえ。

 ネットラジオ続けてますので聴いてください。

[2024年9月13日(土)−30日(月)/続きは後日]

395.
「美人に胸ときめく、雨の秋…」

 前にも書いたが、近場のスーパーの夜勤のM嬢にいちどアイスクリームを買って差し上げたところ、このお姉さんはぼくの顔を見れば毎度アイスクリームをねだる人になり、容姿風貌悪くないし言うことが面白いから友達として使わせてもらっておりますが、まあせいぜい300円ですが店の女の子5人がひとつずつ食べる5個入りアイスクリームは、俺のぶんがねえじゃねえか。一緒に食べようよーとこっちが媚びても、ダメ、女子組だけ、などとぬかしやがってこの野郎。そういうしだいで夜間はめったにこのスーパーに行かなくなりました。草〜。

 さきほどかかりつけの病院から帰りました。アフターコロナの街の表情が、やっと和らいできたというか、温まってきたかの感があります。単にぼくの主観かもしれないが、ここまで恢復するのに1年半もかかるものなのか。

 今までぼくが弾いてきたピアノ曲の中から、いいものを選んで、身につけておこうと思って練習を続けていると、いつのまにか大衆名曲のような弾き方や成り立ちになってくるから油断がならない。そうではなくて、地味だが有名なもの、有名だが案外知られていないもの、そんなような秀作が弾けるようにしておきたくて、準備する毎日です。別に名曲セレクションを作るとかそういうことじゃない。

 いつ音楽を始めるか。朝起きて食事のあと、すぐにピアノに飛びつくのは悪癖だからやめようと思う。起きてすぐは、寝ぼけてて作業効率が悪い。少なくとも1時間あいだを空けたい。高橋源一郎さんに倣えば、音が何もない空間を楽しもう、となるけど、できるかなあ。

 そのかかりつけ病院の薬局のお姉さんは、体格がきゃしゃで白衣が余っているような感じです。粗末に扱うと折れそうである。そういえば、この人の私生活を想像してみたこともなかったが、楽しい女性でいてくれればそれでいい。はっきり言って男好きのする美人さんだが、そういう趣味のある人は好きにしてください。

 鶴見俊輔の言う「楽しい記号」としてのあらゆるアートは、見る人・聴く人の感情を喚起するための手段である。ヘッセによれば、芸術は自然とは対立するのだそうで、つまり人工のもの、アートは、ひとの感情を喚起するために人間が作ったものです。

 1日の基本的な生活のリズム。午前中は調子が低いが、なにもしないのもなんかね。最近言われるようになった「すきま時間」には、ぼくは読書をしているか、パソコンに向かっているか、まあそんなもんなんです。1日のうちのいつ音楽をやるか。ピアニストのリヒテルは、ピアノを弾く前に「用意」をすると言っている。ぼくもこれは必要だと思いながら、まだ会得できているとは言えない。かなり以前、有名な落語家が「1日3回稽古する」と言っていたのを真似して、ぼくは2回、やることにした。この2回の練習を、1日のいつやるか、毎回のコンサートの選曲ごとに違う。

 夏のあいだは獄暑で2ヵ月ほど昼間の外出が危険だった。そんなことでやや引きこもっているうちに、社会のほうは活気づいてきたのかもしれない。そこで、獄暑も過ぎたからたまに戸外で過ごすことにして、お散歩も再開し、街では、ときどき丸亀製麺やドトールで飲食するけれど、ショッピングなんかしないで通行人を眺め、「このひとは女だが、どうして女に見えるのだろう」なんて考えている。あほになったのではない。たぶんコロナの打撃の残滓なのだ。病気も事件もないこの現実はほんとうですか、とちらちら思っているから、通行人の女性が現実かどうか、あたまのどこかで確認してんです。ぼくはナンパなんかしたことはないが、一般に街中ではひとは性行為はしないが、どさくさにまぎれてセックスアピールのファッションはある。だからたぶんまあ、そういうことなんでしょう。考えなくてもわかるように、街に繰り出しているのは豚ではなくて人間なのだ。

 近所のスーパーのレジ打ちさんたちに男の子が多くなった。人手不足か。美人が少なくなった(ごめんなさい)。コロナ・パンデミックは去ったが、外出自粛でおしゃべりが滞ってしまい、自然なコミュニケーションが至る所でぶった切れ、そんなとき、心安らぐそよ風のような美人さんが舗道に立っていてくれたら、街に出て美人を見て喜んではいけないような禁欲的な空気だってふっとんじゃうんじゃないか。違いますか。

 アートは、平素は黙っていても、日常生活のために行動のモデルを提供しているもんなんだけど、アートが消えたコロナの3年間は、その担い手が自分のアートを探さなくてはならなかった。この事態は、まだ恢復が始まったばかりのように見えるんですよ。アートの担い手にだって「普通の」、デフォルトの日常はある。その日常でちょっとイヴェントを企ててみれば、それがアートになる、という関係がいいんだけどなー。

[2024年10月5日(土)−31日(木)/続きは後日]

396.
「現実的な」

 よく知らないが、さんざん迷惑を振りまいていた人が病気か何かで10年も入院して、その人が高齢で亡くなったら、嬉しいわけはないが、悲しみどころか、いた人がいなくなった現実感がなかった。わたくしごとなのでぐだぐだ書きませんが、一周忌の法要のあと、なんですか、おもしろくもなんともない気持を喪失感といえばそうかもしれないような、気がついたらそんな気持になるとは、思ってもみなかった。気疲れもあるだろうから、騒がないことにしてますけどね。

 YouTubeで、ヘンデルの『オーボエ協奏曲』作品番号287を聴く。きれいな曲だが、デジタル録音と演奏技術の向上が曲をだめにしているのではないか。ぐっと来ません。古楽なら、同じYouTubeで聴ける、60年も前のヴェンツィンガーのアナログレコードのほうが面白い。

 5年ほど使っていた1TBの外付けHDDが壊れ、修理に出した。どうも経年劣化らしい。なくすと困るアーカイブは別の場所にコピーを作ってあったので、それほど重大な被害はないが、遊びで撮って喜んでいた写真なんか、消えましたよ。大部分はうちの近所の風景写真で、ダメージには違いないけど、なくなってもたいして未練がない。俳句の正岡子規が唱えた配合、風物・風景などの構成要素が「かりそめならず結びついている」ことを「眼で押さえ込」み、「客体描写する」(山口誓子による)という理論を写真で実践してみている、なんて気取っていたが、ひょっとすると撮った直後に面白がっているだけで、いらないのではないか。

 ピアノの練習というものは、練習中の曲が弾けるようになるまで1ヶ月ぐらい、短くても半月、同じ曲を毎日弾いているもんなんだということはわかっている。同じ曲でも、毎日の演奏の結果は違うはずで、同じ結果は二度と出ない。その差に注目したい。とはいうものの、疲れるし、がんばって息をつめたり、体を硬直させたりしないほうがいいはずなんだ。加えて、けっこう練習した果てにしか見えてこないモノもあり、まともな感性はそれを求めるだろうし、そういう方向じゃなくて作業効率を優先したりなんかしたら、音の質が均一の、没個性な演奏だらけになるんじゃないか。

 冬だから、うちの近所は4時といえば薄暗い。民家の一室で作曲もピアノの練習も、その他雑用もやっている。日が暮れる前に歩きに出たいんですが、日中はうちにいてやることがあるから、なかなか外に出られない。ピアノの音がうるさいというご近所からの苦情は来ないが、逆だよ、バス通りに面した角屋敷だから、ぼくはバイクそのほかがうるさい。

 アートが「面白い」というのは、それが鑑賞者の心に「爪を立てる」(田辺聖子による)働きとか感覚があるということでしょう。なんの作用もないつるつるしたものが心地いいなんて、ちょっと違ってませんか。冗談を言うのではなく、現実にそういう感覚の人がいる。電子楽器の自動演奏がよくて、生演奏は下手ですと。あたまだいじょうぶかねえ笑

 よほどの悪天候でなければ毎日運動がてらお散歩をして、趣味の写真を撮る。その当たり前のようなことが、理由のはっきりしないどたばたに見舞われてできなかった。夏の獄暑だけが理由ではなかったとおもいますよ。それで、やっとそういうひまが取れるようになったら、なんか歩くことが日に日に増えているような、まあヘルシーでアーティスティックでけっこうです。それで写真を撮るんだけど、俳人は景色を「眼で押さえ込む」と、山口誓子の本の中に書いてあったが、どうやるんですかね。そのうえ、それを言葉で客体描写するのだそうで、ぼくはそっちへ行かないで、絵を描くだろう。パステル画も描かなくて10年以上たったが、表現の媒体は人によって違う。

 アフターコロナで、生活のスタイルを作り直すと言うと、いかにもめんどくさそうだが、ただいまはそういう現実らしいよ。言語の問題にしろ、セックスの問題にしろ、自分に合った過ごし方を、苦心惨憺して探す時期なのかもしれない、などと精神科の先生みたいなことを言ってますが、まあ、歩いて、それから考える、何かを考えるにしろ、とにかくやってみる、どうもそういう時期らしいのだがどうですか。ゆっとくけどさー、くそレアリズムはいまさら流行らないんじゃないかなあ。

[2024年11月30日(土)/続きは後日]

397.
「エロの研究をする人たち」

 遠藤周作という日本の小説家は、濡れ場を書くのが好きではなく、作品の中にほとんど濡れ場がないと、氏の著作にある。どこかの座談会で、エロは書くものではなくやるものだ、と語っておられた。これは発言の形は遠藤氏の好みの問題なんだけれど、思想が語られているので、ああそうですかと素通りする前に、考えたくなる。

 誰の発言だったか忘れたが、エロティシズムの表現は、たとえかすかにでも性欲を刺激するのでなければ美として醜悪である、だったと思いますがそんなようなことを本の中で読んで、性欲がどうこうより美の問題を考えるときは、いつもこの発言がよぎる。これは写真の場合だったかな。

 なんでこんなこと考えてんのかというと、ぼくたちがやってるアートに対する感動というのが観念オンリーだったらおかしいので、身体的なものだと教わってます。だからそれは当然「包括的な」(福田恒存)「巨大な」(マルセル・デュシャン)性(sex)と関係があるヒトの属性だということになる。とすれば確かに「書くものではなくやるもの」のようだが、だからといって感覚オンリーでもないんだと思う。バタイユとか澁澤龍彦とか、エロティシズムの研究者はいくらでもいる。その論説を理解し、陶酔したいと思うものの、ぼくはなにごとでも研究の方面は苦手で、もしエロの研究ができたとしても、鼻血が出そうである。幼稚なようですが、美人とお話ができて内心きゃーの次元なんですよ。

 観念、あるいは広く《言語》と身体性を切り分けて考えようとしても無理だろう。ぼくが理解できる論議はこのあたりまでです。でもだからといって、観念に身体が全部従うというのも変な話で、そんなに都合のいい思想もないと思う。体が自然に動くということと人間の性との関係とか、思いつきを適当に書いてたらこんなことになっているが、これですという論は、ぼくは持ってないから、お持ちの方がいたら教えてください。

 いや、あのね、体を使う体操とか楽器の演奏の、体の動かし方は、あたりまえだがその人が覚えこんでいるわけだが、どういう記憶になってるんですかと言ったって、すっと説明できんでしょう。一定期間の訓練で、そのモーションがやれるようになっている。訓練とか練習をしなければできるようにはならない、ということを漠然と考えていたわけです。これの続きでエロがでてきたら唐突ですか。例えばオリンピックの女子体操を見てこの種の連想をする人は多いのではありませんか。テレビの解説者は、あの競技の中継で「プロポーションがよくてお尻がそそる選手ですねえ」「そうですねー、思わず襲いたくなる脚線美ですねー」「みごとな放物線です」なんてテレビ解説者は言わないだろう。これは良識の問題ではなくて、皆さんが見ればわかることだから思っているだけで、みんな口では言わない。日本の能楽で、内股で歩くということをやるが、そんな不自然な歩き方が日常の生活にあるわけがないと、先代の観世銕之丞が著作に書いていたのも、似た話だと思う。

 性は秘められるべきものだそうだし、確かに、だれも日常で公然とパンツを脱がない。しかし別のほうからこんな話がある。落語家の方々は男性が自分を「あたし」と言うなど、女言葉を使うことがある。作曲家もそうで「それから紆余曲折いろいろあんのよ」なんて、いいおっさんや爺さんがしゃべっています。これに対し、自分を「おいら」とか「ぼく」とか呼ぶ女性が好奇のまなざしで見られることは、あまりないのではないか。

 渡辺淳一という小説家は、男性の性欲は「非日常において起きるもの」という意味の発言をしておられる。「日常」ではないと言うと、ぼくは「形而上」という言葉を使いたい。つまり文学みたいなもんなんだよ、と付け足したい気もする。これがエロティシズムの一部だと思うからである。

 日本の「いろ」は、諸外国のエロとは違うんだろう。しかし「色気」なら、エロと重なる部分があるのではないか。そして「色気」と言えば美とくる、ということならあまり異論も出ないと思う。ぼくはギトギトのエロだけではなんだかつまらん気がしてですね、ほかになんかないと人間のセックスライフは充実しないし、その「ほかになんか」というのは、べつに公然猥褻罪に抵触しない、街中にあふれているし、それで一向に差し支えないものなんじゃないんですか。そういうことをコミュニケーションの潤滑剤に使ったっていいはずですよ。生活のことは、ゆるやかに、やわらかく考えたいのはぼくだけではないだろう。やわらかく。ならば、そうしてみようじゃありませんか。ねえみんな。なあみんな。

 くーだらない話題と言わず、書き出してみることにしたこの稿は、これでおしまい。

[2024年12月29日(日)/続きは後日]

398.






戻る

最初のページ




以前のコンサートのこと  ◆江村夏樹のこと  ◆江村夏樹が作曲や演奏で実践していること 各章の題名一覧

そもそも太鼓堂とは何か  ◆音が聴けるページ  ◆CD『江村夏樹 云々』  ◆太鼓堂 CDR屋さん  ◆太鼓堂 DVDR屋さん

No Sound(このページには音がありません)  ◆江村夏樹 作品表  ◆太鼓堂資料室  ◆太鼓堂 第二号館 出入り口

今後のコンサート情報 NEW!  ◆いろいろなサイト  ◆江村夏樹『どきゅめんと・グヴォおろぢI/II 』


このページのはじめに戻る